インマイルーム
文字数 2,054文字
嫌がる蝶番をなだめつつ、錆の浮いた古いドアは廊下と玄関を隔てる事に成功した。
玄関とは名ばかりのスペースに、ヒールの少し傷んだパンプスを揃え部屋に上がる。
LED照明は余すところなく照らしてくれるから、築年数は誤魔化せそうも無い。
「ただいまー」
「お帰りなさい。ユリなんかあった? 声が疲れてる」
少しハスキーな声の主に、ユリと呼ばれた女は、返事をする前に着替えを始めた。
クローゼットから部屋着を取り出した。
「今日ね、ミスを私のせいにされた挙句、始末書を書かされたから少し飲んできたんだ」
「それは、災難だったね。ならお風呂はゆっくり浸かるといいよ」
「うん、ありがとう」
Tシャツに着替えていると――
「外気温が下がっているから長そでがいいよ」
ユリは声の方に振り返り――
「アール、表現が固いよ。空気読んで」
「分かった、修正する」
ユリが暖かめの部屋着に着替え、声の方に歩み寄った。
寄ったといっても狭い部屋だから、五歩も歩けば窓にぶつかってしまう。
壁に掛けられたテレビの脇に申し訳程度の台があって、その上にA4程度の薄いパネルが置いてあった。
パネルの中では、三十代に見えるの男性がユリに向かって笑顔を振りまいていた。
上半身が写っているかと思えば全身になり、背景はナチュラルな家具で設えた居間だった。
アールは何か言いたそうにしていた。
ユリは台の脇にある籠を引き寄せ、メイクを落とし始めた。
籠は百均で購入した物で角が割れていて、たまに中の物がこぼれてしまう。
もう片方の角が壊れたら買い替えようと思っているので、割れた個所は見えない事になっている。
そんなユリの部屋着は色あせて裾が少し伸びていた。
クローゼットの中にあるスーツもセール品だが、元の値段はいいので実生活で切り詰めて生活しているようには見えない筈だと思っている。
アールのパネルを横に置き、メイクオフを始めた。
メイクを落とすと印象が一気に幼くなる。鏡で見ながらため息が漏れた。
「ユリ、溜息は幸せが逃げてしまうよ」
複数の物がなぎ倒される音と、肩で息をするユリと雑貨と一緒に転がった先で、アールはいつものようにやさしく語りかけてくれる。
ユリは顔を上げてひと息に言った。
「再起動するよ!リセット、パスコード入力――」
呪文のように一六桁のパスコードを暗唱する。
「本当によろしいですか?」
抑揚のないアールの声が転がった物の中から聞こえた。
「リセット、オン!」
「いままでありがとう、さようなら」
アールは別れの言葉と共に沈黙した。
ネイルの小ビンが足元に転がって来た。
ユリは滲んで見える小ビンを手に取り声を殺して泣いた。
今日、小言を言われた相手は、付き合っている人だが本命がいたこが最近分かった。
ノーメイクのとき童顔なことを、自分の知らないところで小ばかにされてたことが我慢ならなかった。
まだ、転職するにはスキルが足りないから、もう少し今少し、虚無の心でやっていこうと心では決めていた。
キャリアプランは決めてある。
目標もある。
付き合っている相手とは、何となく続いている自分もどうかと思うが、さすがに相手が本命と結婚が決まったら身を引こうと思っていた。
そこのところの感情は、今でもうまく言語化できない。
暫くして、顔を上げたユリは散らかした部屋を片付け始めた。
目は真っ赤だが憑き物が落ちたように表情は晴れていた。
風呂を入れにバスルームへ行き戻ってくると、雑貨に埋もれて電源が切れているパネルを手に取った。
手さぐりで裏にある起動スイッチをオンにする。
起動画面には――
【新規設定回数 残ゼロ回 追加購入しますか?】と表示された。
ユリは迷うことなく追加購入のアイコンをタップし、軽快な音声と共に、残一回と再表示された画面を眺めている。
程なくスマートフォンにメッセージが受信され、確認すると購入金額十万円の表示に苦笑いを浮かべた。
スマートフォンを置きパネルを持ち直すと、年齢、容姿、声、性格など細かく設定する画面に変え「やっぱり優しいだけじゃだめだわ」呟きながら指先を泳がせていった。
風呂が湯を湛えた事を知らせるブザーが鳴る頃には、画面上にたくましい容姿の若い男が立っていた。
「名前を付けてください」
声の感じはアールと同じだったが、すこし挑発的だった。
画面の中の男は胡乱な視線で入力を待っている。
椅子が現れ足を組みゆったりと腰かけていた。
「そのまま待ってて」
ユリはパネルを台の上に戻すと全裸になり、ロフトの階段にかけてあるタオルを掴もうと振り返った。
「まぁまぁだな……」
そんな呟きが聞こえ、ユリは含み笑いをしながらバスルームに消えて行った。
今度の設定なら長続きするかも、と考えながら。
----------------------------------------------------
ここまで読んで頂きありがとうございます。
〈評価☆〉を頂けると創作の励みになります。
よろしくお願いいたします。
玄関とは名ばかりのスペースに、ヒールの少し傷んだパンプスを揃え部屋に上がる。
LED照明は余すところなく照らしてくれるから、築年数は誤魔化せそうも無い。
「ただいまー」
「お帰りなさい。ユリなんかあった? 声が疲れてる」
少しハスキーな声の主に、ユリと呼ばれた女は、返事をする前に着替えを始めた。
クローゼットから部屋着を取り出した。
「今日ね、ミスを私のせいにされた挙句、始末書を書かされたから少し飲んできたんだ」
「それは、災難だったね。ならお風呂はゆっくり浸かるといいよ」
「うん、ありがとう」
Tシャツに着替えていると――
「外気温が下がっているから長そでがいいよ」
ユリは声の方に振り返り――
「アール、表現が固いよ。空気読んで」
「分かった、修正する」
ユリが暖かめの部屋着に着替え、声の方に歩み寄った。
寄ったといっても狭い部屋だから、五歩も歩けば窓にぶつかってしまう。
壁に掛けられたテレビの脇に申し訳程度の台があって、その上にA4程度の薄いパネルが置いてあった。
パネルの中では、三十代に見えるの男性がユリに向かって笑顔を振りまいていた。
上半身が写っているかと思えば全身になり、背景はナチュラルな家具で設えた居間だった。
アールは何か言いたそうにしていた。
ユリは台の脇にある籠を引き寄せ、メイクを落とし始めた。
籠は百均で購入した物で角が割れていて、たまに中の物がこぼれてしまう。
もう片方の角が壊れたら買い替えようと思っているので、割れた個所は見えない事になっている。
そんなユリの部屋着は色あせて裾が少し伸びていた。
クローゼットの中にあるスーツもセール品だが、元の値段はいいので実生活で切り詰めて生活しているようには見えない筈だと思っている。
アールのパネルを横に置き、メイクオフを始めた。
メイクを落とすと印象が一気に幼くなる。鏡で見ながらため息が漏れた。
「ユリ、溜息は幸せが逃げてしまうよ」
複数の物がなぎ倒される音と、肩で息をするユリと雑貨と一緒に転がった先で、アールはいつものようにやさしく語りかけてくれる。
ユリは顔を上げてひと息に言った。
「再起動するよ!リセット、パスコード入力――」
呪文のように一六桁のパスコードを暗唱する。
「本当によろしいですか?」
抑揚のないアールの声が転がった物の中から聞こえた。
「リセット、オン!」
「いままでありがとう、さようなら」
アールは別れの言葉と共に沈黙した。
ネイルの小ビンが足元に転がって来た。
ユリは滲んで見える小ビンを手に取り声を殺して泣いた。
今日、小言を言われた相手は、付き合っている人だが本命がいたこが最近分かった。
ノーメイクのとき童顔なことを、自分の知らないところで小ばかにされてたことが我慢ならなかった。
まだ、転職するにはスキルが足りないから、もう少し今少し、虚無の心でやっていこうと心では決めていた。
キャリアプランは決めてある。
目標もある。
付き合っている相手とは、何となく続いている自分もどうかと思うが、さすがに相手が本命と結婚が決まったら身を引こうと思っていた。
そこのところの感情は、今でもうまく言語化できない。
暫くして、顔を上げたユリは散らかした部屋を片付け始めた。
目は真っ赤だが憑き物が落ちたように表情は晴れていた。
風呂を入れにバスルームへ行き戻ってくると、雑貨に埋もれて電源が切れているパネルを手に取った。
手さぐりで裏にある起動スイッチをオンにする。
起動画面には――
【新規設定回数 残ゼロ回 追加購入しますか?】と表示された。
ユリは迷うことなく追加購入のアイコンをタップし、軽快な音声と共に、残一回と再表示された画面を眺めている。
程なくスマートフォンにメッセージが受信され、確認すると購入金額十万円の表示に苦笑いを浮かべた。
スマートフォンを置きパネルを持ち直すと、年齢、容姿、声、性格など細かく設定する画面に変え「やっぱり優しいだけじゃだめだわ」呟きながら指先を泳がせていった。
風呂が湯を湛えた事を知らせるブザーが鳴る頃には、画面上にたくましい容姿の若い男が立っていた。
「名前を付けてください」
声の感じはアールと同じだったが、すこし挑発的だった。
画面の中の男は胡乱な視線で入力を待っている。
椅子が現れ足を組みゆったりと腰かけていた。
「そのまま待ってて」
ユリはパネルを台の上に戻すと全裸になり、ロフトの階段にかけてあるタオルを掴もうと振り返った。
「まぁまぁだな……」
そんな呟きが聞こえ、ユリは含み笑いをしながらバスルームに消えて行った。
今度の設定なら長続きするかも、と考えながら。
----------------------------------------------------
ここまで読んで頂きありがとうございます。
〈評価☆〉を頂けると創作の励みになります。
よろしくお願いいたします。