初めてのバー

文字数 1,404文字

 大山ビルと書かれた、少しレトロな建物が見えた。
 あそこの一階の一室がバーココロである。
 いざ来てみると、不安と緊張で覆われていく感じがした。

 やっぱり帰ろうかな、と一瞬頭によぎったが、それよりもバーに入ってみたいという気持ちが強かった。

 カランカラン。

 扉を開けると、オレンジ色っぽい暖色で包まれた部屋に、六席くらいあるカウンターがあった。カウンターの奥で、眼鏡をかけた少しぽっちゃりとした体型のマスターがグラスを拭いていた。

 「いらっしゃいませ。おひとり様ですか」
 
 「あ、はい」

 「こちらへどうぞ」

 コースターを置きながら、一番端の席に案内する。
 マスターは少し弾んだような声で、意外にも普通のオッサンっぽい雰囲気だった。
 かしこまった、硬い雰囲気だと思っていたけど、全然違った感じで、少し緊張が溶けた。
 
 「初めてのご来店ですか」
 
 メニュー表を置きながら、マスターが話しかけてきた。

 「あ、そうです」

 「こちらが当店オリジナルカクテルのメニューでございます」
 
 もう一つ違うメニュー表を渡してきた。

 とはいっても、何が何だか分からない。

 「あのーすみません、バーという場所自体初めてでして…」

 「おっ、そうなんですか!んー、どういうのが飲みたいとかあります?一杯七百円で出しますよ」

 本当に調子が狂うというか、雰囲気はオーセンティックなのに、マスターは結構陽気だ。

 「カクテルってどういうのがありますか」

 「柑橘系のものとか、チョコみたいな甘いものもできますよ」

 「あ、じゃあ柑橘系のものでお願いします」

 「承知しました」

 この言葉はしっかりとバーのマスターだった。

 ボトルが並んだ棚から二本ほど取り出して、シェイカーでシャカシャカし始めた。

 
 これがバーテンダーか。
 
 少しして、コースターの上に、上部が逆三角形になっているグラスが置かれた。

 「オレンジとジンというお酒でつくったカクテルでございます」

 「ありがとうございます」

 これがカクテルというやつか——。
 まずは鼻にグラスを近づけて、オレンジとアルコールの鼻を突く香りを味わう。
 そのまま口に運び、グラスを傾ける。
 オレンジのフルーティーな味が口全体に広がると同時に、すっきりとしたアルコールが舌を刺激する。

 お酒ってこんなにおいしいんだ。

 「カクテルおいしいでしょ」

 マスターが見透かしているように言ってきた。

 「お酒がこんなにおいしいとは思いませんでした」

 「学生さんですか」

 急に来た。今の自分には、ほんとに答えづらい。退学しました、と答えたら気まずくなるし、フリーターといってもどんな人だろうって疑問に思われるのが想像できる。
 
 「ついこないだまでは…今はフリーターです」

 結局、両方答えた。
 これが一番等身大な気がする。

 「大学辞めたんですか?」

 「あ、はい。辞めちゃいました」

 「あらー。何かやりたいことがあるんですか」

 「いえ、特にないんですけどね」
 
 「じゃあ、これからどうしよーって感じですか」

 「まさに今そんなところです」

 マスターは普通の会話をするように、話していた。
 美紗都のときもそうだったが、自分が変に思い過ぎなのだろうか。

 もう一度カクテルを口に運ぶ。

 やっぱ、うめー。
 
 カクテルに暖色に包まれた空気。

 そりゃ大人の人が行くわけだ。

 バーの落ち着いた雰囲気に浸っていると、カランカラン、と扉の開く音がした。
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