二章

文字数 16,930文字

 二章
 五
 「おじゃましております」ダークスーツの上着をきちんと羽織った銀行員のような男がていねいに頭をさげた。縁なしのめがねが聡明な印象を醸しだしていた。「深川署の篠原ともうします」妻がすでに渡されていた名刺を岩瀬に見せた。所属は捜査一課だが、強行犯よりも、むしろ特別背任とか知能犯相手のほうが得意な感じの思慮深そうな目つきをしていた。岩瀬と同世代らしく、相方の若い刑事とは年が離れて見えた。
 ふたたびソファに腰かけると篠原は事件のあらましを説明した。岩瀬はダイニングチェアに腰をおろしてそれに耳を傾けた。
 問題のカミソリの刃は、幼児用自転車のストライダーの右グリップ下側に、グリップと同じ黒いビニールテープで貼りつけられていた。刃の部分が露出するように細工されており、グリップを握ったさい、右手の小指側に刃があたる位置だった。それが目につく場所なら、溝口家の長男も愛車の異変に気づいたかもしれない。しかし身長の低い幼児の目線で見たとしても、凶器は完全に死角に入っていた。陽一少年はいつものように――内廊下で自転車に乗ることは管理規約で禁止されていることは、母親の溝口香苗も知っていたが、理由はともかく息子の行為を黙認していたという――朝食をすませたあと、重たい扉を押しあけて玄関に出た。その直後、廊下で悲鳴があがったので、驚いた母親が見に行くと、陽一少年の手が血まみれになっていたとのことだった。
 すでに父親の溝口哲は出勤しており、母親が救急車を呼んだ。その後、篠原ら深川署員が溝口宅を訪れ、廊下を中心に徹底した鑑識作業と聞きこみが行われた。それらをふまえ、篠原は、九階の住人たちから話を聞く必要があると判断したのだ。「息子さんは、母親といっしょにきのうも自転車で外出していますが、そのときはけがなんて負っていない。だから自転車に細工がほどこされたのは、きのう息子さんが母親と帰宅した午後三時から、彼がけがをしたきょうの午前七時五十五分までの間ということになる。玄関前で堂々とカミソリの刃が貼りつけられたのか、いちど自転車をどこかに持ち去って細工されたのかは不明ですが、グリップにビニールテープで貼りつけるだけなら、さして時間もかかりません。さっき署で実験してみました。だから大方、玄関前で作業をしたのだと思います」
 岩瀬は篠原の落ち着いた目つきが気になった。柔和な表情の奥でいったいなにを考えているのか。穏やかな湖の底をのぞかされているようだった。玄関の履き古した靴の持ち主は篠原にちがいない。容疑者に尋問を行う前に、自ら足を使って徹底的に証拠を固める緻密な刑事だ。岩瀬はそう確信し、訊ねてみた。「防犯カメラはどうなんですか?」
 「マンションの防犯カメラの映像はすべてチェックしました。各フロアには防犯カメラは設置されていませんが、エントランスやエレベーターのカメラで人の出入りがチェックできます。それらを見るかぎり、住人の方以外に警備員など何人かが九階に足を踏み入れています」
 「なるほど。うちも疑われてるわけだ」岩瀬はさらりと口にし、肩をすくめてみせた。刑事なら飛びつくであろう話をこの場で披露するのは、もったいないような気がした。圭子だって当然思いあたっているはずだが、まだ話すつもりはないようだった。まずは夫婦で吟味してからでないと。数日前、排水管業者を見舞った不条理について。
 「われわれの仕事は、疑わしいものを排除するところから始まります。ですのでこのフロアに出入りするだれかが怪しいと申しあげているわけではありません。捜査の方向性をはっきりさせるためにも、みなさまの協力が不可欠かと思いまして」篠原は左手の親指と中指をめがねのフレームにあて、位置を直した。
 「うちは――」口走ったところで岩瀬は逡巡した。犯行時刻とされる時間帯に自分は帰宅し、出勤している。つまり犯行現場への不在証明は容易には成立しないようなのだ。圭子はどうだ。昨夜は出張で札幌に行っていた。帰ってきたのはついさっきだ。
 それを察したのか圭子が自分で答えた。「きのうは朝八時過ぎに出勤して、そのあと職場からそのまま札幌に出張に行きました。一泊二日で、帰って来たのは先ほどです」
 「現地ではなにを?」
 「札幌支店で開かれた会議に出席しました。聞いてみるといいですよ。東京トラベルサービスの札幌支店です」圭子はやや感情的な口調になった。
 若い刑事がメモを取るのをたしかめてから篠原が言った。「確認の電話を入れてみます。不愉快に思われるでしょうが、これも捜査の一環ですから」
 思わず岩瀬が訊ねた。期せずして自分も食ってかかるような聞き方になってしまった。「鑑識の結果はどうなんですか。カミソリの刃やビニールテープなら指紋がついているんじゃ――」そこまで口にして岩瀬ははっとした。排水管業者なら手袋をはめているか。
 「そこですよ」篠原はわきに置いたカバンに手を入れた。「その点はもちろん捜査中です」取りだしたのはスタンプ台だった。
 岩瀬も圭子も拒むことはできなかった。作業したのは若い部下のほうだった。ふたりとも警察に指紋を採取されるなんて、これまでの人生ではじめての経験だった。思わず岩瀬はむっとして聞いた。「無関係な人間からも指紋を採るものなんですかね」
 「逆の立場ならわたしもおなじ質問をするでしょうね。でもなにもしないと真実は明らかにならない。われわれは必要な作業と考えております。協力者のご負担も最小限にとどめるつもりです」さらりと言うと、篠原は黒インクを拭き取るためのウェットティッシュを手品師さながらのすばやさでどこかから取りだし、二人にそれぞれ手渡した。
 圭子が訊ねた。「お隣、いまどうされているんでしょうか」
 「当然の話ですが、お子さんはもちろん、ご両親も精神的ショックがかなり大きい。さっき署で話したときは当分、べつのところに行くと話されていましたよ」
 「かわいそうに」
 指紋採取キットをカバンにしまい、篠原が訊ねた。「溝口さんとはなにかお付き合いのようなものはありましたか」感情を殺したゆっくりと落ち着いた口調だった。これが大学の授業なら、学生たちはさぞかし心地よい眠りにいざなわれるだろうが、いまはそんなわけにいかなかった。ただ疑われはしているものの、岩瀬には自信があった。というか怪しい人物の目星ならついていた。警察だってそうなんだろう。基本的な手続きはへなければならない。それが捜査というものだ。
 「二か月ぐらい前に越してきたときに、三人であいさつにいらっしゃいましたよ。でもその後は会釈する程度です」うそではない。会釈とは心のなかで相手に頭をちょっと下げることをいう。すくなくとも岩瀬はそう信じている。にっこり笑って欧米人さながらにアイコンタクトする必要なんてまったくない。
 若い刑事にメモを取らせ、篠原はさらに訊ねてきた。「子どもが騒々しいと思われていたのではと、溝口さんの奥さんが話していましたが」
 「お子さんがいると、いろいろ気になるのでしょうね。でもここは防音はしっかりしているほうだと思いますよ。隣の物音はほとんど聞こえませんね」岩瀬はうそをついた。余計な詮索をされたくなかったからだ。
 あいにく廊下で人の声がした。住人か訪問者か。リビングと玄関を仕切るドアは閉じられていたが、それでもまるで弦楽器の共鳴胴さながらに、内廊下はその声をリビングにまで響かせた。岩瀬は口を真一文字に結んだ。
 篠原は廊下のほうを振り返っていた。「わりと聞こえますね。うちの子どもには向かないかもしれない。まだ小さいものでして」刑事のめがねがきらりと光ったような気がした。
 「さして気にはならないですよ」岩瀬は言い訳のように言った。
 「ほかのお宅は気にするかもしれない。溝口さんのお宅とほかの方との間で、なにか気になることはありませんでしたか」
 「どうでしょう。記憶にないくらいですから、たいしたこともなかったのだと思います。それにうちだけじゃないでしょうけど、隣近所にあまり興味がないものでして」それは真実と虚偽の双方をふくんだ物言いだった。連中はたしかに壁の向こうに暮らしている。それをあえて無視しておれたち夫婦は暮らしている。だが無視しきれないときもある。たとえば傍若無人に廊下で騒ぐクソガキとか。
 「いずれにしろ気持ちのいい話ではありませんから、全力で捜査にあたります」
 「これ以上騒ぎになるのはちょっとねぇ。へんなうわさが立つと資産価値に影響するんですよ」
 「マスコミには、最終結論が出るまでこれ以上話すつもりはありません。ただ向こうも仕事ですから、独自取材はあるかもしれない。そのときはきょうのことは口外しないようおねがいできますでしょうか」
 「もちろんです」善良な市民かくあるべし。岩瀬は、担任教師に飼育小屋清掃の結果を報告する優等生のように胸を張った。だいいち警察に指紋を採られたなんて言ったら、あの美人リポーターにテレビでなにをしゃべられるか知れたものでない。
 二人の刑事はソファからようやく立ちあがった。岩瀬が神妙な顔をつづけるのも、あとすこしだった。

 六
 シャワーをひと浴びし、Tシャツと短パンに着替えてから岩瀬は冷蔵庫に飛びついた。「こんな日に飲まずにいられるかよ」
 「そんなこと言っちゃ悪いわよ」圭子は眉をひそめた。だがそれもうわべだけだ。冷凍庫に入れておいたビールグラスを取りだしていた。「さっきまで鑑識の人たちがたくさんいたのよ。二時間ドラマみたいだったわ。それに刑事さんから事情聴取を受けるなんて。ドキドキしたわね」
 ホテルマンと旅行代理店の営業ウーマンとして、岩瀬と圭子が出会ったのは一九九七年の春だった。岩瀬はそれまでに三人の女性と付き合った経験があったが、そのだれにもないはつらつとした生命力のようなものを圭子は感じさせた。それに自分では田舎育ちだと圭子は謙遜していたが、ファッションセンスも立ち振る舞いもエレガントで、年下なのに大人びて見えた。それは幼いころに両親が離婚し、その後の人生を母親と二人で生き抜いてきた実体験によるところも大きいのだろう。だから岩瀬が結婚を決意するまで半年もかからなかった。
 「あの篠原って刑事、疑っていたんだろうな。いや、いまも疑っているはずだ。もの静かな印象だったけど、腹のなかでなに考えてるかわからない。いやだよな、警察の仕事って」
 「あなた、よくふつうに受け答えできたわね」
 「めったにない機会だろ。もっといろいろ聞いてやればよかった」
 この日のビールはいつも以上に岩瀬をしびれさせた。ふだんどおりの夕食が、なんとなく祝宴のような趣に変わった。口には出さないが、二人とも軽い興奮状態にあった。警察の捜査は始まったばかりだったが、二人には共通の記憶があった。
 「でもあなたもそう思ってるんでしょ。話せばよかったのに」
 「だけどあれを目撃したのはおまえだからな。おれが話す筋じゃないだろう」
 「もしかして溝口さんの奥さんが自分で刑事さんに話しているかも」
 「ありえるな。それを知りながら、おれたちのところに来て指紋を採っていったのか、あの刑事」
 それは先週火曜の出来事だった。
 圭子は代休をつけていた。風呂場や台所の排水管の定期洗浄があり、午前中に業者がやって来る予定だったからだ。ジェット水流を噴射するホースを抱えた二人組の作業員が訪ねてきたのは十時半のこと。それを無事すませ、排水状況のチェックのためにシャワーをひと浴びしてから買い物に出かけようと廊下に出たさい、圭子は異変に気づいた。隣の溝口家の玄関前のアルコーブ周辺が水浸しとなり、それをつい先ほど岩瀬宅を訪ねてきた二人組の作業員の片割れ――若い女だったという――がバスタオルのような大きな布でせっせと拭き取っていたのだ。作業中にホースから水が漏れたようで、噴きだした洗浄水は溝口家の玄関ドア――交換となるとかなり高くつくはずの胡桃材製のドア――の大部分を濡らし、黒っぽく変色させていた。
 成長著しいネット事業者の執行役員を夫に持ち、子どもにも恵まれた何不自由ない専業主婦が、格差社会の象徴ともいえる構図のなかで、吹けば飛ぶような立場の作業員たちにどれだけ辛辣な言葉を発したのか。いくら廊下の声が筒抜け状態だったとしても圭子は聞いたおぼえがないという。そもそも廊下で噴水があがればかなりの騒ぎになる。それすら圭子は耳にしていなかった。すべては彼女がシャワーを浴びているうちに起きたのだ。
 だがその一部始終を圭子はあとで知った。買い物から帰ってきたとき、おなじ作業服を身につけた男が、エントランスの外で携帯電話で話していたのだ。それを圭子は足をとめ、こっそり聞いてしまった。相手は作業員を派遣した清掃会社のようだった。
 二人は岩瀬宅で作業したのとおなじ要領で、溝口宅の玄関を半開きに固定したうえでホースを室内に持ちこんだ。そして作業開始からほどなくして、玄関前でホースが水を噴いたのである。ホースには亀裂などもともとなかった。その証拠に岩瀬宅での作業中はなんのトラブルも起きなかった。ところが溝口宅で事故が起きたあとで点検したところ、ホースに小さな傷がついており、そばにニッパーが転がっていた。
 「工具箱を玄関の外に置いといたのは、うちらのミスですよ。だけどそこからニッパー取りだしたのは、まちがいなくあそこの子ですよ。水圧が急に下がったんで見に行ったら、シャツをびしょ濡れにしたまま、階段のほうに逃げていくうしろ姿が見えたんです。それなのに一方的にこっちがキレられるなんて――」
 男の主張は、会社側には受け容れられなかったと見えて、男は電話を切るなり、相方の若い女に悪態をついた。女は終始、首をすくめ、涙を流していたという。
 「犯行時間はきのうの午後三時から、けさの午前七時五十五分までか」岩瀬は盛大にげっぷをしてから口にした。「排水管清掃ってもう終了してたんだっけ?」
 「どうかしら。日程表なんてもう捨てちゃったもん」
 「作業日だとしたら、なかに入ってくるのは容易だな。ほかのフロアを作業しているとき、すきを見て階段で九階に来ればいい」岩瀬は左手で篠原刑事の名刺をつまみあげ、電話番号の部分をじっと見つめた。「どっちだと思う?」
 「どっちって?」
 「どっちが犯人かって。男のほうか、女のほうか」
 「そりゃ、やっぱり女の子のほうじゃないかしら。床拭いてるときも、つらそうだったし、あとで肩震わせて泣いてたんだから。いっしょにいた先輩にも相当厳しく言われたんじゃないかな。工具箱を子どもの手の届くところに置いといたのはまずかったって」
 「だよな。だって男ならもっとちがうやり方で復讐したんじゃないか」
 「復讐だなんて。恐ろしい」
 「だってそうだろ。あきらかに復讐、仕返し、意趣返しだ。おれなら、直接、母親にがつんと言ってやるんだがな。どうせ二度と担当作業員になんかならないんだろうから」
 「たしかに子どもを痛い目に合わせるってところは、女っぽいかな。いちばん大切なものを傷つけるってやつ」
 「陰湿だな」そう言いながら岩瀬はべつの名刺を妻の目の前にひらつかせた。「ワイドショーのリポーターだよ。西海凛子。どこの局だっけ。見れば顔わかると思うよ。外にいたんだ。おれもすこしだけ取材を受けた」
 「教えるの? この話」心配そうに圭子が訊ねた。
 「どうしようかな。でももう知ってるかもしれんな。管理人だってあのときのことは知っているだろう。取材している可能性は高い。それに警察だってな」
 「だけどこんなこと言っちゃいけないけど、正直、だれが犯人でもべつにわたしはかまわないわ。だってすくなくとも、あしたの朝、あの子が外で騒ぐことはなくなったわけでしょ」
 「たしかに。かわいそうだが、このままずっとお隣が“避難”していてくれるとありがたいよな」
 「だといいんだけど」いつもはノンアルコールビールしか飲まない圭子も、この夜は本物のビールをあおった。圭子は最近よく眠れないと訴えている。刑事に踏みこまれたあげく、指紋まで採られて余計に眠れなくなると予防線を張っているのだろう。「だけどやっぱり住めないんじゃないかな」
 「子どもにとってトラウマになる恐れはあるよな。それを最小限に抑えたいなら、引っ越しが一番だろう」
 うまくいくといいけど。口に出しはしなかったが、岩瀬は喉の奥で呪文のように唱えていた。圭子だってきっとそうなのだろう。薄紅色に染まった妻の頬がそれを物語っていた。
 「警察の捜査が難航したら、溝口さんだって決断すると思うけどな」
 「難航するかな」
 「わからんけど」
 圭子はビールをもうひと口あおった。「刑事の勘はどうなんだろう。じつはこのフロアの人を怪しいと思ってるんじゃないかしら」
 「どうかな。だけどおなじフロアの住人がそんなばかなまねするかな。その後の暮らしにかなりの禍根を残すだろうし、たとえ執行猶予がついても、逆に自分のほうが住みづらくなって引っ越しを余儀なくされるかもしれないぞ」
 「異常者にはそういう理性的な思考って通用しないんじゃない?」圭子はホラー映画のようなことを口にした。「そういう異常者がそばにいると思うと怖いわ」
 「大丈夫だって。たとえ住人が犯人だとしても、あのクソガキに制裁がくだされただけだよ。だいいちうちは、新築のときから住んでるんだ。新参者とはちがうし、騒音を出してるわけでもない」ご飯といっしょに食べるはずだったスーパーの餃子に岩瀬は箸をつけた。ニンニクがきいていてビールには最高の相性だった。
 「あのこと言うかと思ったわ」ふいに圭子が口にした。
 「あのことって?」
 「イエローカードよ」
 岩瀬ははっとした。いまのいままで記憶の彼方に追いやられてきた事柄だった。
 「関係ないだろう」
 「あとで聞かれるかもよ」
 備前焼の皿には、閉店前のスーパーで値引きされた野菜の煮物が盛りつけてあった。共稼ぎだから妻がきちんと料理をするのは週末ぐらいだ。スーパーで惣菜をささっと買い、ご飯とみそ汁――最近はフリーズドライのシリーズが多い――に合わせる。それが岩瀬家の平日の夕食だった。
 「どうかな。たしかに気味は悪いけど」
 それは二年ほど前の出来事だった。先に出勤しようとした圭子が玄関で声をあげた。ゴキブリがいたわけではない。ドアの下に黄色い紙きれが入っていたのだ。海外のホテルでチェックアウト時のトラブルを避けるために、利用料金の明細を夜のうちに届けてくれるサービスがあるが、玄関でその紙きれを目にした岩瀬は一瞬、それを連想した。
 A4判用紙を半分に折りたたんだぐらいの大きさだった。包装紙の一部を切り取ったものらしかったが、どこの店のものかは判然としなかった。蛍光色を帯びた黄色で、目だつ色をしていた。
 圭子も岩瀬も首をかしげた。外廊下なら風のせいで紙くずが吹き寄せられることもある。だが内廊下では人為的に差し入れないかぎり、そういう状況は起きない。だから黄色い紙きれは、それ自体が何者かの意思を象徴していた。
 宅配便?
 そんなわかりにくいメッセージを残す業者はいないだろう。そのとき圭子が気づいた。サッカーにはまるで興味のない彼女でもそれくらいの知識はあったらしい。
 イエローカードかしら――。
 言われた途端、内臓をわしづかみにされるような不快な気分が襲ってきた。「なんでだよ」とっさに口をついて出た。
 キムチのせいかな。ぼそりと圭子がつぶやいた。
 それは前日にソウル出張から帰ってきた岩瀬がみやげで買ってきた本場のキムチのことだった。箱を開ける前から強烈なにおいが漂っており、なかのビニールを開封した途端、それが高エネルギー物質のように噴出した。味は最高だった。何杯でもご飯がかきこめた。量が多かったので、残りはふたたび厳重に封をして冷蔵庫の奥にしまった。しかしいちど放たれた臭気はどうにもならなかった。食事中は気にならなかったが、じっさいには台所も居間も激しく蹂躙され、玄関までも汚染されていた。ドアの下にはそれなりの隙間がある。ソウル発の赤い毒ガスが廊下に流出しなかったとは言いきれず、翌朝のイエローカードはその返礼であると言えなくもなかったし、むしろそう考えるのがふつうかもしれなかった。
 「あのとき、だれがあやしいって言ってたんだっけ」岩瀬は記憶をたどった。
 「隣の笹島さんか、向かいの堀内さんか。そんなこと言ってたと思う」笹島さんとは、いまの溝口一家が越してくる前に九〇二号室に住んでいた住人のことだ。家族持ちで、小学生ぐらいの子どもがふたりいた。それ以上のことはわからなかったが、奥さんがなんとなく神経質な感じがすると、あのとき圭子が言っていた。「だけど笹島さんよりも、やっぱり堀内さんじゃないかって。そういう結論になったんじゃなかったかしら」
 「なんの根拠もないけどな。でもきっとそうだよ。堀内さんはあやしいよ。なんかやっていそうな気がする」
 「なんかって?」
 「痴漢とか盗撮とか、そういう性犯罪系。もしくは通り魔とかやりそうだな。そういう目つきをしてる」
 「どんな目つきよ」
 二本目の缶ビールに手をのばしながら岩瀬は記憶をたどった。「どんなって……真正面から見たことなんてないよ」いつも見ているのはまちがいない。ただのぞき穴から観察しているだけだ。出勤するときにたまに向こうの玄関が開く音がすることがあった。そのさい岩瀬は、堀内と顔を合わせずにすむよう、自分のほうでのぞき穴に顔を寄せながら、やつがいなくなるのを待つことにしていた。といっても向こうの姿は、玄関から出てくるときに数秒間見えるだけだ。顔つきなんてよくわからない。それも魚眼レンズによって変形している。目元なんてわかるわけがなかった。「そういうイメージだってことさ。不健康でネクラそうな感じがするだろう。あの男なら夜な夜な、人の家の玄関で鼻をひくつかせて、キムチの残り香をキャッチしたあげく、嬉々としてイエローカードを差しいれるぐらいやるぜ。勝手な想像にすぎんがな。ただイエローカードが入っていたのは事実だから、それをやった人物を今回のカミソリ犯と結びつけても悪くないね」
 「やっぱり警察に言ったほうがいいんじゃないかしら」圭子はそわそわしていた。まるでいますぐ通報しないと、こんどはうちの玄関の把手にカミソリが貼りつけられると心配しているかのようだった。
 岩瀬は二本目の缶ビールを注いだグラスをあおった。苦味のきいた新製品の発泡酒だった。「もうすこし様子を見たらどうだ。指紋も採ったんだ。外部犯行にしろ、内部犯行にしろ、だれかの指紋が出てくればそれでおしまいだろう。それを突きつけられてまでシラをきるやつはいないよ。だから余計なことを警察に言う必要はないさ。あのクソガキには悪いが、お隣が引っ越してくれれば、それでいいだろ。ほかの連中のこと、ことさらに悪く言うこともないって」
 圭子は野菜の煮物に箸をつけた。「だけどあの人、気持ち悪いのよ……堀内さん」
 「やっぱりそう思うだろ」
 「たまにエレベーターでいっしょになることがあるの。じろじろいやらしい目で見るのよ。気色悪いったらない」
 「どんな仕事してるんだか」
 「スーツ着てたからサラリーマンだと思うけど。いくつぐらいかしら」
 「よく見たことないし、禿げてるから年齢不詳なところがある。意外とおれよりも若いかもしれない。チビで貧相な体つきしてるよな。営業向きじゃないな。裏方の倉庫番とかじゃないか」
 「スーツ脱いで前掛けつけたら、古本屋にいそうなタイプよ。青白い顔で目がぎょろっとしてるの」
 「ゴブリンみたいな感じか」
 「痩せたカメレオン」圭子は吐き捨てた。「カビ臭いツンとするにおいがするの。エレベーターで背中向けて息とめてるわ。でもそうしてると、うしろからペロッて舐められそうで」
 「じゃあ、向こうものぞき穴にへばりついてるわけだ。おまえのこと見ながらな。なにしてるか知れたもんじゃない」
 「よしてよ、うぅっ、気持ち悪い。でもあの人なら、警察ざた起こしても住みつづけそう。被害者と加害者の両方いっぺんに引っ越してくれるわけにいかないかしら」
 「出ていったほうが得策ですよ、なんて具申するわけにもいかないだろう。だけど、遠からずして時が解決してくれるはずだ。きっといいほうに転がると思うよ、おれは」
 「いいほうって?」
 「うちにとってさ」
 そうなってくれないと困る。これまでどおりなんてあるわけがない。このタワーマンションのなかでは、住人の生活レベルも加味して“低層階”と呼ばれるフロアの内廊下に、神の手が差しのべられたのだ。多少手荒なやり方でも岩瀬のもとめる正義は貫かれねばならなかった。

 七
 火曜の朝、岩瀬は圭子とともに出勤直前のワイドショーに食い入った。
 西海凛子は画面に映ると実物よりもややぽっちゃりとして見えた。それがテレビの特性なのだろうが、岩瀬には前夜、取材を受けたときの記憶が鮮明に残っていた。愛らしいだけでなく、シャープなジャーナリストとの印象が強かった。岩瀬の知らないスクープ情報を警察から引きだしているかもしれないとわくわくしたが、中身は通りいっぺんのリポートで、他局と変わりばえしなかった。新聞社のサイトを見ても、容疑者の特定につながるような記事は出ていない。もちろん被害者一家が新たな引っ越し先を探しはじめたとの話も。
 「やっぱりあの刑事が情報統制してるんじゃないか」
 「内廊下の出来事だし、目撃情報がないのかも」
 「あとは防犯カメラの解析と指紋とか鑑識の結果待ちだろう」
 「ワイドショー、つづくのかな」あわただしく化粧をほどこす圭子が口にした。
 岩瀬はジャケットを羽織りながらかぶりを振った。「客観的に考えてみろ。子どもが死んだわけでもないんだ。うちらにとっては大事件でも、世間的にはたいした話じゃない。警察情報が出てこなくなれば、自然ととまるさ」
 圭子よりひと足先に出勤しようと靴を履いていたとき、廊下に鍵の開く音が響いた。反射的に岩瀬はのぞき穴に顔を近づけた。やっぱりだ。堀内だった。白シャツにスラックス姿で、岩瀬家の真向かいのドアからするりとあらわれた。鍵を閉め、エレベーターに向かうさい、ちらっと足もとに目を向け、その場で立ちどまった。岩瀬は唾を飲みこんだ。
 ゴキブリだった。
 のぞき穴からもはっきりと見えた。きのうとおなじ場所にまだ転がっていた。堀内は爪先でそれをつついた。岩瀬はどぎまぎした。堀内がそのまましゃがみこみ、昆虫採集に興味を持ちはじめた子どものようにそれをつまみあげるのではないか。そしてだれも見ていないのをいいことに、それを口にするのでは……。しかしそんなことにはならず、かわりに向かいの男は、岩瀬のほうにたくらみに満ちたいちべつを投げかけた。岩瀬は息を飲んだ。そっちのほうがありえる話だった。引っくりかえったまま死に絶えた黒い害虫をこっちに蹴り飛ばす――。
 そんなことにもならず、堀内は遊びに飽きた子どものようにエレベーターのほうへ向かった。岩瀬は息を吐きだした。もうそれだけで汗が額から吹いていた。カミソリ事件のせいで、隣人たちは不必要に神経過敏になっている。いや、隣人でなく、岩瀬自身が疑心暗鬼になり、隣人たちを心の歪んだ人物に仕立てあげてしまっている。本当は善良な市民かもしれないのに。
 堀内がエレベーターに乗りこみ、扉が閉じる音が聞こえた。いつのまにか圭子がうしろに立っていた。
 「どうしたの」
 「なんでもない。じゃあ」岩瀬はげんなりして玄関を出た。
 下に降りたエレベーターはすぐにもどってきたが、いったん十階まで上がった。低層階用エレベーターの最上階だ。九階に降りてきたときには、OL風の若い女が乗っていた。男心を惑わせるような匂いを全身から漂わせている。べつの機会なら、すこしは岩瀬も反応したのだろうが、きょうはぴくりともこなかった。岩瀬は心のなかで小さく会釈し、なかに足を踏み入れた。
 女には背を向けて立った。いつも以上に息苦しかった。刺すような視線を首筋に感じたからだ。女は、岩瀬夫婦とおなじワイドショーをつけ、西海凛子のリポートに耳を傾けてから出勤してきたのではないか。そしていま、犯行現場である九階から乗りこんできた住人に疑いの目を投げかけている。
 一階に到着し、岩瀬はふだん絶対にやらないレディファーストの姿勢を見せた。女はカミソリ犯から逃れるように急いで外に出た。腹が立ったが、うしろからじろじろ見られながら通勤するよりはいい。岩瀬はゆったりとした足どりでエレベーターホールを抜けた。エントランスのほうに曲がったときだった。
 溝口がいた。
 休日に穿くような白のズボンに体にぴっちり張りついた黒のTシャツを身につけ、裸足でデッキシューズに足を通している。頭にはサングラスまでのせていた。岩瀬は反射的に足をとめ、ホールに逆もどりした。やつとここで出くわすのははじめてだった。こちらに背を向け、白髪のブレザー姿の男に向かって声を荒げている。相手は管理人だった。岩瀬が身を隠すホールにも、二人が話す内容が聞こえてきた。溝口は防犯カメラの映像を見せろと迫っている。しかし管理人は杓子定規にも管理組合の承認が必要だなどと口走り、新進ネット企業の執行役員さまの怒りに油を注いでいた。やつの声を聞くのは、あいさつにやって来たとき以来だった。若いネット長者にありがちな、高い権利意識に彩られ、他人を見下したような口調だった。だが岩瀬をなによりいらだたせたのは、やつらがいつまでも押し問答をくりひろげていることだった。その間にもエレベーターがつぎつぎとやって来ては、住人たちが出掛けていく。そのたびに不審そうな目でこっちを見る。岩瀬はそれが耐えられなかった。
 しびれを切らせ、岩瀬はホールから踏みだした。やつはこっちに背を向けている。速足で一気に通り過ぎれば気づかれまい。息を詰め、足音をしのばせて岩瀬はエントランスに接近した。
 管理人室はエントランスの内側すぐのところにある。その入口ドアのところで二人はやり合っていた。ほかの住人たち同様、何食わぬ顔で溝口の背後をすり抜けたときだった。
 「おはようございます」
 よりによって管理人の野郎が声をかけてきた。ほかの連中には会釈すらしなかったっていうのに。まるで溝口とおなじフロアの住人の登場を伝えることで、やつの関心を自分から遠ざけようとしたかのようだった。いるだろ? そうやって話題を変えて、問題から逃げようとするやつ。
 こっちにいちべつを投げかけるなり、やつの顔色が変わった。それが隣戸の主人――カミソリ事件について事情を知っているか、もしくはそれ以上のかかわりを持っているかもしれない住人のひとり――であることすぐに気づいたようだった。おれは二人に会釈したのかしないのか。顔面筋を硬直させたまま、ほとんどカニのような横歩きになって危険地帯を通りすぎようとした。溝口は、生徒のいたずらに出くわしたこわもての中学教師のように、いまにもなにごとか声をかけてきそうな気配だった。岩瀬はそうはならないよう心のなかで必死に祈り、最後は小走りになって外に転がりでた。
 疑念に満ちた突き刺すような目つきだった。
 豊洲駅までの道すがら、それがずっと岩瀬の脳裏に焼きついていた。十階から乗ってきた若い女といい、この手の事件ではいつもこうなのだろうか。岩瀬は西海凛子の名刺を持参してきたかどうか急に気になった。犯人不詳の事件現場の経験にたけていると思われる彼女に、いろいろ訊ねてみたかった。根拠なき疑念の拡散とそれが収束する時期について。
 岩瀬の腹はきまった。
 駅までの道すがら、こっちの携帯の発信番号を非通知に設定したのち、彼女の名刺に記された携帯の番号を迷わずプッシュした。名乗る必要なんてない。昨夜、名刺を配りまくった住人のなかのひとり。そう思ってくれれば十分だ。
 生放送中とみえて、呼び出し音がつづいたあと留守電に切り替わった。岩瀬は「住人の間でうわさになっている話」と前置きしてから、排水管清掃業者コンビを見舞った不幸な出来事について、ゆっくりと噛んで含めるような口調で録音した。
 会社に到着する前に近くのスターバックスでコーヒーを買っていたら、うしろから向井が声をかけてきた。「見ましたよ、ワイドショー。玄関の真ん前で起きたんやな。岩瀬さんの家も近いんやろ、現場から」
 「うちだって真ん前だよ。廊下といっても六角形のホールみたいな場所だ。そこのど真ん中で血まみれになっていたらしい」
 「うへっ……悲惨やな、それ。犯人の目星とかついとるんやろか」
 「きのう刑事が家に来たよ。これからいろいろ調べるらしい」
 「風間嬢やないやろか」タンブラーにコーヒーを詰めてもらいながら向井が口にした。
 「なんでだよ」
 「だってカミソリの刃、自転車のハンドルにセットしたんやろ。フェミニンな手口やと思うんですよ」
 「フェミニンという言い方がただしいかどうかはわからんが、うちの女房もそんなようなこと言ってたよ。たしかにあのクソガキのことは、風間さんだって腹に据えかねていたと思うけど、なにも住人が犯人ときまったわけじゃない。出入り業者だっているんだぜ」
 「さすが当事者やな。そっちのほうがあやしいんやろか」
 「気になることはあったんだよ」店から会社までぶらぶらと歩きながら、岩瀬は排水管清掃業者の話を聞かせてやった。
 「警察には話したんやろか」
 「警察はたぶん知ってるさ。溝口さんの奥さんが自分で供述してるんじゃないか。ワイドショーさ。そこのリポーターに話してやったんだ。警察取材をしているはずだから、そっちの捜査がどうなってるかつかめると思うんだ。指紋も出てるころだし、意外と早くかたがつくかもしれんな」
 しかし昼休みにもういちど凛子の携帯に発信番号非通知でかけてみたが、やはり出なかった。岩瀬は番号通知にして、かけなおしてもらおうかとも思った。あのフロアの住人であることを明かしたところで、さして問題ないのではないか。
 それでも岩瀬は踏みとどまった。いくら美人だといっても、相手はワイドショーだ。排水管清掃業者の若い女の犯行だと判明した場合、メディアはその動機に注目するだろう。だったら事件のあったフロアの住人の証言は貴重だし、あの家がどういう暮らし向きで、子どもがふだんどういう様子だったかとか、妻がどんな性格をしているかなど、事細かに取材したがるだろう。ワイドショーならなおさらだ。隣の家の住人が、そんなことをペラペラと推測まじりに話していることを被害者一家が知ったらどうなるだろう。へたをすると直談判に来ないともかぎらない。余計な人間関係は築かないのが岩瀬の基本的なライフスタイルだ。だからその後の暮らしを考えるなら、発信番号通知は、いちどでも口にしたら肝炎さえも誘発しかねない東南アジアの生水のようなものだった。
 結局、夕方になるまで凛子とは一度も話ができなかった。番号非通知の電話は無視する方針なのか、留守電の内容をガセネタだと思っているのか。悶々としながら岩瀬は家路についた。
 午後八時過ぎだった。昨夜とまったくおなじ場所、エントランスわきの暗がりに凛子は立っていた。一瞬、岩瀬はほっとしたが、すぐに状況分析を開始した。吹きこんだ留守電は、番号非通知なうえ、名乗りもしていなかった。それなのにこっちから「あの話どうでした」なんて持ちかけたら、岩瀬が留守電犯だとばれてしまう。かといってきのうみたいなそっけない対応で臨んだら、一番聞きたいことを話してくれないかもしれない。だったら彼女がそれをつい口にしてしまうように話を促さないと。
 「こんばんは」今夜も凛子は声をかけてきた。朝から働きづめで、この時間まで現場取材に奔走させられる。それなのに声は疲れを感じさせない。自分より十歳以上年下だろうが、見あげたプロ根性だった。
 「ごくろうさま」岩瀬は善良な住人を装った。善良かつ身近で起きた事件へののぞき見趣味的嗜好を持った、ごくふつうの住人を。「見ましたよ、けさのテレビ。寝てないんじゃないですか」
 「お待ちしていたんですよ」
 「えっ……」岩瀬はいきなりビンタを食らったように立ちつくした。
 「直接お話ししたかったものですから」
 「はぁ……えぇと……つまり――」
 「留守電ありがとうございました」ぱっと花が開いたような愛らしい笑みを浮かべ、凛子はぺこりと頭をさげた。
 「留守電……って」
 「驚くのも無理ないと思います」凛子は、エントランスからやや離れた場所に岩瀬を連れていき、落ち着いて説明した。「きのう名刺を配った住民の方のなかで、きちんと受け取っていただいた男性はひとりだけだったんです。あとはすべて女性ばかりでした」
 岩瀬はぐうの音も出なかった。名乗りもせず、発信番号の設定にまで小細工を施して留守電を吹きこんだのが、恥ずかしく思えてきた。言葉が見つからず、じっと足もとに目を落とすしかできなかった。
 「情報提供者に取材内容をきちんとお伝えするのは、基本的なルールですから」凛子は取材の成果を教えてくれた。「東陽パイプエンジニアリングという日本橋にある会社です。こちらのマンションを新築時から担当しています。今回の排水管清掃は、先週の月曜から土曜まで行われ、四人のクルーが二チームに分かれて作業にあたりました。でも不在のご家庭もありまして、日曜が予備日として組みこまれていたんです。日曜は二人で作業にあたりましたが、火曜に九階を担当したコンビのうち、リーダー格の男性のほうはべつの現場に行かねばなりませんでした」
 「つまり女の子のほうは日曜の作業を受け持ったってこと?」観念して岩瀬は質問した。
 「そうです」凛子の目つきがすこしばかり鋭くなった。「その女性スタッフ、ずいぶんときついことを言われたみたいですね。あそこの奥さんに」
 「具体的には知らないんだよ」
 「会社の上司からも相当叱られたみたいです」
 「かわいそうになぁ。だけどやっぱりあそこの子どもがいたずらしたのが、水漏れの原因だったのかい」
 「みたいです。ただ、工具箱の管理にミスがあったのは事実ですから」
 「だけどその女の子からすれば、納得できない部分もあるだろうね」
 「カミソリの刃は女性用でした。体毛処理に使うごく一般的なものです」
 「やっぱりそうか」岩瀬は思わず語気を強めてしまい、帰宅してきた女子高生ににらまれてしまった。
 「そうじゃないんですよぉ」凛子がはじめて疲れたような声を発した。「犯行時間帯は、日曜の午後三時から月曜の午前七時五十五分までの間。ところが日曜の作業は午後二時には終了しているんです。二時二十分に作業員を乗せた車が駐車場を出るところも防犯カメラに映っていました」
 「だけどそれって……そのあとにまた入ってくることだって――」
 「お住まいになっているのでおわかりかと思いますが、こちらのマンションにはあちこちに防犯カメラが設置されています。エントランスや裏玄関をふくめ、すくなくとも人の出入りだけは記録されるようになっているそうです」
 「でもなぁ」うろたえたような声を岩瀬はあげた。「動機は十分だと思ったんだけどなぁ」
 「その後の映像にもそのスタッフらしい女性の姿は映っていなかったそうです」凛子は申し訳なさそうな顔つきでつづけた。「だから警察もその線はすでに捨てています。情報をいただいたのはたいへんありがたいんですけど、きょう、しゃかりきになって取材したら、こういうことだとわかりました」
 「そうか……そうだったか」岩瀬はうつむいた。赤面していたのだ。素人の推理なんてこの程度のものだと痛感した。
 「ところでぜんぜんべつの話なんですけど、ちょっとお聞きしたいことがありまして」
 岩瀬は顔をあげ、消沈した声でつぶやいた。「なに?」
 「体の大きな警備員さんのことはご存知で?」
 「体の大きな警備員?」岩瀬は記憶をたどった。このマンションは二十四時間、警備会社員による常駐管理で、朝夕の通勤時間帯にエントランスに制服姿の警備員が立っていることがある。果たしてそこに……
 いる。
 たしかにでかい。身長は百九十センチ近いだろうか。身長だけでなく、横幅もかなりのもので、全体にのっそりとした感じがする男がひとりいる。かといって、相撲部屋からスカウトされるほどの体格ではない。
 「もしかして色白の、オタクっぽい感じの男のことかな」
 凛子は慎重な目つきになっていた。「たぶんそうだと思います」
 「それがどうかしたのかな」
 「オタクっぽい以外で、なにかお気づきになったことは?」
 「え……でも警備員なんてふだん目に入ってないからな」それはウソだ。目には入っている。ただ邪魔だと思っているだけだ。どうせろくな就職口もなくて、やむなく契約社員とか派遣とかで、制服の袖に腕を通しているだけの木偶の坊だ。とくにあの男なんてその典型だろう。「やつがあやしいんですか」
 「警察が動いているみたいなんです」
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