始まりの始まりの始まり

文字数 5,748文字

 初夏のそよ風は辺り一面の背の低い草とあたしの短い黒髪を(もてあそ)びながら、後ろへと流れていく。
 太陽は中天よりほんの(わず)かに傾いた所で、あたしの心中を無視するかのように燦々と光を大地に降り注がせている。着なれない茶色のきつめのチュニックと履きなれない草色のレギンスが、慣れないことをしているんだということを嫌というほど認識させる。

「あーあ、バッカみたい」
 人気の無い街道を一人で歩きながらそう呟くと、ヒリヒリする目を人差し指で拭う。……少し濡れている。
 あたしは、父であるハイラン領主カルロ・ハイランの下から飛び出した。言ってみれば家出ってヤツだ。オール帝国が滅亡して間もない無法の世に何て命知らずな女だ、なんて自分でも思う。だけれど、あたしは篭の中の鳥にはなりたくはない。外の世界を知りたいから飛び出した、あの家を……。

 学術都市ムスペルまでもう少し。そこまで行ったら、腰を落ち着けて何か仕事を見つけよう。市場の仕入れでも、酒場の給仕でも、何でもやってやる! でも、娼館で働くのだけは御免だけど……。
 
「よう、ねえちゃん! 一緒にお茶飲まない?」
 ……っ! これからのことに考えを巡らせていたあたしは、その台詞で我に返る。あたしのすぐ前方に汚い皮鎧を着て腰に短い曲刀を差した目付きの悪い男が五人……。皆、下卑た笑みを浮かべている。それが野盗と呼ばれるものであることに気付いて、その瞬間あたしの全身に冷や汗が吹き出る。
「ほう、見たとこ十代半ば、ってところか」
 花も恥じらう十五歳ですとも! こんな花に貴方達は手が届かないでしょうけど! ふと、そんな場違いな台詞を頭に浮かべる。そんなことを考えている場合ではないのに、頭の中で野盗に対する罵倒が浮かんでは消えていく。
「こいつはそこそこ高く売れそうだな!」
 野盗の一人が、あたしの顔を覗き込みながら、甲高い声を上げる。場末の娼館で男どもの汚い手に追い回されるあたし自身を想像して、全身に悪寒が走る。そんなことの為に家出したんじゃない!
「何だ、震えてるのか?心配するな、俺たちが面倒見てやっからさ!」
 そう言いながら、野盗はあたしを取り囲もうとじりじりと近寄ってくる。その顔は獲物を追い詰めた喜びに満ちた獣と同じそれだ。あたしは無駄かも知れないと分かっていながら、それでも野盗から離れたい一心で踵を返して逃げるタイミングを窺う。逃げたい、ここから今すぐにでも……。

「お取り込みの最中すみませんね」
 あたしと野盗の間の緊張を盛大に無視するかのような間の抜けた声がした。男の低い声。野盗達とは違う声。それは、あたしと野盗の他にこの場に誰かが現れたことを意味している。
「誰だ、テメエ!」
 条件反射かのように、野盗の一人が怒声を上げる。あたしと野盗達の視線が新しく現れた人物に集まる。
 いつの間にか、あたしのすぐ横に銀髪の背が高い男が立っていた。背中にあたしの背丈をゆうに超えるだろう大きな両手剣を担ぎ、全身を覆う黒く染め上げた皮鎧は所々色が抜けていて年季が入っていることを物語っている。そして、その皮鎧から覗く腕には程よく引き締まった筋肉が天然の鎧のように隆起している。
「いえいえ、名乗る程の者じゃ御座いませんで。ただ、ここは街道。人が通る事もあります。故に、ちょいとばっかし通らせて貰いたいんで御座います」
 その男は、まるでコメディの口上のような口調で笑みを浮かべながらわざとらしく一礼する。……その場に白けた空気が漂う。
 何、この人……? こんな非常事態を見ても、このまま此処を通りたいって言うの? あたしは新しく現れた男の真意が読み取れずに、脳内に混乱が湧き起こる。それは野盗達も同じだったらしく、男の方を見ながら固まっている。

「……し、しかしテメエ、この現場を見たヤツは生きて帰せねえな!」

 数瞬が経ち、野盗の一人が気を取り直してといった感じで声を張り上げる。男の場違いな言動に混乱気味だったあたしも、その声に我に返る。どうやら野盗達は男を先に片付けることにしたのか、ターゲットをあたしから男の方に向けたようだ。

「ほう、現場って何で御座いましょう? まさかとは思いますが、その娘をかっさらって売り飛ばす為の現場って事で?」

 そいつはまるで日常会話でもするかの様に、ゆったりとした口調で野盗の脅しに応える。余程肝が座っているのか、現状を認識出来ない程の愚か者なのか……。

 例え剣の腕が立つ人間でも、五人を相手に立ち回るのは至難の業だ。つまり、あたしの横に立つ男が野盗五人に勝てる見込みは――残念ながら――五分の半分も無い。

「そういう事だ! 見たとこテメエは剣士の様だが、さすがに五人は相手出来まい! 殺っちまえ!」

 野盗のリーダー格らしき一人が鋭い声を上げて号令を発する! その号令を切っ掛けに野盗達は曲刀を抜く! そして、その意識は剣士と思しき男に集中する。

 ……これは、チャンスかも知れない! この剣士が野盗を倒してしまえばそれはそれで良いし、もしやられてしまっても剣士と野盗達が闘っている間に逃げてしまえば良いんだ! あたしはそう決心して、なるべく音を立てないように注意しながら後ずさる。



 一瞬の沈黙の後、野盗達が一斉に剣士へと飛び掛かる! あたしは野盗達が剣士の下へと辿り着くのを見届けずに、一気に身体を反転させると全速でその場から走り去ろうとした。

「お前さん、何処に行くんだ?」

 その途端、低い声と共にあたしの肩に手が置かれた。まるで岩のような固い感触の大きな手だ。

「ヒッ!」

 思わず情けない声が出る。そして、腰から力が抜けるのが分かる。あたしは肩に置かれた手が誰の者か確認することも出来ずに、その場にペタンとへたり込んでしまう。ああ、神様どうか、この手が野盗のものでないと言って下さい。

「……腰が抜けてるぞ」

 へたり込んだあたしの耳に、間の抜けた声が聞こえてきた。……この声は聞き覚えがある。さっきも聞いた声。その場を凍り付かせた間の抜けた声だ。

「ったく、今日は厄日か……。身の程知らずの野盗に襲われるわ、結果とは言え助けた娘に腰を抜かされるわ……」

 その声の主は、今度は呆れたかのような声を出す。彼はどうやら、ほんの一瞬にも満たない間に五人もの野盗を倒してしまったらしい。あたしの想像の遥か上を行く猛者だった、ってことなのね……。

 あたしは地面にへたり込んだまま、顔だけを上に向けて声の主を確認する。実際にこの目で確認するまでは、今までの出来事が現実に起きたことだとは信じられない様な気がして……。

 銀髪の下にある顔は目付きが鋭く精悍だ。顔付きを見るに、若くはないけれど中年までは行ってなさそうだ。身体には黒い皮鎧を着込み、野盗を倒した筈の両手剣は既に背中の鞘に閉まわれている。そして、大袈裟に手を上に挙げてやれやれといったポーズを取っている。

「た、助けて頂いたのかしら……?」
 でも、その剣士が悪い人間ではないという保証は何処にも無い。最悪、野盗にさらわれるよりも悲惨な未来が待っているかも知れない。そんな可能性を頭に浮かべながら、あたしは恐る恐る剣士に声を掛ける。
「結果としては、そうなったな。……じゃ、そういうことで」
 剣士はあたしの問いに投げやりな感じで応えると、スタスタと歩いて何処かへ行こうとする。あたしは、この剣士に変な要求をされなかったという安堵と一人になるということへの不安が入り交じった相反する感情で頭がいっぱいになる。

「そう言えば……。お前、名は?」
 数歩行った所で、不意に剣士はあたしの方に振り返ってそう問いを投げ掛けてくる。もう、あたしの名前が何だって言うのよ!
「ハイラン領主カルロ・ハイランの末娘のニムル・ハイランです」
 あたしは剣士の不躾な言い方に内心ムッとしながらも、努めて丁寧な言い方で応える。相手は野盗五人を一瞬で倒した手練れ。変に刺激するのはまずい。
「……そうか、分かった。俺はムスペルまで行く途中なんだが、良かったら一緒に行くか?」
 剣士はあたしの答えを聞くと、何やら思案気に顎に手をやりながらあたしにそう誘いの声を掛ける。一人で行こうとしたこの剣士が、あたしの名前を聞いた途端に態度を変えたのは何故かしら? あたしが領主の娘だと知って、何か良からぬことでも企んでいるのかしら……? あたしは、この剣士の誘いを受けるか断るかの考えを頭の中で巡らせる。そして、数瞬の後に答えを出す。

「そう、ですね。一緒に行きましょう」
 この剣士が野盗五人を一瞬で倒すほどの猛者なら、あたしを生かすも殺すも簡単なはず。誘いを断れば、気分を害するかも知れない。そうなったら、あたしにはどうすることも出来ない。ならば、少なくとも今はあたしに対して敵意を向けていないことを利用して、この剣士と共ににムスペルまで行くのが得策だ。ムスペルまで行ってしまえば、この剣士と一緒にいる理由も無くなる。そう結論付けたあたしは、剣士の申し出を受け入れた。
「そうか。じゃあ、そういうことで。俺のことはラシュウと呼んでくれ」
 ラシュウと名乗った剣士はニコリともせずにぶっきらぼうに言うと、あたしの右手を自分の大きな手で取る。何をするの……!? ラシュウの行動の真意が読み取れずに心の中で狼狽するあたし。

「腰、抜けてんだろ? 立てるか?」
 ラシュウはぶっきらぼうな言い方のまま、あたしの手を取りながらあたしを引き上げようとする。腰の力は、抜けたままで立てそうもない。ほんの少し妙な想像をした自分と、腰が抜けて立てない現実の自分に対して情けなくなる。
「た、立てません……」
 ラシュウの手に強く握られた右手に痛みを感じて、思わず情けない声が出る。
「そうか。しゃあねえな、立てるまで待つとするか」
 ラシュウはあたしの右手から手を離して、やれやれといった感じで両手を上げて天を仰ぎ見る。その仕草はわざとらしく、何処か芝居じみている。

「ごめんなさい……」
 あたしは、わざとしおらしく謝って見せる。これもラシュウを怒らせない為だ。
「ま、いいさ。俺には時間はたっぷりあるからな」
 ラシュウはそう言うと、僅かに口角を上げて笑みの表情をみせる。その笑みは何処か寂しさを感じさせるものだった。

「ラシュウさん、一つ聞かせてください。あたしをムスペルまで連れて行って下さるのは、何故なんですか?」
 暫くの間、あたしとラシュウとの間は沈黙に包まれていたけれど、あたしのラシュウへの問いがその沈黙を破る。ラシュウに何か訳があってあたしを誘ったのだとしたら、それを知っておきたい。尤も何か企みがあったとしたら、その事を言う筈は無いのだろうけれど。でも、聞かずにはいられなかった。
「別に深い理由なんてねえよ。ただの暇潰し(キリングタイム)さ」

 ラシュウはぶっきらぼうに呟くくらいの声音でそう言う。意外にもさっぱりとした答え。……もしかしたら、このラシュウという剣士には何か企みがある訳ではないのかも知れない。何か企みがある人間は、もっと大仰な理由を付けて騙そうとするものだから。
「暇潰し、ですか」
 言葉が手持ち無沙汰になりそうで気まずい空気になりそうなことを予感して、あたしはほぼ無意識にラシュウの言葉を復唱する。
「俺にとって、この世界の出来事は殆ど暇潰しでしかないのさ」
 ラシュウはそう言って僅かに笑む。その笑みは、あたしには自嘲の笑みに見えた。『この世界の出来事は殆ど暇潰しでしかない』なんて、どんな生き方をしたら言えるようになるのだろう?ラシュウという人間に少し興味が湧く。

「そんなことより、腰の具合はどうだ? 立てるようになったか?」
 ラシュウがそう言ってあたしを見下ろす。……そう言えば。腰の違和感が無くなっていることに気付く。あたしは、腰の具合を慮りながらゆっくりと立ち上がる。
「もう、大丈夫です」
 立ち上がったあたしは、ラシュウに自分の状態が良くなったと見せる為に、そして腰の状態を自分で確認する為に腰を左右に振る。うん、大丈夫。
「そうか。なら、早いとこムスペルに行くぞ。また野盗共が現れるとも知れんしな」
 ラシュウはそう言って歩き出そうとして、すぐに立ち止まる。ラシュウの視線はあたしとラシュウのすぐ下に向けられる。
「と、その前に、だ。こいつをどうにかしねえとな」

 ラシュウの視線の先には、先刻ラシュウが葬った野盗のなれの果てが五人、いや五体あった。
「……ッ!」
 自分の腰の具合ばかり気にして、周りのことに気を払えなかった……。五体もの死体が目に入って、あたしの喉の奥から苦いものがこみ上げてくる。そして、そのことに気付くと何だか辺りに血の匂いが漂っているようにも感じてしまう。
「……ウッ! ちょっと……ごめんなさい!」
 あたしは急いで街道の端の草むらに向かうと、喉の奥からこみ上げてきた苦いものを一気に吐き出す。こんな気持ちの悪い感覚は味わったことが無い……。
「死体を見るのは初めてか?まあ、お嬢さんだから当然っちゃ当然か」
 声がした方を見ると、ラシュウが何食わぬ顔で手慣れたように野盗の死体を街道から少し外れた草原に運んでいる途中だった。うわあ……。あたしはその光景に思わず顔をしかめる。
「ラシュウさんは、そういうのは慣れているんですか?」
 拭い切れない嫌悪感をなるべく出さずに、平静を装ってラシュウにそう訪ねる。でも、きっとあたしのその嫌悪感は隠しきれていない。それは自分でも分かった。
「俺にとっちゃ日常茶飯事さ」

 ラシュウは五つ目の死体を乱暴な手付きで草の上に放り落とすと、あたしが感じている嫌悪感を知ってか知らずか何でも無いことのように言う。ラシュウのその感覚は、あたしには分からないものだわ。あたしとラシュウという剣士の間には、きっと超えられない一線があるんだろう……。あたしはそう自分を納得させると、ゆっくりと歩いて街道に戻る。同じタイミングでラシュウも街道に戻ってくる。そして、どちらともなくムスペルに向けて一歩を踏み出した。

 これが、あたしとラシュウとの出会い。この時は――当たり前だけれど――二人で大陸中を巡る大冒険を繰り広げることになる、なんて思いもしなかったわ。
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