二時限目
文字数 2,573文字
「あはっ……あはははははははッ」
おれは鏡を見て笑った。
古典的だ、古典的すぎる。
おれは安部公房の小説の登場人物か?
アイデンティティクライシスに陥って、誰からも顔が認識されない人間になってしまったとでもいうのか。
笑える。
いいだろう。おれはお天気アイドルユニット『パスカルガールズ』の、ただの追っかけだ。
何万人もいる中の一人にすぎない。群衆の中のひとり。誰からも認識されない人間だ。
おれは充分笑ったあと、服を着替えて部屋を出た。
驚け、顔のない男を。
外に出てみる。
驚け、と思って外に出てみたが、誰もおれに驚くことはなかった。
なぜなら、全員、顔がなかったからだ。
全員というのは、歩いている人々全員。
顔がなくなってしまっている。
街中の人々の顔が、一斉に喪失してしまっていたのである。
顔のない人々。しかし、誰も困った様子はない。普通に歩き、または自転車や自動車を運転し、そして隣にいる人間と普通におしゃべりする。
まるで、世界が最初からそういう風にできていたものであるかのように。
おれは試しに交番へ寄って、警察官に道を尋ねてみた。交番の前に突っ立っている警察官ものっぺらぼうだ。
「大学はどの道を歩けば着きますか」
おれは笑顔で尋ねる。のっぺらぼうに笑顔があるのかは知らないが。
「ああ、大学ならこの道を通って二番目の信号を左です」
「そう……ですか」
「ええ。他になにか?」
「いえ。なにも」
会話は普通に成立した。
怖がられることも疑問を抱かれることもなかった。
のっぺらぼうの世界ではのっぺらぼうであることは当然なのだ。
疑う余地はないのだろう。
おれはその足で大学へと向かう。
途中、コンビニで缶コーヒーを買っても、なんともなかった。
店員も客も、顔がないだけで、普通にしている。
缶コーヒーを飲んでくずかごに捨て、大学の門扉をくぐり抜け、おれは松本が部長をやっているオカルト研究会のある部室へ行く。
仕組みはわからないが、コーヒーも普通に飲めた。
プレハブの部室の扉をノックすると、中から松本の声がした。おれはドアノブをまわし、遠慮なく中に入った。
部室には、ひとりののっぺらぼうがいた。
「来たな。まあ、座れよ」
松本の声だ。いつも通りの。おれは近くのパイプ椅子に座る。
「おれ、変じゃないか?」
松本に訊いてみる。
「おまえが変なのはいつものことじゃないか」
「そうじゃなくてさ。たとえば顔とか」
「あはは。どうした、もしかして自分が不細工なのに今気づいたのか」
「だから、そうじゃなくて! 顔がないとか」
「あ。会わせる顔がない、って奴か。不細工すぎてうっちーに会わせる顔がないよな、確かに」
「本当にわからないのか?」
「なに言ってんだか。顔がないのは地底人さ」
「地底人?」
「地球空洞説って知らないか」
「ああ、地球の裏の……」
「知ってるじゃないか、偉い偉い! こりゃやっぱ川尻、おまえもオカルト研究会に入るべきだよ、今すぐにでも」
「入らねーよ。で、なんだ、地底人って、顔がないのか?」
「そうなんだよ。メタモルフォーゼするからな、地底人は。今まで確認されてる『宇宙人』の大半は、実際は異星からやってきた異星人ではなく、地球の底からやってきた地底人らしい。それを今、おれたちオカルト研究会は調査している。地底がワームホールである可能性も含めて、な」
「どういうことだ。教えてくれ」
「今日の『基礎教養の五分間』、観たろ」
「ああ」
「おれが話したかったのは、ピンク色のぱんつのことじゃなくてだな」
「ぱんつのことは黙ってろ」
「まあ、怒るなって。今日出ていたGWP能力者対策課が戦っているのは、本当は地底人なんじゃないか、という話だ」
「おまえが言っている意味がわからない」
「GWP。拡張妄想力」
「本当にあるのか、そんなもん」
「おれらの住むこの邪蛮(じゃばん)という国に、未曾有の鬱病時代が到来したことがある。その際、鬱病の予防接種として『毎日がゴールデンウィーク状態になるのがウリ』の抗鬱剤を打っていたんだが、それがGWP因子の埋め込みになってしまったんだ。当時は多くのひとが効果的な鬱の予防策として摂取を受けていたんだが、ほら、邪蛮って敗戦国だろ。だから、国連が邪蛮をパーティ気分からシリアスな国へとシフトさせるための土台作りとしてパーリーピーポー因子で能力に覚醒した奴を一斉に狩り出したのさ。邪蛮は国連にとって〈実験国家〉だからね。実験のつもりさ。で、一気に狩ったその残党で、使える人材が〈GWP能力者対策課〉の刑事となって、使えない奴らがパーリーピーポーと称され狩られることになったってわけ。これ、政府の公式見解だ。ニュースくらい見ろよ」
「知らなかった。だって、異能力が使えるんだろ、そいつら」
「眉唾だろ。政府の見解って言っても、国連が圧力かけて言わせてんだろうしな。鬱病時代ってのは、今から二十年以上前の話だ。おれらの記憶がない頃さ。当時の新聞見てもよくわからないのに、突然の拡張妄想力の公表。謎だらけだ」
「で、地底人とどう話が交わるんだ?」
「それな。対策課の刑事たちが摘発してるのは、本当は地球の空洞からやってきた地底人なんじゃないか、とおれたちオカルト研究会は考えている」
「その地底人は顔がないのか」
「ああ。文献によれば、メタモルフォーゼしないすっぴんの時は顔がない。メタモルフォーゼのしすぎで退化してるのかもな。ところで」
「なんだ?」
「アイドルってのも、変化自在で、〈顔がない〉人種だと思わないか?」
「ある意味、そうだな」
「ここにチケットがある。『パスカルガールズ』のライブチケットだ。ライブは今日。おれ、都合が悪くなったんだ。せっかくチケット取ったのに、デートの予定が入っちゃって。おまえ、今日のチケットは取れなかったって言ってたじゃないか。行ってこいよ」
「まじか!」
「ああ、観てこい。変化自在のアイドルを」
「ありがとう」
「オカルト研究会に、あとで報告に来いよ」
「わかった」
かくしておれは、チケットをのっぺらぼうの松本からもらい、サイリウムを取りに、家に戻るのだった。
おれは鏡を見て笑った。
古典的だ、古典的すぎる。
おれは安部公房の小説の登場人物か?
アイデンティティクライシスに陥って、誰からも顔が認識されない人間になってしまったとでもいうのか。
笑える。
いいだろう。おれはお天気アイドルユニット『パスカルガールズ』の、ただの追っかけだ。
何万人もいる中の一人にすぎない。群衆の中のひとり。誰からも認識されない人間だ。
おれは充分笑ったあと、服を着替えて部屋を出た。
驚け、顔のない男を。
外に出てみる。
驚け、と思って外に出てみたが、誰もおれに驚くことはなかった。
なぜなら、全員、顔がなかったからだ。
全員というのは、歩いている人々全員。
顔がなくなってしまっている。
街中の人々の顔が、一斉に喪失してしまっていたのである。
顔のない人々。しかし、誰も困った様子はない。普通に歩き、または自転車や自動車を運転し、そして隣にいる人間と普通におしゃべりする。
まるで、世界が最初からそういう風にできていたものであるかのように。
おれは試しに交番へ寄って、警察官に道を尋ねてみた。交番の前に突っ立っている警察官ものっぺらぼうだ。
「大学はどの道を歩けば着きますか」
おれは笑顔で尋ねる。のっぺらぼうに笑顔があるのかは知らないが。
「ああ、大学ならこの道を通って二番目の信号を左です」
「そう……ですか」
「ええ。他になにか?」
「いえ。なにも」
会話は普通に成立した。
怖がられることも疑問を抱かれることもなかった。
のっぺらぼうの世界ではのっぺらぼうであることは当然なのだ。
疑う余地はないのだろう。
おれはその足で大学へと向かう。
途中、コンビニで缶コーヒーを買っても、なんともなかった。
店員も客も、顔がないだけで、普通にしている。
缶コーヒーを飲んでくずかごに捨て、大学の門扉をくぐり抜け、おれは松本が部長をやっているオカルト研究会のある部室へ行く。
仕組みはわからないが、コーヒーも普通に飲めた。
プレハブの部室の扉をノックすると、中から松本の声がした。おれはドアノブをまわし、遠慮なく中に入った。
部室には、ひとりののっぺらぼうがいた。
「来たな。まあ、座れよ」
松本の声だ。いつも通りの。おれは近くのパイプ椅子に座る。
「おれ、変じゃないか?」
松本に訊いてみる。
「おまえが変なのはいつものことじゃないか」
「そうじゃなくてさ。たとえば顔とか」
「あはは。どうした、もしかして自分が不細工なのに今気づいたのか」
「だから、そうじゃなくて! 顔がないとか」
「あ。会わせる顔がない、って奴か。不細工すぎてうっちーに会わせる顔がないよな、確かに」
「本当にわからないのか?」
「なに言ってんだか。顔がないのは地底人さ」
「地底人?」
「地球空洞説って知らないか」
「ああ、地球の裏の……」
「知ってるじゃないか、偉い偉い! こりゃやっぱ川尻、おまえもオカルト研究会に入るべきだよ、今すぐにでも」
「入らねーよ。で、なんだ、地底人って、顔がないのか?」
「そうなんだよ。メタモルフォーゼするからな、地底人は。今まで確認されてる『宇宙人』の大半は、実際は異星からやってきた異星人ではなく、地球の底からやってきた地底人らしい。それを今、おれたちオカルト研究会は調査している。地底がワームホールである可能性も含めて、な」
「どういうことだ。教えてくれ」
「今日の『基礎教養の五分間』、観たろ」
「ああ」
「おれが話したかったのは、ピンク色のぱんつのことじゃなくてだな」
「ぱんつのことは黙ってろ」
「まあ、怒るなって。今日出ていたGWP能力者対策課が戦っているのは、本当は地底人なんじゃないか、という話だ」
「おまえが言っている意味がわからない」
「GWP。拡張妄想力」
「本当にあるのか、そんなもん」
「おれらの住むこの邪蛮(じゃばん)という国に、未曾有の鬱病時代が到来したことがある。その際、鬱病の予防接種として『毎日がゴールデンウィーク状態になるのがウリ』の抗鬱剤を打っていたんだが、それがGWP因子の埋め込みになってしまったんだ。当時は多くのひとが効果的な鬱の予防策として摂取を受けていたんだが、ほら、邪蛮って敗戦国だろ。だから、国連が邪蛮をパーティ気分からシリアスな国へとシフトさせるための土台作りとしてパーリーピーポー因子で能力に覚醒した奴を一斉に狩り出したのさ。邪蛮は国連にとって〈実験国家〉だからね。実験のつもりさ。で、一気に狩ったその残党で、使える人材が〈GWP能力者対策課〉の刑事となって、使えない奴らがパーリーピーポーと称され狩られることになったってわけ。これ、政府の公式見解だ。ニュースくらい見ろよ」
「知らなかった。だって、異能力が使えるんだろ、そいつら」
「眉唾だろ。政府の見解って言っても、国連が圧力かけて言わせてんだろうしな。鬱病時代ってのは、今から二十年以上前の話だ。おれらの記憶がない頃さ。当時の新聞見てもよくわからないのに、突然の拡張妄想力の公表。謎だらけだ」
「で、地底人とどう話が交わるんだ?」
「それな。対策課の刑事たちが摘発してるのは、本当は地球の空洞からやってきた地底人なんじゃないか、とおれたちオカルト研究会は考えている」
「その地底人は顔がないのか」
「ああ。文献によれば、メタモルフォーゼしないすっぴんの時は顔がない。メタモルフォーゼのしすぎで退化してるのかもな。ところで」
「なんだ?」
「アイドルってのも、変化自在で、〈顔がない〉人種だと思わないか?」
「ある意味、そうだな」
「ここにチケットがある。『パスカルガールズ』のライブチケットだ。ライブは今日。おれ、都合が悪くなったんだ。せっかくチケット取ったのに、デートの予定が入っちゃって。おまえ、今日のチケットは取れなかったって言ってたじゃないか。行ってこいよ」
「まじか!」
「ああ、観てこい。変化自在のアイドルを」
「ありがとう」
「オカルト研究会に、あとで報告に来いよ」
「わかった」
かくしておれは、チケットをのっぺらぼうの松本からもらい、サイリウムを取りに、家に戻るのだった。