第1話 エスケープ(ピニャ・コラーダ)

文字数 400文字

 彼は夫にないものを全て持っている。
 優しさに満ち溢れ、ウィットに富んだ会話。こちらの気持ちを尊重していつも気遣ってくれる思いやり。

 長い間メールを交わし、心の底から好きになった。
 顔も本名も知らない。それでも構わない、今の日常に比べれば。

 十年連れ添った夫に心底嫌気がさしていた。
 優しさに欠けた、デリカシーのない言葉。こちらの気持ちなど考えずにいつも自分を優先する傲慢さ。

 幸か不幸か私たち夫婦には子供がいない。
 夫の出張中に私はバッグ一つで家を出た。
 テーブルの上には離婚届。大切なものは段ボールに詰めて実家に送った。

 行き先はリゾートホテル。その片隅のカウンターバーが約束の場所。
 カクテルを傾ける彼の隣に私はそっと腰掛け、俯いたままバーテンダーに告げる。
「隣の方と同じものを」
「ピニャ・コラーダですね」
 優しい視線を感じ、私はゆっくりと顔を上げる。彼はどんな顔で私を見つめてくれるのだろう?
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