三章

文字数 16,416文字

 三章
 八
 警備員ならいつだってフロアに上がってくることができる。一日に何回か巡回があって、住人たちが寝静まった真夜中にも館内パトロールがあるはずだ。その時間帯は、風間嬢のような嬌声でも聞こえないかぎり、住人がのぞき穴にへばりつくことはまずない。アルコーブ部分をふくめ、内廊下は警備員たちにとっての格好のプレイゾーンなのかもしれない。
 水曜の朝、トーストに食らいつきながら岩瀬は、そのことを圭子に力説した。「やつが隣の玄関の前にかがみこんでカミソリの刃を貼りつける姿が目に浮かぶよ」
 「警察が動いてるってことは、なにか証拠が出てきたってことかな」
 「指紋かもしれないな。おもしろくなってきたぞ」
 「怖いわ。うちもなにかされてたんじゃないかしら」圭子は心配そうにコーヒーをすすった。
 「なにかって?」
 「気持ちの悪いこととか。寝てる間なんて、だれが来たってわからないんだから」
 「だから外になにか出しとくのは危険なんだよ。その意味じゃ、溝口さんにも落ち度はあったってことだ」
 カバンをつかんで玄関に向かうと、外で人の気配がした。刑事が回っているのだろうか。岩瀬は内廊下とおなじ人造大理石の玄関に、はだしのまま足音をしのばせて踏みだし、のぞき穴に顔を寄せた。
 はっと息をのんだ。溝口夫婦だった。きのうの朝のエントランスでの一件がある。それでうちに対する疑念を深めたのだろうか。岩瀬はクールビズでノーネクタイだったが、喉が締めつけられるような息苦しさをおぼえた。
 ふたりはじっと岩瀬家の玄関前に突っ立っている。岩瀬の九〇一号室は、エレベーターと溝口の九〇二号室の間にある。だから通りすがりに振り向いてみることもないわけではないが、彼らはそういうわけではなさそうだった。彼らが立っているのは、玄関ドアの前、一メートル以内のアルコーブ部分だった。管理規約上、アルコーブであっても玄関ドアの外はすべて共用部とされている。とはいえドアに近づけば近づくほど、供用部の色合いは薄れ、濡れた傘や観葉植物、ベビーカーなど――そしてときとして幼児用の自転車までも――が置かれ、アルコーブは専有部分のように使われている。彼らはいま、そこに入りこみ、岩瀬方に具体的な用事があるか、その場でなにかをたしかめようとしているかのどちらかだった。
 岩瀬の額に汗が噴いてきた。
 妻の前に立つ夫の指先は、いまにもインターホンにのびてきそうだった。突如、岩瀬の下腹部がぎゅるぎゅると大きく鳴りだし、あわてて手で押さえた。
 しかし夫がインターホンを鳴らすことはなかった。岩瀬はごくりと唾を飲みくだし、ジャケットの袖で額をぬぐってから、ふたりの表情を見つめた。ドアは分厚いとはいえ、十センチもない。それを挟んで、一メートルちょっとの距離でふたつの家が対峙しているのだ。いったいなにをしに来た? あの刑事たちではらちがあかないと踏ん切りをつけ、直談判にやって来たというのか。なにが起きても不干渉というこの国のマンションの不文律を破って。
 夫よりも妻の目つきがきびしかった。ドアの裏に隣家の主がヤモリさながらにへばりついているのをお見通しのようだった。
 世のなかには、こんな状況下でこちらから鍵を開け、堂々と顔を見せてやる奇特な人間もいるだろう。岩瀬は子どものころを思いだした。神奈川県の海に近い町で育った岩瀬は、小学校でも中学校でも生徒会長だった。
 他人に思いやりを――。
 それは教育熱心な両親からも、生徒指導を通して出世のポイントを稼ぎたい教師たちからも、連日のようにたたきこまれた人生哲学だった。そうした押しつけがましい倫理観に対する免疫力は、思春期を越えるまでは芽生えない。あのころの岩瀬少年は、思いやりのたいせつさを本気で信じこみ、周囲に悩みごとを抱えた生徒がいたなら、男女わけへだてなく――いや、女子の一部に対しては特別な思いがあったが――声をかけ、問題を即座に解決することまではできなくとも、せめて共感してみせることはできた。
 高校に入ってしばらくすると、そうした心がけがエネルギーのむだづかいであると気づいた。そればかりでない。かえって多くの人から忌み嫌われる偽善的行為であると痛感したのだ。大学時代には、すでに気持ちは落ち着き、迷うことなく相手をきれいに識別できるようになった。自分にとって利益をもたらす人間と不利益をもたらす人間、それに無関係な人間とを。
 社会とのかかわりには限界があるし、人間の思いやりの量にはかぎりがある。それに気づかなかった少年時代を思い起こすと、岩瀬は幻滅した。なんてばかだったのだろう。テレビ番組を見ているかのごとく、じっとソファに腰かけていればよかったのに。ブラウン管――いまじゃ、液晶か!――のなかにあえて飛びこむ必要なんてなかったのだ。
 のぞき穴の向こうもおなじだった。
 岩瀬の指がアームロックにかかることはなかった。厚さ十センチの胡桃材のこっち側が現実世界。向こうはテレビとおなじ非現実の異空間だった。
 いつのまにか圭子がうしろに立っていた。サンダルも履かずに外をのぞき見る夫に不安げな視線を送っている。岩瀬は顔をそちらに向け、人差し指を口の前に立てた。
 猜疑心まるだしの溝口夫妻は、それから三分以上その場に立っていた。たがいにぶつぶつとつぶやいていたが、廊下の反響のせいでよく聞き取れなかった。だから岩瀬もそれ以上、気にしなければ事なきをえたのだが、息を詰めて耳をすませたのが災いした。妻が放った言葉だった。
 ここよ、ぜったい――。
 こめかみあたりで血が逆流するのを岩瀬ははっきりと感じた。
 冤罪だ!
 心のなかで叫んだ。それが自分のなかであまりに大声に聞こえたので、やつらの耳に届いたのではとひるむほどだった。
 夫婦がエレベーターのほうに歩きだしたとき、とてつもない疲労感を背中におぼえ、みるみる脚から力が抜けていった。岩瀬は両手をひざにつき、うなだれた。
 「だいじょうぶ?」
 「あぁ……でも……むかつく」
 「どうしたの」
 「わかるだろ。いたんだよ。そこにやつらが突っ立ってた」
 「やつらって……溝口さんたち……?」
 岩瀬は悔しそうに小さくうなずき、体を起こした。エレベーターが開き、なかに進み入る二人の足音が響いた。「なんかうちのことを疑ってるみたいだ」
 「なにそれ」圭子も怒りをおぼえていた。
 「今晩あたり来るかもしれないな。刑事ならまだしも、当事者となると厄介だ」ふだんろくにあいさつもしないのに、いきなりヘビーなテーマを話し合わないといけないというのか。めんどくさいし、つかれる。
 「警備員があやしいこととか、刑事さんから聞いていないのかな」
 「捜査の過程を逐一教えたりはしないんだろう。なぁ、今夜、おまえ遅いのか」
 「遅いって……いやよ、あたしだってそんなの。あなたもいてよ」
 岩瀬は胸にたまった息を吐きだした。「わかんないよ。そんなに遅くならないと思うけど」
 「じゃあ、あたし、インターホン鳴っても出ないわよ、あなたが帰ってくるまで」
 「わかったよ。もしそうならメールしてくれ。いちど話せば向こうもわかってくれるだろうし。カミソリの刃やビニールテープから指紋が出てくれば、すべてはっきりするんだし、警備員のことをほのめかしてやれば、あいつらだって、うちがあやしいなんてもう思わないだろうよ」
 気を取り直して岩瀬は玄関を解錠した。
 「とにかくあたし、ひとりじゃ会いたくないわ」
 「だいじょうぶだって。心配するな。じゃあ――」ドアを開けた途端、岩瀬の全身から血の気が失せた。
 ゴキブリだった。
 おととい帰ってきたときに廊下でもがいていたやつだろうか。いまはもうもがいていない。硬い飴色の肢を六本とも縮こまらせ、二本の触角を突きたてたまま石のように固まっている。
 あいつらがうちの玄関の前に移動させたのか。息子に大けがを負わせた意趣返しのつもりで。激しい怒りが沸き起こりそうになった。が、そんなことを考えているひまはなかった。とりわけ圭子はゴキブリが嫌いだ。これを見せるわけにはいかない。とっさに判断した岩瀬はうしろ手にドアを閉めた。それから右足の爪先で狙いもさだめずに衝動的に黒い物体を蹴り飛ばした。もし生きていれば、羽を広げてかならずや逆襲してくるほどの強烈なひと蹴りだった。死骸は一直線に向かいの堀内宅の玄関まですっ飛んでいき、よりによってドアの下の隙間にのめりこんでとまった。
 そのドアの裏にやつが張りついている姿が脳裏をよぎったが、岩瀬はそのままにしてエレベーターに向かった。異物が足もとに落ちていることにやつも気づくだろう。それを自分で処理するかどうかわからないが、週に一度はフロア清掃がある。たしか金曜のはずだ。だからあさってには処分されるだろう。そう思いながら岩瀬はエレベーターがやって来るのを待った。一階から上がってくるところだった。
 背後で玄関の鍵が開く音が高らかに響いた。岩瀬は頬に針を刺されたような痛みをおぼえた。音がした方角からして、堀内宅のようだった。エレベーターはわざとのろのろ動いているかのようで、まだ四階にも達していなかった。
 足音が聞こえた。聞きおぼえのあるペタペタという湿った感じのするゴム底の靴音だった。それが一瞬静止したような気がした。足もとの異物に目をとめ、はっと息をのんだかのようだった。
 たまらず岩瀬はエレベーターの隣にある階段室のドアを開いた。ここから出勤するのははじめてではない。堀内ばかりか、風間嬢やほかの住人たちの玄関で音がしたときにも、階段室に逃げこんだことがある。各駅停車で上がってくるエレベーターに業を煮やしたとも、メタボ予防の運動のつもりとはなからきめていたとも、どうとでも取れるうしろ姿を取り繕って、蒸し暑い階段をせっせと下りはじめるのだ。しかし今回はいつも以上に急を要したし、姿を見られるわけにいかなかった。
 岩瀬は転がるようにして一気に七階まで下りていった。すでにそのときにはわきの下が汗まみれになり、横っ腹に滴が流れ落ちていた。
 つぎの踊り場で岩瀬は呼吸を整えた。なんで自分の家から出かけるのにこれほど緊張しないといけないんだ。そう思うと腹が立ってきた。すると額にも耳のうしろにもどっと汗が噴きだしてくる。
 エレベーターぐらいいっしょになったってかまわないじゃないか。自分のなかの別人がささやいた。話しかける必要はないし、会釈することもない。そっぽ向いて無視すればいいだけじゃないか。だが岩瀬はそれもしたくなかった。他人を無視する狭隘な自分を感じること自体がストレスなのだ。相手からはいやな住人と思われ、陰口をたたかれる。いちいちそんなことが気にかかった。かといってあいさつするなんて、小学生のガキじゃあるまいし、疲れるだけだ。だから結局、こうして階段を逃げるように下りるのがいちばん気がらくだった。
 自分を納得させて一歩踏みだしたとき、上階で階段室のドアが開く音がした。八階ではない。九階のようだった。到着の見通しが一向にたたぬエレベーターに堀内も愛想をつかし、階段を使うことにきめたのか。だが岩瀬とは決定的なちがいがあった。むかしのSF映画に登場する動きの鈍い宇宙人のような足音が突如、きびきびとした甲高い音に変化し、駆け下りてきたのだ。それが下り階段を使うときのあの男の習い性なのか。それともあのマンションにしてはきわめて珍しい害虫の死骸を蹴り飛ばした疑いのある男に、管理規約外のマナーを特別に教えてやろうというのか。いずれにしろ岩瀬はのろのろしているわけにいかなくなった。
 一階ホールに至るドアに飛びついたときは、中学の部活で校舎の階段ランニングをさせられているみたいに足がもつれていた。ホールには、低層階用から高層階用まで三基のエレベーターがあり、中層階用のリフトが下りてくるのを待っていた若い女がびっくりしていっしょにいた幼児を本能的に引き寄せた。
 近くに警備員が立っていた。一瞬どきりとしたが、ちらっと見ただけで例の太っちょ警備員でないとわかった。マンション警備よりも銭湯の番台にいたほうが似合っているじいさんだった。それを無視して岩瀬はジャケットの裾をはためかせながらエントランスの自動ドアに向かった。うしろは決して振り返らなかったが、いまにもやつが背中に飛びかかってきそうで気が気でなかった。
 「岩瀬さん」背の高いマホガニー製の自動ドアの外に出るなり、声をかけられた。刑事の篠原だった。縁なしめがねを夏の朝日に輝かせている。「おはようございます」
 足をとめるべき状況ではなかったが、自然と岩瀬は立ちどまっていた。ゴキブリなんかよりもっと重要な事柄に関して、本能が反応したとしか言いようがなかった。
 「ごくろうさまです」そう言いながらも岩瀬は、数秒後に堀内が必ずやあらわれるエントランスに背を向け、首をすくめた。だが刑事がいっしょならやつだって余計なもめごとは起こすまい。
 「お急ぎですね。いってらっしゃい」きょうは若い相方の姿が見えなかった。たばこでも買いに行ってるのだろうか。
 「ずいぶん早いんですね」岩瀬は平静をよそおった。「聞きこみですか」
 ついにエントランスの自動ドアが開いた。さっきまで階段に響いていたせわしない足音が、聞きなれた粘着質な感じにもどっていた。それが放物線を描くように岩瀬の背後にめいっぱい接近し、離れていった。その間ずっと岩瀬は、ポール・スチュアートのサマージャケットの肩をこわばらせ、視線は篠原の縁なしめがねを見つめていた。レンズのなかを髪の薄い小男が横ぎるのが見えた。いつものぞき穴で見ているよりも近かった。やつもクールビズだ。中学生みたいな半袖の白シャツ。上着は着ていない。わずかに顔がこっちを向いているような気がした。岩瀬は一瞬、刑事のめがねを介してやつと目が合ったのではないかと不安になった。
 「……確認が取れました」
 篠原がなにか言っていたが、聞き漏らしてしまった。あわてて聞き返した。「なんですか……確認って」
 「札幌で確認が取れたのです。奥さんが札幌に行かれていたことがわかりましてね。午後の会議に出席されていた」
 あたりまえの話だ。圭子は出張に行ったのだ。カミソリの刃を貼りつけるなんてできるわけがない。まったく無意味な捜査だ。そんなことよりもっと決定的な証拠のほうはどうなっているのだろう。あの警備員への事情聴取はどうなっている? たまらず岩瀬は訊ねた。「指紋のほうは……?」
 「まだ捜査中なものでして、なんとも……」
 「ひとつも出なかったわけじゃないんですね」
 「お答えしかねますね、そのあたりとなると」
 官僚の国会答弁のような物言いが岩瀬をいらだたせた。「だけど住人どうし疑心暗鬼になるのは不健全だ。決定的な物証が出てきたのなら、一刻も早く結論を教えてもらわないと」
 「あいまいなことは言っちゃならんのですよ。詰めの捜査には時間がかかるものです。お気持ちはわかりますが、ぜひとも我々を信頼して、もうしばらくお待ちください」篠原は眼鏡の奥から突き刺すようないちべつを送りつけてきた。
 それに押されるようにして岩瀬は、駅に向かってとぼとぼと歩きだした。

 九
 昨夜の凛子の口ぶりといい、篠原の物言いといい、どうも指紋が見つかり、それがあのオタクっぽい警備員のものであることはまちがいなさそうだ。ただ、警察としては断定するまでもうすこし時間がかかるというだけだ。それまでじっと待っていれば、遠からず事件は解決するし、溝口一家から不愉快な目で見られることもなくなる。それまでの辛抱だ。
 そんなことばかりを考え、岩瀬は午前中、仕事に集中できなかった。カミソリ事件が発覚してからまだ三日だ。急性疾患のように岩瀬を悩ませはじめたのは、それまでもっとも避けていたマンション居住者との人間関係だった。仕事のストレスにくわえて、家に帰ってまで余計な緊張感は強いられたくなかった。
 だがそれだって一か月もすれば、もとにもどるはずだ。なによりあの一家が引っ越しさえすれば、ほかの連中だってふたたび穏やかに暮らせるだろう。こんなこと考えては悪いが、そもそもあのクソガキとそれを放置したあの両親がいけないのだ。それを公共の利益の観点から、だれかが警告――手法としてはレッドカードの域だったが――してやったのだ。
 「アポなしですが、お客さんがみえてますよ」
 内線のPHSをつかんだ森野から声をかけられ、岩瀬はわれに返った。気がつくと一時間以上前に買ってきたスタバのコーヒーが手つかずのまま冷たくなっていた。
 電話は一階の受付から回ってきたらしい。「ラザーのなんとかさん。宣伝会社みたいッス」森野は岩瀬がどうせ断ると承知している。相手の名前すらよく聞いていないようだった。
 「ラザー……? 聞いたことないな。おれに用なのか?」
 「下に来ているそうです」
 「営業か。飛びこみは受けつけない。追っ払っとけ」
 森野は合点してうなずき、受付嬢に丁重な断りを託してピッチを置いた。
 うちは釣り堀じゃないんだ。岩瀬は腹がたった。ぶらっとやって来て糸を垂らしたからって、喰いつくと思ったら大間違いだ。なめるのもいいかげんにしろ。もっと頭を使って努力しやがれ。
 宣伝会社なんて不要だ。それが岩瀬の持論だった。宣伝したけりゃ、自力でやればいいし、そのほうが若手の教育になる。だいたい連中の口車に乗せられて、いったいどれだけのむだな出費をこれまで強いられてきたと思ってるんだ。経費節減こそが会社から岩瀬に課された至上命題だった。本音を言うなら、イン・ザ・ポットだって切りたいくらいなのだ。しかし社長の椎原とは腐れ縁のような付き合いだし、うちの連中もそこそこ懇意にしている。いきなり切るのも非情だ。あと一年くらいは使ってやってもいいだろう。
 ランチは、室長の黒井と森野といっしょにホテル裏手にあるカレー屋に入った。黒井ご推奨のスリランカカレーの店で、なによりサラダとラッシーがついて六百五十円というところが、ふたりの息子を私立高に通わせる室長の懐にはやさしかった。岩瀬にしてみればここのカレーは油が多すぎて、午後は胃もたれすることが多かったが、次期役員で社長レースにも乗っている黒井には、できるかぎりすり寄っておいたほうが得策だった。
 日替わりランチのバターチキンカレーにたいそう満足した黒井は、森野を引きつれてそのまま取引先に向かった。岩瀬はひとり残されたが、午後は黒井の代理で営業の会議に出なければならない。どうでもいい会議だったが、黒井の代理だからしかたなかった。
 会議中に居眠りをせぬよう、コンビニでガムを買ってホテルにもどってきたとき、ロビーで声をかけられた。
 「岩瀬さんでいらっしゃいますね」
 フロントの真正面に小柄な男が立っていた。噴きだした汗をぬぐおうと、しわくちゃなハンカチを広げて額にあてている。二期下の後輩でホテルマネージャーを務める芳村がカウンターから顔をあげたが、その表情から見てやつが取り次いだ相手ではなさそうだった。カウンターの左はホテルの利用客用のエレベーター、右に進むとそのまま従業員の通用口となる。相手がホテルの客なのか、取引先なのか判然としないが、どっちにしろ殺意をおぼえるほど邪魔な存在に思えた。その場に芳村がいなかったら、カウンターのボールペンを凶器に使っていたかもしれない。これまで感じたことのない確たる衝動に岩瀬自身、たじろぐほどだった。
 男は灰色のスーツに合わない真っ赤なネクタイを締めていた。額をごしごしとハンカチでふきながら岩瀬のほうに一歩近づいてきた。「午前中に面会を希望した者です」途端、たったいまロビーのトイレで入念に歯磨きをしてきたかのようなミント臭が、岩瀬の目の前に広がった。「ラザーです……ラザーという宣伝会社の――」汗を拭きおえ、男はハンカチをズボンのポケットにねじこんだ。額から頭頂部にかけてはじめて岩瀬の前に露出した。
 男の髪は薄かった。それどころでない。
 禿げあがっていた。
 「堀内です」
 色白の広い額には青い血管が浮かび、その下では、くりくりしたふたつの目玉が冷血動物のそれのようにひくひくと蠢いていた。しかし本当の意味で血の気を失っていたのは、岩瀬のほうだった。遁走したい衝動がわき起こったが、マネージャーの存在がそれを押しとどめた。
 つぶやくような聞き取りづらい声だったが、それでも相手はおおむね落ち着いた口調だった。「急に押しかけてもうしわけございません。ごあいさつだけでもと思いまして」小男は動揺を押し隠せぬ岩瀬の顔をせせら笑うように見あげていた。けさ、刑事の眼鏡のなかに見かけたときは、白シャツにノーネクタイだったはずだ。出社後、ロッカーに吊るしてあった営業用の上着とネクタイを着用したのだろう。
 疑念の余地はなかった。
 やつが引っ越してきたのは、三年ほど前だっただろうか。あいさつなんかなかったし、ほかの住人に対するのと同様、こっちで避けていたから、エレベーターでいっしょになるなんてこともなかった。だからこんなに近くで顔を見るのははじめてだった。ある程度は容貌のイメージがあったが、それはのぞき穴から得た情報をもとに岩瀬が作りあげたものだった。だがいま目の前にいる男は、まさにあいつだった。
 こんなことってあるか。おれはただゴキブリを蹴り飛ばしただけじゃないか。そいつがやつの玄関の隙間に滑りこんだのは不可抗力だ。狙ったわけじゃない。だいいち死骸だろう。あの隙間から室内に入りこんで悪さをするわけじゃない。それなのになんだよ。階段で追いかけまわしただけじゃ物足りなくて、職場にまで押しかけてきたっていうのか。
 なんで知ってるんだよ? おれの職場を……。
 そう思った瞬間、男の右手が上着の内ポケットにすばやく動き、なにか銀色に輝くものをつかみだした。反射的に岩瀬は一メートルもうしろに飛びのき、大ぶりの観葉植物の鉢に右足のかかとをしたたか打ちつけた。なりゆきを見守っていた芳村のほうがあっと声をあげた。
 相手が手にしていたのは、ステンレスの名刺入れだった。そこから一枚、名刺を取りだし、両手で持って恭しく岩瀬の前に差しだした。
 「ごあいさつだけでも……ラザーの……堀内です……」
 岩瀬の心臓は、理科の実験で電気を流されたカエルのそれのように異常収縮と拡張をくりかえし、年のせいでもろくなりはじめた冠動脈への負荷が限界にまで高まっていた。とてもでないが声が出せる状況でなく、なにより乱れた呼吸を整えねばならなかった。
 後輩マネージャーが見ている。これ以上取り乱すわけにいかなかった。やつはナイフを両手で握りしめるようにして名刺を突きだしたままだった。指を切らないように注意してそれを受け取り、ビジネスライクにあいさつをして、悠然と立ち去る。それがいまこの場での最善の策だった。だが岩瀬は名刺を受け取ることができなかった。それに指を触れたら魔女の毒針に刺されると信じているわけではなかったが、自尊心と自己防衛本能が相まって腕の筋肉に必要な動作をさせるのを妨げていた。
 「他社よりもリーズナブルな対応をモットーとしております……」飼い犬が主人の前でするように堀内はぺこりと頭をさげた。だがその目は依然として岩瀬を――向かいの部屋で火照った体を持てあます妻と暮らす男を――あざ笑っていた。
 「いま……ちょっと……」やっとのことで岩瀬は言葉を絞りだした。「忙しい……ですから……」
 あとはどうやって従業員通用口に進み、エレベーターに乗りこんだかよくおぼえていない。気づいたときは、経営戦略室のソファにへたりこみ、さっき食べたカレーが喉元までせりあがってきていた。全身汗まみれだった。室長の代理で出席するはずの営業の会議はとっくに始まっていた。

 十
 ラザーは存在した。
 公式ホームページがあった。大手広告代理店を四十歳で退職した女性が設立した宣伝会社で、従業員は二十人。取引規模は、椎原のイン・ザ・ポットとどっこいどっこいで、たしかにホテル関係の広報を請け負った実績があった。
 しかし役員欄を見ても堀内の名はなかった。名刺を受け取らなかったから名字しかわからない。「堀内 ラザー」で検索をかけてみたが、該当する人物は見つからなかった。おそらく平社員なのだろう。
 午後の間じゅう、受付から電話が入らないかびくびくしていた。フロントにいた芳村に電話してようすをたしかめようとも思ったが、かえってあやしまれるのでそれもできなかった。岩瀬の頭には堀内の蔑むような表情がこびりついたままで、どういうわけか中学時代のなさけない記憶がよみがえっていた。三年生のある夕方、下校中に二人組の不良にからまれ、財布から千円札を一枚渡してしまったことがあった。二人はおなじ中学の二年生だった。岩瀬はその後ずっと、やつらの更生のために自らの意思で“出資”したと思うようにつとめたが、客観的にはただのカツアゲだった。そのとき岩瀬が口にした言葉が「いまちょっと忙しいですから」だった。
 です、から、だ。
 おれはさっき恐喝されたのか?
 千円札はおろかびた一文渡していないが、そんなものよりもっとたいせつななにかを割譲したような気もする。幻滅と失意に似た動揺が、オフィスのぬるいエアコンに撹拌され、職場の同僚たちに伝わっていた。黒井と帰社した森野もひと目で上司のようすがいつもとちがうことに気づいたようだった。
 「つかれてますね」
 「そんなことないって」力なく岩瀬は口にした。まるでぎっくり腰をもたらす魔女の一撃ならぬ、魔王のいちべつにより、岩瀬は立ちあがれなくなったみたいだった。いつもなら山ほどの仕事に囲まれて部下たちに檄を飛ばしつつ、取引先からのひっきりなしの電話をてきぱきとさばいているというのに。すべてはあのカメレオンのせいだ。やつが他人なら容易にうっちゃることもできたのだが、向かいの部屋に暮らす住人であるという点が事態を異質なものに変えていた。
 ちがう。
 やつはいまでも、
 赤の他人だ。
 それを前提に岩瀬は事実を冷静にとらえなおそうとした。やつが来社したのは偶然だ。宣伝会社員として地道な飛びこみ営業をくりかえし、たまたまきょうはそれがうちの会社で、担当者がおれだったというだけだ。マンションですれちがわないようにつとめていたのだから、やつだってこっちの顔はわかるまい。内廊下で起きる出来事にさして興味も抱かず、玄関ののぞき穴にへばりつくなんていう悪趣味も持ち合わせていないだろう。それにうちは表札も出していないから、ネットで名前を検索して勤務先を突きとめるのも不可能だし、尾行してきたなんていうのも考えがたい。向かいの部屋に暮らす男のもとを訪問するとの認識はなかったし、必死に名刺を突きだしたさいも岩瀬がおなじフロアの住人だとは気づかなかった。もしそうなら表情にあらわれたはずだからだ。
 それが常識的判断というものだ。
 退社時間になるまでそのことを何百回も胸のなかで唱えた。うち何回かは、夢を見ているんじゃないかとの思いも差しはさまれた。
 やつがまだロビーにいるのではとの不安から、岩瀬はホテルの裏口を経由して東銀座の路地に出た。岩瀬がマネージャー時代から顔見知りの警備員が声をかけてくれたが、軽口ひとつたたく余裕がなかった。
 地下鉄もひとつ先の駅から乗ろうかと思ったが、さすがにばかばかしくなってきた。あちこち見まわしても電柱の陰にやつが潜んでいることもない。岩瀬は思いなおし、いつもどおりのルートで帰宅した。もちろん乗客の合間に目を光らせてはいたが。
 とはいえマンションが近づくにつれ、不安が顔をもたげた。それはまっとうな懸念だった。堀内はおなじマンションの、しかもおなじフロアの住人なのだ。いつ帰ってくるかはべつとして、ねぐらであることはまちがいない。ばったり遭遇したら、やつは嬉々として話しかけてくるだろう。
 「こんばんは」
 あと百メートルというところで、うしろから声をかけられた。岩瀬は飛びあがるほど驚いた。瞬時にそれが女の声であるとわかったが、もう遅かった。交感神経に電流が走り、全身の筋肉がぎゅっと収縮したあとだった。
 リポーターの西海凛子だった。
 「ごくろうさまです」岩瀬はつとめて冷静をよそおい、足をとめた。「取材は進んでますか、例の警備員の」
 「どんな方なんですかね」媚びるような目をして凛子は逆に訊ねてきた。甘酸っぱい香水の匂いが鼻をくすぐる。
 どきりとしたが、岩瀬だってろくに知りもしない。「何年か前からエントランスに立つようになったね。だけど話したこともないし、よくわからないな」
 「フロアの巡回もしていたみたいですが」
 「ちがう警備員とはすれちがったこととかあるけどね」七月上旬にしては涼しい気持ちのいい夜だった。岩瀬は月夜を見あげ、記憶をたどったが、あの太っちょとフロアで遭遇したおぼえはない。
 「溝口さんのご主人は夜中に九階のフロアで遭遇したことがあるそうです」
 「わたしはないなぁ」
 「溝口さんを見かけたことは?」
 「ないよ……だって――」あやうく引っ掛けられそうになった。岩瀬は自分が九階の住人であるとは凛子に言ってないし、そもそも名乗りもしていなかった。「溝口さんは九階なんだろう……」
 「おなじフロアの方の証言があるとありがたいんですが」岩瀬のほうにぐいと近づき、凛子は懇願してきた。あきらかに岩瀬が溝口とおなじフロアの住人であると踏んでいる。「指紋のこともありますし」
 「指紋? やっぱりやつの指紋が見つかったんですか。あの自転車から?」しまったと思ったときはもう遅かった。九階の住人でないなら、どの自転車かなんてわかるわけがない。
 「はい、あの自転車から。だけどたとえお話しいただいたとしても、情報源は守ります。それだけは誓います。ご近所との関係が悪くなったりしたら、わたしたちも心苦しいですから」それは自白を迫る刑事のやり方を思わせた。「九階にお住まいなんですか」
 岩瀬は暗がりで小さくうなずいた。
 ほっとしたように凛子は微笑んだ。「自転車のハンドルにカミソリの刃を固定していたビニールテープから指紋が検出されたんです。それが警備員のひとりと一致したんです」
 「あの警備員?」
 「そうです」
 「つまりやつがやったってこと?」
 「たぶん。いや、警察もまだ断定はしていませんが」
 「変質者だよ」
 「えっ?」
 「ああいう輩は変質者なんだよ。まっとうな仕事につけないのには、ちゃんと理由があるのさ。年齢制限に引っかかるとか、特別の資格を持ち合わせていないとか、学歴がないとか、そういうんじゃなくて、人格そのものに歪みが生じている連中なんだよ。だから就活したところで、どこも拾ってくれない。結局は突っ立ってるだけで、小づかいがもらえる警備員の仕事ぐらいしか就けないってわけさ」
 凛子は眉をひそめた。「みんながみんな、そうだとは思いませんけどね。警備員のなかにも、すこしはまともな人もいるでしょう」
 「あんただってわかってるじゃないか。いま『すこしは』って言ったろ。つまりあんたも大半の警備員は問題ありと思ってるわけだ」
 「そういうわけじゃ――」
 「おたくの会社にも警備員いるだろ。どういう輩か考えてみるといいよ」じとっとした目つきであんたのそのむっちりした尻ばかり眺めてるんだろ。それに気づかないようじゃ、あんたのほうがどうかしてるぜ。岩瀬は心のなかで言ってやった。
 凛子はあきれたような顔をして話題を変えた。「たとえ変質者だとしても、なんらかの動機があるはずです。被害者やその両親に対する恨みとか」
 「溝口さんのところは、いわば人生の勝ち組なんだよ。だから奥さんなんて、セレブ気取りさ。警備員のことなんて、いつだって蔑んでいる。それを肌で感じ取っていたんじゃないか」
 「溝口さんの奥さんは、排水管清掃のことで業者にかみついたんですよね。だったらほかにも――」
 「たしかに。ほかにもかみついてるかもしれない。エレベーターのなかで、クソ警備員が自分の子どもの頭をなでたとか、そんなような理由で」
 「ところで、溝口さんのお子さんの声が廊下に響いて困るとかいう話はありませんでしたか」
 あったさ。殺してやりたいぐらいだったよ。
 そう言いたい衝動を岩瀬は必死に抑えた。「子どもじゃなくても声は響くよ。そういう構造なんですよ」
 「いらついたりしますか」
 「人によるだろ。でもまあ……おたがいさまだよ。警察も似たようなことを聞いてきたな」
 「なかには気にされる方もいらっしゃいますよね」
 「なんか誘導尋問みたいだね。でもそういう方もいるかもしれないよ。一般論だけど」
 「その一般論を話してくれる人もいました。子どもの声が響くのに親が注意しない。そういうクレームがあるそうです」
 「クレーム? 管理人さんが言ったんですか」
 凛子がしまったという顔つきをした。「いえ、だれというわけではないですが」
 「あぁ、取材源の秘匿ってやつね」
 「すみません」
 「なるほど。そういうクレームをあの警備員が耳にして、危険を冒してあの子を注意したら、母親から逆ギレされた。それが事件につながった。つまり逆ギレに逆ギレってやつか。あしたのワイドショーはばっちりじゃないか」励ますように岩瀬は言った。
 「たんなる想像ですよ」
 「やっぱり警察で聞くしかないんじゃない?」
 「なかなか話してくれませんよ。九階の住人への事情聴取も難航しているみたいです」
 「うちは十分協力したつもりだけどな」
 「面会すら断るお宅もあるそうです」
 「逆にあやしいじゃないか、そういう家は」と言いつつも岩瀬には考えるところがあった。向かいの堀内も、九〇三号室のじいさんも、九〇五号室の風間嬢も、ことによると事件の一部始終を目撃していたかもしれない。しかしそれはともかくとして、いずれもあの篠原刑事たちの聴取に全面協力というわけではないようなのだ。
 凛子は残念そうにつぶやいた。「今回の事件にかぎったことでないですけど、とくに都会では聞き込みの成果があがりにくくなっていますからね」
 「無関心社会だからね」
 「だけどそういうなかで先入観や誤解に基づいて、静かに憎悪や嫌悪感が広がり、やがて今回みたいな事件が起きる。それって恐ろしいし、悲しいことだと思いませんか」
 「そりゃ悲しいね」あんた、百点満点だよ。岩瀬は言ってやりたい気持ちをこらえた。わかっちゃいるけどどうにもならない。それが世のなかだろう。それに九階の住人たちが刑事相手に乗り気じゃないのは、都会の無関心以上になにかべつの魂胆があるんじゃないのか? 岩瀬はそれがなんなのか考えるのが楽しくなりそうだった。
 だがそうはいかなかった。余計な思考をめぐらせるよりも先にさらなる暗がりを探す必要に岩瀬は迫られた。道の向こうから迫りつつある小男の姿が見えたからだ。
 堀内はけさ出勤したときとおなじ、ノーネクタイに白シャツのまま帰って来た。クソでもがまんしているのか、小股で体を小刻みに上下させながらひょこひょこと歩いてくる。あと五十メートルほどだった。こんなところで岩瀬の姿を目にしたら、感動して失禁してしまうんじゃないか。岩瀬は凛子の体を楯にして身を隠そうかとも思ったが、不自然だし現実的でなかった。そう判断するや、岩瀬は踵を返してマンションに急いだ。妙な態度に彼女が首をかしげたってかまうものか。リポーターの相手をするのはボランティアであって、市民の義務ではないのだし。
 ひたひたと迫るやつの足音が背中に聞こえてくるようだった。エントランスまであと数十メートルあったが、走りだすわけにいかない。そんなことをしたら逆に目だつ。だから岩瀬は薄暗い路上で、まるで競歩大会に参加しているみたいに尻を振りながら先を急いだ。
 鍵を握りしめてエントランスに飛びこんでからは、さらに加速し、いつしか小走りになっていた。かまうものか。無人のホールを駆け抜け、エレベーターにたどり着いた。
 低層階用は待機していなかった。四階からのろのろと下りてくるところだった。岩瀬は階段室のドアノブに飛びついた。だが待て。腕をのばしたまま岩瀬は全身の筋肉に停止命令をくだした。エレベーターはまもなく三階まで下りてくる。このまま自分が階段に飛びこみ、ダッシュで駆けあがったとして、どうだろうか? やつがエントランスをくぐったころには、鋼鉄の箱は忠犬さながらにホールに下りてきて新たな住人を待ちうけていることだろう。そのままやつは乗りこみ、きょう一日の出来事――新たな営業先で待ち伏せしたあげく、ようやく担当者と接触したものの、名刺ひとつ受け取ってもらえなかったことなど――に思いをはせ、ため息のひとつもつきながら九階に上がっていく。そのわきにある階段室を必死に駆けのぼる岩瀬のわきを、やつを乗せたエレベーターが途中で追い抜きはしまいか? その可能性は高い。へたをすれば九階の廊下でばったりなんてこともあるし、やつのほうが先に帰宅したとしても、直後に階段室のドアが派手に開いたら、玄関で片方の靴を足に引っかけながらあいつは大好きなのぞき穴に飛びつくんじゃないか?
 マングローブホテルの岩瀬さんだ!
 喜びと動揺のどっちがやつの胸に去来するだろうか。どっちにしたって堀内は、ろくに靴も履かぬまま飛びだしてくるにちがいない。あんな待ち伏せのできる粘着質の男がその好機を逃すものか。カメレオンを考えてみろ。ああいう生きものは、日がな一日、ジャングルの木の枝にじっとしているかと思えば、獲物が目の前を通過した一瞬、電撃的なスピードで襲いかかるじゃないか。岩瀬はやつの口から三メートルもある長い舌が目にもとまらぬ速さでのびてきて、ようやく自宅にたどり着いた自分の首にうしろから巻きついてくるんじゃないかとぞっとした。
 エレベーターは二階を通過したところだった。岩瀬は自分のほうこそ、トイレの個室の前でクソをがまんする小学生のガキのように足踏みをはじめていた。
 エントランスが開く音がした。
 同時に岩瀬は階段室に逃げこんだ。とにかく避難する必要があった。やつはエレベーターを使うだろうから、絶対にやつのほうが先に九階に到着する。岩瀬はわざとゆっくりと階段を上り、向かいの住人が玄関を開け、靴を脱いで、穴ぐらの奥のほうへと自然と吸いこまれていくだけの時間を稼いだ。
 九階の踊り場にたどり着いたとき、どこかの部屋の玄関ドアが閉まる音が廊下から響いてきた。それが堀内であると岩瀬はあたりをつけたが、すぐには廊下に顔を出せなかった。たっぷり一分間、心のなかでカウントしながら深呼吸をくりかえした。全身汗まみれだった。いますぐ冷水のシャワーを浴びたかった。
 廊下に足を踏みだすなり、警報音のように足音が響いた。注意してもどうしようもなかった。自宅の玄関まで四メートルほどだったが、岩瀬は衆人環視のステージに上がらされた気分だった。ほかの住人はともかく、やつがのぞき穴にへばりついているのはあきらかだった。心臓がばくばくいうなか、岩瀬は鍵を握る手で顔を隠しながら、息をつめて自宅までの道のりを小走りに進んだ。
 家に転がりこむなり、岩瀬はのぞき穴に目を押しつけた。真正面の家の玄関はしんとしている。だがこっちと向こうのドアを介して、おれたちはいま見つめ合っている。そしてやつは、向かいの部屋に住む中年夫婦の夫のほうがだれであるか知っている。
 そうだろうか?
 「どうしたの」いつのまにか玄関にあらわれた妻に声をかけられた。「なにかあった?」
 「いや……なんでもない……」圭子は堀内を薄気味悪いと思っている。だからこんな話はしないほうがいい。
 「汗びっしょりじゃない」
 返事もせずに岩瀬はシャワーに飛びこんだ。
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