第2話

文字数 1,235文字

彼の名前は「M」としよう。彼が皆に、自信の溢れた表情で「よろしくお願いします!!」と大声で叫んでいたことは今でもよく覚えている。上司は「Mのことはお前に任せる」とMを私に放り投げるように渡して言った。そこから私とMとの物語が始まったのだ。
私はその時28歳で、彼は26だと言っていた。しかも彼はバイトの類いは一切の経験がなく、新卒だとも言っていた。それから中学校は2年の夏ごろに中退、そこから高校にも行っていないとも言われて私は驚いた。驚きすぎて呆気にとられていた私に彼は「仕事を教えてください!!」と言った。私は少し正気に戻り、まずどこから教えようかと考えた。そこで私はある事実に気づいた。私はずっと人に下手に生きてきたので何かを命令したり教えたりすることがあまりなかったのだ。なので多少の助言ならできるが、何から何まで教えたり、これをやれなどの命令の仕方がわからなかった。しかも私は特別仕事ができるという訳でもなく、ついていくのに精一杯だったので、誤った知識を与えてしまったらどうしよう。とか、もしそれで間違えたことをしたら…と頭がこんがらがっていった。
そうしていると、また彼が「まずやってみます!!」と言って仕事をし始めた。私は慌てて「ある程度は教えるからちょっと待って」と言ったが彼はやめなかったので渋々彼のことを見守る形で仕事を手伝った。
1日目が終わった。結果から言うと最悪以外の何者でもなかった。彼は失敗をしまくるし、その度に私も怒られて、平穏な日常が瓦解するようで憂鬱だった。定時になり、ストレスの塊のような状態で会社から出ると、そこにはMがいた。私を待っていたようで、彼は「今日はありがとうございました!僕のせいで◯◯さんに恥をかかせてしまって申し訳ないです!」と深く頭を下げながら私に言った。私はストレスが身体中を駆け巡っていたのにどこか嬉しい気持ちになった。そのとき、私は新卒1日目の時、上司に焼肉を奢ってもらったことを思い出した。そしてMにも同じことをしてやろうと思い、彼に「焼肉を奢るから一緒に帰ろう」と言った。彼は宝石のように目を輝かせて「いいんですか!?」と言ったのでさらに少し嬉しくなった。
焼肉屋に着き、ある程度注文をして肉がテーブルに置かれて、私が「焼くか」と言ってトングを取ると彼が「僕が焼きます!」と私からトングを取って焼き始めた。そういえば私は上司か、と思い出して焼くのを彼に任せて私たちは話し始めた。今日はどうだったかとか上手くやっていけそうか、などの定番のフレーズを彼に投げかけた。彼は「初めての仕事で楽しかったです」とか「先輩が優しい人で良かったです」と、「疲れた」や「つらい」などの愚痴を1つもこぼさなかった。私は不思議に思ったが彼の焼肉を食べるときのこの上なく嬉しそうな顔で彼が本当にそう思っているのだと確信した。彼は焼くのに慣れてないようで少し焦げてたりしてたが、その日の焼肉は私の人生の中でも一二を争う美味しさであった。
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