五章

文字数 18,780文字

 五章
 十五
 すぐに篠原刑事に通報すべきか岩瀬も圭子も逡巡した。日曜のこの時間だし、いずれにしろ警察がやって来るのはあす以降になるだろう。それに今回のイエローカードに関して言えば、たしかにキムチの悪臭を故意に撒き散らしたうちのほうが悪い。その意味では、自力で面会し、謝るべきところは謝ったほうがいい。それにあすでもあさってでも、篠原刑事がやって来て、警告書についてじいさんから事情聴取したら、うちが告げ口したとばれてしまう。カミソリ事件の犯人があのじいさんでなかったら、後々、顔を合わせたときに気まずくなる。
 だからといって二人ともすぐには桜田方に向かうことができなかった。ぶつぶつと話しこんでいるうちに、つぎつぎと廊下で足音が響き、堀内も風間嬢も帰ってきてしまった。いまからのこのこ出掛けていったら、この界隈ではきわめてめずらしいご近所付き合いが行われていると、やつらの興味をひくこと請け合いだ。近所の注目を集めること。それこそがそもそも気配を消して暮らしてきた者たちの生活信条にいちじるしく反する行為だった。
 結局、翌月曜に行動を起こすことにした。
 いったんは出勤し、午後に早退してくる。決行は午後三時。その時間帯なら堀内も風間嬢も外出しているだろうし、じいさんならいつだって在宅しているはずだ。それが岩瀬夫婦の目算だった。
 それでも岩瀬は気が進まなかった。真犯人を突きとめることは、堀内の誤解――メールは相変わらずで、いまや完全に異常者の域に達していた――を解くためにも必要だ。この場は腹をくくって、自分がもっとも忌み嫌う“ご近所付き合い”に身をゆだねるべきなのだが、どうしても億劫だった。だが約束どおり三時前に帰宅すると、すでに圭子が待っていた。もう逃れるわけにいかない。
 意を決して二人は外に出た。いざ廊下に踏みだすと、どこからともなく見られている感じにつきまとわれた。堀内も風間嬢も出勤しているはずだ。それでもレーザービームのような視線が肌に突き刺さってくる。なにか理由があって、やつらも帰宅してきたのだろうか。それともじいさんか。なかば錯覚にすぎないと思いつつも、岩瀬はどこの家の玄関かたしかめようとつい首をめぐらせてしまった。
 「落ち着かないな」ぼそっとつぶやいたつもりだが、トンネル効果はきょうも抜群だった。まるで無灯火の自転車に突如呼びかけるパトカーのスピーカーさながらの唐突さで、廊下にこだまし、かえって岩瀬は肝を冷やすことになった。
 二人は桜田方のアルコーブに足を踏み入れた。表札も傘立てもない、岩瀬方同様の無機質な玄関だったが、岩瀬は太平洋をひとまたぎしたくらい自宅から離れてしまった印象を受けた。このまま帰れないんじゃないか。見知らぬ土地で迷子になった子どもじみた強い不安が胸にわきあがり、思わずうしろを振り向いて圭子がいることをたしかめた。
 それを察して圭子は声をひそめて「だいじょうぶ」とつぶやいた。廊下からくぼんだアルコーブ部分にいるため、さっきよりも声は響かなかった。だがそこから先は圭子も慎重だった。声には出さずにただインターホンを指さしたのだ。それを自分では押そうとしない。押すのは夫である岩瀬であると無言の圧力をかけてきた。
 岩瀬は逡巡した。じいさんが玄関から顔を出したとして、いや、インターホンで応対したとして、なにから話しはじめればいい? 圭子はなんと言っていた。キムチナイトのことからか。まずはそこから謝罪すればいい。でもそのあとどうする?
 「いいから」しびれを切らせて圭子がせっついた。「思いきって聞くしかないわ」
 「わかったよ」岩瀬はインターホンの呼びだしボタンに右手の指先を近づけた。新築で入居したさい、あいさつ回りを試みたことがある。このボタンを押すのはそのとき以来だった。あのときも極度に緊張し、できることなら相手が不在であればいいと祈っていた。そしてじっさいどの家も不在――すくなくとも呼び出し音には無反応――だった。しかし今回もそうなるかどうか。
 そのとき煙っぽいにおいが鼻先で感じられた。きのうの夕方も廊下に漂っていた。キムチの強烈なにおいのなか、岩瀬の鼻はたしかにそれをとらえていた。
 もしかしてこれは――。
 そこから先に頭をめぐらせる前に指先がボタンに触れていた。熟れた女の肌のようにそれは敏感に反応し、こっちのことなどおかまいなしのいたずらに無神経な電子音が大きく――岩瀬にとっては、それこそけたたましいほどに――廊下に鳴り響いた。
 目の前のインターホンが反応するより先に、どこかべつの家の玄関ののぞき穴から好奇の視線が注がれる。堀内か風間嬢か……。いや、ありえない。あいつらはまだ帰ってきていない。それなのにどうしてこんな不安に怯えねばならないのだ。圭子がうしろにいなかったら、岩瀬はまちがいなく遁走していた。
 ピンポンダッシュってやつだ。
 子どものころの記憶がまざまざと脳裏によみがえっていた。日本人なら一度や二度は経験があるだろう。小学校の帰り道、どこかの家のインターホンを押してダッシュで逃げるやつ。家人に見つかるまいとするスリル? 度胸試し? 罰ゲーム? いったいなにが楽しくてあんなことをしていたのだろう。いまとなっては理解のしようがない。唯一確実な答えは、子どもだったから。ただその一事に尽きる。
 いまはちがう。
 それに健康的な青空のもとではない。じめっとしてしんとした内廊下だ。逃げたところですぐにバレる。おなじ屋根の下の、まさに目と鼻の先のご近所なのだ。
 十秒が一分にも感じられた。これがホテルの廊下なら岩瀬はもっと堂々と、しかも何度でも執拗に客室の呼び出し音を鳴らしつづけることができた。それこそが二十年におよぶホテルマン人生で培ったプロフェッショナリズム。人目を完璧に無視できる使命感だった。
 「いないよ」弱音を吐いたが、圭子は許してくれなかった。蔑むような目で夫をにらみつけてくる。それに気おされて岩瀬はもういちどボタンに指をかけた。
 そのときだった。
 部屋の奥で足音がした。
 空耳かと思ったが、もういちどドアの向こうでなにかを踏みしめるようなどすんという音が聞こえた。岩瀬がはっと息を飲んだ直後、アームロックが外れる短い金属音がした。胃の噴門がぎゅっとよじれ、岩瀬のなかで逃げだしたい衝動が最高潮に高まった。もしここでじいさんと顔を合わせたら、そして口を聞いたら、きっとその後もあいさつしたり、世間話に付き合ったりとなにかと厄介だ。なんて鬱陶しいんだろう。それがずっとつづくと思うとひどく滅入った。だがいまならまだ間に合う――。
 錠が回る聞きなれた大きな音が廊下に響いた。
 岩瀬は自分が失禁しているのではないかと強烈な不安に駆られ、つい股間に目がいった。
 「はい」
 声が聞こえた。老人特有の喉にからみつくようなかすれ声だった。ドアが二センチほど開いている。玄関の内側は暗く、明かりが灯っていないようだった。意思にかかわりなく岩瀬は声がしたほうに顔をあげた。
 ドアの隙間の奥に年寄りが立っていた。ピンクのカーディガンを羽織っている。岩瀬の視線はその目をとらえた。不愉快そうなどろりと澱んだまなざし。それがあらためて岩瀬から言葉を奪った。
 「すみません」とっさに圭子が声をかけた。「九〇一号室の岩瀬です。このことで」じいさんが滑りこませたと思われる黄色い警告書を突きだした。
 空気が張り詰めた。岩瀬は奥深い森にただひとり取り残されたような不安に駆られた。が、数秒後、ドアが音もなく開いた。
 「どうぞ」じいさんはぼそりと言い、玄関に明かりをともした。
 岩瀬は圭子に押しこまれるようにしてなかに入った。煙っぽいにおいが一段と増した。もう岩瀬にも理解できていた。線香のにおいだった。
 「あがってよ」ぶっきらぼうに言うと、桜田は油の切れかかったロボットのようなぎこちないようすでかがみこみ、足を入れる部分が擦り切れたスリッパを二つ並べた。
 「おじゃまします」自分のものとは思えぬかすれ声を発したとき、岩瀬はそれまでの人生観が完璧に覆る衝撃をおぼえた。
 マンションの隣近所の家にあがるだと……?
 廊下ですれちがうだけでも苦痛だったのに、いまはその源である住人のテリトリーに足を踏み入れている。なぜだ。どうしてこんな目に遭わねばならないのだ。とてつもない抵抗感が体の内側から突きあげ、ひざががくがくと震えてきた。立っていられないほどだったが、それをささえるように圭子がうしろから背中に手を置き、ぐいと押しだした。
 壁に掛けられた絵や足もとに積みあげられた生活用品などはもちろんちがうが、収納棚のようすやカーペットの具合など、部屋の基本的な仕様は岩瀬の家とまったくおなじだった。記憶がさだかではないが、この部屋も岩瀬方とおなじ1LDKで専有面積も似たりよったりだったと思う。短い廊下を抜け、ガラスをはめこんだドアを右に曲がって――岩瀬方では左に曲がる――薄暗いリビングに入ったとき、岩瀬は激しい幻滅をおぼえた。圭子もまったくおなじ気持ちでいることは、背後から伝わる足音が一瞬とまったことではっきりとわかった。
 ソファや書棚が並ぶリビングの奥、ちょうどこの家では北側にあたる壁の窓のところに、あきらかに最近据えつけたらしい小さな棚があったのだ。白い布をかぶせたその上にはこれまた白い磁器製の壺が置かれていた。さすがの岩瀬も遁走衝動を抑えねばならなかった。それだけの人間性は多少なりとも体のなかに残っていた。
 真新しい位牌のわきに置いた線香立てから、風雲急を告げる狼煙のようにもくもくと煙があがっていた。

 十六
 だれか亡くなったらしい。
 リポーターの西海がそう言っていた。まさかそれがこの家だったとは想像もつかなかった。ずっとひとり暮らしだと思ってきたのに。葬儀業者が設置したらしい簡易仏壇には、骨壷と位牌のほか、カラフルな色合いのブラウスを身に付けた上品そうな女性の写真が額に入って立てかけられていた。
 「もしかして……」状況を察知し、圭子もその場に立ちつくしたまま喉から絞りだすような声で訊ねた。「お取り込み中でしたか」
 「きのう終わったよ」喉にからみついた痰を切り、じいさんはつづけた。「最後ぐらいにぎやかにしてやろうと思ったんだが、人もそれほど集まらなかった。たいしたこともしてやれないまま、業者の言いなりになってあっという間にすんじまった。息子は捨てぜりふ吐いて帰っちまったし、娘はとうとう来なかった。いまはひとりぼっちさ。いっそあの棺桶にいっしょに入っちまえばよかった」
 これがホテルの客から聞かされる与太話なら、いくらでも、それこそ何時間でも耳を傾けることができるだろう。すくなくとも十年前なら、そんなこといくらでもへっちゃらだった。それが仕事だったからだ。だがこれは仕事ではない。岩瀬の人生において、仕事以外で、圭子や数少ない友人たちのほかに私的事柄を聞かされる相手は存在しなかったし、存在してはならなかった。たとえそのような状況が生まれたとしても、即座に踵を返す。それが断固たる岩瀬のポリシーだった。
 ところが隣近所となると、それが容易でないし、逃れられない。未経験のストレスだ。それがいま津波のように岩瀬に襲いかかりはじめていた。
 「奥さま……ですか……?」じいさんの決定的な私情に圭子は切りこんでしまった。
 「あぁ、そうだよ」ぶり返した悲しみを押しもどすように桜田は言い放つと、ソファに座るよう二人に手を広げた。
 紺色の布を張った三人掛け用のソファだった。圭子にうながされて岩瀬もいっしょに腰かけた。柔らかすぎるクッションに深々と尻が沈み、まるで大きすぎる便座にはまったような格好になってしまった。もうもどれない。圭子は持参した黄色い紙切れを太ももの下にしまいこみ、じいさんから見えないようにしてしまった。おまえ、いったいなにしに来たんだよ? 岩瀬は涙が出そうになってきた。
 「もうどうしていいかわからんよ。というか、もうどうでもよくなっちまった。おれより五つも年下のくせに、自分だけ逝っちまうなんて」桜田は二人の前に立ったまま、簡易仏壇のほうをじっと見つめた。「去年、金婚式だったんだよ。だけどもう何年も寝たきりだったから」初対面でこっちは極度に緊張しているというのに、桜田はおかまいなしにぺらぺらとしゃべった。愛妻の死によるショックと葬式の過労で浮腫んだらしいまぶたの奥からは、突き刺すようなまなざしが注がれていた。それは悪意を伴っているようにも見えた。「引っ越してからずっとだよ。ただのいちども外に出したことがないんだ」
 桜田が入居したのは、岩瀬家よりも遅い。おそらく四、五年前ではなかったか。ずっと空室だったのだが、あるとき急に引っ越し業者がやって来て家具などを搬入したのだ。もちろんその後あいさつなどない。のぞき穴から注がれる視線がひとつ増えただけだった。
 桜田はリビングの外れにある台所に向かい、食器棚に手をかけた。
 「いいえ、おかまいなく」あわてて圭子が口にして立ちあがりかけた。「ちょっとお話をしたかっただけですので……」
 「せっかく来たんだから」桜田はぴしゃりと言うと、食器棚からコーヒーカップを取りだした。
 岩瀬は森で道に迷ったヘンゼルとグレーテルの気分だった。ただここはお菓子の家とはかなり趣が異なる。加齢臭と線香と死臭の漂う公営墓地の管理人室のようだった。岩瀬はわけもなく部屋のなかを見まわした。九〇三号室は、自分たちの家とちがい、北側に面している。そのぶん午前中でも日が入らず、レースのカーテンが引かれているせいもあって薄暗かった。夏場は涼しいかもしれないが、冬はかなり冷えるだろう。窓辺に置かれたテレビは最新型だったが、あとは壁に寄せつけた本棚もサイドボードも年季が入っていた。
 「ここ何日か静かでいいよな。それだけがせめてもの救いだったよ」インスタントコーヒーの粉をカップに落とし、雑な手つきでポットの湯を注ぐ。この老人はおなじ作業をもう何年も自分でしてきたのだろう。台所には病院で処方されたらしい薬袋があった。「五年前だったかな、急に頭が痛いって言いだして。病院連れていく間に意識がなくなって。脳がやられたんだよ。べつに高血圧でも動脈硬化でもなかったのに。しばらく入院したあと家には帰ってこられたんだが、もう体は動かなくなっていた。言葉は多少しゃべれたけどね。それでわかったんだが、ものはちゃんと考えられるみたいだった。おれが退職してちょうど十年がすぎたとき、七十歳のときだった」
 じいさんはソファの前の低いテーブル――チーク材のしっかりした天板が張ってあった――に客のカップと自分用のマグカップを並べ、スティックタイプのミルクと砂糖を乱暴に放り投げた。それから部屋の隅にあったリクライニングチェアを引っ張ってきて、テーブルを挟んで二人と向かい合う格好で腰かけた。
 「もとは月島の倉庫会社にいたんだ。最後は総務部長だった。住まいは八王子だったが、女房の体のこともあって、五年前に家を売ってこっちに出てきたんだ。年寄りにとっちゃ、豊かな自然よりも便利さのほうがありがたい。とくにこの年になると、レベルの高い病院が近くにあるかどうか。そのあたりがとても重要なんだよ。そうだ。ところであんた、ええと……」
 「岩瀬です」あらためて圭子が自己紹介した。「夫と二人で暮らしています」
 妻から目を向けられ、岩瀬は腹をくくった。「ふつうのサラリーマンです」
 「建ったころから住んでるのかい」
 「ええ、まあ」ようやく心臓が落ち着きはじめた。この場にはあと五分もいるつもりはない。もう後半戦なんだ。根拠もなくそう思うようにつとめ、岩瀬は自律神経をなだめようとした。
 「あいさつにも行かないでもうしわけなかった」
 うなだれるように桜田は頭をさげた。
 「いえ、そんな」圭子が口にした。「こちらこそごあいさつもしないで」
 桜田は大きなため息をついた。「女房が元気なら近所づきあいもきちんとできるんだろうが、おれはからっきしだ。それにもうおれたち夫婦にはいっしょに過ごせる時間がなかった。だからわずらわしいことにはとにかく目を向けずに、二人だけのことを考えて暮らしてきたんだ」
 「奥さまがいらしたとは知りませんでした」
 「かもしれないな。ずっと寝たきりだったから。医者にもほとんど行かなかった。むしろ来てもらってたよ。すくなくとも息子や娘よりもたくさん来てくれたよ」桜田は自分のマグカップに角砂糖とミルクを入れて混ぜながら思いだしていた。「子どもなんてあてにならんよ。そればかりかいつになっても親を困らせるだけだ」
 吐き捨てるようなもの言いが岩瀬には気にかかった。それは桜田のほうで説明した。
 「息子は三年前に会社をリストラされたあとずっと無職なんだよ。四十五歳だっていうのに。あるときおれの預金通帳から勝手に金を引きだしやがって、それ以来絶縁状態だった。さすがに母親が亡くなったことだけは伝えてやったよ。それできのう葬式に来たんだ。だが顔を見せるなり、遺産相続の話を持ちだしおって……焼き場で一喝してやったら背中丸めて帰って行きおったよ。なさけない話さ。だがやつはまだいい。ひとり者だからな」桜田は目の前にいる二人のことなど目に入らぬように、中空を見つめて話しつづけた。「娘は銀行員と結婚してな。子どもはいなかったが、仲のいい夫婦だったんだよ。ところがいつの間にか娘のほうがアル中になっちまってな。原因はわからん。たぶんだんなのほうは知ってると思うんだが、話してくれなくてな。それで娘はいま禁酒のための施設に入ってるんだ。もう二年になるかな。母親のことは一応、施設に連絡してみたんだが、本人から電話はなかった。みじめな自分の姿を見せたくなかったのか、それとももはやまともな思考が働かなくなってしまったのか……。もうしわけないのはだんなのほうさ。施設から知らせが行ったらしく、おととい電話があったんだが、じつの娘が来ないのにその夫だけ来てもらうわけにいかないだろう。心配しないでいいってこっちから断ったんだよ」
 「じゃあ、お子さん二人とは没交渉で……?」
 「ここ何年かはそうだな。以前は子どもが支えだったときもあるが、そのうち子どもなんていないほうがよかったって思うようになった。親に迷惑ばっかりかけるんだよ。どれだけ足を引っ張られたか教えてやりたいくらいだよ」そこまで話したところでじいさんは甘そうなミルクコーヒーを音をたててすすり、肩を落とした。「元はと言えば、親の育て方がまずかったんだがな。ところであんたら、子どもはいないんだよな」
 ずばり訊ねられ岩瀬は首筋に鳥肌が立つのをおぼえた。やはり見ていたんだ。あののぞき穴から。
 「夫婦二人です」
 「気楽でいいだろ」
 それにはこたえようがなかった。子どもがいたらいたで楽しいかもしれない。ただの一度もそう思わなかったかといえばうそになる。だがどちらかといえば、子どもは苦手だ。というか溝口一家のようなありさまを目の当たりにすると、どうしたって反感が強まる。騒ぎまわる子どもに対して。そしてそれを放置する親に対して。
 「安心するといい。子どもがいれば、老後の不安が軽くなるなんて迷信だよ。いまの日本に蔓延した都市伝説さ。古き良き時代はとうに過ぎ去った。いまはもう、みんなでちがう時代をぜえぜえいいながら生きながらえてるんだ。そう思わないかい」
 「まぁ……」なぜか岩瀬は返事をしていた。「かもしれないですけど……」
 じいさんは泥水のようなコーヒーをすすめてきた。しぶしぶ二人はカップを手にとり、口をつけた。まずい。顔に出たらしく、じいさんが砂糖とミルクを指さした。「ちょっと濃かったか」
 圭子が尻を動かし、黄色い紙切れを尻の下から取りだすのが横目に見えた。だがそれにまつわる疑念を切りだす前に桜田のほうが話をつづけた。
 「不安だらけだったよ。毎日毎日。一日でも長く、女房とどうやって平穏に暮らしていけるか。そればっかり考えていた。あんたらは仕事が忙しいせいにできるけど、日がな一日、家にいる年寄りだって、隣近所との付き合いなんて、鬱陶しいもんさ。だから七十歳でここに住みはじめたころは、だれとも顔を合わせずにすむし、まるで旅先のホテルにいるみたいで居心地がよかった。寝たきりだったが、女房も喜んでたんだよ。ところがそれから五年たったいまはどうだ」
 桜田は七十五歳か。岩瀬は頭のなかで計算した。しかし妻を失ったばかりで憔悴しているからかもっと老けて、というより悪い病気を患っているようにも見えた。
 「若い夫婦がどんどん入ってきて、みるみる子どもが増えてきた。高級マンションがいつのまにかやつらに乗っ取られた感じだよ」
 その点は岩瀬も深く同意した。クソガキ。すなわちエイリアン。
 「どうせ読んでないだろうけど、こないだの管理組合報に腹の立つことが出ていたよ。住民どうしの交流を深めるために、一階のロビーに子どもが描いた絵を並べようという案が出てるそうだ」
 そんな話があるのか。聞いてないぞ。岩瀬のなかで危険な感情が鎌首をもたげた。最近とみに感じるようになった暴力的な衝動だった。
 じいさんは腫れぼったいまぶたをすこしだけ開き、ぶちまけた。岩瀬にもじつに共感できる見解だった。「なんで住民どうし交流する必要があるんだ? 子どもが嫌いな家だってあるだろう。おれだって、廊下ですれちがえば会釈ぐらいするよ。大人どうし最低限のエチケットは守ってるつもりだ。だったらそれでいいじゃないか。それがどうして交流なんだ? どうして垣根を低くしなきゃいけないんだ? なんでションベンたれたガキどものお絵かきじゃないといけないんだ? おれたちはただ静かに暮らしたいだけなのに」
 桜田の口調に気おされたように、いつのまにか圭子はイエローカードをひざの上で握りしめていた。やはり警告書を玄関に差し入れたのは、この老人なのだろう。岩瀬は合点がいったが、その点について、ついに本人が打ち明けた。
 「脳のどこがやられてるのかよくわからなかったが、この二、三年のうちに、女房はだんだんと神経質になっていった。物音とかいろんな刺激に敏感になって、そのたびに苦しそうにうめくんだ。顔をひどく歪めてね」
 いろんな刺激。たとえばソウル産白菜キムチの爆発的臭気など――。
 岩瀬は首筋がかっと熱くなった。
 「だからおれのほうも神経過敏になっていったんだよ。上の階の足音とか、どこからともなく聞こえてくるピアノとか。それにとくにこのマンションは廊下がひどいだろ。ふつうに歩いても足音が響くし、声を出そうものならたいへんだ。それから空気の流れも悪いから、煮炊きのにおいとかいつまでも残ってるだろ。なあ、奥さん、あんたが持ってるそれだけど――」桜田は節くれだった指を精いっぱいのばし、圭子の手元を差した。
 「木曜日の夜、玄関に入っていたんです」意を決して圭子は言いきった。思わず岩瀬はごくりと唾を飲みこんだ。
 「直接言えばよかったかな。くせえぞって」
 火のついたマッチを耳の穴に突っこまれたみたいだった。圭子もおなじ衝撃をおぼえているのだろうか。妻の顔を見たい気もしたが、浮腫んだまぶたの奥からじいさんが蛇のようににらみつけている。岩瀬は首筋がコチコチに強張って、息をするのも苦しくなっていた。
 「まあ、無理だよ、そんなの。そんなことしたらあとが面倒だろう。だからその紙をそっと差し入れるのがせいぜいさ。白状するよ。前にもあったろ。おなじにおい出したとき」
 岩瀬も圭子も言葉では返事ができなかった。岩瀬に関して言えば、ただあいまいに首をたてにすこし動かしただけだった。
 「女房を苦しめたくなかったんだよ。だがあんたの家にそれを入れた一時間後に容態が急変してね。医者を呼ぶひまもなかった。あっけない最期だったよ」
 岩瀬は居心地が悪くなった。まるでこないだのキムチがばあさんの寿命を縮めたとでも言いたいのだろうか。だが桜田はそんなことは考えていないようだった。
 「気にせんでくれ。妙なまねをしたのはおれのほうだ。あやまるよ」
 「いいえ、うちのほうがいけないんです」圭子が言った。「もうすこしにおいが漏れない工夫をすべきでした」
 「この何日か、すこし神経が立っていたんだ。女房のようすがおかしいって気づいていたからね。だけど医者は先週の日曜にやって来て、診てくれたんだが、なんだかはっきりしなかった。こっちはいらいらだけが募ってね」
 なるほどそれで無神経に騒ぎまわるあのクソガキに制裁をくだそうとしたっていうわけか。岩瀬は慎重に訊ねた。「奥さんが病気だとわかっていれば、うちはもちろん、ほかの住人もいろいろ気をつけたはずでしょうけど」
 「いまさらしょうがないさ。ただ、ほかの家にも何度かイエローカードは入れてやったよ。おれにできるのはそれくらいだった。ズバッとものを言うなんて角が立つだけだからな……そうだ。あのときはまいったよなぁ、あんた」じいさんが岩瀬を見つめながら、はじめてにやついた顔をした。「九〇五号の女の人さ。おぼえてるだろ。あんたが夜中に帰って来た日のことさ」
 岩瀬はそれ以上桜田がしゃべるのではないかとハラハラした。圭子には言ってない話。こないだ昼飯を食いながら、後輩たちに聞かせた風間嬢の一件だ。岩瀬が廊下で彼女の嬌声に耳を傾けていたとき、じいさんもドア越しに聞いていたのだ。のぞき穴に目を押しつけながら。
 「騒音だったんですか」しびれをきらせて圭子が訊ねた。
 じいさんはちらりと岩瀬のほうに目をやってから、圭子を見た。「たぶんけんかしてたんだよ。友だちかだれかが来ていたんだろう。大きな声で騒ぐもんだから、廊下じゅうに響いてた」
 「いつの話かしら」圭子は夫の顔を見た。「そんな話、あなた、してなかったよね」
 「半年ぐらい前さ。言おうと思ってたんだが、おまえも寝てたし、そのあと忘れちまったんだ」忘れられるわけがない。岩瀬はうそをついた。
 「あのときもイエローカード、入れてやったよ。なんか妙な気分だったけどな。わかるだろ、なぁ、あんた。ちょっと生々しかったからな」
 たまらず岩瀬は話を変えた。「だけどわたしなんか、やっぱり子どもの声がいちばんつらい。苦手です」われながらはっきりとした口調で言いきることができた。
 「あぁ、まったくだ」すぐにじいさんが反応した。「うちとあんたたちの家に挟まれたところ、九〇二号室だろ。女房もあそこの子どもの声をとりわけ嫌がっていた。声の周波数が体のどこかの痛みにつながるみたいだった。まったく――」そこでじいさんは、頭にのぼった血を下げるように大きくため息をつき、はっきりと口にした。「懲らしめてやりたかったよ」
 岩瀬は声を低めてたたみかけた。まるで篠原刑事になったみたいだった。「するとおなじことをされたんですか」
 「入れてやったよ、それとおんなじ紙切れをな」
 「わたしもかねがね腹に据えかねていたんですが、そこまではできなかった。でも住民全体の利益になる行動ですよね」
 「一向に直らなかったがな」じいさんはコーヒーをすすり、またしてもため息をついた。ミルクが老人の唾液と混じり合ったいやなにおいが岩瀬の顔に吐きかけられた。「なんとかせんと……あのガキの声が響くたびに腹が立ったし、焦りみたいのが募ったよ」
 「なんとかされたんですか。警告書を越えるなにかを」
 「あんた」じいさんは腫れぼったいまぶたの奥から岩瀬のことをあやしむように見つめた。「あの事件のことを言ってるのか」
 圭子はもはや完璧に夫の陰に逃げこんでいる。すくなくとも心理的にはそのつもりだろう。気配で察知できた。篠原刑事ならここでなんとこたえるだろう。じっくりと頭をめぐらせたかったが、じいさんの目つきはそれを許してくれそうになかった。
 「すみません。でも警察がいつまでもうろついているというのは気持ちの悪いものでして」岩瀬ははっきり伝えることに決めた。「この黄色い紙切れは、カミソリ事件の大きな手掛かりになるんじゃないかって、妻と話していたのです。じつはうちが犯人じゃないかって、邪推している方もいらっしゃるようなので、すこしでも警察に協力して、一刻も早く事件を解決に導きたかったのです」おれはいつからこんな正義感になった? ホテルマンらしいうわべだけの礼儀正しさをたもちながら、ぺらぺらとしゃべりつづける自分が、岩瀬にはどこか遠いべつの人間に思えてきた。
 「おれが警告書を配りつづけていたことなら、とっくの昔に自分であの刑事に話したよ。そうでないとあんたみたいに疑う人間も出てくるだろうと思ったのさ。あの男の子と親御さんには悪いが、正直、痛い目に遭っていい気味だと思ったよ。だけどな、はっきり言っておくが、あれはおれじゃない」
 うそをついているのか、それとも本当なのか。岩瀬にはわかりようがなかった。だがじいさんは犯人につながる有力な情報を持っていた。まだ篠原刑事にも言ってない話だという。
 「女だよ」従業員にいともたやすくリストラ宣告ができる外国人社長のように、じつにさらりとじいさんは言った。「あの子がけがをする前の晩、見ちまったんだ。玄関ののぞき穴からね。階段からあらわれた女があの家に向かったんだよ」
 「階段……?」思わず岩瀬は訊ねた。エレベーターとちがって階段には防犯カメラがない。たとえ一階のエントランスに設置したカメラが不審人物をとらえていたとしても、エレベーターを使わない以上、九階にその人物がやって来た証拠は残らない。不審人物? ここは百五十戸が入居するタワーマンションだ。どこかのフロアの住人である可能性は捨てきれないし、来客ということもある。だったら犯人は階段を使うにきまってる。とくに九階程度なら……。
 「奇妙な話だが」じいさんはマグカップをふたたび手にした。「変装してたんだ」
 「変装……?」
 「そうさ。だから初対面ならわからなかっただろう。でもいくら変装したって、足音までは変えられない。歩くクセってものがある。音がやたらと響くあの廊下のせいで、いつも耳にしてるから反射的にわかるんだ。ただそれはいつもとちがった。階段の扉が閉じた音がしたあと、すぐには自分の家に入らないで、なんだか警戒しているみたいだった。それでおれも気になって玄関にしのび寄ったんだ。そしたら見えたんだよ。廊下のまんなかでじっと立ちどまってる女を。野球帽を目深にかぶってサングラスもしていた。なによりいつもとちがう髪形だった。たぶんかつらだろう」
 「九階の人間って……ことですか……」
 「そうだよ」手にしたマグカップを口につけ、ひどく甘ったるいはずのミルクコーヒーを舐め取るようにすすった。「奥さん、あんただよ」

 十七
 桜田が指差した瞬間、まるでその先から魔法でも噴きだしたかのように圭子の体がびくんと揺らぎ、ひざがテーブルにしたたかぶつかった。衝撃で圭子と岩瀬のコーヒーカップがシンクロナイズドスイミングのように同時に引っくり返り、真っ黒い液体がテーブルから絨毯にこぼれそうになった。とっさに岩瀬は素手でそれをせきとめようとしたが、隙間からこぼれだし、だらだらと下に垂れてしまった。
 「すいません!」岩瀬は口走り、空いた手でテーブルにあったティッシュをつかんで、コーヒーのこぼれた絨毯に押しあてた。急がないとしみになってしまう。
 圭子は凍りついたままだった。
 それに気づくなり、岩瀬のなかにも黒い染みが広がった。数滴垂れるぐらいではない。動脈が切れたみたいにたちまち体じゅうが真っ黒になった。
 奥さん、あんただよ。
 どういうことだ?
 だがよく考えられない。コーヒーはテーブルから絨毯にぼたぼたと垂れてくる。防波堤がわりの手がまったく役に立っていなかった。「すいません、布巾かなにかありますか」
 桜田は運よく手に持っていたため難を逃れたマグカップをテーブルに置いて立ちあがり、台所に向かった。岩瀬は片手をテーブルに押しつけたまま、絨毯をティッシュでたたきつづけた。
 「心配せんでいい」台所でキャビネットの扉を開けながら桜田が言った。染みのことかと思ったらちがった。「他言はしないし、もちろんあの刑事にも言わないさ」大量のキッチンペーパーを手にしてテーブルにもどってきた。「もうそんなことしないって。どうだっていいよ。女房がいないんじゃ、生きてる意味だってないんだし」
 岩瀬は桜田からキッチンペーパーを受け取り、必死になって絨毯をたたいた。それでも染みは残ってしまったが、これ以上はどうしようもないようだった。岩瀬はもう一度謝罪してから立ちあがり、残りのキッチンペーパーでテーブルをきれいに拭った。
 疑念に対峙するときがきた。
 目撃証言をした桜田が目の前にいるいまだからこそ、問いたださねばならない。「本当なのか?」
 「なにが」圭子はガタガタと肩を震わせている。もうそれだけで答えはわかったが、それでも否定してほしかった。
 「おまえがやったのか」
 圭子はきつく口を結んだまま、体をこわばらせ、天井を見つめた。自分が口にしたことながら、一気に高まった夫婦間の緊張に耐えられなくなったらしく、桜田は残りのミルクコーヒーを一気にあおり、飲みほした。
 「なんてことだ」岩瀬はぐっしょりと濡れたキッチンペーパーの束に目を落とし、悔しそうにつぶやいた。「札幌に出張なんてウソだったのか」
 「行ったわよ」親に叱られた子どものように口をとがらせて圭子が言い放った。「ウソなんかじゃないわ」
 「出張……」桜田が口をはさんだ。「だけどあれはあんただったよ。まちがいない。変装してたってわかるさ」
 「圭子、よく聞いてくれ」岩瀬は深呼吸をした。なにより自分を落ち着かせたかった。「階段を使ったとしても、エントランスの防犯カメラには映っているはずだ。あの刑事たちがこのことに気づいて、ビデオを改めて解析したら一発だぞ」
 圭子はしばらく押し黙っていたが、天井を見つめる片方の目から突如、大粒の涙がこぼれた。桜田もそれに気づいたようで、カップをテーブルにもどしてから、夫婦の問題から距離を置くかのようにリクライニングチェアに背中を預けた。
 「一度もどってきたの。札幌から」他人事のように圭子はつぶやいた。
 「なに考えてんだ!」たまらず岩瀬は声を荒げた。
 「うまくいくと思ったんだけどなぁ」おかまいなしに圭子はぼそぼそと独り言のようにつづけた。「やっぱりふだんから監視されてたんじゃない。いやだ、いやだ。こんなプライバシーのないマンション」
 あてつけられた桜田は不愉快そうに顔をしかめた。
 「そういう問題じゃないんだよ」岩瀬はできるだけ感情を抑えようとしたが、どうしても声には怒気をはらんでしまった。「なぜなんだ……どうしてそんなことを……」
 その言葉に妻が反応し、その顔がゆっくりと夫のほうを向いた。まるでからくり人形のような動きだった。「あなただって嫌いだったでしょ。あの子のこと。あの夫婦のこと。嫌ってなかったなんて言わせないよ」こんなふうに口げんかするのはいつ以来だろう。いかにも夫が悪いような口ぶりだった。それともこれまでずっと猫をかぶりつづけ、夫の前で良妻を演じてきたのだろうか。「出てけばいい。ずっとそう思ってたんでしょ」
 岩瀬はゆっくりとかぶりを振った。「それとこれとはわけがちがうだろ」怒鳴りつけたい衝動を必死になって抑えねばならなかった。
 「あなた、ぜんぜんわかってないわ」妻は腕組みして悲しげな目で夫を見つめた。「あたしね、眠れないの。ぜんぜん眠れないの。それがどれだけ苦しいか、あなたにわかる?」
 それは夫婦の間の闇に分け入る話だった。ここは他人(ひと)の家だ。こんなところでやり合う話題ではない。だがいま二人で家にもどったら、レフリーのいない格闘技のようなことになりはしまいか。カウンセラーではないが、だれか客観的な立場の――それに秘密を守ってくれそうな――人間が同席してくれたほうが、問題の核心とスムーズな解決に向かうのではないだろうか。
 それにこたえるように桜田が言った。「おれも不眠症だよ。それもかなりひどいやつ。女房のことがあって、いつも神経がぴりぴりしていた。もう何年になるかな。薬が手放せないんだ」
 「眠れない……」岩瀬が口走った。「それであんなことを……?」
 「あなたは会社で順調なんだろうけど」圭子は悔しそうに顔を歪めた。「あたしだって、おなじように働いてる社会人なの。片手間に仕事してるパートじゃないのよ。勤め始めて十七年。ちやほやされる時代はもうとっくに過ぎて、男の社員とぜんぶ同列に扱われてるわ。産休、育休取れるラッキーな子たちとはちがうの。女として振りかざす権利なんてないのよ。腫れものに触るようになんて、だれも接してくれない。『なんで、おまえ、これができないんだ?』日に日にそういう目が強くなっているのよ」声は落ち着いていた。が、視点はさだまっていなかった。長いこと腹に溜まっていたヘドロがいっぺんに吐きだされ、自分でも戸惑っているようすだった。
 圭子は私大の文学部を卒業後、大手旅行代理店の東京トラベルサービスに就職した。都内の支店をいくつか回り、いまは恵比寿の本店営業部に勤めていた。学生時代からリーダーシップにたけており、姉御肌な性格は勤めた当初から発揮された。なにかというと後輩から相談を受けたし、支店の営業成績が振るわないときは、率先して汗をかいて同僚たちを引っ張ってきた。それが評価されて三年前には、同期入社の男性社員に遅れることなく、チームリーダー、すなわち支店次長に次ぐポジションを得ていた。
 そこから先、管理職の道に進むかどうか、圭子自身、さして真剣に考えていなかった。だがいざそれを選択する時期が到来したとき、運命は残酷ないたずらをした。
 (うざいよね)
 (そうそう。何様のつもりなのよ)
 トイレの個室にいるときに化粧直しで入ってきた二人の後輩が口々に言い放つのが聞こえてしまった。それから三十分近く、圭子は個室を出られなかった。憤慨というより、こみあげる悲しみに涙がとまらなくなったからだ。自分では職場のムードメーカーとして粉骨砕身、努力をつづけ、同僚たちの信頼を勝ち取っているものと思いこんでいた。だがそれは自意識過剰だったのかもしれない。営業は戦争だ。成果をあげた者だけが評価される。自分はどうだろう。月並みの成績。自分の努力不足を職場全体のせいにしていなかっただろうか。
 心の片隅を虚無感のようなものがよぎった。一瞬、自分自身が消え入ってしまいそうになった。そうなってしまえばいいと思ったのも事実だ。だが待て。もうすこしだけ……。
 要は成果を出すことだった。それでもうひと花咲かせればいいのだ。圭子は営業に打ちこみ、顧客データに基づいて電話をかけ、手紙を書きつづけた。さらに団体旅行をあてこんで飛びこみの企業回りもくりかえした。だが思うような結果は出せなかった。若手のなかには自分よりも着実に成果を出す者もいた。それまでは気にもならなかった彼らの営業力が、いまはひしひしと圭子のうえにのしかかり、彼女を苦しめ、焦らせ、嫉妬心に駆らせた。
 ストレスは睡眠にあらわれた。トイレ事件以来、寝つけなくなり、眠っても一、二時間で目が覚め、あとは眠れなくなる状況に陥った。それは日に日に悪くなり、圭子を肉体的に蝕むようになった。夫には面と向かって相談しなかったので、岩瀬もそれほど大ごとには考えず、酒をすすめる程度だった。だが圭子は酒はほとんど飲まない。そこではじめて神経科を受診し、睡眠導入剤をもらってきた。これには夫が不快感をしめした。薬は逆に体を蝕むと主張して、圭子の姿勢を強く批判した。それがさらにストレスとなったことなど、不眠とは無縁の夫にはわかりようがなかった。台所の目だつ場所にいつもピルケースが置いてあるのは、妻なりの抵抗のあらわれだった。
 「薬飲むとね、四時間ぐらい眠れるよ。だけどやっぱりあなたの言うことにだって一理あるのはわかってる。夜中、目が覚めて、薬を飲もうか飲むまいか、何時間もベッドのなかでばたついてるの。そうこうしているうちにカーテンごしに夜が明けてくるのがわかるでしょ。そのときの失望感といったらないわ。鉛のように重くなった頭を抱えてあきらめてベッドが起きあがるのが、どんな気持ちかわかる? きょう一日、ちゃんと働けるかな、苦しくて倒れちゃうんじゃないかなって、いろんな不安がとめどなく胸をよぎるのよ。週末まであと何日、あと二日、あと一日って、最近はずっとそんなことばっかり考えていた。かといって週末になったって、眠れやしない。それでまた月曜の朝がやってくる」
 そんなとき、廊下で溝口陽一の声が響く。それは圭子にとって、無邪気というより悪魔の呪い、地獄の責め苦のようだった。
 「それでおまえ……」
 「決意したのは、二週間ぐらい前かな。ちょうど札幌出張があるのがわかっていたから、アリバイ作りもしやすかった」
 「ばかなことを」岩瀬は吐き捨てた。
 「ばかじゃないよ」圭子は感情を抑えながら言った。「あなたの言うとおり、不眠症は薬じゃ治せない。根本原因を取り除かないことにはどうしようもないの。だからといって仕事のほうは、すぐには成果は出せないし、ほったらかしにするわけにもいかない。でももっと奥深いところに原因があることに気づいたのよ。いまのこの生活よ」
 夫婦関係を指摘されたようで、岩瀬は恥ずかしくなった。ちらりと横目で見ると、じいさんはなかば目を閉じるようにして話に聞き入っていた。
 「あなたが悪いわけじゃないの。そうじゃなくて、隣の奥さんよ」
 「えっ……」岩瀬は見当がつかなかった。
 「だんなさんはお金持ちで、かわいい子どもがいて、暮らしになんの憂いもない、ヒマな専業主婦なのよ。いつだったかな、銀座の会社を回ってるときに、スタバにいるのを見かけたことがあるの。似たような母親仲間といっしょに、混んでる店にベビーカー突っこんで、ファミレスにいるみたいにぺちゃくちゃやってるのよ。子どもたちは騒いでるし、持ちこみの食べ物とかも広げてたわ。ああやって一日過ごしてるんだなって思ったら、ひどく腹が立ったし、廊下であの子が騒ぐのも氷山の一角なんだなってわかった。つまりね――」圭子は腕を組んだまま夫のほうに身を乗りだしてきた。「あたしみたいにボロボロになってる女がいる一方で、まわりに迷惑かけてるとも気づかずに優雅な時間を過ごしてる女もいる。それが壁ひとつ隔てただけの、こっちとそっちに暮らしている。これって矛盾よ。御しがたい矛盾よ。それはわたしのなかでひとつの巨大な真っ黒い感情へと成長していった。わかる? それがなにか」
 岩瀬は目の前にいるのが自分の妻だと思いたくなかった。悪夢のなかの登場人物であってほしかった。ただ、歪んだ感情ではあったが、話は筋が通っており、理解できる一面もあった。
 圭子は微笑むようにして口走った。「怒りよ。とてつもない怒り。それがわたしから眠りを奪っているの。だからそれを消し去ることができれば、不眠症も治る。それには隣の一家がいなくなるのがいちばんでしょ。カミソリで引っ越すかって? 事実、そうなってるじゃない。もうもどって来ないわよ」
 「それですこしは眠れるようになったのか」
 「劇的じゃないけど、改善の方向には向かってるよ。ただまあ、手抜かりもあったみたいでしょ。ここにこうしているんだから。それはそれで悩みの種になっている。いろいろたしかめないといけないことがあるし」
 「たしかめること?」
 圭子は夫の質問には答えずにじいさんのほうを向いた。「赤い紙も入れましたよね?」
 ふいに訊ねられ桜田はすぐには反応できなかった。「……赤い紙……なんのことだ」
 「レッドカードですよ。先週の月曜、ここで事件が起きて鑑識の人たちがいろいろ調べていったあと、刑事さんたちが事情聴取に回ってくる前のことです。うちにレッドカード入れましたよね。イエローカードじゃなくて」
 「なんのことだかさっぱりわからんが」じいさんは眠たそうにつぶやいた。岩瀬も眉をひそめた。レッドカードだって? 聞いてないぞ。
 「とぼけないでくださいよ、桜田さん。あなた、見たんでしょう? あたしのこと。それでカミソリの刃を自転車に取りつけてるのを目撃したものだから、あたしが犯人だと考えて警告してきた。レッドカードで」
 「カミソリの刃を取りつけるところまでは見てないんだよ」あくびをくりかえしながらじいさんは訴えた。「うちののぞき穴から見えるのは、真正面のエレベーターとその両隣にある二軒の玄関、つまりお宅とあの女の人の家の玄関までだ。溝口さんの家はうちの隣だから、玄関は死角になっとる」
 「死角?」
 「……そうだよ……」じいさんは眠たいらしく、返事をするのもつらいようだった。それにしたってさすがは老人だ。こんなに緊迫した話をしているというのに眠気を催すとは。圭子はさぞや羨ましがっているだろう。「溝口さんの玄関が見えるのは……あの女の人の家と……堀内さんのところ……だけだろう」
 圭子が唇をかみしめていた。なにか異変が起きたようだった。「じゃあ、桜田さん……あのレッドカードは……」
 じいさんはもはやそれに答えることができなかった。がっくりと首をうなだれ、リクライニングチェアで眠りこけていた。ただそのようすは昼下がりに居眠りする老人の姿とはちょっとちがった。
 息をしていないようだったのだ。
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