世界への扉

文字数 5,698文字

 英雄オルクが一代でデイア大陸全土を制覇し、史上初めて大陸全土を治めて三百年以上もの間栄華を成したオール帝国が滅亡して五年が経った。
 オール帝国が滅亡した原因は、大陸の主要な都市が次々と帝国からの独立を宣言し反乱を起こしたから。帝国に反旗を翻した都市の中には、あたしの父が治める大陸東部の地方都市であるハイランも入っていた。
 各地の都市がどうしてあの大帝国に反旗を翻すことになったのか、あたしは知らない。帝国滅亡前後の甚大な混乱と混沌は、各都市の自治により収束しつつある。けれども、各地の治安はまだまだ不安定だ。

 家出をしたあたしが向かった学術都市ムスペルは、大陸東部髄一の規模を誇る都市で、街の象徴である魔術アカデミーを中心に理路整然とした街並みが並び、魔術アカデミー以外にも様々な教育機関が集まる『知の都市』だ。
 魔術アカデミーとは大陸中から魔術師を志す人達を集めて日夜魔術の勉学や研究をし、様々な魔術師を輩出することを目的とする大陸一の教育、研究機関だ。帝国が滅んでも魔術アカデミーは機能している。帝国滅亡の際には魔術アカデミーの魔術師達が治安維持に当たったお陰で、ムスペルには大きな混乱は起きなかったようだ。

「……父さん!?」
 時刻は夕刻。もう少しで夕飯時という頃、ムスペルの下町にある酒場であたしは驚愕の声を上げた。客が増え始めて店員が忙しそうに動き回る中、ラシュウに連れられて酒場の個室に入ったあたしの目に飛び込んできたのはハイラン領主カルロ・ハイラン、他でもないあたしの父だった。
「ニムル、心配したぞ」
 あたしの姿を確認したカルロ・ハイラン、いや父が口を開く。父は厳しい表情であたしを見てから、ラシュウへと視線を移す。そして、何やら目配せをする。
「あんたの父親、カルロ・ハイランからの依頼だったのさ」
 ラシュウはあたしにそう言うと、肩を竦めてから個室から出ていった。その仕草は、あたしに「まあ、怒るなよ」と言っているように見えた。あたしは怒るというよりも何だか落胆してしまって、一つ大きく溜め息を吐く。
「まあ、座りなさい」
 父はあたしを見ずにそう言う。あたしはこの場から逃げ出したい気持ちを抑えて、父に促されるままに質素な造りの木製の椅子に座ってこれまた質素な造りのあまり大きくないテーブルを挟んで父と対面する。

「父さんが、

と知り合いだったなんて知らなかったわ」
 あたしは少し皮肉めかして父に言う。領主である父とラシュウのような剣士に面識があるなんて、想像も出来ないじゃない。すっかり騙されたわ。
「昔、たまたま知り合ってな。……そんなことよりニムルよ。家出をした理由は問わん。だから、一緒に帰らんか?」
 父があたしの目を見て、そう言う。父があたしのことを心配しているのは分かる。分かるけれど、あたしはあの家には帰りたくない。あたしは、自由になりたいんだ。
「……嫌よ、帰るのは」

 数瞬の後、あたしは俯きながら絞り出すように声を出す。小さな声だけれど、あたしに出来る精一杯の意思表示だった。それは、父に対する初めての反抗でもあった。
「そんなことを言っても、何処にも行く当てはないのだろう? 今は国亡き無法の世。いつ何処で危険があるのか分からないんだぞ?」
 父は諭すように優しく言う。その優しい言い方が、あたしの心に痛い。でも、危険があったとしても、そんなことは百も承知のこと。ただの我が儘だけれど、やっぱり帰る気にはなれない。
「そんなことは、分かってる。でも、あたしはあたしの力で生きてみたいのよ……」
 あたしは、安全だけれど不自由な今までの生活を思い出す。父の下で生きていれば、外の世界で起きている混沌や騒乱とはあまり関わらなくても生きていけるだろう。父の後を継ぐかも知れない兄もいる。あたしは父や兄に守られながら、そして誰かと結婚したならば夫に守られながら生きていける。
 それはそれで一つの生き方だ。そういう生き方をする人は確かにいる。でも、あたしはそういう生き方をしたくはない。あたしは、あたしの力で生きたいんだ……!
「お前のような歳の頃の者は、少なからず皆そう考えるものだ。しかし、自分の力で生きられる者は極僅かだぞ。お前には無理だ」
 父が厳しい表情でそう言う。その決め付けたような言い方が、何だか頭に来る。
「『お前には無理だ』なんて、そんなのやってみなきゃ分からないでしょ!? 分かったような言い方しないでよ!」
 あたしは怒りに任せて、一気に捲し立てる。いきなり大声を出したあたしを見て、父は少し驚いたような表情をする。そして、何かを言おうと口を開きかける。

「まあ、確かに無理かどうかは誰にも分からんな。やってみなきゃ分からないってんなら、やってみりゃいい」
 唐突にあたしのすぐ近くで低い声がした。真面目なような、それでいておどけたような声。声のした方を見ると、いつの間にか黒い皮鎧に身を包んだ背の高い男がテーブルの脇に立ってあたし達を見下ろしていた。……ラシュウだ!
「ラシュウ、これは私達の問題だ。余計なことは言わないでくれ」
 父はラシュウを横目で見ながら言う。そして一瞬、父の顔に困惑の表情が浮かぶ。
「余計なのは承知だ。だが、こういう話し合いは大抵、力が強い方の思い通りになる。だからちょっと、力が弱い方の味方をしてみたくなったのさ」
 ラシュウは悪びれる様子もなく、おどけたように大袈裟に肩を竦めてみせる。ここでの力とは筋力のことではなくて、権力という意味合いに近いだろう。そして、その力は親子という構図からして、父が強くあたしが弱い。
「それで娘が一人で生きていって、もしも娘の身に何かあったら責任は取れるのか?」
 父がラシュウの方に顔を向けて、そう言う。それを聞いたラシュウは、その言葉を待ってましたと言わんばかりに口角を上げてニヤリと不敵に笑う。
「責任は取れる、と言ったら?」
 そして、その笑みのままに言い放つ。迷いのない、自信たっぷりといった言い方と態度だ。味方をしてもらっているあたしが言うのも何だろうけれど、その自信は何処から来るのだろう?
 あたしは父とラシュウとのやり取りを見ながら、ラシュウという人間への興味が心の中で大きくなっていくことを感じていた。
「私はラシュウ、お前のことを全て知っているわけではない。しかし、お前なら確かに娘一人をどうにか出来ることは容易いだろうことは分かる。しかし――」
 ラシュウに何か反論をするかと思ったけれど、意外にも父はラシュウの言葉に理解を示す。そして尚も言葉を続けようとする父を、ラシュウが手で制する。
「可愛い子には旅をさせろ、だな。カルロ、こいつが何処に行っても、何をしたとしても、お前の娘であることには変わりがない。だが、手前の寂しさを満たす為にこいつはいるわけじゃない」 
 そして、ラシュウが父に向かって真面目な口調でそう言う。ラシュウの言葉を聞いて、あたしは思い出す。それは母のこと。

 母は、あたしを産んですぐに病でこの世を去った。だから、あたしは自分の母のことが殆ど分からない。父から母のことは聞いたことがないし、あたしもわざわざ母のことを聞いたこともない。あたしは母がいないことが当たり前で、寂しいと思ったことなんか無いけれど、父にとっては母がいないということは寂しいと思うことなのだろう。そして父は、母の忘れ形見であるあたしに何処かしら母の面影を重ねているのかも知れない。
 だから父は、あたしが自分の下から離れていくことを恐れているのだろう。あたしの心に少し、父の下から離れることに対する罪悪感が生まれる。
「相変わらず、お前の言うことは

を突いてくるな。確かに、私は娘を自分の寂しさを満たすものとして見てきた節はあるかも知れん。しかし娘も、もう十五歳だ。親から巣立つ時が来ているのかも知れんな……」
 ラシュウの言葉を受けて少しの間考え込んでいた父は、重々しい口調でそう言う。それは、父がまだ迷いの中にあるのだということを意味しているのだろう。
「父さん、あたしは別に父さんのことが嫌いなわけじゃない。ただ、例え危険があっても少しばかり自分の足で歩いてみたくなっただけなのよ」
 最後の一押しとばかりにあたしは父の方に身体を乗り出して、でも努めて静かな口調で言葉を選びながら父に言う。 父の下から離れることに一抹の罪悪感はある。でも、やっぱりあたしは、この世界を自分の足で歩いてみたい。その想いには変わりがない。

「……ニムル、お前の気持ちは分かる。お前を、私の気持ちだけで縛り付けておくことの罪深さもな」
 数瞬の後、父が呟くように声を出す。それは、まるで自分を納得させんとしているみたいだった。あたしはもう一声掛けようと思って、頭の中で声に出す言葉を選び出す。
「しかし、それでも外の世界は一人では危険だ。お前はラシュウのように強くはないのだからな……」
 一旦言葉を切った父が、今度はそう言う。父の迷いが伝わってくるような、途切れ途切れの言葉。確かに、あたしは強くはない。それは事実としてある。
 あたしはあたしの気持ちだけで家出をしてきたけれど、何か当てがあるわけではないのも紛れもない事実だ。父を説得する材料に欠けたあたしは、言い出そうとした言葉が全て宙に浮いていくのが分かった。
「確かにこいつは強くはないし、強くなる見込みもない。だが、強くなくとも、強い奴が一緒にいれば何の問題もないだろ?」
 あたしと父のやり取りを見ていたラシュウが声を出す。あたしと父がラシュウの方を見ると、ラシュウは上手い悪戯を思い付いた子どものようにニヤリと笑みを浮かべる。
「傭兵でも雇うのか? 確かに、それなら少しは安心だ。しかし、何処の馬の骨だか分からない人間に私の娘の命を預けるわけにはいかんな」
 父が小さく、しかしはっきりとラシュウの言葉に反応する。確かに強い人を雇えば、万全とはいかなくても身の安全を少しは確保出来る。でも、信頼が出来る傭兵なんてあたしにはいない。

「カルロ、お前の目は節穴か? お前の目の前にいるじゃねえか、大陸最強の剣士が、な。その最強剣士が直々に、お前の娘を護衛してやろうって言ってんだぜ? これは買いだとは思わねえか?」
 ラシュウがニヤリと笑んだまま、そう言い放つ。自分を『大陸最強の剣士』だなんて、相変わらず自信たっぷりな言葉と態度だ。例え大袈裟な売り文句だとしても、清々しい程の傲岸不遜さだ。
「ラシュウ、お前がそういう申し出をするとは、世にも珍しいこともあるのだな。何か企みがあるわけではあるまいな……?」
 父がラシュウの提案に懐疑の声を上げる。娘を心配する親としては、当然の反応だろう。

「何、ただの暇潰し(キリングタイム)さ」
 ラシュウは顔に浮かべている笑みのまま、肩を竦めて父に応える。その言葉と態度からはラシュウの本心は窺えないけれど、案外深い理由はないのかも知れない。本当に暇潰しの可能性も少なくはない、のかも……。ラシュウのニヤリと笑んだ顔を見ながら、ふとそんなことを思い浮かべる。
「……まあ、お前の暇潰しには深い意味はないのだろうが、それに巻き込まれた人間が良くも悪くも困惑することになるのは、お前という存在があまりにも大き過ぎるからだろうな」
 ラシュウの言葉を受けて、父が珍しく溜め息を吐いて苦笑交じりに言う。その当惑したような父の態度を、あたしは初めて見た。そして、いつもは真面目腐って威厳のある父に、そんな態度をさせるラシュウのことが否が応でも気になる。
「……しかし、娘を預けられるという意味では、これ以上のない人間であることは事実だ」
 一旦言葉を切ってから数瞬後、今度は真面目な態度で父は言葉を発する。それは何かを決めたかのような、淀みのない口調だった。それの意味する処は――。

「じゃあ、父さん、あたしは――」
 あたしの顔にはきっと、堪え切れない笑みが浮かんでいると思う。それは、喜びと期待の笑み。
「ニムル、自分で生きていくことは時に困難さをお前に齎もたらすだろう。それでもお前が決めた生き方をしたいというなら、それは一つの生き方だ。私が止められることではなかったな。だが、くれぐれも気を付けて。そして、ラシュウ――」
 父がはっきりとした口調で、あたしの目を見て言う。そして、視線をラシュウに向け直す。
「娘を、頼む」
 父はそう言うと、ラシュウに向かって小さく頭を下げる。
「良いってことさ。たまにはガキのお守もりをすんのも悪くねえ」
 父の言葉を受けて、ラシュウはぶっきらぼうに言う。それは、ラシュウ流の照れ隠しなのかも知れない。ラシュウの表情からは心の内を読むことは難しいけれど、何となくそんなことを思う。

「さて、私はこれで帰るとするよ」
 話し合いの後、そのまま酒場で夕飯を摂ったあたしと父だったけれど、父は夕飯を食べ終えるとすぐにそう言って席を立とうとする。因みにラシュウは『親子の仲に水を差すのも悪い』とか何とか言って、別の席で一人で夕飯を食べているようだ。
「もう帰るの?」
 別に父といたいというわけではないけれど、そそくさと帰ろうとする父の姿に名残惜しさを感じたのも事実だ。
「別れはなるべく早い方が良い。一緒にいればいるだけ、別れ難くなるものだからな。それに、私にもやらなければならない事がある。ハイラン領主としての仕事がな。だから、ここに長居は出来んよ」
 父はそう言って、僅かに微笑む。寂しさを押し隠した笑みだ。父もあたしも、寂しさはある。けれども、それでもお互いにやらなければならない事がある。
「そっか。じゃあ、またね」
 あたしは父に微笑みを返すと、小さく手を振る。父はそれを見て一つ頷くと、あたしに背を向けて酒場の個室から出ていった。
 今度会うことになるのはいつになるのか分からないのに、意外にもあっさりとした別れ。でも、それで良かったのかも知れない。あたしは湧き上がる寂しさに負けないように、そう自分を納得させる。

 寂寞(せきばく)は、もう終わり!これからは自分の足で歩いて行くんだから!
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