六章

文字数 17,512文字

 六章
 十八
 「なんかおかしくないか」岩瀬はソファから立ちあがり、桜田の鼻の下に手をやった。「おい、息してないんじゃないか!」あわてて岩瀬は桜田の頬を平手ではたき、正気づかせようとした。しかし桜田はリクライニングチェアにもたれたまま、目を閉じて天井をあおいだままで、いくら頬をはたいてもぴくりとも反応しなかった。「脳卒中だったらやばいぞ」
 圭子はソファに腰かけたまま微動だにしない。目の前であたふたする夫をじっと見つめるだけだった。こちらもようすが変だった。呼吸をせずに眠りこけたとしても、救助の手を差しのべないとはなから決めているかのようだった。
 手を差しのべない……だと?
 それについて思いをいたそうとしたとき、老人の表情が心なしか歪んだ。岩瀬のなかで焦燥感が燃えあがった。このまま放置すべきでないのはあきらかだ。台所に薬の袋があった。岩瀬はそれに飛びついた。大量の錠剤が入っていた。処方薬の説明書が同封されていた。それを見るかぎり、睡眠導入剤のようだった。そんなものがいまこの場で役立つわけがない。部屋を見まわしてもほかに薬は見あたらなかった。こうした状況がしばしば起きるのなら、緊急時の頓服薬を手元に置いておくはずだ。はっとして岩瀬は老人の首元をたしかめた。ピルケースに入れたそうした薬がぶら下がっていまいかと思ったのだが、しみだらけのひからびた肌が見えただけだった。
 人口呼吸だろうか? それとも心臓マッサージか……? 岩瀬はリクライニングチェアの背もたれを思いきり横に倒し、桜田の体を仰向けにした。だがそこから体が動かなかった。何年か前、会社で救命講習があったが、サボって受けていなかった。そのあたりについて習ったのは、高校の保健の授業にまで遡らねばならない。マウス・トゥ・マウス……? その頃なら好きな女の子のことでも想像してドキドキしていたかもしれないが、いま目の前にいるのは男だ。それも加齢臭はなはだしい七十五歳の老人だ。冗談じゃない。
 だからといって心臓マッサージなんて、映画やテレビドラマではしょっちゅう見ているが、じっさいにどんなものかは見当もつかない。たしかあれは心臓を圧迫するさいの力の入れ具合とペースが重要で微妙なのではなかったか。
 じいさんの顔がさっきよりも白っぽくなりはじめている。血液が循環していない証拠だろうか。すかさず岩瀬は桜田の手首をつかみ、脈を取った。緊張で指先の感覚がまひしているのか、場所をいくら変えても脈が感じられなかった。
 「だめだ……」意を決して岩瀬は両手を組み、老人の胸に押し当てた。だがテレビの二時間ドラマを想像しながら無理に力をくわえてみた瞬間、それでなくても薄っぺらだった胸板がみしっと嫌な音を立てて大きくへこんだ。それは背骨に指先が触れるほどで、たった一度刺激をくわえただけで岩瀬はびっくりして両腕とも引っこめてしまった。
 こうなったら救急車を呼ぶしかない……いや、待てよ。おれが呼ぶのか。いまここで? そうしたら救急隊員からいろいろと聞かれることになる。ふだんなら決して訪ねることがないおなじフロアの住人宅をきょうにかぎって、それも夫婦そろってどうして訪問したのでしょうか? 隊員の興味はそのまま篠原刑事に引き継がれることだろう。
 岩瀬はにっちもさっちもいかなくなった。まるで草むらから路上に飛びだしたところ、横から猛スピードでやって来た車に下半身をべしゃっとつぶされたヒキガエルの気分だった。動こうにも身動きが取れぬまま、つぎなる恐怖が襲ってくるのを怯えながら待つしかないようだった。助けをもとめて、岩瀬は怖々と妻のほうを見た。「救急車呼ぶしかないよな」
 圭子はすべてを見通しているかのような平然とした顔つきのまま、ゆっくりとかぶりを振った。「しかたないよ。このままにしておこう」
 岩瀬は耳を疑った。「このままって……だれが見たって、放っておける状態じゃないだろ」
 「睡眠導入剤のオーバードーズよ」圭子はさらりと言ってのけた。「袋に入ってるのとおなじものだから心配ないわ。自分で飲んだって思われる」
 妻のその言葉に岩瀬は頭のなかが真っ白になった。自分のほうがこの場で意識を失ってしまいたいくらいだった。
 自分で飲んだって思われる……?
 「どういうことだ」
 「コーヒーに睡眠導入剤を入れたの。たっぷりね」
 「いったいいつ……?」
 「さっきコーヒーこぼしたとき。桜田さんが台所に行って、あなたが絨毯を拭いてるあいだよ」
 「だって薬の袋は台所だろ」岩瀬はそっちを指さした。「いつ取りに行ったんだ」
 「取りになんて行ってないわ。持ってきたのよ」
 岩瀬はわけがわからなくなり、唇をかみしめたまま妻をにらみつけた。
 「そんな怖い顔しないでよ。言ったでしょ、前に桜田さんと薬局で遭遇したことがあるって。そのとき薬剤師が処方せんを読みあげたんで、どんな薬を飲んでるかわかっていたの。わたしとおなじ不眠症。けさ、神経科に行っておなじ薬を処方してもらってきたの。それをすりつぶして持ってきていたの」圭子は他人事のように語りながら、すりつぶした薬を包んできたと思われる紙きれを夫の前でひらひらさせた。
 「おまえ……そんなことして――」
 「いまさらでしょ!」北側を向いたリビングの窓に目を向けたまま圭子が大声をあげた。残響が廊下にまで届いたかのようで、圭子はすぐに声を落とした。「腹をくくってよ、あなた」
 「なに言ってんだよ、おまえ。腹をくくるって」岩瀬は両手を組んで拳をつくり、いまにも老人の胸にそれをたたきつけるかのようなポーズを取ったまま、氷像のように固まっていた。
 「こないだの月曜日、刑事さんが来る直前に赤い紙が玄関に入っていたのよ。それでこの階の人に見られたと思ったのよ。赤い紙がレッドカードなら、目撃者はあの黄色い紙の人物にちがいない。そう思ってずっと探してきたのよ。イエローカードを入れた人をね。見つけたらどうするかまでは、よく考えてなかったわ。もし堀内さんだったら、こんな危ない橋は怖くて渡れなかったかもしれない。そしたらきのうになって、警告してきた人が桜田さんだってわかった。あたしとおなじ不眠症で苦しんでるおじいさんよ。オーバードーズしたくなるときだってあるでしょう。とくに隣の子どもにけがさせて、そのことで警察が嗅ぎまわってるなんてときは」
 「おまえ、このじいさんに罪をなすりつけたあげく、自殺まで偽装しようっていう魂胆だったのか」
 「ほっといたら、この人、いずれ警察にあたしのこと話すわよ。まちがいなく。そうなったらどうなると思う? 罪をあたしが負うのよ。それであなたは平気でいられるの?」
 冷静に考えるまでもなく、カミソリ事件を引き起こしたのは圭子だ。それなのにまるで被害者のようなことを言う。岩瀬はそれが自分の配偶者であることが信じられなかった。自分の知っている妻はすくなくとも、いまはやりのコンプライアンス精神にはたけていたはずだ。それがまるで別人のようだった。
 「それにここへ来てわかったでしょう。最愛の奥さんは溝口さんのところの子どもに悩まされていた。桜田さんはそれをなんとかしたかったし、願わくば一家を引っ越させたかった。カミソリ事件を起こす十分な動機になるじゃない。それにその奥さんが亡くなった。もはや生きる希望もないし、事件への自責の念もあって、不眠症が悪化した。それでやむなく薬を大量服用して――」
 「ばかやろう」岩瀬は胸の奥にたまっていた黒い煙を吐きだした。「じいさんはおまえが自転車にカミソリの刃を取りつける瞬間は見ていなかったんだ。見えてなかったんだ。そんな供述に信憑性なんてないだろう。だからもっと冷静にならないと。薬を吐かせないと」
 圭子はふたたびかぶりを振った。「この人が目を覚ましたら、こんどは薬を盛られたことを警察に言うでしょ。そうしたらあたし、殺人未遂じゃない。カミソリでガキの指切るのとはわけがちがう。ふん、おしまいよ、人生。あたしもあなたも」
 圭子の主張には一理あった。ことは妻ひとりの問題ではない。マングローブホテルグループ経営企画室次長の地位にある岩瀬の将来にも大きく影響してくる話である。順法精神とエゴのはざまで、岩瀬はつぎなる言葉が見つからなかった。
 「長居は無用よ。帰りましょう」
 愛人に危ない橋を渡らせる性悪女のように圭子がうながしたそのときだった。高圧タンクのバルブが弾け飛んだような大きな音とともに、桜田が息を吹き返した。へこんでいた胸が波のように大きく膨れあがり、ふたたびしぼむ。それがゆっくりとくりかえされた。意識はもどっていないようだったが、呼吸は安定しはじめた。医者が簡単に処方するレベルの睡眠導入剤をいくら大量に服用したところで、結果はこの通りなのかもしれない。計画が失敗し呆然とする妻の前で、岩瀬も大きく息をついた。
 しかしほっとするのもつかの間、相反する思いが胸の底から這いのぼりだした。
 殺人未遂。
 やがて意識を取りもどしたじいさんは後日、篠原刑事にそのことを言うだろうか。圭子がさっき口にした話が現実味を帯びてきた。もしそうなればおれの将来はどうなる? そこまで考えたときには、すでに心は妻に負けないほど真っ黒く変わっていた。
 まさに寝息をたてるように静かにくりかえされていた桜田の呼吸がわずかに乱れ、つぎの瞬間には全身がけいれんするように大きく波打った。
 じいさんはゲロを吐いた。
 それも大量に。
 昼になにを食ったか知れないが、おぞましいほどの悪臭がハレー彗星並みの速度で部屋じゅうに広がった。思わず岩瀬も圭子も手で鼻を押さえたが、すでに二人とも体のあちこちに被弾していた。粥状をした黄土色の吐瀉物が仰向けのままの桜田の顔全体に飛び散り、さながら山芋丼で美顔パックを施したかのようだった。
 詰まった排水管で下水が逆流するようなくぐもった音が聞こえた。同時にじいさんの顔がみるみる青ざめていった。二人してそれを上からのぞきこんだ。
 「これって……」圭子がつぶやいた。
 「喉を詰まらせたかな。よく聞くよな、こういう話。酔っぱらいとかがやるんだよな」
 排水管の音は断続的につづいたが、だんだんと間隔が長くなってきていた。老人の顔はいまや棺桶で眠るドラキュラ伯爵のように真っ青だった。
 「眠っちゃうと怖いのよね」
 「当分目覚めない量なんだろ」
 「ええ、そう」
 「指紋を拭き取らないと」
 圭子は一瞬戸惑ったような目を向けてきた。それを岩瀬は力強く、意思をこめて見つめ返した。主人はこのおれだ。心配はいらない――と。
 あとは二人とも黙って作業した。時折じいさんのようすをたしかめたが、すくなくとも息を吹き返すような兆候は見られなかった。緊張と不安は払しょくのしようがなかった。しかし一方で、岩瀬は新たな一歩を踏みだしつつあることも自覚していた。それまで忌み嫌っていたご近所とこんなにも深く、直接的に触れ合うことができたのだ。その是非はともかくとして、岩瀬はこのマンションに越してきたとき以来感じていた絶え間ない抑圧から解放される。そのきっかけをつかんだような気がしていた。
 一時間以上を費やして徹底的に指紋を拭き取り、使用したコーヒーカップも洗って食器棚にもどした。その間、ゲロが放つ腐臭は放射性物質のように家じゅうに広がり、キムチどころの騒ぎでなくなりつつあった。だがそれについてコメントをもらう時はもう訪れないだろう。岩瀬も圭子もそれを確信し、指紋を拭き取ったティッシュなどを詰めたスーパーのビニール袋を手に足音をしのばせて玄関に向かった。
 そのときだった。
 内廊下でエレベーターが開く音が聞こえ、足音がつづいた。岩瀬ははだしのまま玄関に下り、のぞき穴に顔を寄せた。
 堀内だった。
 廊下のどまんなかで足をとめ、じっと見つめている。岩瀬の家のほうでない。じいさんのほう、岩瀬たちがいまいる家の玄関だ。すでに臭っているのだろうか。岩瀬は唾を飲みこんだ。夫のようすから圭子も外にいるのが堀内だと気づいたらしく、体をこわばらせている。いまここで出ていくことはできない。待つほかなかったが、堀内もしぶとかった。まるでこの部屋に岩瀬夫婦が来ていると見抜いているかのように十分以上、不敵な笑みを浮かべながらじっと立ちつづけていた。
 やがて堀内は携帯電話を取りだした。直後、岩瀬のスマホが震えだした。あわてて岩瀬は飛ぶようにリビングにもどった。メールではない。電話だ。堀内からだった。

 十九
 マナーモードにしてあったのでたすかった。そうでなかったら岩瀬が桜田宅にいることがばれてしまう。堀内はそれをたしかめようと電話をかけてきたのだ。呼び出し音はちょうど十回鳴ったところで切れた。留守電に切り替わったのだ。やつがなにを吹きこむか考えるとぞっとしたが、もしこの悪臭に引きつけられたとするなら、これ以上臭気を撒き散らすのは得策でない。岩瀬はエアコンを切り、レースのカーテンを閉めたままリビングの窓を開けた。だが窓が一面にしかないから、風が思うように入ってこない。
 「どうしたのよ」圭子が心配そうな目を向けてきた。
 妻が――最も信頼していた人間が――とんでもない秘密を抱えていたことが暴露され、それに端を発した殺人行為に事実上、手を貸したのだ。その証拠にじいさんは、ひと足早く昇天した連れ合いのもとへとすでに旅立っている。いまごろ高度三千メートルぐらいまで昇っていることだろう。だからもはやおれと圭子は人間の根底の部分――本性とか罪とかそういうレベル――で、完璧に一心同体となっていた。ならば堀内が会社にやって来て、執拗に自分につきまとっていることを打ち明けたところで、圭子が腰を抜かすなんてことはないだろう。
 「あいつからだよ。堀内……」
 「え……」
 予想に反して妻はびっくりした。それが岩瀬にはすこし不愉快だった。偽装出張なんて完全犯罪もどきの行為に手を染めておきながら、他人をとやかく言える筋合いかよ。だがいまここで大声を出すわけにいかない。それこそ堀内が嬉々としてインターホンを押してくるだろう。岩瀬は老人の嘔吐臭に頭をくらくらさせながら、かいつまんでここ数日の状況を話した。つまり堀内の訪問から執拗なストーカーメールにいたるまで。
 圭子は感情を抑えられなかった。それが暴発する寸前で、岩瀬は両手で妻の口をふさいだ。「怖がらせたくなかったんだ。これ以上眠れなくなってもよくないし」
 「だって……」岩瀬の指の間から圭子は反発した。「それってあの人がなにかつかんでるって証拠じゃない。桜田さんが言ったとおり、あの人の家の玄関ののぞき穴からは、溝口さんの家の玄関が見えるのよ。きっと見たんだわ、あたしのこと。それでレッドカード入れたのね。どうしてもっと早く教えてくれなかったのよ、あの人がストーカーしてるって。わかっていれば――」圭子の視線はリクライニングチェアで冷たくなりつつある老人に注がれていた。
 岩瀬は声を潜めつつも力をこめた。「いまさらしょうがないだろ。腹をくくれって言ったの、おまえだぞ。時は巻きもどせない。だけどかならずなんとかなる。気をしっかり持つんだ」
 「気がついてるのかなぁ……あたしたちがここにいるって」
 岩瀬は妻の口もとからようやく手を放した。「やつの帰宅時間にしては早いだろ。会社に電話入れて、おれが早退したって聞いたんじゃないか。それでいよいよ直談判でもしようと飛んで帰ってきたところ、じいさんの部屋で物音がして――」
 圭子は声を潜めた。「声聞かれたかな」
 「どうかな。でもやつは気味が悪いくらいカンがいいのかも。おれたちが警察の追及を逃れるには、だれかべつの住人を犯人にしたてあげるのが一番だ。もし堀内が以前、イエローカードをもらったことがあれば、じいさんのことを相当神経質な人間だと思うだろう。そこから推察すれば、じいさんはガキの声にも敏感だろうし、腹にすえかねていたと考えるよな。そういう相手こそ、おれたちがカミソリ事件の罪をなすりつける上で格好のえじきになる。もし堀内がそれに感づいていたら、おれたちの行動も予測できるだろう。いま、この部屋にいることもな」
 「どうしよう……」
 それには答えず、岩瀬はもういちど玄関に向かった。のぞき穴の向こうには、廊下に立ちつくす堀内の姿が見えた。てこでも動くつもりがないようすで、袋小路に獲物を追い詰めた野犬さながらだった。
 スマホがふたたび震えだした。
 岩瀬はリビングにもどり、レースのカーテンごしに外に目をやった。夏だからまだ十分に明るかった。
 「ベランダを使う手もあるけどな」
 「なにそれ……」
 「外から逃げるんだよ」ベランダづたいに自宅までもどるのだ。安っぽいマンションなら、いざというときに突き破れる石膏ボード製の仕切り板が隣どうしの住戸を隔てているが、曲がりなりにもここは高級タワーマンションだ。どの居室にもベランダがあるが、隣戸のベランダとは幅一メートルほどの壁面で完璧に隔絶されている。そこには手すりもなにもなく、フリークライミングに使えそうな足場もない。ただ、手すりの端から身を乗りだし、カニのように手足をめいっぱい伸ばせば、まったくもって新大陸に到達できないというわけでもなさそうな気がした。
 「もうすこし暗くなってからな」
 「九階よ」
 「そこだよな」岩瀬はため息をついた。「それに溝口さんのところのベランダを経由しないといけない。完全に引っ越したわけじゃないからな。万が一、帰っていたらまずいことになる」わずかに外の風が入りはじめ、ひどいにおいが拡散されだしていた。だが岩瀬は全身汗まみれだった。
 圭子も似たような状況だった。Tシャツの背中がぐっしょりと濡れている。「あの人が家に入ったとしても、のぞき穴があるでしょう。絶対見てるわよ」
 「ぐずぐずしてると風間さんまで帰ってきてしまう。この家から出るところなんて見られたくないな」
 「ベランダはあたし、ちょっと自信ないな……」
 「そうだ」岩瀬はカーテンをめくり、そっとベランダに出た。そこでしゃがみこみ、スマホを操作した。
 「なによ」
 「いいから……もしもし――」
 堀内の声はスマホの受話口と廊下の両方からステレオのように聞こえてきた。廊下の声が飛びこまぬよう送話口を手で覆いながら、岩瀬は声を潜めて告げた。「何度も連絡をもらっていましたね。レスが遅くて申しわけない。じつは頼みたいことがありましてね。仕事の話ですよ。きょう、これから時間ありますかね」
 それには堀内も盛りのついた犬のように飛びついてきた。だが岩瀬が三十分後の面会を指定すると、さすがに難色をしめした。岩瀬はもうすこしエサを撒かねばならなかった。
 「オータムキャンペーンのことで宣伝会社とトラブルになりましてね。おたくの条件を急ぎで確認したいんですよ」
 それでようやく堀内も承諾し、三十分後にマングローブホテル東京のロビーで岩瀬はやつと面会することになった。
 「エレベーター乗りこんだよ!」やつの動向を見極めに玄関に向かった圭子がもどってきて言った。
 「たしかめたか」岩瀬も玄関に急いだ。桜田家の玄関の真正面はエレベーターだ。のぞき穴からは、人の乗り降りがはっきりと見えるはずだ。岩瀬はのぞき穴に目を押しつけた。廊下は無人で、エレベーターの扉はきつく閉じられていた。「乗ったんだよな」
 「いまよ、いましかないわ」
 岩瀬はサンダルをつっかけ、ズボンのポケットからハンカチを取りだしてドアノブをつかんだ。「うちの鍵はあるな」
 圭子はゴミ袋を持っていないほうの手を岩瀬の目の前に突きだした。以前ハワイかどこかのホテルのショップで買ってきたキーホルダーを握りしめている。「ダッシュで突っ切るから」
 岩瀬は小さくうなずいてから、ノブを慎重に押し下げ、ドアを開けた。
 六十センチほど開いたところで、圭子が飛びだした。一瞬、足もとの死角に小男が潜んでいるのではと怖くなったが、内廊下の湿った空気が澱んでいるだけだった。岩瀬はノブに指紋が付着しないよう慎重に押さえたまま、自分も外に出た。
 ドアを完全に閉め、廊下のほうを振り返ったとき、廊下に異物が落ちているのに気づいた。堀内宅のアルコーブ部分と廊下の継ぎ目のところだった。赤いランプがついている。
 デジカメだった。
 レンズは桜田家の玄関を向いている。動画を録画中のようだった。岩瀬はためらうことなくそれを拾いあげ、家に舞いもどった。

 二十
 岩瀬は一階までは階段を使った。ホールにいたるドアをすこしだけ開いて外のようすをうかがい、堀内が張りこんでいないことをたしかめてから飛びだした。エントランスに出たときも気が気でなかったが、要はじいさんの家から出てきたところが目撃されていなければそれでいい。岩瀬は通りかかったタクシーに乗りこんだ。
 豊洲からの道はさほど混んでなく、二十分ほどで東銀座のマングローブホテルに到着した。午後六時を回ったところだった。ロビーを見渡したが、堀内の姿はない。車中で職場に確認したところ、やつが面会にやって来たようすはないようだった。ただ、夕方、電話があり、岩瀬が早退したことを伝えたという。やっぱりだ。それを知ってやつは帰宅してきたのだ。
 ほどなくして堀内がロビーにあらわれた。駅から走ってきたのだろう。額から大量の汗が噴きだし、シャツにも染みができている。「本日はご早退されたと聞いたのですが――」
 それには返事をせずに岩瀬は堀内をホテルから離れたところにあるカフェに連れだした。そこでやつのぶんまでコーヒーを買ってやり、席につくなり、口火を切った。「堀内さん、あなたの熱心さには恐れいりましたよ。でもあんまりメールがしつこいのも、ちょっとね。それにあなた自身はウケのつもりで書いてるのかもしれないが、向かいの部屋の奥さん見てしごくとか、そういうのはどうなんだろうね」
 堀内はふだんでも小さな肩をさらにすぼめ、何度も頭をさげた。「ちょっと行き過ぎてしまいました」
 「そうだね。行き過ぎだね。信頼関係がなによりですからね」
 「恐縮です」
 「それでね、あなたの会社のこと、もうすこし聞かせてもらおうかと思って」
 「オータムキャンペーンの件ですよね」堀内は飢えた獣のように目をぎらつかせた。
 「そうなんだ。委託している宣伝会社があるんだが、条件面でもうすこし精査してみようと思っているんですよ。つまり他社との比較ですね」
 「ありがとうございます」堀内は嬉々として所属するラザーの説明を開始し、岩瀬が適当にくりだす質問にばか丁寧なまでに答えた。
 岩瀬にしてみれば、ただの事後処理にすぎなかった。椎原のイン・ザ・ポットへの発注を本気で見直そうなんて考えてはいない。ただ、そういう気配を堀内に感じさせ、わざわざ呼びだした理由として合点させればいいのである。そう思ったら疲れがどっと噴きだしてきた。桜田のゲロまみれの死体が脳裏に焼きついて離れない。あれは本当に起きたことなのか。自分はいま橋を渡りきってしまったのだろうか。引き返すすべはどこかに残っていないものか。
 「岩瀬さん、だいじょうぶですか」
 ふいに訊ねられ、岩瀬ははっとした。
 「青い顔されてますよ」
 「いや、ちょっと考えごとをしていただけだ」
 「ご体調がすぐれないのかと思いました」小男はコーヒーを両手で持ってずるずると音をたててすすった。「ストレスが多いのでしょう。ストレスは健康の大敵ですよ。病気の進行を早めるのもストレスですから」
 「なんですか、急にそんな」
 「じつはわたしのマンションの話なんですけどね。隣のご婦人が先週の木曜、亡くなりまして。カミソリ事件で騒いだあと、今度は遺体の搬出とかなんとかで、またばたばたしてしまって。わたしも先ほど、お悔やみを述べにまいろうかと帰宅していたところです。そのとき岩瀬さんから電話が入ったのです」
 岩瀬は体から血の気がひくのをおぼえた。
 「くわしくはわかりませんが、病気のせいもあって奥さまがとても神経過敏になっていたごようすでして、それをすこしでもやわらげようと、ご主人が騒音問題とかで近所に何度かクレームを入れていたことがあるようなのです。カミソリ事件の被害者の家にも子どもがうるさいとクレームをつけていたようです。うちも入れられたことがあるのですが、黄色い紙で警告してくるのです。イエローカードですよ。そんなことをするなんて、ふつうじゃ考えられない。ですから奥さまだけでなく、ご本人も相当なストレスを抱えていらしたのだと推察しております」
 刑事から聞いたのだろうか。それとも元々じいさんと話をすることがあったのだろうか。イエローカードあたりがきっかけとなって。岩瀬は動揺を悟られぬようコーヒーをあおった。
 堀内はそこで身を乗りだしてきた。「じつはカミソリ事件も隣のご主人がやったんじゃないかって思うのです。だって奥さまがいよいよとなったときに、廊下でぎゃあぎゃあ騒がれたら殺してやりたくもなるでしょう。いえ、失礼しました。死んではいませんでした。傷害です。傷害事件です。でも十分その動機になりうると思うのです。言ってみれば、お仕置きかな」
 岩瀬は適当に相づちを打ちながら呼吸を整えた。堀内は探るような目を向けている。じいさんがカミソリ犯だなんて、これっぽっちも思っていないはずだ。弄んでいるのだ。岩瀬夫婦のことを。
 「なにごとも思い詰めないのがいちばんだと思いますよ。ストレスは体だけでなく、心にも影響をおよぼしますから。人を狂わせる最大の原因だ」つぶやくような声だったが、堀内は言い放った。
 これ以上いっしょにいると魂を吸い取られそうな気がしてきた。「たしかにね。さて、オータムキャンペーンのほうは善処しますよ。お宅の仕事ぶりについてはだいたい把握できました。社内でもうすこしもんでみて、また連絡させていただきます」
 結論を期待していたらしく堀内はあからさまにがっかりした顔をした。あんたの女房があの子の自転車に細工をしたのを見たんだぞ、といまにも口走りそうな危険な雰囲気さえ感じさせた。それが言葉になる前に岩瀬はその場から辞去した。

 二十一
 「問題はどうやったら隠し通せるかだ」
 八時前に帰宅した岩瀬は、缶ビールをあおりながら圭子に言った。今夜はアルコールがやけにきく。だが体は飲む前からずっとふわふわと浮かんでいるようで、まるで夢のなかの世界さながらに現実感が薄れつつあった。ことによると人生始まって以来の衝撃に脳のどこかが詰まったりしているのかもしれない。でもかまうものか。詰まった血管の奥深く、脳みそのしわをいくつも分け入った先に、新たな思考体が生まれつつあるのを岩瀬はびんびん感じていた。それがつぎつぎと危うくも斬新な言葉を生みだしている。
 「おまえがやったこと、カミソリの一件に関しては堀内を金で手なずけられるはずだ。べつにあの子が死んだわけじゃないんだ。ちょっと指を切っただけだし、やつの目撃証言さえなければ、遠からずうやむやになる。それにやつだってどこまで見てるかわかりゃしないんだ。はったりかまして金儲けをたくらんでるだけだろう。それだって強請ったりしてきてるわけじゃない。うちの会社の仕事をちょっとくれって言ってきてるだけだ。正当な営業の範囲だよ。そもそもやつだってあのクソガキにはうんざりしていたはずだ。いまの状況は願ったりかなったりだと思う。だったらみんな、おなじ穴のむじなじゃないか。ある意味、うちに感謝している面もあるだろう」
 「うまくいくといいんだけど」
 「まかせろ。やつはおれがなんとかする。問題はじいさんのほうだ。睡眠導入薬を飲ませたことで、体調不良になって嘔吐し、それを喉に詰まらせて窒息死した。因果関係はばっちり成立している。嘔吐したときに救護しなかった点を突かれるだろうな。大学で習った話だが、不作為による殺人の実行行為ってやつさ」
 「あなたとあたししか知らないわ」
 「そこだよ。最大のアドバンテージだ。じいさんの家を訪問したときも、出てきたときもだれにも見られちゃいない」そう言いつつ、岩瀬はサイドテーブルに手をのばし、デジカメを手に取った。堀内の家の前で拾いあげてきたものだ。中身はすでに確認してある。岩瀬夫婦が桜田方からあらわれるところが映っていた。「これを見つけといてよかった。これがなきゃ、やつだって強いことは言えまい。部屋の指紋は拭き取ってきたし、飲ませた薬はじいさんがいつも飲んでるやつだったんだろ」
 「そうよ。それはまちがいないわ」
 「最愛の妻の死亡、カミソリ事件への罪の意識。自殺はともかく、大量の薬をあおる動機としては十分だな。窓は開けてきたし、いまのところ廊下ににおいも漂いだしていない。話を聞くかぎり、息子や娘が訪ねてくることもなかろう。だからあと何日か、場合によってはもっと長い間、隠しておけるかもしれない。頃合いを見て、うちのほうから警察に『異臭がする』と通報したっていいかもな」
 「心配なことがひとつあるの」圭子は暗い顔をした。「玄関開けっぱなしでしょ。オーバードーズによる事故死だとしたら、玄関に鍵がかかっていないとまずいんじゃないかしら。というかいまの状況だと外部から侵入の形跡ありって、すぐに思われちゃうでしょ。だけどいまから鍵を取りにあの部屋にもどる気はしないし、もし鍵がなくなっていたら逆に妙に思われるだろうし」
 岩瀬はつまみのポテトチップスを一枚手に取り、ためつすがめつした。「堀内が訪ねてくる可能性がないとも言えないしな。ほんとに弔問を考えてるかもしれない。インターホン鳴らしまくっても、じいさんが反応しないとしたら、やつはじいさんが不在だと考えるだろうか。なんのためらいもなく、ドアノブをつかむんじゃないか」
 「鍵が開いてるのがバレるわね」妻の顔になんとも言えぬ黒い表情が浮かんだ。まさか彼女の脳みそにも新たな思考体が産み落とされたのだろうか。「なんとかしないと」
 やがて堀内が帰宅した。のぞき穴から見るかぎり、じいさんの部屋に近づくそぶりさえ見せなかった。岩瀬家の玄関に強いいちべつを送りつけただけで、そのまま巣穴に引っこんでくれた。
 それから二人は黙りこんだ。もしかしたらじいさんはいまごろ、真っ暗な部屋で自分のゲロの腐臭に顔をしかめ、息を吹き返しているかもしれない。ありもしないことに岩瀬は頭をめぐらせた。脳の奥の新思考体はそんな宿主を鼻でせせら笑っている。岩瀬は葛藤と矛盾の海に漂っていた。

 二十二
 なんの解決策も見いだせぬまま三日が過ぎた。梅雨の最後の雨がしぶとく降りしきる木曜の朝六時、岩瀬は異臭で目が覚めた。登山道の簡易トイレの扉を開けたときのような、酸とアルカリが混然一体となりながらも、決して中和することのない矛盾した汚臭。寝床で鼻をひくつかせてみた途端、強烈なパンチを食らったように頭がしゃっきりした。
 「なんかにおうよね」隣で寝ていた圭子も気づいていた。
 岩瀬はベッドから起きあがり、玄関に出た。においは強まっている。ためしに鍵を開け、ドアをすこし開いてみると、悪臭が強まった。それ以上たしかめる必要はなかった。昨夜まではなんともなかったのに。外は雨だった。梅雨の総仕上げのような強くしぶとい雨で、閉めきったリビングはサウナのような蒸し暑さだった。しかし窓が開いていたら、もっと湿気が入ってくる。それがきっとじいさんの腐敗速度をあげ、ついにきょう臨界点に達したのだろう。
 ぐずぐずしていられなかった。
 思わず外に飛びだしそうになったとき、圭子がとめた。「落ち着いて。見られるわよ」
 「あぁ、すまん」岩瀬はリビングにもどり、頭を抱えた。「なんとかしないと。堀内か風間さんか。このままなら、きっとだれかが気づくはずだ」
 「ベランダ使うしかないよ」腕組みしたまま圭子がぼそりと言った。
 それはこないだ桜田亭から自室にもどってくる方法を検証したさい、断念したはずの移動術だった。それにいまは朝の時間帯、これからどんどん外は人通りが増える。だれにも見られないなんて、イリュージョンでも使わないかぎり不可能に近かった。
 「溝口さんは帰ってないよ。そっちは心配することないと思うの。堀内さんに見つかるのだけは避けないと。廊下に出るのは絶対やめたほうがいいわよ。不幸中の幸いで、桜田さんのリビングの窓は開いている。だからベランダづたいに進めば、部屋のなかには入れるでしょう。それで玄関まで行って内側から鍵をかけて、おなじようにしてもどってくればいい」
 「そうすれば警察が来たときに鍵が掛かっているから、自殺か事故死の可能性が高まる。すくなくとも第三者が侵入したとは思われないってか。だけどおまえ、それをおれがやるのか?」
 圭子はばかなことを聞くなというような顔をした。「あたしには無理よ」子どもを一人傷つけ、老人を一人殺害しただけはある。怖いものなしって感じだった。「ほっといたら、鍵が開いてるのがばれちゃう。まずいでしょ、それ。カミソリ事件を起こした罪の意識と奥さんを亡くした直後の絶望感。桜田さんがそれに耐えられなくなって、薬を大量服用した。その筋書きが一番よ」
 岩瀬はリビングのカーテンをすこし開け、ベランダと外の状況をたしかめた。マンションの向かいは、大通りをはさんでオフィスビルが建っている。この時間、出勤している者はまだいないようだった。「だけどだれにも見られないってのはどうかな」
 「スパイダーマンみたいな格好なら目だつでしょうけど。できるだけ壁に近い、薄い色の服で出ればいいのよ」圭子は迫ってきた。「早ければ早いほうがいい。おねがいだから、あなた」
 「わかったよ」岩瀬は腹をくくった。じっさいベランダとベランダを隔てる壁面は幅一メートルほど、手すりにあがり、めいっぱい足をのばせば向こうの手すりまで難なく届きそうな感じがした。雨で濡れているが、慎重にやれば墜落する恐れはないだろう。念のためゴム底のスニーカーを履いて出たい気もしたが、ベランダに靴跡を残すのはありがたくない。裸足が安全だった。ただ、室内にあがったとき、絨毯に泥がつくのはまずい。その前にしっかり足裏を拭けるよう雑巾を持参する必要があった。
 圭子が白のゴルフズボンと半袖の肌着を持ってきた。岩瀬は、クローゼットの棚に突っこんであった非常持ち出し用のリュックサックから真新しい軍手を引っ張りだした。それらを身につけ、外から見られないよう腰をかがめてベランダに出た。雨は霧雨のように変わり、視界は落ちている。いつもならよく見えるスカイツリーも巨大な幽霊が立っている程度にしか見えない。それでも大通りは車が増えはじめている。とはいえあちこちに見える傘の花は岩瀬にとって好都合だった。
 雑巾がわりのタオルと非常連絡用の携帯電話を尻ポケットの左右に突っこみ、岩瀬はベランダの右端に腰を折ったまま近づいた。その向こうが溝口亭だ。足場のない約一メートルの壁面が隔てている。そこでまさにスパイダーマンさながらに壁にへばりつき、X字形に手足をのばして体を移動させる。頭のなかで何度もシミュレーションをくりかえしたのち、岩瀬は慎重に手すりにあがった。雨のせいか、思ったより足が滑る。その刹那、地面が目に入り、背筋が硬直すると同時に強いめまいをおぼえた。内廊下を使ったとして、堀内や風間嬢に見られるだろうか? 疑念が浮かび、高まった決意が鈍った。息を詰めて内廊下を走り抜け、桜田方の玄関に飛びこむ。それで鍵を探してもどってきて、錠をしっかり掛けて帰ってくればいいだけではないか。内廊下にいるのは往復合わせても十秒かそこら。ギャンブルであるのはまちがいなかったが、圭子はそれに賭ける度胸がないのだ。だがこういうのって、案ずるより産むがやすしってやつじゃないのか。
 鍵がなくなっていたら、それはそれでまずいだろ。
 心のなかでもうひとりの岩瀬、妻の意見にいちいち納得する従順な夫が話しかけてきた。
 鍵の消失は、篠原刑事に第三者による犯行を思い浮かべさせるんじゃないか?
 わかったよ。
 岩瀬は息を詰め、まずは手すりの上方八十センチほどのところにある換気口に右手をのばして指を突っこみ、体をベランダ側にひねりながらゆっくりと立ちあがった。
 なんてこった!
 この雨のなか、手すりに立ってる男がいるぞ!
 こっちにケツ向けやがって!
 気弱な自殺志願者が通報されるのは時間の問題だった。退路は断たれた。岩瀬は軍手に包まれた右手で体をささえ、二つの家を隔てる壁面に向かって前傾姿勢を取るようつとめながら、溝口方のベランダに向かってめいっぱい左足をのばした。だが恐怖心から右のひじが縮こまってしまい、体全体が先方のベランダ側に向かっていかない。顎の下から風が吹きあげてきた。いまここで下を見るわけにいかない。
 「気をつけて――」いつしか圭子もベランダに出てきていた。そこにしゃがみこみ、夫のことを見あげている。
 恐ろしい思いが岩瀬の脳裏をよぎった。圭子がもし自分にすべての罪をかぶせるとしたら、いまはまたとないチャンスだろう。自分が知らぬ間に夫はベランダ渡りに挑んだ。なんらかの罪を隠すために。もしくははなから自殺するつもりで――。
 いまここで圭子が、手すりにかかる夫の右足を払いのけでもしたら、まさにその疑念が的中したことになる。だいいちあいつは、おれに命綱のひとつも掛けてくれようとしなかったじゃないか……。
 そんなこと考えるもんじゃない。
 もうひとりの岩瀬が耳元でささやいた。
 夫婦のこれからの生活を守る必要があるんだ。そのために危険を冒しているんだろう。
 岩瀬はそれを信じ、右ひじのこわばりが解けるのをじりじりと待った。
 体はゆっくりとスパイダーマンに近づいていった。左の爪先が溝口家のベランダの手すりをとらえ、バランスを失していた体がふたたび安定した。同時に右ひじがのびだし、左手の指先が壁面の外れを――九〇度の曲がり角を――つかむことに成功した。これで体は水面を進むアメンボさながらの完璧なX字形になった。
 軍手の指先にかける力をしだいに右手から左手に移行させていき、ついに右手から力を抜いた。同時に左手と左足に全体重をかけ、壁面に対する前傾姿勢を維持したまま勢いをつけて体を引き寄せた。
 体は落下した。もうだめだ。圭子にだまされたんだ!
 そう思うよりも先に岩瀬は溝口方のベランダに転がっていた。派手な音があがった。カラスが突っこんできたというより、自信満々の強盗がやって来た。それくらいの騒々しさだったから、岩瀬は体の痛みもあって、しばらくその場で動けなくなった。もし溝口夫妻のどちらかが在宅していたら、絶対にカーテンを開けてたしかめるだろう。
 そうはならなかった。夫妻は不在のようすだった。桜田宅のベランダにたどり着くにはおなじことをもう一度行わねばならない。雨と汗で上半身も下半身もぐっしょりと濡れていた。心の奥までずぶ濡れで、岩瀬はその場にへたりこんでしまいたかった。
 だめだ。
 中途半端が一番いけない。仕事だってそうだろう。岩瀬は心を鬼にして体を起こした。溝口家のベランダを中腰で進み、反対側の端から顔だけ出して桜田家のほうをのぞき見た。壁面は一メートルほど。さっきとまったく同じ状況だった。岩瀬は手すりにあがり、換気口に右手の指先を突っこんだ。
 ゴールのベランダには、さっきよりもましな体勢で侵入できた。ただ、すぐに緊急事態であることが察知できた。自室に漂っていたよりもはるかにひどい、鼻が曲がりそうなほどの悪臭に嗅覚が刺激されたからだ。
 岩瀬は持参したタオルで足を拭き、開けっぱなしの窓から懐かしのゲロまみれのリビングに舞いもどった。じいさんはリクライニングチェアで仰向けになったままだった。すこしばかり腹部が膨らんでいるようにも見える。死を起因とした化学変化の過程で、恐ろしいガスが生みだされているのだろう。岩瀬はスキップするような足どりでそのわきをすり抜け、玄関に向かった。鍵を閉めること。それが今回のミッションだったが、軍手の指先が錠の把手に触れたそのとき、体が硬直した。外に人の気配がしたのだ。岩瀬はすかさずのぞき穴に顔を寄せた。
 堀内だった。
 やつがこともあろうに桜田宅のアルコーブ部分にまで立ち入り、なかのようすをうかがうかのように胡桃材のドアに顔を近づけている。とんでもない悪臭がまちがいなくこの部屋から放たれているのを見極めているようだった。岩瀬は激しい動悸をおぼえた。いまここで錠を回せば、ここまでやつが接近していなくても確実に内廊下全体に響きわたる。なかに人がいることがわかってしまう。岩瀬としてはそれだけはなんとしても避けねばならなかった。あとでじいさんの死体を警察が検視すれば、容易に死亡推定日時が判明する。そのうえで錠が回る音に関して堀内が証言したら、じいさんの死後、第三者が室内にいたことを推察させるからだ。
 インターホンが鳴り響いた。
 堀内は悪臭に関してじいさんに直談判するつもりらしい。やつのことだ。二度三度と鳴らして無反応なら、えいとばかりにノブに手を掛けるかもしれない。無施錠のドアの。
 岩瀬は玄関から離れ、携帯を取りだして圭子にメールを打った。うまくいくかどうかわからなかったが、方法はこれしか思い浮かばなかった。
 ふたたびインターホンが鳴った。岩瀬はドアを隔てて三十センチほどの距離で小男と対峙したまま、錠の把手を軍手の指先でつかみ、のぞき穴に顔を寄せた。
 堀内はインターホンのボタンにのせた指を下ろした。そして岩瀬の目の前でドアノブがゆっくりと動きだした。
 そのときどこかべつの部屋で錠が回る音が響いた。途端、ドアノブがもとの位置にもどった。驚いた堀内が手を放したのだ。岩瀬はのぞき穴を見つめた。真正面はエレベーターだが、その右側の玄関、つまり岩瀬宅から圭子が姿をあらわした。ゴミを詰めたスーパーのビニール袋持ちながら、ちらりと堀内のほうにいちべつを送りつけた。堀内はいたずらを見つかった子どものように桜田方の玄関から離れ、逃げるように自室のほうへ近づいていった。
 圭子が鍵を錠に突き立てたる音が聞こえた。この瞬間を逃すわけにいかなかった。岩瀬は錠の把手に掛けた指に極めて慎重に力を加えた。桜田方の玄関から自室前まで離れた堀内がこっちを振り向くことはなかった。岩瀬の指使いは圭子が鍵を回したタイミングと完璧に一致していたからだ。
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