八章

文字数 17,352文字

 八章
 二十六
 目は閉じられたが、耳はどうしようもなかった。ガムテープの奥から耐えがたい恥辱に苛まれたうめきが発せられ、永遠とも思えるほどの時間、岩瀬の聴覚をなぶりつづけた。きつく締めた手錠は手首に食いこみ、血がにじみだしていたが、それでもガス管はびくともしない。岩瀬は全身を炎で炙られているようで、狂ったように足をばたつかせ、怒りと悔しさをぶちまけた。が、ソファに仰向けになった妻の脚を大きく開き、その間で尻を上下に振りつづけていると思われる男はまるで動じるところがなかった。
 絶叫がすすり泣きに変わったとき、岩瀬はようやく目を開けることができた。恐ろしい予感は的中し、全裸になった堀内が目の前で圭子に覆いかぶさったままじっとしていた。彼女の両ひざがやつの体を挟むように立っているのが見え、岩瀬はとてつもない憎悪の念が体の芯から沸きあがるのを感じた。
 息をあえがせて堀内はようやく妻の体から離れた。リビングのやわらかな照明にやつの下腹部がぬらりと輝き、思わず岩瀬はぎゅっと目を閉じた。これは現実じゃない。悪夢だ。そうにちがいない……!
 「ふぅ……すばらしかったですよ」裸のまま近づいてきて堀内がささやいた。「わたしを喜んで受け容れてくれた。ぜんぶ吸い取られた感じですよ。すこしふらつくくらいだ」
 憎しみが燃えたち、岩瀬はかっと目を見開き、やつを見あげた。
 「そんな目で見ないでくださいよ。これでわたしを黙らせることができるのですから」堀内は岩瀬の目の前にあるボトルを手に取り、満足そうにぐびぐびと飲みはじめた。「どうです? これからわたしと岩瀬さんと奥さんとで、新しいご近所関係を作りませんか。いわば疑似家族のようなものです。わたしが求めているものはもうおわかりでしょう。これはきわめてリーズナブルな平衡関係だと思うのですが」
 「平衡関係? ただの脅迫、恐喝だろう」岩瀬は吐き捨てた。圭子はソファで胎児のように体を丸め、おぞましい恐怖に絡みつかれてがたがたと震えている。
 堀内はにやつきながらかぶりを振り、さらにボトルをあおった。「わたしは約束は守る男ですよ。あなたさえばかなことをしなければね」
 そのとき廊下で音がした。どこかの家の玄関が開き、錠を回す音が響いた直後、甲高い靴音が移動していくのがわかる。萎えた男根をぶらさげて堀内が玄関に走った。
 「隣のケバい姉ちゃんでしたよ。こんな夜中にいったいどこに出かけるんでしょう」堀内はさらにスパークリングワインをひと口飲んだ。「たぶん男のところでしょうね。岩瀬さんもあの晩のことは覚えていますよね。あの女、廊下にとんでもない声を響かせていましたね。わたしなんて、玄関にへばりつきながらイッちまったくらいですよ。あのセックス狂いの牝犬が! だけどごぞんじですか、岩瀬次長、あの女の態度を」
 堀内は黄金色の液体を飲み干し、ボトルを静かに食卓に置いた。それからダイニングチェアに腰かけ、まるでその家の主人のように語りだした。
 「わたしのことをなにか汚いものでも見るような目つきで見るんですよ。どうしてこんな人がおなじマンションに暮らしているんだろう。それとも出入りの業者かなにかかしら。そんなような目で見るんです。だけどやつのほうこそ、どこの馬の骨か知れないじゃないですか。ティーンエージャーのころなんて、ろくに勉強もしないで遊び歩いて、二十歳前にはおまんこだって真っ黒だったんでしょう。だけどわたしはちがう。信じていただけないかと思いますが、わたし、中学受験で麻布に入りましてね。大学はもちろん東大文Ⅰストレート。父親が通産官僚でしてね。脳みその出来があの女なんかとは決定的にちがうんですよ。だからわたしも官僚になろうと思っていた。世のなかを牛耳っているのがそいつらだって、子どものころから知ってましたからね。
 ところがですよ、筆記試験に通るだけじゃ、うまいこといかなかった。どうも親父のせいもあるみたいだったんです。傍流っていいますか、すくなくともメインストリームからは外れていた。それにわたし自身、諸先輩のところに足しげく通ったりするのが苦手でしてね。なんといっても、岩瀬次長、あなたも感じているとおり、わたしは風采があがらない。二十歳になるころから、髪は薄くなりはじめたし、身長にも問題がある。政治家と渡りあい、世界を相手に戦うには見てくれってものが大事だって、霞が関も気がつきはじめたんです。それで真っ先に蹴落とされたのが、このわたしってわけです。
 でも東邦新聞に入って地方で修業して、五年で経済部にあがったときには、わたしの自尊心もやや慰撫されていたんですよ。なにしろ役所はもちろん、大企業の社長連中にふつうに会うことができて、名前までおぼえてもらって気さくに話せるんですから。なんだかとても自分が偉くなったような、言ってみれば自分のペンひとつで政治や経済を動かせるなんて、三十代のころは錯覚したものですよ。だけど長くつづけるうちに、それがまやかしだってことがわかってくる。記者が会っている相手は、たとえどんなに気さくに接してもらっても、決して自分ではその地位までのぼりつめることができない人たちなんですよ。そこには厳然たるちがいが存在する。
 へんな話ですが、新聞社のなかでもそうなんです。出世する連中と途中で見切られた連中ってのがいて、そこには見えざる大きな壁があるわけです。社の上層部とのパイプがひとつもないような社員は悲惨なものです。だれからも相手にされないし、なんだかおなじ社員だと思えないようなあつかいまで受ける。わたしなんて、痴漢のせいでIT事業部に出されましたけど、まだましなほうですよ。わたしがいた経済部から読者相談センターに出されて一日じゅう、クレーマーに悩まされてる同期がいるんですが、それまで記者としてすくなからず抱いていたプライドが完璧に打ち砕かれてボロボロになっている。かわいそうですよ。だけど出されたさきには、もっとひどい立場の人間がうようよいる。それでなんとか気持ちを慰めているわけですよ。たとえばわたしが出されたIT事業部ですが、わたしのことを陥れてクビにさせた派遣のエンジニアたちなんて、はっきり言って将来展望ゼロですからね。独身の自分が言うのもなんですが、あれじゃ結婚なんて無理ですよ。それこそ電車で痴漢して性欲を満たすぐらいしかたのしみがなくなるんじゃないかな。四十過ぎてまであんな入力作業とかやらされてたら。
 だけど派遣の彼らは仕事をもらう側で、正社員のわたしたちは発注する側だった。はっきりしているわけですよ。新聞社を追いやられたわたしが行き着いた先もおなじでした。つまりいまの会社ですよ。わたしは派遣の連中とおなじ、仕事をもらう立場に落ちた。そして岩瀬次長はそれを発注する側。そこにはやはり見えざる大河のような隔たりがある。ホワイトカラーとブルーカラーのちがいって言うと、なんだか階級闘争みたいですけど、もっとわかりやすく言うなら、高級タワーマンションの建設現場に出入りする作業員たちと、そのモデルルームに出入りする客たちとのちがいみたいなものですよ。二十一世紀に入って社会はますます複雑化する一方だなんてことを言うやつがいますよね。それが凶悪犯罪の背景にあるなんて言ったりして。だけどそんなのウソですよ。物事はいまだってシンプルなままなんですよ。つまりね――」
 堀内は空になったボトルを手に取り、名残惜しそうに見つめた。
 「持てる者と持たざる者。程度の差こそあれ、世のなかにはその二種類しかない。あえて悪い言い方をすれば、主人と奴隷。その二つの存在で人間界は満たされている。しかもそれは最初からきまってるんですよ。いくら努力しようと報われない。だからあの隣の女の蔑むような目つきは、こっちが持たざる奴隷だってことを見抜いていやがるんだ。だけどね、あの女に関しちゃ、同類のにおいもする。やつもきっとだれかに取り入ってるにちがいない。体だって使ってるんでしょう。例の夜みたいにね。だからこそ反発というか、嫌悪感をわたしにおぼえるのかな。鏡のなかに裸の自分を見ちまったかのように」
 堀内はダイニングチェアから立ちあがり、全裸のまま赤い顔をして岩瀬の前にしゃがみこんだ。
 「主人と奴隷。両者の間には侵すべからざる一線が存在する。その両側で、それぞれ決して交わらぬ歯車が回り、別々に再生産がつづくわけですよ。それで溝口さんのところのクソガキみたいのが生まれるわけだ。だけどね、その一線は絶対不可侵というわけじゃない。ここがミソなんですよ。その線が消失するある瞬間というのがある。それで侵入可能になるんです。上から下へじゃない。下から上ですよ。それにはある種のエネルギーが必要だ。物理的にはそれは暴力の形を取ることが多いでしょう。しかし精神のレベルでは“劇的変容”という言葉を使ったほうがいい。豹変するってことですよ。人間の数ある優れた特性、美徳と呼べるものの一つにそれがある。人は豹変することができるんだ。キレるなんてそんな次元の低いものじゃない。それまでできないと思いこんでいたことが、あるときできるようになる。きっかけは人それぞれでしょうが、言ってみれば、キューブリックの『2001年宇宙の旅』に出てくる猿がモノリスにタッチしたときのようなものですよ」
 堀内はそこまで言うと満足したようにその場に腰をおろし、ごろりと横になった。その姿は、召使の前で泥酔して見せる主人そのもののようだった。岩瀬に面会すべく会社に押しかけてきたときとは大ちがいだ。まさに劇的変容のなせるわざだった。
 モノリスか……。
 岩瀬はそのとき、自分の頭のなかにもその巨大石板が屹立している錯覚にとらわれ、胸にひりつきをおぼえた。やつは劇的変容は下から上へだと言った。しかしエネルギーの爆発に決められた方向なんてあるものか。
 「いまにして思えばね……あなたとわたしの一線……なんて……」堀内はそれ以上、言葉を発することができなかった。カメレオンのような眼球を左右のまぶたで八割方覆うと、寝息をたてはじめた。桜田のときよりも効き目が早い。量を加減しなかったから当然だ。岩瀬は、堀内が妻を凌辱する間に足を使って台所からピルケースを落とし、それを背後にたぐり寄せていた。そしてなかにあったありったけの睡眠導入剤を床に撒き、それを口で拾っては噛み砕き、そのまま目の前のボトルに落としこんでいたのだ。
 「圭子!」岩瀬は妻に呼びかけたが、圭子は自らを見舞った悪夢からいまだ脱することができず、ソファで体を丸めたまま、がたがたと肩を震わせていた。
 「そこの袋とやつの服を調べてくれ。手錠の鍵があるかもしれん」岩瀬は堀内が持参したコンビニの袋のほうにあごをしゃくりあげた。「やつは眠っている。じいさんとおなじだ。心配いらない」
 圭子はようやく反応し、全裸の体をよじるや、ソファから転げ落ちた。その脚に手錠の片方がはまっている。圭子はソファをぐいと持ちあげ、ステンレス鋼の輪っぱを抜き取った。それからコンビニの袋をひっくり返し、脱ぎ捨てられたズボンのポケットに手を入れた。
 「それだ!」銀色の小さな鍵をつまみあげた圭子に、岩瀬はまるでオリエンテーリング中の森の奥で巧妙に隠された目印を見つけた子どものように歓喜した声を投げかけた。
 両手が自由になるなり、岩瀬は妻を強く抱きしめた。「だいじょうぶだ。なにも気にすることはない。さあ、いまから元の暮らしにもどるぞ! おれがいる。圭子、おまえにはおれがついてるし、おれはおまえを必要としている。おまえがなにをしたかなんて、関係ない。これまでどおりだ。おれとおまえとふたりで、ふつうの生活をつづけるんだ。いいな。わかったら、さあ、シャワーを浴びてくるんだ――」あらためて妻を抱きしめてから、岩瀬はウオーク・イン・クローゼットに向かった。自分でも矛盾していると思った。これまでとなんら変わらないと口走りつつ、自分自身では、それまでとはちがう、なにかべつの存在になり変わっていることがはっきりとわかっていたからだ。やつの言葉を拝借するなら“劇的変容”だろうか。
 混みあったクローゼットを雪原をかきわけるように進み、岩瀬は奥に鎮座するスーツケースに手をかけた。ヨーロッパから東南アジアまで圭子といっしょに世界を駆けめぐった強化プラスチック製の旅道具だ。それを引っ張りだし、リビングに急ぐ。
 呆然とする圭子の前でケースを開き、なかの仕切り板をすべて取り払ってがらんどうにした。堀内は食卓のわきに横たわり、眠りこけていた。桜田は途中で息を吹き返したが、この男はそのまま逝ってしまいそうな気がした。睡眠薬は酒といっしょだと危険だ。そんなような話も聞いたことがある。だがそれならそれで手間がはぶける。岩瀬は堀内の体を抱えあげた。
 想像以上に軽々と持ちあがった。小男ならではかもしれないが、放出されるアドレナリンのせいで岩瀬の腕力が増したようでもあった。そしてその体は、会社の同僚たちに聞かせた例え話のとおりだった。手足を縮こまらせて胎児のような格好にすると、スーツケースにぴたりと収まったのだ。
 「あなた……」うしろから圭子が声をかけてきた。両手で乳房を隠している。
 「いいんだ。おれにまかせろ」ふたを閉め、がっちりとロックしてからケースを起こしてみた。やつの体が下のほうにごそりと滑り落ちる音がしたが、やつが正気づいたようすはない。「そういえば風間さんはさっき出かけたみたいだが、溝口さんはまだいるんだよな。隣の家でなにか騒ぎが起きていると気づいているかもしれないし、そもそもこの男がうちを訪ねてきたことものぞき穴から見ている可能性がある。いまうちの玄関が開く音がすれば、たちまちのぞき穴に飛びつくだろう。だったら飛びきりのアイデアが必要だな」
 玄関のほうへスーツケースをゆっくりと押しながら、岩瀬はプランを説明した。下駄箱の前までケースを移動させると、岩瀬は急いでアロハシャツとチノパンに着替えてスニーカーを履いた。
 廊下に出たときは手ぶらだった。午前一時二十分。チノパンのポケットには車のキーと財布が入っていたが、昼間のまっとうな仕事に就く中年男がコンビニに買いだしに行くには遅すぎる時間だった。首筋にひりつくような強烈な視線をおぼえながら岩瀬はエレベーターの前に立ち、ボタンを押した。溝口が玄関にへばりついている姿が目に浮かぶ。緊張が募ったが、それを押し隠して鋼鉄の籠があがってくるのを待った。
 それが到着したとき、どこかの部屋から電話の呼び出し音がわずかに聞こえてきた。ナイスタイミングだ。圭子が溝口の携帯電話を発信番号非通知でかけたのだ。番号自体は、やつが引っ越しのあいさつにやって来たときにもらった名刺に印刷してあった。自分のそれまでの行動様式を考えれば、物音に気づいてのぞき穴に飛びつくとき、携帯やスマホをつかんでいたことはなかった。部屋に置きっぱなしにしているのが常だった。ならば溝口だってそうだろう。廊下に伝わる音の感じから判断しても、玄関ドアの真裏で鳴っているとは思えなかった。もっと離れたどこかだ。だからやつは後ろ髪を引かれる思いで――。
 呼び出し音が途絶えた。それをたしかめるや岩瀬は自宅の玄関前にもどった。アルコーブに置いておいたスーツケースをつかみ、両手でぐいと持ちあげる。キャスターを転がせば異音が響く。これ以上溝口の興味をひきたくなかった。
 エレベーターのドアは閉じかかっていた。ぎりぎりのところで岩瀬はスーツケースの角をそこに突っこみ、ドアをふたたび開かせた。スーツケースの片方のキャスターが人造大理石の床にどすんと落ちる。だがもうここまできたら、あとにはひけない。岩瀬はスーツケースをエレベーターに押し入れるなり、ドアを閉じるボタンに何度も指をたたきつけた。

 二十七
 エレベーターは音もなく降下した。駐車場のある地下一階まで直行するつもりだった。岩瀬は気持ちを落ち着かせようと深呼吸をくりかえした。だがいまは気が張っているし、現実感が失われていた。全身の神経がぴりぴりと敏感になっている。すべてが終了するまで――アドレナリンの攻撃を受けて肉体がボロボロになるまで――気持ちが落ち着くなんてことは考えないほうがいいかもしれない。
 五階から若い女が乗りこんできて一階のボタンを押した。岩瀬はかっとなって怒鳴り散らしたい衝動に駆られた。いったいこんな夜遅くにどこに出かけるってんだ。街に男でも引っかけに行くのか。それともデリヘル嬢だったのか、こいつ……。
 頭上には防犯カメラがあった。録画中をしめす赤いランプがくっきりと灯っている。冷静になる必要があった。岩瀬は女のうしろに立ち、この時間の持ち物にしてはちょっと奇妙な感じもするスーツケースに手をかけたまま、ポーカーフェイスを装った。
 ゴトリと音がした。
 岩瀬は総毛立った。スーツケースのなかからだった。まるでトラバサミにかかった瀕死のイノシシが、猟師の前で最後の抵抗を見せたかのようで、同乗者の女がわずかに振り返った。岩瀬はうつむいたまま、スーツケースに向かって声なき呪文を唱えつづけた。それが功を奏したのか、堀内がそれ以上身動きしたり、うめき声をあげることもなかった。女もふたたび前を向き、やがてエレベーターは一階に到着した。
 あとは近寄ってくる住人はいなかった。地下駐車場はしんとして、人気がない。だが防犯カメラだけは作動している。岩瀬は平静を装いながら、まだ一万キロ程度しか走っていないプリウスワゴンに近づき、リアハッチを開いた。
 プリウスを買ったのは三年ほど前のことだ。それまで十年ほどは車なしの生活だった。仕事が忙しかったし、子どもがいるわけでもない。都心だから地下鉄やバスを使えば、移動は事足りた。なにより駐車場代がばかにならなかった。それでも生活が安定し、日々の暮らしにたとえわずかでも変化と呼べるものがなくなり、やがて時間が過ぎるのがやたらと早く感じられるようになってくると、そこになんらかの刺激がほしくなってきた。岩瀬も圭子も旅行が好きだった。秘湯めぐりだ。ほとんどが電車を使ったが、やはり山奥となると公共交通機関が不足するし、タクシーは高くつく。だったらと自分の車をひさしぶりに持つことになったのである。とはいえそれでもハンドルを握る機会はめったにない。秘湯めぐりなんて半年に一回がせいぜいだ。
 そんな過去はもうどうでもよかった。深夜の晴海通りを突っ走りながら岩瀬は痛感した。この車は今夜、このスーツケースを載せるために買ったのだ。
 「なぁ、そうだろ、堀内さんよ」岩瀬はバックミラーにわずかに映るスーツケースに話しかけた。「真夜中にキャスターをガラガラいわせて歩道を急いでたら、たちまちおまわりさんに職質されちまうだろ。車ならスピード違反さえしなきゃ、捕まることはない。検問受けたって、空港のゲートじゃないんだ。荷台まではチェックされまいよ。それに自家用車なら、どこにだって好きなところに行ける。だれにも気づかれずにな」
 確たる目的地があったわけでなかった。岩瀬は十分ほど走り、適当な波止場を見つけた。そこの小道に入り、ヘッドライトを消してそろそろと車を進めた。
 道路から百メートル以上離れた防波堤が目の前にあった。そこで停車し、岩瀬はエンジンを切った。そこで五分間じっくり時間をかけて周囲を観察した。街灯もなく、すこし離れたところにある倉庫の明かりだけがたよりの荒れ地だった。もちろん人気はない。かつてはおなじような倉庫があったのかもしれない。よく見るとマンション建設予定地の看板がある。まさにウオーターフロントのマンションか。波打ち際だから大地震で津波が襲ってきたら一巻の終わりだ。価格は相当安く設定されるはずだ。それ相応の連中が小さな夢を抱いて入居するのだろう。
 そんなやつらとは住む場所もちがえば、暮らす世界も、目指す未来もちがうんだ。岩瀬は自らに言い聞かせ、外に出た。
 荷台からスーツケースをむきだしの地面に引きずり下ろしたとき、なかで小さな悲鳴があがったような気がした。急いだほうがいい。岩瀬はダッシュボードから軍手を取りだし、車載の懐中電灯であたりを照らした。
 マンション建設がじっさいに始まっているらしく、作業に使う備品が放置されている。岩瀬はそのなかからダンプカーなどの交通整理に使う標識を固定するおもりに目をとめた。プラスチック製でタンクに水を溜めて使うタイプだった。ほかに作業現場を覆うフェンスどうしを固定するのに使うらしい太い針金を巻いた束を見つけた。それらを手に取り、岩瀬はスーツケースのところにもどった。
 「た……たすけて……」
 はっきりと聞こえた。ケースはがっちりとロックされたままだったが、それを内側から押し開けようとしているかのように、ケース全体ががたがたと揺れている。
 「ちくしょうめ」岩瀬は吐き捨てると、助手席に上半身を突っこみ、ダッシュボードから脱出用ハンマーをつかみだした。

 二十八
 圭子は入念にシャワーを浴びながら考えた。これは悪夢かもしれないが、どちらかといえば病気にかかったようなものだ。二十歳のとき、圭子はマイコプラズマ性肺炎で入院したことがあったし、小学校のときは二度もインフルエンザにかかった。晋治と出会う前には、盲腸の手術も経験している。いずれも死線をさまようほどの話ではなかったが、その時点ではどれも最大限に苦しかった記憶がある。だがその都度、医療が的確に施され、二週間もすればけろっとしていた。
 これだってそうなんだ。
 圭子は強くそう思おうとした。妊娠と性感染症のたぐいが怖かったが、どっちにしても医者に行くのが最善だ。受診理由なんてどうとでもなる。
 あとは心の傷痕だ。だがこれについては、いま夫がなにをしているかで変わってくる。もしあの男に復讐を果たしているのであれば、これに勝るセラピーはないだろう。それにそもそもあの男に付け入らせるきっかけを作ったのは、ほかならぬ圭子自身である。いくら不眠症に悩まされているからといって、隣の家の子どもを傷つけることは許されない。その一線を越えた罰があたったと思えばいいし、そう考えるほかなかった。とにかく思い詰めて涙を流すだけでは、物事はこれっぽっちも前進しない。気を強く持たねばならなかった。
 シャワーを終え、新しい寝間着に着替えて圭子は夫の帰りを待った。堀内が持参した手錠やスタンガンはすべてスーツケースに放りこんであったし、指紋がついていそうな場所には丹念にダスキンをかけた。あすには掃除機もかけよう。そうすればあの男の来訪をしめす証拠はすっかり消えるだろう。
 そのとき廊下で錠が開く音がした。
 溝口さんのご主人が出かけるのだろうか。圭子は玄関に走り寄った。
 向かいの堀内宅の右隣、風間宅の玄関だった。圭子は眉をひそめた。ポロシャツにジーンズ姿の男がなかから出てくるところだった。来客が帰るところだろうか。しかし風間さんは先ほど出かけたのではなかったか。
 男はまっすぐに圭子のほうに近づいてきた。はっと息を飲む間に玄関の前に立っていた。若い大学生のような男で、いまにもインターホンに手がのびてきそうだった。圭子はドアの内側で固まった。男は目の前に圭子がいるのがわかっているかのように、無言のまま小わきにかかえたノートパソコンをのぞき穴の前に広げた。
 魚眼レンズを据えつけた小さな穴からも、ノートパソコンの画面に映しだされる動画の中身を理解できた。圭子は腹の底にどんよりと重たいものを感じた。それに気づいているかのように、男はインターホンを鳴らした。
 「夜分すみません」リビングに据えつけた受話器から聞こえてきたのは、どこか体の悪そうな張りのない弱々しい感じの声だった。「九〇五号室に住む者です。パソコンに映っているもの、ご覧になりましたよね。ぼくの記憶では、堀内さんがまだなかにいらっしゃるようですが……でもご主人は出かけられましたよね。ここに映っているとおり――」
 圭子は台所から包丁を取りだし、それを背後に隠したまま、玄関の錠を開けた。
 すらりと背の高い青白い顔をした若い男がパソコンを手に立っていた。無精ひげが病的な印象を強めている。男は玄関のなかにするりと入ってきて、後ろ手にドアを閉めた。
 パソコンの画面にはおなじ動画がくりかえし映しだされている。岩瀬宅を訪ねる堀内のうしろ姿と、スーツケースを抱えて自室をあとにする夫のこわばった表情。まるでテレビ局が取材で使うカメラで撮影されたかのような鮮明な映像だった。
 「どうしてそんなもの、持ってるんですか」男は包丁のことを見抜いていた。「ぼくを傷つけようっていうのですか。血の滴が落ちれば、それだけで犯罪の証拠になるというのに」澱んだまなざしに底知れぬ悪意が感じられた。
 「なにか用ですか」圭子はできるだけ毅然として言い放った。
 男は顔色ひとつ変えずに言った。「それは錠を開ける前、インターホン越しに訊ねるべき事柄でしょうね。それすらせずに錠を開けてなかに招き入れたということは、ぼくがあのまま外で話をつづけたら不都合な事態が存在することをあなた自身、察知したということにほかならない。つまり溝口さんには聞かれたくない話なんだ」
 図星をつかれ、圭子は返答に窮した。
 陰鬱な感じの声で男はかまわず話をつづけた。「九〇五号室にずっと住んでいるんです。でもめったに外出しないから、お気づきにならなかったのかもしれない。じっさいこの二年ほど、ずっと引きこもったままなんです」
 ニート。圭子の頭にのぼったのはそれだったが、その点は男のほうで否定した。
 「でも稼ぎはあるんですよ。FXやってますから。上がりも上々です。だから引きこもりというより、外出する必要がないといったほうがいいのかもしれない。それに外になんか出なくても十分に楽しめる。たとえばこんなような映像を撮ることもできますからね。ここのフロアの人たちの生態はじつに興味深い。じっくり観察して想像をめぐらせるだけでわくわくしますね。だからイクちゃんに頼んで細工もさせてもらいました」
 「イクちゃん……?」
 「あの部屋の持ち主ですよ。ほら、何度か見かけたことはあるんでしょう。すこし派手な感じがしますけど、あれでもテレビ局のプロデューサーなんですよ。名前は風間育代。バリバリのキャリアウーマンです。人事異動があって、こないだから朝の番組の担当になりました。今夜が初出勤です。報道番組ですが、まさかこのフロアで起きたことはあつかえないでしょうね」
 「あなた、だれなの」
 「名前なんてどうでもいいでしょう。元は彼女の職場に出入りするメッセンジャーボーイでした。声をかけてきたのはもちろん向こうのほうです。イクちゃん、カレシもいなかったし、単純にセフレがほしかったんだ。だけど寂しがり屋のところがあって、ぼくが居ついても文句を言わなかった。いまじゃぼくなしじゃ、生きられなくなっている」
 愛人というわけか。そういえば桜田さんや堀内が、風間さんがある晩、へんな声をあげていたというようなことを口にしていた。晋治もそれを耳にしていたらしい。その相手がこの男だったのか。
 男はパソコンの画面を圭子に突きだしてきた。
 「のぞき穴のレンズを外して、ピンホールカメラをつけたんです。通販ですが、いちばん高いやつです。配信のことを考えて画質にこだわりましたから」
 配信ですって……。
 男はパソコンを操作して、べつの動画を再生した。
 「これを見ていただけますか」

 二十九
 波止場の暗がりにモノリスが立っているのを岩瀬は見た。闇と同化しそうなほど真っ黒いそれは、幅二メートル、高さは三メートルもあった。どこからともなく出現し、視覚を超えた厳然たる存在感で周囲を圧倒している。映画とおなじだった。
 足もとではスーツケースが叫びつづけている。堀内は完全に目を覚ましたらしく、声もはっきりと聞こえるようになった。そのたびにまるで生きているかのようにケースが変形し、大きく揺らぐ。ロックはかけてあったが、内側から破られるのは時間の問題だろう。
 岩瀬はアロハシャツとチノパンと靴を脱いでトランクス一枚になった。それからスーツケースを片足で踏みつけ、目の前の巨大石板に両手をのばした。電気が走るような感触かと思ったが、大理石のようにひんやりとしている。しかも硬くはない。水に手を浸けているかのような柔らかな感覚に両手が包まれた。これが劇的変容なのか。おれはどう変わった……と首をひねったとき、闇を貫く閃光のようなまっすぐな衝撃が、手から腕へ、腕から肩へ、そして肩から脳天へと一気に突き抜けた。
 岩瀬はがたつくスーツケースの前に立ちつくしていた。モノリスは消えている。静かにうねる暗い海面の奥に、夜間航行する貨物船のおぼろげな明かりが見えた。
 はじめてだった。こんなにすっきりした気分は。
 「だ……だしてくれ……!」
 岩瀬は足もとに目を落とし、脱出用ハンマーを握りしめた。
 「こんな世界があるとは思わなかったよ。殻を破ったというか、解放された感じだ。もっと早くこうなればよかったのにな。そうすればあのフロアで、隣近所の目におびえずにすんだかもしれない」邪教の呪文のように岩瀬はつぶやいた。
 「おい……! たのむ……!」
 「でもまだ遅くはない。人生はこれからもつづく。だったらそれを生き抜く指針として、この解放感は大事にしたいところだな。つまりだ――」岩瀬は右手をのばし、指先をスーツケースのロックにかけた。「みんなおんなじなんだよ。おなじ穴のむじなさ。だったらやるか、やられるか。びびっててどうするよ」
 岩瀬は指先に力をこめた。
 つぎの瞬間、まるで爆発でも起きたかのようにスーツケースがぱっくりと口を広げた。岩瀬は狙いを外さなかった。半身を起こした小男のこめかみに向かって、釣りあげたマグロにとどめの銛を刺す漁師さながらに両手で持ち直したハンマーを一気にたたきつけた。
 何度も、何度も。
 そのたびに生温かい滴が胸や腹や太ももにはね飛んできた。プリウスの車内では携帯電話が鳴っていた。岩瀬はそれを無視した。至上の快感に身をゆだねはじめたところなのだ。
 「生き残るのは、どっちか、なんだ……」
 「や……めろ……」堀内は水のなかでもがくように両腕をあげて抵抗し、それまで収まっていた箱舟のなかから逃げだそうとしたが、それもすぐに力尽き、ダンプカーにはねられた野良猫のようにぐったりとなった。どろりとしたものが頭全体を覆いはじめていた。それでも岩瀬はハンマーを振るいつづけた。
 「やめちゃ、だめなんだよ。躊躇とか……逡巡とか……もう、そんなものは――」
 それからまるまる一分も、岩瀬はおなじことをくりかえしたのち、こんどはハンマーを暗い海に向かって力いっぱい放り投げた。大声で叫びたいところだったが、ぐっとこらえるだけの正気はまだたもっていた。かわりに堀内の左右の足首をそろえて針金を結びつけ、反対の端は工事標識を固定するおもりの持ち手にぐるぐるに結わえつけた。もちろんおもりのタンクのふたを開けるのも忘れなかった。
 小男の体を軽々と持ちあげ、岩瀬はまだ水を溜めていないおもりを引きずりながら岸壁に近づいた。しぶとい男だからふたたび息を吹き返すかと心配だったが、幸運にも堀内はぴくりとも動かなかった。
 どれくらい水深があるのだろう。潮が引いたりしたらちょっとあれかな。多少の不安があったが、モノリスの教えがそれを打ち消してくれた。岩瀬は敵の体を海に放りこんだ。
 真っ黒い水面に堀内の体はしばらく仰向けになって浮かんでいた。あのカメレオンのような目がかっと見開かれ、隣人に毒づきながら救助をもとめているかのようだった。しかし目はずっと閉じられたままだったし、喉から得意の長い舌が吐きだされたわけでもなかった。やがてプラスチックのタンクに海水がたまりはじめ、おもりが働きはじめた。先にそれが海中に没し、それに引きずられるように小さな異星人の体も足のほうから沈んでいった。
 車のなかでは携帯電話が警報機のように鳴りつづけていた。

 三十
 小学校の帰り道、棘だらけの実を友だちの背中に投げては遊んだものだ。それはオナモミという植物の実のことだったが、子どもたちの間では“ひっつき虫”で通っていた。圭子はいま、それが喉の下から上へ這いのぼってくるような感覚をおぼえながら、玄関に立ちつくした。
 男が手にするノートパソコンには、野球帽とサングラスで顔の大部分を隠した女が映っていた。圭子にはそれがどこであるかすぐにわかった。玄関の向こう側、九階の内廊下だ。風間宅の玄関ののぞき穴に設置したというピンホールカメラにはズーム機能がついていた。真正面にあたる部屋――溝口一家の家――の玄関を一気にクローズアップし、そのアルコーブへと足を踏み入れた女にぴたりとピントが合った。
 女の足もとに幼児用の自転車があった。ブレーキのついていない例のストライダーだ。女はそこにしゃがみこみ、右側のハンドルに両手の指先をあてがった。ほんの一瞬、指の間がぎらりと輝いた。そこにあるものが天井の明かりを反射したのだ。女はさっと立ちあがり、踵を返して階段室のほうへと近づいてきた。
 「このままうまくいけばよかったんですけどね」男の声はかすれて聞き取りづらかったが、まるで野生動物の生態を語るネイチャーガイドさながらの情熱が感じられた。「カミソリの刃はしっかり貼りつけられていた」カメラはさらにズームし、ストライダーの右ハンドル部分をさらに拡大した。ハンドルには黒いグリップが装着されていたが、そこに異物が貼りついているのがはっきりとわかった。
 男はそのまま一時間ほど映像を早送りし、再生を再開した。しばらくしてハンドルからなにかがぽとりと落ちた。まるで熟した果実が落下したかのようだった。先ほど野球帽の女が装着した異物がそれを貼りつけたテープ――黒のビニールテープ――ごとハンドルから落ちたのだ。
 「もういちどご覧になりますか」男は嬉々として映像をもどしては、おなじ場面を何度も再生した。溝口家のアルコーブには、場違いなビニールテープが黒いリボンがうねったような格好で落ちていた。「つまりですよ」男は圭子の顔をのぞきこみながら言った。「このままなら、溝口さんのところのお子さんがけがをすることはなかった。するわけないですよね。ハンドルを握ったときに指を切る恐れのある刃物は、もはやそこについていないんですから」
 さらに男は映像を十分ほど進め、再生した。画面の右側からべつの人物があらわれた。手袋をしている。圭子は息を飲んだ。第二の人物は、溝口家のアルコーブに滑りこむように近づき、さっとしゃがんで床に落ちた黒いリボンを拾いあげ、さっき女がやったのとおなじような方法でハンドルにそれを装着しなおした。こんどのほうが入念だった。時間をかけ、何度も何度も貼りつけたテープを指でこすっている。落下させないための方策であるのは明らかだった。
 「なにが起きるか気が気でなくなりましてね。ディスク残量ぎりぎりまで撮っていたんです。そしたらね――」
 撮影開始から十五時間七分四十秒が過ぎていた。それがきっと七月一日の午前七時五十五分なのだろう。玄関から勢いよく飛びだしてきた溝口陽一は、戦隊ヒーローよろしく愛車にまたがり、小さなスニーカーに包まれた右足で力強く人造大理石の床を蹴った。直後、廊下のまんなかで見事に転倒し、火がついたように泣きだした。血まみれの右手を天井に突きあげて――。
 「あの子が指を切ったのは、あなたのせいじゃないんですよ。カミソリの刃をつけたビニールテープが剥がれ落ちたことで、因果関係が断絶されているのですから」男は気の毒がるような声音で言った。「責任があるのは、その後にあれを拾って、ハンドルに貼りなおしたこの人ですね」
 圭子は言葉を失った。自分がしたことと溝口陽一のけがとは、はなから無関係だった。自分も晋治もびくつく必要なんてまるでなかったのだ。睡眠導入剤を使って桜田さんに罪を押しつける画策も不要だったし、なによりそのあとで堀内の奴隷になりさがるなんてもってのほかだったのだ。
 「どうしてもっと早く……」教えてくれなかったの? その部分を圭子は口にすることはできなかった。いまさらどうしようもないからだ。
 いまできることをしないと。
 圭子は必死に頭をめぐらせた。自分も晋治も警察を――深川署の篠原刑事を――もはや恐れることはない。だからずかずかとわが家にあがりこみ、スタンガンと手錠を使って自分を凌辱した堀内を堂々と告発すればいい。そこまで考えたとき、圭子はぞっとした。
 晋治はいまなにをしている?
 とめないと――。
 風間宅の居候男を残して圭子はリビングにもどり、スマホに飛びついた。

 三十一
 岩瀬はスーツケースを転がして九階にもどってきた。
 エレベーターの防犯カメラは、出かけるときにスーツケースもいっしょだったことを記録している。帰宅時にそれが映っていなければ、スーツケースごとなにか大きなもの――たとえば人間とか――を遺棄してきたとあやしまれるだろう。そう考えて念のため持ち帰ってきたのだが、よく見ると外装部分に血糊が付着していた。マンションの駐車場でそれに気づき、ダッシュボードに突っこんだ雑巾とガラスクルーで拭き取ったつもりだったが、まだキャスターの付け根のあたりに染みが残っていた。やれやれ。粗大ごみに出すときはきれいにしておかないと。
 それにしても息が切れる。それもそのはずだ。慣れない作業に手を染めたのだから。圭子から何度か電話が入ったようだったが、帰り道もかけ直す気になれなかった。とにかくいまは眠りたい。全身が鉛のように重くなっていた。
 玄関のドアを開けたとき、いっぺんに目が覚めた。
 見知らぬ長身の男に出迎えられたからだ。
 「どちら……さま……?」岩瀬は男の顔を見あげた。
 男を押しのけて圭子があらわれた。青ざめた顔をしている。「風間さんのところの……」
 岩瀬は眉をひそめた。「独り暮らしじゃ――」
 夫の言葉をさえぎり、圭子は岩瀬の腕にしがみついてきた。「あの男は……あの男は……」わなわなと口を震わせ、うめくようにおなじ言葉をくりかえした。だが夫が持ち帰ってきたスーツケースについた赤い染みを見て絶句した。
 男はパソコンを手にしていた。黙ってそれを操作する。そこに浮かんだ映像に岩瀬は釘づけになった。圭子じゃなかった。あとから来た男がやったのだ。
 堀内だったのだ。
 「スーツケースを持ちだしたときの映像もふくめ、まだなにもネットにはアップしていませんから。あわててそんなことしないでもいいでしょう。要するにですね」長身の男が穏やかな口調で言った。「わたしが黙っていればいいのですね。そのスーツケースのこと」
 岩瀬は口を真一文字に結び、男の顔をにらみつけた。
 男はすこしも動ずることなく、岩瀬のことを見つめ、それからおもむろに圭子の体を舐めまわすように眺めた。「ルールを決めましょうよ」
 風間嬢の同居人らしきこの男は、おなじフロアの住人を相手に原始的な人間関係を結ぼうと持ちかけてきた。じつにシンプルな関係である。
 主人と奴隷――。
 それを最初に岩瀬に語った男はいま海の底で甲殻類たちの餌食となっている。モノリスに触れることによって、岩瀬が自らの内に見いだした圧倒的な情念が働いた結果だった。もはや時は巻きもどせない。そしてその情念はいまなお体の中心に座して、発動の瞬間を待っていた。
 「ルールだって……?」岩瀬は玄関に錠をかけてから、靴を脱ぎ、玄関にあがった。頭ひとつ分も高いところにある顔を見あげ、驚いたような声で言った。「おたがい、気持ちよく暮らすためのご近所どうしのルールってわけかな?」
 岩瀬は男の胸を両手で力いっぱい突いた。
 案の定だ。へなちょこのもやし野郎は、パソコンを抱えたままダンボールの空箱のようにうしろにすっ飛び、トイレのドアに背中と後頭部をしたたか打ちつけた。わきにいた圭子が小さく悲鳴をあげ、体を縮こまらせた。
 岩瀬はずんずんと男に迫り、パソコンを奪い取ってから胸ぐらをつかんでリビングへと引きずっていった。
 「いいだろう! 何事にもルールってのは大事なんだからな!」廊下にまで響くほどの大声だった。岩瀬はそこでひと呼吸置き、目を丸くする男のうえに馬乗りにりなり、耳元でささやいた。「そういえばこのフロアには、そんなような決め事はなかったよな。決め事なしにおたがい、接触しないようにつとめてきたんだ。だけどこれから先、触れ合う必要があるなら、話はべつだ」
 引きつった声で男が叫んだ。「元データがあるんですよ! こっちはいつだってアップできるんだ!」
 「あぁ、よかったな!」岩瀬はすばやい動きで強烈な平手打ちを一発食らわせた。男の顔が九十度、横に曲がった。快感だった。全身に力が漲るのが感じられた。「家族みたいにして、深く、濃い付き合いをするって言うんなら、どっちが主人でどっちが奴隷かはっきりさせとかないとな」
 男は身をよじらせ、ジーンズの尻ポケットからなにかを取りだすや、岩瀬の目の前で振りまわした。
 右の頬に熱く鋭い痛みが走った。ナイフだった。男はそれを手にしてさらに振りまわした。岩瀬はさっとうしろに飛びすさり、身がまえた。カミソリなんかよりもっと殺傷力の高い凶器を手に男は立ちあがった。
 「わかっていないようですね」
 「ほぉ、じゃあ、はっきりさせようじゃないか」挑発するように岩瀬は言い放った。
 男は逆上して飛びだしてきた。
 素手でかまうものか。岩瀬は悠然と待ちかまえた。心は落ち着いていた。まるでモノリスが背後にそそり立っているかのようだった。男の動きがスローモーションのように見える。
 やつらと付き合うのなら、主導権だけは奪われてはならない。たとえどんな手を使ってでも。それこそが――
 真理である。
 銀色に輝く刃が胸の中心に迫ってきてもなお、岩瀬はそのことに思いを馳せていた。
 (了)
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