第9話 スナック帰還

文字数 1,082文字

 また瞬間的に切り替わった。スナックに帰ってきていた。ママさんの時計を見ると時間が全く経っていなくてさっきと同じ1分前だった。この現象は何だったのか。ここにいる人と一緒に別の場所に行けるのはどういうことなんだろう。ママさんの顔を見た。ママさんは親しみに満ちた目で自分を見た。ママさんの経験は見た。マリアさんのも見た。では、横須賀さんはどうなんだろう。まだ見ていないではないか。横須賀さんの顔を見る。彼女はまた、「ありがとう」、と言った。
「いや、なんで・・・」
 その時、思い当たった。彼女は自分がお店に入ったばかりのころ、横須賀カレーの話をして、自衛隊の船に乗りたかった、と言っていなかったか。であれば、彼女の希望はさきほど僕が実現させた。自衛隊ではなく、帝国海軍であったが。真珠湾攻撃に行った空母加賀に乗って短いながらも食事を楽しめたのだ。自分がおじさんの体験を聞いたことがあったから、こんな体験をみんなで共有できたんだ。だからありがとうと彼女は自分に言ったのだ。

 そうすると本題はこの特殊体験がこの店とどのように関係があるのかどうかだ。時間はもう1時間を少し過ぎていた。自分は急いでママさんを見て言った。
「あの、さっきの、皆さん、体験しましたよね」 
ママさんは輝くばかりの笑顔で言った。
「さあ。その話をすると長くなりますから。延長になりますけどいいですか?」
ママさん、ガマさん、横須賀さん、マリアさんは期待のこもった顔をして自分を見た。
自分は延長して聞きたい、と強烈に思う一方、絶対に辞めた方がいいという心の声が聞こえた。これは異常だ。早くここから立ち去るんだ。でないと帰れなくなる。絶対に。そんな声が頭の中でだんだん大きくなっていった。
「いや、今日のところは一旦帰ります。また来ますから。お会計をお願いします」
 全員、なんだか緊張が一挙に解けたような、あるいはがっかりしたような空気が一瞬流れたが、すぐにガマさんが何か横須賀さんに大声で言ってお酒を飲みはじめ、空気が緩んだ。
 マリアさんがお会計してくれた。税込みで3,000円だった。安い。安すぎる。あんな体験ができて3,000円なんて一体どうなっているんだろう。
マリアさんが言った。
「また来てくださいね。3,000円のプランでもいいですから」
「いや、今度はちゃんと払います」
 席を立ち、ママさん、マリアさん、横須賀さん、ガマさん、にきび君に挨拶する。外に出るとママさんとマリアさんが見送りに出てくれた。
「また来てくださいね」
「はい」
 階段を上り、チラと見下ろすと、マリアさんは90度のお辞儀をしてくれていた。
ワンクリックで応援できます。
(ログインが必要です)

登場人物紹介

自分  自ら方向音痴になることが好き。新規開拓が好き。


マリアさん おでこの大きなスナック迷い道の店員。ちょっと聞き返すことが多い。


横須賀さん  元海上自衛隊所属の地味だが愛嬌のある女性。


ママさん スナック迷い道のチーママで、自分の若いころ付き合った人に似ている。

ガマさん スナック迷い道の常連で酔っぱらっていて大声で話す。なんとなく風貌がガマガエルに似ている。

にきび君 スナック迷い道の客でニキビが目立つ無口な若い男。

煙君 スナック迷い道の客で年中たばこを吸っている中年の男。


ビューワー設定

文字サイズ
  • 特大
背景色
  • 生成り
  • 水色
フォント
  • 明朝
  • ゴシック
組み方向
  • 横組み
  • 縦組み