一章

文字数 16,617文字

 一章
 一
 ぎらつく日差しが地面を焼きはじめたいつもの朝、タワーマンションに子どもの泣き声が響いた。
 直後、玄関のドアがガス爆発でも起きたかのように弾け、溝口香苗が裸足のまま飛びだしてきた。四歳になる息子の陽一が火のついたように泣きながら立ちつくしている。もううそはつかないと母親に誓いをたてるかのように右手の拳を突きだし、額にかかる柔らかな前髪の下で陽一は恐怖に顔をゆがめていた。それをもたらしたのは、拳の内側に広がる焼けつく痛みだった。小指と薬指の間が赤く染まり、足もとに早くも血だまりができていた。
 血の気を失ったのは香苗のほうだった。自分と息子の間に横たわる幼児用自転車のストライダーをひとまたぎし、突如訪れた不条理から奪い返すように息子を抱きしめた。
 陽一は、羽色の美しい小鳥でも捕まえたかのようにずっと右手を握りしめたままだったが、香苗は有無を言わせずそれを開いた。小指の付け根のあたり。傷は深いようだ。
 香苗の目は、ストライダーのハンドルに吸い寄せられた。黒いゴムグリップが焼き肉のたれでもこぼしたかのようにべっとりと汚れている。
 いつしか香苗も叫んでいた。冷たい床が荒れ狂う外洋の大海原となって、いまにも息子を飲みこもうとしている。香苗にはそう思えた。だから両腕で必死に抱きとめ、悪魔の床から抱えあげた。そのとき天井のダウンライトが放つ黄色みがかった明かりが、ぎらりとなにかに反射した。ストライダーのオプショングリップの端のほうに、四角い鋼のようなものが顔をのぞかせていた。
 カミソリの刃だった。
 それが息子の体内にめりこんだときの、ざくりという感触がいまになって香苗の首筋に伝わってきた。

 二
 七月一日月曜日、オータム・キャンペーンの打ち合わせは佳境を過ぎていた。岩瀬晋治はノートパソコンのマウスをいじり、ヤフーの新着ニュースに目を走らせた。台風の接近、警察官による盗撮、それに幼児がマンションでけが――。目を見張るものはなかった。もうすぐ正午になる。家に帰りたかった。書斎でネットラジオを聞きながらくつろぎたかった。
 岩瀬は話題を変えた。
 「こないだ新聞社の人に会ったんだが、やっぱりそうかって思える話があったよ」
 こんなことを言いだしたからといって、目の前にいる椎原武が社長を務める宣伝会社「イン・ザ・ポット」への発注を減らすわけではない。そもそも宣伝に関しては先週、やつのところと年間包括契約を更新したばかりだった。岩瀬にだってそんなことはわかりきっていた。だからこそ言ってやらねばならなかった。腹の虫がおさまらないからだ。
 「椎原くんみたいなところから、しきりに電話がかかってきたり、ファックスが送りつけられるそうなんだ。いちどでも名刺交換しようものなら、勝手にメールも送ってくる。だけどそこは新聞社だ。そういうやからの扱いには慣れている。いちいち相手にしていたら、まともな取材ができない。だから電話はいつも秒殺しだそうだ」
 「秒殺し……?」次長席のうしろに配置された応接ソファの片隅に腰かけ、椎原はまわりの連中にも聞こえるような声をだした。いつもやつはそうやって、経営戦略室にいる岩瀬の部下たちの気をひこうとする。だがたいていは無視される。そもそも宣伝会社との打ち合わせなんてだれの興味もひかない。コンビニで売ってる酔い止め薬さながら、営業的には気休めにもならないからだ。
 椎原は髪も顔つきも岩瀬よりずっと若く見える。というより童顔だったが、歌舞伎座裏の居酒屋で聞かされた話では、岩瀬とおなじ四十二歳だった。しかしだからといって付き合い方に変化が起きたわけではなかった。所詮、向こうは仕事にありつきたいだけだ。小学校のクラスメートにだって、それなりの上下関係――いじめとかそういうのは抜きにして――はあるはずだ。岩瀬は自然のなりゆきにまかせることにした。
 「なまくらな返事をして、切るってことだよ」秒殺しについて岩瀬は話してやった。
 「切るって、なんて乱暴な」同意をもとめるように椎原は応接ソファからきょろきょろとオフィスを見まわした。十人ほどの部下たちは、もくもくとパソコンに向かい、ペンを走らせ、そして鼻くそをほじっていた。
 「一分も話さないで電話を切るってことだよ。『じゃあ、ファックス送ってください』そう言ってね。ほどなくしてファックスが届き、悲しいかなストレートでゴミ箱行き。メールは迷惑メールに分類されるそうだ」
 「おなじ宣伝会社として、なんか力が抜けますね」椎原は脂ぎった黒縁めがねをはずし、ネクタイの下のほうでごしごしとこすった。「てゆうか、つらいな、そういうの」
 「それが現実さ」岩瀬は最近配備されたオフィスチェアーの背もたれに体をあずけ、同情するようにため息をついた。応接セットの端に置かれたテレビでは、昼のニュースがはじまっていた。「だけどきみのところはべつとして、個人経営の宣伝会社なんてみんな、まともな就職にあぶれた幼稚な若僧たちが流れついたところだろ。そもそも社会ってもんがわかってない連中じゃないか。ろくな営業努力もしないで、電話一本かけりゃ、はいはいって喜んで新聞やテレビが動いてくれると勘ちがいしてる。口のきき方も知らない見ず知らずの相手の言いなりになるマスコミなんて、どこにいるよ、なぁ? だからおれは、その新聞社の人の言ってることのほうが、しごくまともに聞こえたし、むしろそうやって厳しく接するほうが、かえって教育的効果、つまり甘っちょろい連中に世間の厳しさをわからせる効用があると思ったんだよ」
 「まあ、たしかにね」椎原はめがねをかけなおし、レンズの奥からおびえるまなざしで岩瀬のことを見た。「足を使わなきゃいかんですよね」
 「だろ。だからおれは」岩瀬は椎原のほうに身をのりだし、声をひそめて言った。「きみのところだけって決めてるんだよ」
 「ありがとうございます」椎原はいまにも立ちあがって、腰を直角に曲げて岩瀬に頭を下げんばかりのいきおいで口走った。マングローブホテルグループの宣伝をイン・ザ・ポットが受注するようになって三年。ほかの仕事が不安定ななか、岩瀬との関係は、会社だけでなく椎原にとっての生命線だった。
 不安そうな椎原の顔を見るのは正直、気の毒な気もした。岩瀬はサディストでないし、恩着せがましいものの言い方は部下たちの手前、慎むべきとも思った。しかしそれ以上に椎原との関係には、身内意識に近いものがあった。大相撲の世界で言うなら、かわいがりってやつだろう。それにいちいち不快感をしめす部下なんて、いるわけがない。いや、いるとしたら、そいつの感覚のほうがおかしいのだ。岩瀬は自信を持っていた。
 テレビは全国ニュースからローカルニュースに切り替わった。「4歳児 マンションで指を切る」ラインナップの一番下のニュースが目に入った。さっきヤフーの新着ニュースに出ていたやつだろうか。指を切るってなんだ。エレベーターに指でも挟んだのか。
 「天気のほうはだいじょうぶみたいですよ」椎原は話を変えた。むりやりでなく、ごく自然に。そのあたりの機微をやつは心得ている。
 テレビをぼんやりと見つめながら岩瀬ものってやった。「うん、そうみたいだね。スタート前には晴れ間も出るみたいじゃないか」
 金曜に大阪で行うオータム・キャンペーン関連のイベントに天候は関係ない。だが旅行代理店の連中を集めたゴルフコンペが翌日予定されていた。幹事は椎原が務め、経費もイン・ザ・ポット持ちだった。それがマングローブホテルグループの経理上、問題になったことはない。例年のことだった。
 だが本心はどうだろう。岩瀬は自分にふたをしていた。出張はしかたないが、できれば日帰りで帰ってきたかった。妻の圭子と休日をいっしょに過ごしたいというわけでもなかった。もちろん結婚十五年目となる妻に不満があるわけではない。あいつのことならなにもかも知っていると言えばうそになるだろうが、ふたりの間の距離を懸命に近づけようとする季節はもはや過ぎ去った。いまは暖かな風がふたりの周囲をおだやかに吹いているだけであり、その心地よさはなにものにも代えがたかった。だがそうは言っても、岩瀬は自分自身に対する探求心を失っておらず、ひとり書斎で過ごす未明のすばらしさ、たとえばジャズ専門のネットラジオをかけているときなどには、かけがえのない高揚感をおぼえた。
 それが四十二歳になった男の偽らざる心境であった。
 駐車場係からはじまった岩瀬晋治のホテルマン人生は、はじめの十五年間はホスピタリティーの精神にあふれた献身的な労働に満ちていた。だが上司の取り立てで本社の経営戦略室次長に抜てきされ、将来もほぼ確約された地位を手に入れたいま、就職以来ずっと押し隠してきた生来の癖――すくなくとも岩瀬はそう思うようにしていた――が始終、顔をのぞかせるようになっていた。
 ホテルマンには致命的だったが、岩瀬は根本的に人間ぎらいだったのだ。勤務中はしかたない。別人に徹し、自ら赤の他人に近づき、積極的に声をかける。それはホテルの利用客にしろ、営業の取引先にしろ、相手の顔がカネに見えるからにほかならない。すべては飯のタネだ。そう思えばなんだってがまんできた。
 ところが会社から離れた瞬間から気持ちが萎える。たとえ目の前のでだれかが財布を落としたとしても、拾って声をかけるなんてことはしないだろう。そんなことべつのだれかがやってくれる。だいいち他人に親切にしたところで、なんの見返りもないじゃないか。へたをすれば曲解され、食ってかかられる。そんなことでむだなエネルギーは消費したくなかった。
 これがもし古き良き昭和なら、話もちがっただろう。狭い長屋に人々が肩を寄せ合って暮らし、家族が家族としてまとまり、ご近所の顔もよく見えていた時代。学校では教師と生徒の間に厳然たる関係が存在し、職場では迷うことなく仕事にまい進でき、街にはからっとした活気があふれていた時代。なにより世のなかがもっとわかりやすかった時代。すくなくとも岩瀬が小学生のころは、そうだったような気がする。もちろん仰天するような事件は毎日起きていたし、そう簡単に他人を信用してはならぬ世相に差しかかってはいた。しかし社会の歯車と歯車はがっちりと噛み合わさり、全体としてまだ機能していた。それがいまじゃ歯車ひとつひとつが麻痺し、空回りをつづけている。それらを抱える社会の営みが、スイスのベテラン時計職人でさえあつかえないほど複雑になりすぎているからだ。
 そんな時代の人間関係なんて煩わしく、鬱陶しい以外のなにものでもない。歯車どうし無理に噛みあう必要なんてなかった。他人を寄せつけぬ見えないバリアは、年々幅を広げ、もはやだれひとり岩瀬の前に立ちはだかることはできなくなっていた。
 天気予報前の最後のニュースが始まった。幼児がマンションで指を切ったというさっきの話だ。ベテランの女子アナが落ち着いた声で原稿を読みはじめたが、岩瀬は天気予報のほうが気になった。まだ梅雨がつづいていていつまでもぐずついている。いらいらが募るのは梅雨前線のせいもあるかもしれない。きょうはとっとと仕事を切りあげて定時で帰ろう。岩瀬は誓った。
 効率優先で即物的な生き方には、岩瀬自身、時折むなしさもおぼえる。それでも業績をあげることで忘れることができた。圭子との間に子どもはいないが、静かな暮らしが岩瀬は好みだった。それに趣味の秘湯めぐりは十分楽しんでいる。旅行はいい。さまざまな人間と出会って、いろいろなことを吸収するが、その関係がいつまでもつづくことはない。そこが大きな魅力だった。タクシーでもバスでも飛行機でもなんでもいい。乗りこんでしまえば消え失せていく、その場かぎりの関係だった。
 そうなのだ。
 ほんの数秒間、話の継ぎ穂を失ってだまりこくった椎原といっしょにぼんやりとニュースに目をやりながら、岩瀬は思うようにした。見えざる乗り物に乗って人と人の間を高速ですり抜けていく。それこそが自分が確立したライフスタイルである。それをだれかにとやかく言われる筋合いはない。
 だがそう思うのは、じつはそれにかすかな違和感をおぼえるからだろうか。そんな気がしないでもない。それまでの人生では感じなかったなにかべつのパトスが、ことによると胸の奥深くに産み落とされたのかもしれない。それが鶏の砂袋のようにのどの奥でゴリゴリと揺れだしたのだろうか。だがいったいそれはなんなのだ。岩瀬には見当もつかなかった。うっすらと感じ取れるのは、それが解放をもとめて、体内から突きあげてくるような気配がすることぐらいだった。
 そのときだった。
 岩瀬ははっと息を飲んだ。ぼんやりとした思考が、傷口にレモン汁を垂らされたようにぴりりと引き締まった。
 見おぼえのある景色がテレビ画面にあらわれたのだ。
 岩瀬は首をひねり、いつのまにかオフィスチェアからテレビのほうに前かがみになっていた。何者かが自転車のハンドルに固定させたカミソリの刃によって、四歳の幼児――ベテランアナは、その父親と本人の氏名をさらりと読みあげた――が指を切った高層マンションの外観がロングショットで映っていた。喉から漏れそうになった声を岩瀬は唾液とともにぐきりと飲みこんだ。もし声になったなら、さぞかし素っ頓狂に聞こえただろう。
 天気予報がはじまったとき、岩瀬はたしかめねばならないと思った。事件の現場は、どう見ても江東区にある自分のマンションにほかならなかったのだ。そればかりでない。被害者の父親の名前。それが妙に引っかかったのだ。
 「ミゾグチ……」
 「はい?」そろそろ退散しようと擦り切れたカバンを胸に抱えていた椎原が首をかしげた。
 岩瀬はそれを無視した。「テツ……」
 「岩瀬さん、じゃあ、そろそろわたし――」
 「まじかよ」
 「え?」
 溝口哲――。
 それは二か月ほど前、隣に越してきた一家の主人とおなじ名前だった。

 三
 岩瀬は、札幌出張中の妻にニュースのことを知らせるメールを入れてから、梅雨の間のわずかの晴れ間を縫ってランチに出かけた。椎原といっしょでもよかったが、やつには小さな子どもがふたりいる。胸にわきあがるわくわくした思いを共有できる相手ではない。そこで岩瀬はいつものランチ仲間のなかからさらに厳選し、経営戦略室で主任を務める森野と、マングローブ大阪の採用で岩瀬のもとに出向してきている向井に声をかけた。どっちも入社年次が岩瀬よりひとつ下で、ともに結婚しているが、子どもはいない。
 「ハンドルにカミソリの刃を固定させるって、通り魔的なやつとはちがうよな」マングローブホテルグループの事業本部は、フラッグシップホテルである東銀座の「マングローブホテル東京」内のオフィスフロアにある。だからといってわざわざホテルのレストランでランチを取る従業員はいない。岩瀬は、森野が最近見つけたという近所の和食店に入っていた。
 「計画性が感じられますよね」森野はとろろつきの生姜焼き定食を注文した。「でもその子を狙ったのか、子どもならだれでもよかったのか。微妙ッスね」
 向井は鯖の塩焼き定食をたのんだ。こっちにもとろろがついている。「けがってどれくらいやったんか。指を切るいうて――」
 「切断とは言ってなかったぞ」岩瀬は自分がほくそ笑んで見えるのではと心配だった。すでにふだんはたのまぬトンカツ定食を注文してしまっている。とろろはついていないが、ほかの連中よりも三百円も高い。気分が高揚しているのは、やつらの目にもあきらかだろう。「どっちにしろヤバいだろう」
 「ほんとに隣の家の人なんすか」森野は興味津々だった。大学時代にアメフトで鍛えた屈強な肩を揺さぶって身を乗りだしてきた。それにくらべるとかなり貧弱に見え、じっさい学生時代は映画研究会にいたという向井も同様に目を輝かせていた。結局、人の不幸はだれにとっても蜜の味なのだ。
 岩瀬はもったいぶるようにしばらく天井をあおいでから、急に背をまるめ、あたりに目をやってから話しだした。そのさまは古参の悪徳商人が、にっちもさっちも行かなくなった旅行者に禁制品を運ばせて稼がせる段取りをつけている映画の一場面のようだった。岩瀬はふつうにしていればエリートサラリーマンのようだが、よからぬ話をしているときは十歳も二十歳も老けて見えた。「ネットでもたしかめたが、まちがいなくうちのマンションだ。被害者が何号室かまでは書いてなかったし、ニュースでも言ってなかったが、溝口哲ってのはうちの隣のやつなんだよ。同姓同名ってこともあるかもしれないが、百五十戸程度のマンションだぜ。鈴木一郎とか田中誠とかいうのとはちがうんだ。ありえないだろ、同姓同名なんて」
 「せやけど、よく知っとりますなぁ、隣のうちの人の名前なんて」向井が驚いたように訊ねた。
 「越してきたのは二か月ぐらい前かな。あいさつに来たんだよ。男の子もいっしょだった。たしかに四歳ぐらいだったよ。そんとき旦那から名刺をもらったんだ。それに書いてあった」
 「うちはあいさつなんか来られたことないッスよ」森野はあざみ野のマンションを新築で買って十年近くになる。「こっちからあいさつに行ったこともないッスけど」
 「そういうの、うちは嫁がやっとるんやわ」向井は、浦安で中古マンションを借りている。近所づきあいは大阪から連れてきた妻にまかせているという。
 「おれだってあいさつなんて行ったためしがないよ。七年前に入ったとき、女房と近所を回ったけど、ただの一軒も会えなかった。インターホンすら無反応だったよ。二、三回くりかえしたんだが、結局あきらめちまった。だからおれが知っているのは、たまたまおれたち夫婦がいるときに向こうからやって来た溝口さんちだけってことになる」
 「なにやってる人ッスか」森野がずばりと突いてきた。
 岩瀬は苦虫をかみつぶしたような顔をした。「ネット関係だ。『ルーコム』って聞いたことあるか」
 二人は顔を見合わせ、ともにかぶりを振った。
 注文した定食が配ぜんされたのを待ち、岩瀬は隣戸の主人が差しだした名刺をもとに調査した結果を説明してやった。ルーコムは新進のネット事業者で、上場もうわさされている。溝口はそこの執行役員だった。「間取りは九十平米の3LDK。ちなみにうちは七十平米の1LDKだ。豊洲で築七年だが、タワーマンションだからそれほど値は下がっていまい。あそこはいまでも六千万は超えているはずだ。おれよりずいぶん若いはずなのに。やっぱりネット系はもうかってるんだな。勝ち誇ったような顔してたよ。女房なんてまだ二十代みたいな姉ちゃんだよ。それなのにサングラスして外出して、いっぱしのセレブ気取りさ」
 「岩瀬さんのところは、なんぼやったん?」
 「新築であのころ五千万ちょっとだった」
 「何階ッスか」森野がズルズルととろろをかきこみながら訊ねた。
 「九階さ。タワーだからもっと上のほうの階にしたかったんだが、三十五年ローン組んでも手が出なかったんだよ。頭金が五百万ほど足りなかった。まあ、あんまり高層階だとエレベーターがとまったときとかに困るだろ。うちぐらいがちょうどいいのかもな」負け惜しみだ。口に出したあとで岩瀬は自己嫌悪をおぼえた。だがあのマンションに暮らすうちに、住人たちのいろんな姿が垣間見えてきて、つまるところ優越感よりもコンプレックスを感じることのほうが多い。それは岩瀬にとって偽らざる事実だった。自分が勤めるマングローブホテルだって、社員割引があってもまず宿泊することのない高級ホテルグループだ。宝石店やブランドショップの売り子が薄給なのといっしょである。自分と妻の生活レベルを客観視するのはいいとしても、それを他人と――とくにうちのマンションの連中と――比較するのは、百害あって一利なしだった。
 「住めば都ですねん」向井は箸の先で鯖の骨を丁寧に取りながら言った。「ウォーターフロントでめっちゃ眺めがいい。前にそう言うてましたやん。それだけで十分ですねん」
 「そうなんだよなぁ」千三百円もする割に貧弱なトンカツだった。噛みしめてもろくに肉汁がはじけない。岩瀬は不快になった。「静かに暮らせればそれでいちばんだからな」
 「そうッスよ」森野はご飯をおかわりした。「うちなんか壁が薄くて、隣のテレビの音とかまる聞こえなんですから。そんなんじゃないでしょう」
 「戸境壁は公称二百ミリあるよ。完全防音ってわけじゃないけど、テレビの音が聞こえてくるなんてことはないな。それに大通りに面してるんだが、居間も寝室も窓が二重になってるから、車の騒音に悩まされるなんてこともない。ただな――」岩瀬は残りふたきれとなったトンカツの片方を箸でつまみあげ、血の池地獄に罪人をぶちこむようにたっぷりとソースに浸した。「きみたちのところって廊下、どうなってる?」
 「廊下って?」森野がけげんそうに言った。
 「外廊下か内廊下か」
 「なんすか、それ」
 「エレベーター降りて部屋に行くときの廊下さ。ちょっと前までマンションっていえば、ふつうは外廊下。つまり片側が屋外で、反対側に各戸の玄関が並んでいるタイプだったろう。半屋外ってやつだな」
 「ぼくのところはそれッスよ」
 「だけどうちのホテルもそうだが、ホテルの場合、エレベーター降りたら、あとはずっと廊下は建物のなかにあるだろう。部屋が片側にしか並んでいない場合でも、反対側には必ず壁がある。それとおなじ内廊下タイプのマンションがいまじゃ市民権を得ている」
 「うちはそっちですわ。防犯上はごっつええとと思います。それにまさにホテルのようだし、高級感あるとちゃいますか。外から見えないぶんプライバシーも守られるし」
 「声響くだろ」ぼそりと岩瀬は言った。
 「うーん……どうやろ。たしかにそうかもしれんけど」向井はかきこんだご飯を口のなかでもごもごやりながら返事をした。
 「カーペットか?」
 「はい?」
 「廊下の床だよ」
 「あぁ、カーペットです。うちのホテルとおんなじようなの敷いとりますわ」
 「うらやましいな」
 「ちゃうんですか」
 「ちゃうんや。毎日毎日、トンネルに住んでるみたいだよ。床は人造大理石だ。廊下といっても、五軒の玄関とエレベーターのある壁に囲まれた正六角形をしている。ホールみたいなもんだよ。それも音響効果の抜群にいいホールな」
 「音が逃げないから反響するんですか」森野は両手で正六角形をつくって見せた。
 「そうだ。花瓶でもオブジェでもなんでもいい。障害物があれば音の反射が抑えられるんだろうがな。足音や声はもちろん、鍵の開け閉めの音まで、玄関とリビングを仕切る扉を閉めていても盛大に響きわたるんだよ。まるで人の出入りを知らせるアラームだ。部屋を買う前から気にはなっていたんだが、女房が気にいってたし、踏みとどまれないまま結論を出しちまった。失敗したよ。もうあとの祭りだがな」
 「廊下の広さは?」
 「うちの玄関から向かいの玄関まで、そうだな、十メートルもない。徒歩通勤の圏内さ」
 「正六角形の供用スペースのまわりを各部屋が取り囲んでいるわけですよね。それってそれ自体が家みたいな感じですね」
 森野に言われ、岩瀬は口をへの字に曲げた。たしかにそうだ。九階でエレベーターが開いたら、もうすでにそこが家の玄関で、あとはそれぞれの部屋に引っこむだけ。大学時代の安下宿みたいなものだった。「二十四時間換気システムというが、空気はいつもよどんでいて息苦しい感じがする」
 「近所付き合いとかどうなんですか」向井はつまようじをつかみ、両手で口もとを覆った。
 「あるわけないだろ。隣の溝口さんだって、一回あいさつしただけだ。あとは顔も合わせないよ。だいいちそういうのがわずらわしいから、大枚はたいてプライバシー重視のマンションにしたんだ」いろんな人間関係でさんざん疲れて帰宅するんだ。なんでまた新たな人間関係なんて作らなきゃいけないんだ。帰宅したさい、マンションのエントランスから家の玄関開けるまでだれにも会いたくないし、もしすれちがうようなシチュエーションのときは、わざと階段を使うとか、タイミングをずらすとかして、無用に疲れる遭遇を避けるように心がけている。そんなところまではあえて後輩たちに言わなかったが、岩瀬にとってそれこそが偽らざる真実だった。
 「みんなそうッスよ」森野が言った。「近所なんて目に入ってないッス。あいさつするときだって、顔なんて見てやしない。そっぽ向いてぺこりと頭下げるだけッス。だけどテレビの音とかうるさいと、どうしてもどんな野郎なんだって気になることもある。でも怒鳴りこむわけにいかないから、せいぜい廊下で足音が聞こえたときに玄関ののぞき穴から見るぐらいかな」
 「それそれ、やるよな」我が意を得たりとばかりに岩瀬は箸を森野の眼前に突きだした。相手の素性がわからないぶん、余計にへんな興味を持ってしまうのだ。「どんなクソガキかってな」
 「クソガキ?」
 「え……いや、まあ……」つい口を滑らせてしまった。だが話してみてもいいだろう。「とにかくすごく物音が反響する廊下なんだよ。いちいち気になっちまうんだ。だからそのうちのぞき穴からのぞくのがくせみたいになってな。エレベーターの隣がうちの玄関だから、宅配便とかメンテナンス業者とか、たいていのやつは目に飛びこんでくる。もちろん住人もな」
 岩瀬はのぞき穴による住人の観察記録を披露してやった。エレベーターを降りて左にいくとすぐに岩瀬の九〇一号室。そのまま時計回りに各室が六角形の一辺ごとに配置されている。岩瀬の家の左隣が溝口家の九〇二号室。九〇三号室はじいさんがひとりで暮らしている。一階の郵便受けには「桜田」と記されていた。この男は以前、近所の処方せん薬局で店員を怒鳴りつけていたらしい。風邪薬を買いに行った妻が目撃したのだ。なんの薬でもめているのかわからなかったが、つまるところ寄る年波が体調不良や癇癪を引き起こしているのだろう。妻はそんなことを言っていた。岩瀬は自分の将来を見ているようで同情もおぼえたが、やはり所詮は赤の他人だった。
 その左隣の九〇四号室、つまり岩瀬の部屋の真向かいには、堀内という男が住んでいる。これも郵便受けの情報だったが、岩瀬がのぞき穴からたしかめたところでは、堀内氏は頭髪の薄い――というかほとんと禿頭の――中年男で、身長はおそらく百五十センチほど。猫背のせいでよりいっそう小柄に見えた。
 「ガリガリだし、頭が禿げてなきゃ、まるで小学生だよ。スーツケースにしまえるぐらいなんだから」
 「ファミリーやろか?」
 「ひとり者だろ。サラリーマンだと思うが、家族を見かけたことはないな。あの部屋は間取りも狭かったと思う」岩瀬は購入時に不動産屋から見せられた資料を思いだしていた。「九〇四と九〇五はワンルームだったんじゃなかったかな。そうそう、九〇五はすごいんだぜ」にやにやした顔に森野がすぐに飛びついてきた。
 「なんすか!」
 「女がひとりで住んでるんだよ。何度か見かけたことがあるが、四十代のわりといい女だ。キャリアウーマン風だな。スーツとか着てるから。郵便受けは名無しの権兵衛だったが、名前はわかってる。前に火災報知機の点検がまわってきたときに、点検済みの部屋のチェック表にサインしてあるのが見えたんだ。風間さんっていうんだ」
 「それで、なにがすごいんすか!」
 岩瀬はあたりを気にするように目配せし、前かがみでつぶやくように話した。「半年ぐらい前だったかな。夜遅くに帰ったとき、たいへんだったんだよ。エレベーターに乗って九階まで上がって、扉が開いた途端――」あのとき耳にした声はいまでも岩瀬の脳裏にはっきりと残っている。フロアじゅうに響きわたる喘ぎ声だったのだ。
 「その場に立ちつくしちまったよ。あれは風間さんの部屋だ。まちがいない。あの女があんな声出すなんてな。まるで連れこんだ愛人とがまんできずに玄関先でヤッちまってるみたいだった」
 「みんな聞いてたんちゃうやろか」
 「そうなんだよ。だからおれもあんまり長居できなかった。のぞき穴からのぞかれてるのが肌でわかるんだ。だんだんとひりひりしてきて、うしろ髪ひかれる思いで部屋に引っこんだよ。といっても聞き逃すなんてもったいない。すぐにのぞき穴作戦に切り替えたよ。のぞき穴からは真正面の小男のところと、その両隣、つまりじいさんの家と風間さんの家の玄関が見えるんだ。声は十分以上つづいたよ。こっちが恥ずかしくなるくらいだった。女房が起きてこないかって心配だったよ。翌朝、鍵の音が響くたびにのぞき穴にすっ飛んでいったんだが、愛人がこそこそ出てくるところは拝めなかった」
 「風間さんはどうだったんすか?」肉の最後のひと切れに箸をかけたまま森野が訊ねた。
 「いつもとおんなじ時間になに食わぬ顔で出て行ったよ。あのスケベ女め」
 「いいマンションじゃないすか。お楽しみつきだ」
 「笑えない話だってあるさ。たぶんみんな、内廊下の音に敏感になっているはずだ。のぞき穴の愛好家はうちだけじゃないだろう。だから気をつけなきゃいけないのに」
 「クソガキやろか?」向井が鋭く聞いてきた。さすが映画オタクだ。洞察力がある。
 トンカツ定食を食べおえ、岩瀬はほうじ茶をあおった。「そうなんだよ。溝口さんのところ。きょうの主人公さ。子どもって声が甲高いだろ。その声で騒ぐんだよ。公園にいるみたいに走りまわりながら、ぎゃあぎゃあ、ぎゃあぎゃあ。越してきたときからずっとさ。親のほうは、それが近所迷惑になってることに気づいちゃいない。てゆうか、気にもとめてない感じだ」
 「風間さんとは大ちがいッスね」
 「まったくだ。不愉快極まりないよ。それにほかにもいろいろと悪さをしでかすんだ。メンテナンス業者の邪魔したりとかな」具体的にそれがなんであるかまでは、岩瀬は口にしなかった。「とにかくこっちは終の棲家として暮らしてるんだぜ。逃げるわけにいかないんだ」
 「注意すればいいじゃないすか」
 「できるか、おまえ」
 「そりゃ、できないッスよ、おれには」森野はあっさり言った。
 「見ろ。そうだろ。それができりゃこしたことないんだよ。だから言っちゃ悪いが、こんなことになっていい気味だってところもあるな。だれがどうやったか知らんが、あのクソガキは外でも自転車で傍若無人に振る舞ってたんだろう。自転車って言っても、ペダルのついてない、足で蹴って進むやつだ。玄関の前に置いてあるよ。廊下でも乗りまわしてたな」
 「知っとりますわ、それ。ブレーキついとらんやつやろ。うしろからぶつかられて、むかついたことありますわ。ネットで調べたら、結構問題になってるみたいでしたわ」
 「いまどきの若い親はほんとに無責任だよ。だからきっとだれかが天罰をくだしたんだ」
 「もう住めんやろ」向井は使いおえた箸を紙袋にしまいなおした。
 「どうかな」夜は居酒屋となる店の古民家風の天井を岩瀬はぼんやりと見あげた。スキップしたいような高揚感が、これ以上後輩たちに伝わらぬよう気を引き締める必要があった。それに自分でもまだよくわからない感情が胸の奥で疼きだしているような気がしてならない。
 しいて言うなら、それはやや暴力的な情動だった。

 四
 岩瀬はいつもより早く退社した。残業して片づけねばならぬ仕事は山積していたが、きょうは特別だ。溝口一家に降りかかった事件が気になってしかたなかった。かといってあの成金ネット野郎のところに見舞いにいけるわけがないし、管理人室を訪ねるのも億劫だ。豊洲駅に着いたのは八時前だった。この時間ならきのうから札幌出張に出ている圭子も帰宅しているはずだ。妻がネットやテレビのニュース以上のことを知っているとは思えなかったが、なにか情報を収集しているかもしれない。わくわくする思いで岩瀬はマンションまでの道のりは速足で進んだ。台風の接近を予感させる蒸し暑さで、ワイシャツもスラックスも汗まみれだったが、気にもならなかった。
 ところがすぐにはエントランスに入れなかった。敷地に足を踏み入れる直前、うしろから声をかけられたのである。
 「東邦テレビの西海ともうします」夜虫が飛びかう歩道の水銀灯の明かりのもと、すらりと背の高い若い女が立っていた。若いといっても三十代だろう。ショートカットとひいでた額にのびる健康的な眉のラインが知性を感じさせた。見おぼえのある顔だった。「『インサイド』という情報番組でリポーターをしております」早くも名刺を差しだしてきた。西海凛子……? それで思いだした。ワイドショーで見たことがある。たしか事件もののリポーターだったのではないか。
 「インサイドって……午後のワイドショーだったかな」無視したい気持ちもあったが、岩瀬は自然と足をとめていた。若い女はそれだけで得だな。「なにかご用ですか?」
 「住人の方ですよね」
 「宅配便かなにかに見えますかね?」
 「すみません、すこしだけお話をうかがわせていただけませんか。すでにニュースにもなっていますが、けさ、こちらのマンションに住む四歳の男の子が自転車のハンドルにセットされたカミソリの刃で指を切る事件が起きまして」
 セットされた――。
 その響きを岩瀬はいたく気に入った。昼のニュースではなんと言っていたか。たしか“ハンドルに固定された”ではなかったか。固定を英語にしたらセットかもしれない。だが日本語の“セット”にはどういうニュアンスがある? 髪形をびしっとセットする、キーパーソンとの面会をセットする、そして時限爆弾のタイマーをセットする……。そこには明らかに強い意思が存在している。つまり“固定”なんていう他人事みたいな言い方でなく、何者かの故意、もっと言うなら悪意の介在をより積極的に示唆している。それが“セットされた”の真意である。
 「もしかしてそれってニュースでやってたやつかな」岩瀬は慎重に言葉を選んだ。
 「ごぞんじでしたか」
 「いや、よくわからないけど、このあたりの映像が出ていたから」ネットニュースでは、マンション名も明示されていた。テレビのニュースで気になったのなら、ネットで新聞社系のサイトあたりでチェックするのがふつうだろう。だがそこまでの関心も抱かなかった。岩瀬は内心の激しい興味を押し隠しながら、事件との距離感を装った。「まさかうちのマンションなの?」
 「はい、そうです」
 岩瀬は眉をひそめ、口もとを硬く結んだ。「そうなんだ……知らなかったな。指を切るって、重傷なの?」まるで親類の子が入院したかのように気遣わしげに訊ねた。
 「右手の小指を四針縫う傷だったそうです」
 「そりゃかわいそうに。親御さんもたいへんだろう。まさかそれで事情を聞こうと思って、片っ端から住人を捕まえてるってわけかな?」
 「まあ、そんなところです。ちなみに何階にお住まいでしょうか」
 「それを聞いてどうするの?」
 「被害者の近所の方にお話をうかがいたくて。九階の九〇二号室のお子さんなんです」
 毎日、毎日、あの廊下で騒ぎたてるクソガキだよ。天罰がくだったのさ!
 高らかにそう言ってやりたい衝動をこらえるのがひと苦労だった。「残念だね。あまり協力できないみたいだ」
 「そうですよね。ほかのフロアの方ではどうしようもないみたいなんです。現場が――」
 「現場?」そういえば惨劇がうちのマンションのどこで起きたかまでは、ネットニュースにも記されていなかった。
 「自宅の玄関前で起きたんです」
 それには岩瀬も言葉を失った。薄暗がりだったのでたすかった。でなければさんざん飲み食いした居酒屋で財布を持ち合わせていないことに気づいたときのように、顔がさっと青ざめたのがばれてしまうところだった。
 「なかに入れてもらっていないのでよくわからないのですが、高級マンションなので内廊下なのだと思います。外からは見えないので、おなじフロアの住人の目撃情報だけがたよりなんです」
 「そうだったのか……でもそれじゃわからないね……」やっとのことで岩瀬は言葉を絞りだした。現場が内廊下ということは……? 頭では犯人に関するシミュレーションが高速回転で始まり、たちまちひとつの可能性にたどり着いた。それについては状況証拠を圭子がつかんでいた。
 「九〇二号室の溝口さんというお宅のご長男、陽一くん。四歳です。見かけたこととかないでしょうか」
 「わからないねぇ、そんなこと言われても。顔でもわかればべつだろうけど」それは事実だった。あのガキの顔を見たのは、両親が引っ越しのあいさつにやって来たときだけだ。あとはのぞき穴から見ているだけだから、顔までははっきりしない。ただ、あのクソガキによる狼藉の数々なら住人のだれもが知っているだろうし、管理会社やメンテナンス業者だってほとほと困り果てているはずだ。
 とりわけ先週から定期清掃に入っている排水管清掃業者あたりは――。
 しかしその話はまだ西海に聞かせるわけにいかない。圭子とよく話を詰めてからでないと。冤罪なんてことになったら大変だし。
 「まだ被害者の写真が手に入らないんです」リポーターがそうつぶやいたとき、住人らしき中年女がふたりのわきを通りすぎた。西海の興味はすぐにそっちに移った。
 そのすきに岩瀬は彼女を振り切ってエントランスに飛びこんだ。低層階用のエレベーターは四階付近を上昇中だった。岩瀬はいらいらした。一刻も早く圭子に話を聞きたかった。
 ようやくエレベーターが降りてきたときには、先ほどの中年女が岩瀬の背後に立っていた。ワイドショーのリポーターからおなじことを訊ねられたはずだ。これが欧米のように対人関係がフランクな国なら、鋼鉄の箱に閉じこめられる十数秒間でも、事件の話題で盛りあがるのだろうが、ここは世界一、隣近所のコミュニケーションが閉鎖的な、というより、そんなものは存在しないことになっているお国柄、しかもその頂点である東京都心のマンションだ。岩瀬と中年女は、たがいの間を太平洋が隔てているかのように終始息を飲み、沈黙の教えを守った。
 女は七階で降り、岩瀬はひとりで九階に降り立った。人造大理石の内廊下に一歩踏みだした途端、鶯張りの床のように足音が密閉空間に響きわたった。きょうはいつになく圧迫感が強く、息苦しい。どの部屋の玄関からも強烈な視線が感じられ、胡桃材の重く分厚いドアの向こうに好奇心丸だしの連中がへばりついている姿が容易に想像できた。やつらの視線にからみ取られないよう岩瀬はうつむいたまま、エレベーターのすぐ左隣にある自宅に足を向けた。
 視界の右端に黒っぽいものが見えた。
 一瞬、岩瀬はそれが数時間前に溝口陽一の小指から流れでた血液が凝固した痕跡かとぞっとした。本能的に目を向けた途端、もっとおぞましく、現実的な不快感の対象であることがわかった。
 ちょうど正六角形をした内廊下のまんなかだった。巨大なゴキブリが腹を天井に向けて死んでいたのだ。
 室内にゴキブリが出たことはまだない。圭子ばかりか岩瀬にとっても、それはすこぶる安心のできる状況だった。なんといってもまだ築七年だ。その程度で悪魔の申し子に侵略されてたまるものか。三十五年ローンが台なしになってしまうではないか。しかしエントランスや非常階段でやつらの最前線に出くわすことは、過去に何度かあった。もちろんどれも死骸だった。だが廊下で侵攻の跡が見つかることはなかった。あと数メートルで人間さまの居住空間だ。しかもやつらの体の薄さからすれば、玄関ドアの下の隙間などベトナム戦争中に築かれたベトコンの地中トンネルよりも容易にくぐり抜けられるだろう。
 ゆゆしき事態だ。
 そして岩瀬はさらなる恐怖にたじろいだ。いくつかの体節が折り重なった赤黒い腹からのびる六本の脚が、わずかに震えたような気がしたのだ。
 たまらず岩瀬は玄関に飛びつき、鍵穴に鍵を突っこんだ。そこで岩瀬は首をかしげた。錠が開いていたのだ。
 「刑事さんがみえてるの」札幌出張から帰宅してまもないらしく、圭子はパンストも脱がぬまま玄関にあらわれた。見慣れない革靴が二足並んでいる。片方はずいぶんとくたびれて、踝のあたる部分がすり切れていた。「朝からたいへんだったみたい」
 恐るおそる岩瀬は、エアコンがきいた居間に顔をだした。ひとつしかないソファに腰かけていたふたりの男が立ちあがった。
ワンクリックで応援できます。
(ログインが必要です)

登場人物紹介

登場人物はありません

ビューワー設定

文字サイズ
  • 特大
背景色
  • 生成り
  • 水色
フォント
  • 明朝
  • ゴシック
組み方向
  • 横組み
  • 縦組み