四章

文字数 17,723文字

 四章
 十一
 木曜の朝、岩瀬は堀内が出掛けるのを待って出勤した。そのときちらっと見たところでは、やつの家の玄関の下に巨大なゴキブリが挟まっているようには見えなかったし、もちろん岩瀬方の玄関前にもどされていることもなかった。おそらく住民に対する不信感をいだきつつも、やつが自力で始末したのだろう。落ち着いて考えればただの昆虫の死骸だ。動転するほうがおかしい。
 呼吸を整えて岩瀬は、九階のエレベーターの前に立った。やつがすでに出掛けたぶん、気がらくだったが、それでも背後の視線が気になった。溝口夫婦がこっそりもどっているかもしれなかったし、じいさんや風間嬢が出掛けたかどうか不明だった。
 それでも岩瀬は階段を使うつもりはなかった。自分のマンションだ。五千万も払った終の棲家だ。それなのにどうしてそこまでこそこそしなきゃならん。理性を働かせれば働かせるほど、腹が立ってきた。その怒りを鼻息で一気に吐きだしたとき、エレベーターがやって来た。そこに堂々と乗りこみ、もういちど鼻を鳴らした。そのときどこかの部屋で玄関の鍵が開く音がした。本能的に岩瀬はエレベーターの扉を閉じるボタンをたたいた。矛盾する気持ちにげんなりしたが、しかたなかった。おれは一生、隣近所とは顔を合わせないつもりだ。その基本方針をだれが非難するというのだ。
 ずっとそのことを考えながら通勤したら、有楽町線の新富町駅に到着したときには、顔も体もひどくこわばってしまっていた。まだ朝の九時だというのに、なんという疲労感だろう。駅の鏡に移った顔を見て、岩瀬は自分が十歳も老けてしまったように思った。
 ことによると堀内が会社にやって来たのは本当に偶然ではないか。岩瀬はそれを信じるほかなかったが、期待は見事に裏切られた。
 「ちょっといいか」出社するなり、室長の黒井に呼ばれた。客が来ているという。「おまえも知ってる人だぞ」
 そのひと言で岩瀬はいやな気持ちになった。黒井のあとについて、応接室がわりの会議室に向かう間、両脚にはみるみる鉛が注ぎこまれ、そのまま倒れこんでしまうんじゃないかと思った。だが倒れるわけにいかなかった。あと二十年近く会社にしがみつかねばならない。だったら役員候補の黒井にはすこしでもいい顔をしておかないと。
 会議室のドアが開くまでのわずかの間、相手があの禿頭の小男でないようにと一縷の望みを託していたのだが、地獄の門番さながらの冷酷無比さで黒井がドアを開けた途端、岩瀬は意識が遠のいた。できることならそのまま本当に意識を失いたかった。そうなればやつが長い舌をのばしてきたとしても、ペロッとされたことさえ感じないじゃないか。
 「ラザーの堀内さん。きのうお会いしたんだろ」
 そういうことか。あのチビ野郎、けさもうちの会社にやって来て、こんどはおれの上司である経営戦略室長への取り次ぎを頼みやがったな。姑息なやつだ。だが待て。真に仕事の話がしたいなら、室長相手ですむはずだ。それなのに黒井がおれを呼びに来たというのは、どういうことだ?
 岩瀬は、せりふもろくに覚えずに舞台に立たされた駆けだしの役者さながらに、会議室の入口にただぼんやりと突っ立ったまま、カーペットの床に目を落としていたが、頭のなかでは堀内氏の戦略について必死に分析をつづけていた。
 ひとつには、黒井が面倒な仕事を部下に押しつけようと考えたというのがある。厳密に言えば、宣伝戦略は次長である岩瀬の業務だった。しかし堀内のほうで、岩瀬の名前を出したとみたほうがいいだろう。まずは上司に取り入り、その完璧な支配下にある男を呼びだしてもらう。岩瀬に拒否権はない。
 なんて姑息なチビだ。
 「きのうはすみませんでした。突然呼びとめたりしまして」堀内は、新調したばかりの会議室のいすから、まるで天敵の襲来におびえた小動物が飛び跳ねるようにぴょんと立ちあがり、岩瀬の前に立ちはだかった。あの刃物のように光り輝く安っぽい名刺入れを握りしめて。
 「いや……まあ……」
 「本日も“忙しい”ときに恐縮です」堀内は岩瀬がきのう発した言葉を応用した。忙しい……中学のとき、不良の後輩にカツアゲされた少年がとっさに口にしたなさけない言葉だった。
 「ホテル関係はいくつか実績があるみたいだ」黒井は岩瀬が出社するまでのしばらくの間、この男から話を聞かされていたようだった。手元には何枚かA4判の紙が散らばっていた。ラザーの会社概要や営業実績などを記したパンフレットのたぐいだろう。「うちは担当が厳しいから難しいですよとは言っておいたんだ。でも宣伝の間口は広いに越したことはないからな。まあ、きょうはあいさつだよ」
 黒井の目線は岩瀬の手元に注がれていた。上司であるおれが相手をしている客と名刺交換をしないなんて魂胆じゃないだろうな。見えざる手が岩瀬の右手をつかみ、上着のポケットからくたびれた黒革の名刺入れをつかみださせた。堀内氏垂涎の宣伝責任者のお名刺だ。いや、やつにとってはゴキブリ蹴飛ばし犯の氏名と所属会社と連絡先を確定させる証拠品のひとつということになるのだろうか。
 ついに岩瀬は小男と名刺を交換した。そのさいやつは必要以上に体を近づけ、カメレオンのような目で下から岩瀬の顔を見上げてきた。なんだか異星人と名刺交換しているようで、岩瀬は落ち着かなかった。この男は、豊洲のマンションの九階で、岩瀬の家の向かいに住んでいる。その事実がまるで他人事に思えるくらい異常なコンタクトが目の前でつづいていた。
 岩瀬は席についた。黒井もいっしょだ。会議室のドアは閉じられている。岩瀬に逃げ場はなかった。名刺も渡したし、完璧に顔も見られている。いつまでも不自然な態度を取っていては黒井に不審に思われるし、事態を長引かせるだけだ。森で火の手があがったのなら、まだ下草が燃えているうちに消さないと。住民が避難せねばならないほどの山火事になるまで座視していてはならない。
 「きのうは失礼しました。ただ、うちは宣伝は基本的に自前でやってましてね」岩瀬は正面から鎮火活動を開始した。「キャンペーンとか大がかりなものがあるときだけ、宣伝会社におねがいすることはありますけど、長期契約しているところがあるもんでして」
 カメレオン星人は、叱られた子どもみたいな悲しげな顔をして岩瀬の話を聞いていた。もしこの宇宙人が、岩瀬が向かいの住人であることを知らずに偶然営業に訪ねてきただけだとするなら、ほかの宣伝会社同様、このまますなおに引きさがるはずだ。たとえあきらめないとしても、きょう、この場で居座るようなまねはすまい。だが堀内はおどおどした口調ながらすこしだけ粘ってきた。「なかなかきびしいですね。ただ、今回はまずはごあいさつのつもりでまいりました。弊社は小規模ながら、旅行代理店はもちろん、官公庁などにもさまざまな人的パイプを持っております。それを活用していただければ、御社営業の糧になるかとぞんじます」
 お引き取りを――。喉まで出かかったところで、黒井が言った。「さっき記者時代の話を聞いたんだ。なかなかユニークな方だよ、堀内さんは。うちの社員にはない経験をされている」なんだか弁護しているようだった。取りこまれてしまっただろうか。それとも本当に堀内氏――名刺には「株式会社ラザー 営業課 堀内隆士」とある――は、無害であるばかりでなく、腐れ縁の椎原が切り盛りするイン・ザ・ポット以上に役に立つ男なのかもしれない。
 「お恥ずかしい話です。わたし、転職組でして。五年前まで新聞社におりました」
 「東邦新聞だってさ。経済部にいたそうだ。そのころに人脈を広げていったってところまで、話を聞いていたんだ」
 「人脈といってもそれほどではありません。ただ、いまの仕事に十分生かすことができています」堀内は薄っぺらな胸を張った。
 岩瀬の興味はそんなところにはなかった。新聞社なんていまは斜陽産業だ。たとえ全国紙の東邦新聞だって、発行部数は目減りし、経営は難しくなっているだろう。とはいえ、まだ大幅なリストラなんて聞いたことはないし、なにより正社員であるなら、多少給料が削減されたとしても、九九%が会社にしがみつくはずだ。それなのにやつは五年も前に退職しただと? なにか個人的な事情があったとしか思えないじゃないか。たとえば痴漢とか盗撮とか――。
 女房がなんて言ってた?
 (じろじろいやらしい目で見るのよ。気色悪いったらない)
 セクハラか。
 その点を岩瀬はずばりと訊ねてみたかった。こっちの懐にまで飛びこんできたのだ。それなりの覚悟はあるだろう。虎穴に入らずんば虎児を得ず。そうさ、ここは虎の穴なんだよ。おまえは、自らの醜い過去を披露しなければならない。そしてすごすごと帰っていくんだ。あとは二度と会うこともないだろう。マンション? 安心しろ。こっちで避けてやるから。
 堀内は自ら話しだした。「経済部から内勤のIT事業部というところに移りましてね。スマホ向けの記事作りとかやるんですが、正直、あまり面白い仕事ではありませんでしたし、部署変更に伴い、賃金も下げられた。やっぱり新聞社は、一線記者がいちばん高い給料をもらえるんですよ。で、今の会社の社長から引っ張られたわけです。もちろん新聞社にいたころのほうが安定していましたが、やっぱり仕事のやりがいが大事ですからね」
 「まったくだ」黒井がうなずいた。「その意味じゃ、岩瀬なんて幸せだよな。やりたいようにバリバリやってるんだから」
 上司からぽんと肩をたたかれた。岩瀬は引きつった笑みを浮かべつつ、もういちど堀内の名刺に目を落とした。「ラザー……あんまり聞かないですね」本音だった。はっきり言えば、椎原のイン・ザ・ポットだって無名だ。
 「ちょっと前まで小口中心だったんです。ホテル広報などは最近の事業展開でして、目下、必死に営業をかけているところです。ただ、たしかに知名度がいまひとつなものでして、あちこちに広告は出すようにしているんですけど。駅の看板広告にもいくつか出しております。東横線の沿線とか」
 「そうだよ」黒井がひざをたたいた。「あるよ。祐天寺に」
 「はい、祐天寺駅には広告を出しております。ごらんになりましたか」
 「いま気づいたよ。そういえば毎日、目に入ってたよ。見過ごしていたな」
 「祐天寺にお住まいですか」
 「うん、そうなんだ」
 「高級住宅地ですね」
 黒井は謙遜して顔の前で手を振った。「そんなことないって。ふつうのマンションですよ。堀内さんはどちらですか?」事情をなにも知らぬ上司がストレートに聞いた。
 「豊洲です」堀内の目が輝き、その視線が岩瀬の顔に突き刺さった。
 黒井はもちろん岩瀬の居住地を知っている。目を丸くして部下のほうに顔を向けた。岩瀬は息が苦しくなってきた。心臓もばくばくいっている。が、黒井がそれ以上余計なことを口にする前に、堀内が勝手にしゃべりだした。しかし岩瀬の動悸は収まらなかった。それどころでない。
 破裂寸前になった。
 「うちの近所には高級マンションは増えてますけど、環境は祐天寺とかの本物の高級住宅地とは雲泥の差ですよ。なにしろ物騒です。ニュースでもやってますが、こないだもうちのマンションで、四歳の子どもが自転車のハンドルに取りつけたカミソリの刃でけがをしましてね。警察は事件性があると見ているようです」
 「あぁ、なんかあったな、そんな事件。テレビで見ましたよ」黒井は記憶をたどるように天井を見あげた。
 岩瀬がその話をしたのは、部下の森野と向井の二人だけだ。やつらが黒井にしゃべっているかどうか気が気でなかったが、黒井のようすからすると、その事件と岩瀬のマンションを結びつけてはいないようだった。
 「テレビじゃ言ってませんけどね」堀内はわざと声をひそめて言った。「わたしと同じフロアで起きたんですよ。九階の廊下です」
 「おなじフロアですか」黒井は驚き声をあげた。「気が気じゃないな。目星はついてるんですか、犯人の」
 堀内はちらりと岩瀬の顔を見てから言った。「カミソリの刃をハンドルに取りつけたビニールテープから指紋が一つ検出されているんです。警備員の指紋と一致しました」
 からからになった喉に岩瀬は必死になって唾を注ぎ落した。リポーターの西海凛子は、岩瀬だけでなく、堀内にも接近し、岩瀬にしたのとおなじ話を聞かせているのだろうか。
 「警備員か」黒井は合点したようにうなずいた。「物理的にはありえる話だな。動機はわからないけど」
 「そうではないみたいなんです」堀内は岩瀬の顔を見つめて言った。
 「警備員じゃないの?」黒井は純粋な興味から訊ねた。
 「巡回中、被害者宅の玄関前に自転車が倒れていたから、それを起こして壁に立てかけただけで、それ以上のことはなにもしていない。警察の事情聴取に対して、警備員はそう主張しています。だったら横になった自転車を警備員が言うやり方で起こすとき、検出された位置に本当に指紋がつくかどうか。深川署に警備員をつれてきて何度も再現実験をしたそうです。警備員には指紋の位置なんて教えていないんですが、何度やっても、たしかにおなじ場所、最初に指紋が検出された場所に指紋がついたそうです。もちろん供述内容も一貫しており、矛盾するところはありませんでした」
 「つまり警備員の主張には信憑性があると?」
 「それだけではありません」堀内は嬉々として話した。「所属先の警備会社の話だと、その警備員は勤務成績も優秀で、もともとは警察官になりたかったそうです。マンションの住人受けも悪くなく、むしろ好印象を持たれていました。被害者の両親も警備員とトラブルを起こした記憶はないと主張しています」
 「指紋はたまたまついただけか。なるほどね。だけど堀内さん、よく知ってるねぇ。そんなこと」
 「わたしも気味が悪いですからね。新聞社時代の仲間に聞いてみたんです。そうしたら社会部の若手が深川署に取材してくれたんです」
 「ふーん、すごいですね、新聞社って。だけどそうなると捜査は振りだしにもどったわけだ」
 「そうなんですよ。警察はわたしたち住人に的を絞ったようです」
 岩瀬は絶句していた。外部犯行だと確信していたのに、住人のだれかがやっただと? だいいちなんでこんな話をこの場で、向かいの部屋に生息する正体不明のエイリアンから聞かされなきゃいけない?
 「住人どうしのトラブルですか」嫌悪感もあらわに黒井は言った。
 岩瀬のほうは顔を硬直させて押し黙るほかなかった。堀内はおもに黒井に向かって話しかけていたが、ちらちらと岩瀬のほうにも視線を送りつけてくる。それはこっちの反応をたしかめているかのようでもあった。
 「おなじフロアに五戸入居してるんですが、もちろんうちは無関係ですよ。トラブルなんてないし、けがをしたお子さんだって、顔もわからないくらいです」
 それは岩瀬も同感だった。隣のクソガキがどんな顔をしていたかなんて、いちどあいさつに来たときにちょっと見ただけだし、あとはそもそものぞき穴情報しかないのだから判然としない。
 黒井はワイドショー好きのおばちゃんさながらに好奇心をしめしてきた。「堀内さんのところが犯人じゃないとすると、どなたか目星は?」
 その瞬間、刺すような視線が堀内のほうから飛んでくるかと覚悟したが、そうはならなかった。やつはじっと黒井の目を見つめて話しつづけた。「ぜんぜんですよ。そもそもマンションなんて、ほかの家のことに関心がありませんからね。どんなトラブルが住人どうしであったかなんてわからないですよ」
 巨大ゴキブリの死骸が廊下の端から端まで行ったり来たり。そんな眉をひそめるような事態は聞いたこともない。そう言わんばかりの平然とした口ぶりだったが、つぎにやつが口にした言葉は、ある意味、岩瀬に対し挑戦的で、目の前にいる宣伝担当の次長が自分にとってプライベート面で特別な存在であることをほのめかしているかのようだった。
 「そうはいっても多少は気になるものですよ。隣近所のことは。わたしもついつい、のぞき穴から見てしまう。内廊下なもので、音が響くんですよ。だから人が通るとすぐにわかる」堀内はにやついた顔をしていた。「向かいのお宅にすてきな奥さんが住んでましてね。隣にもひとり暮らしの女性がいるんですが、そっちはすこしけばけばしい感じがしていやなんですが、向かいの奥さんはちがう。三十代後半から四十代前半でしょうか。特段美人でもスタイルがいいわけでも、ミニスカートをはいているわけでもないのですが、どこかこうぐっとくる。しいていえば――」
 「セクシーってことかな」身を乗りだしてそれを口走ったのは黒井だった。
 「そう、そうなんです。なんとなく生活に疲れていて、どこか憂いをたたえている。それがかえって女性としての、とくにあの年代の女の色香を高めている。ひとり者のわたしには刺激的だ。酸いも甘いも知りつくしたというか……」はっとして堀内は口をつぐんだ。「失礼、初対面でばかな話をしてしまいました。この場に女性がいなくてよかった。いたら完璧にセクハラのイエローカードをもらうところですね」
 イエローカード……。
 圭子との会話が思いだされた。キムチのにおいを非難する黄色い警告書。それが以前玄関に入っていたのだ。岩瀬のなかの緊張が高まった。あれは堀内がやったのか。それを岩瀬に気づかせようと、さらりとジャブをかましてきたのか。
 「いや、とてもおもしろいね」黒井はめずらしくスケベな目つきをしていた。「するどい人間観察だ。さすがは元新聞記者」
 「勝手な妄想です。あいさつしたことだってないんですから」
 (じろじろいやらしい目で見るのよ。気色悪いったらない)
 圭子の言葉が岩瀬の頭でぐるぐるとまわっていた。やっぱりこの男――思ったとおりの独身野郎だった――は、邪な欲望に駆られながら圭子のことを見ていたのだ。
 「だから妙な事件が起きても、本当のところはからっきしわからない。見ていないんですよ。刑事さんにも言いました。協力したいのは山々だけどって」
 「本当に気味が悪いね」黒井は、岩瀬と堀内の関係など知らずに肩をすくめた。
 「まったくです。でも刑事事件的には傷害ですからね。刑法だと十五年以下の懲役かな。十五年ですよ。そんなに豚箱に入れられたら、わたしぐらいの年齢だともうどうしようもない。すごく重い罪ですよ」堀内はひとり言のようにつぶやいてから、鋭い目を岩瀬に向けた。「岩瀬さんのところは、治安はいかがですか」
 はっと虚を突かれ、岩瀬は固まった。
 「いいところにお住まいなんでしょう」先端が二つに割れた舌がちろちろと堀内の口もとからのぞいていた。
 「……たいしたところじゃ……ないですよ。安い住宅地……です」
 「東京の西のほうってイメージがある」
 「ちがうんだよ」善意で黒井が口をはさんだ。「堀内さんと――」
 そこから先を言われる前に岩瀬は上司は制した。「江東区です。東京の東のほう。西は高いじゃないですか」“トヨス”という言葉だけは、この場で絶対に口にはしない。強固な意志が伝わったらしく、黒井もそれ以上は口をつぐんでくれた。
 だが新参者の宣伝会社の男にとっては、クライアントにより接近するのに十分な情報だった。待ってましたとばかりに色めきだち「方向がおなじですね。こんど一杯いかがですか」と、ボーイスカウトの少年のように目をきらきらと輝かせて言った。
 「わたしも仲間に入れてほしいな」とどめを刺すように黒井が言った。
 なぜこの男は急に出現したのか。カミソリ事件に関係しているのか。まさかやつはおれを疑い、探りを入れに来たのだろうか。
 いったい何者なんだ?
 堀内が引き取るまでの残りの数分間、やつがなにを口にしたのか岩瀬はさっぱりおぼえていない。もはや論理的な思考ができる状況ではなかった。うんこを我慢する小学生のように深呼吸しながらじっと押し黙り、とにかくやつが立ち去るのを必死にねがっていたからだ。

 十二
 帰宅するのに今夜も緊張を強いられた。岩瀬は迷わず階段を使い、九階の踊り場でいったん外のようすをうかがってから廊下に足を踏みだした。堀内はすでに帰宅したのだろうか。それとも飛びこみの営業がうまくいきそうだと早々に会社の連中と前祝いに繰りだしているところだろうか。しんとした玄関のようすからはうかがい知ることはできなかった。だがやつは、向かいの住人が岩瀬であることを知り、そのうえで接近してきた。そう思っていたほうがいい。
 あしたから二泊三日の大阪出張だ。金曜はオータムキャンペーンのイベントをこなし、土曜は旅行代理店の連中と接待ゴルフ。気はつかうが、このマンションから離れていられるのは、いまは気晴らしになった。だから今夜はとっとと飯を食って寝てしまいたかった。
 いつもの短パン、Tシャツに着替えてから缶ビールを探そうと冷蔵庫を開けた。途端、激しいニンニク臭が鼻を突いた。上の段に二十センチ四方の白いダンボール箱が押しこんであった。側面にはハングルが踊っている。「おい、これ……」
 「おつまみにすこし出す? でもそのために買ったんじゃないの」
 月曜の晩の記憶がよみがえった。圭子は以前、玄関に入っていたイエローカードのことが気になると言っていた。それを入れた人物が今回のカミソリ事件にもかかわっている。そんなような推測だった。
 「おまえ、まさか」
 「そうよ。だって送り主がわかったほうがいいでしょ」
 圭子の作戦はこうだ。ダンボール箱に入っているのは前回同様、韓国産の白菜キムチだった。会社帰りにわざわざ大久保まで行って買ってきたという。それを今夜、多少は味見したのち、今回は大胆にも、いまなお発酵をつづける赤い漬物を包むビニール袋の口を開けたまま、玄関に放置するというのだ。
 「どうかなぁ……」イエローカードの配達人をあぶりだすための圭子の戦術の効果について、夫としては計りかねた。
 「相当神経質な人間であることはまちがいないんだから。寝室に異様なにおいが漂ってたら、いてもたってもいられなくなると思うの」
 「でもカミソリ事件で警察が出入りしてるときに、そんな下手を打つかな」そう言って岩瀬は、警察が住人に的を絞ったという話を聞かせた。
 「だれが言ってたの? そんなこと」
 岩瀬はその点は口をつぐんだ。もともと圭子は堀内を気味悪がっている。きょうのやつの異常行動を話すのは得策でなかった。「ワイドショーのリポーターだよ。こないだの人。また外にいたんだ」
 「それ見なさいよ。なかの人なのよ、やっぱり。だったらますますイエローカードの送り主があやしいじゃない」
 「だけどこんな方法で引っかかるかなぁ」
 「やってみなきゃわからないでしょ。それにこんなんじゃ眠れないわ」真顔で圭子は訴えた。
 それから圭子は夕食のしたくに取りかかり、豚キムチにキムチの味噌汁を作った。キムチはさすが本場の味で、コクとパンチの具合がスーパーの安物とはちがった。だがすでにリビングじゅうにひどいにおいが立ちこめている。それだけでも問題の配達人をおびきだせそうな感じだったが、圭子は計画を変更したりしなかった。胡桃材の玄関ドアの内側にまるで汚物の入った甕(かめ)でも置くように、白いダンボールをセットした。そのなかでは、じゅくじゅくといまなお赤い泡をたてながら白菜が汚臭を生産していた。
 それから二人はテレビを見て、パソコンをいじり、雑誌に目を通した。その間も廊下に鍵が開く音や足音が響くたびに玄関に駆け寄った。だが警告書を握りしめた者はだれひとりとしていなかった。
 深夜零時近くになって、エレベーターのドアが開く音が聞こえた。なかばあきらめかけていた岩瀬はのそのそと近づいた玄関で息を飲んだ。のぞき穴の向こうに堀内が立っていたのだ。やはりどこかで祝杯をあげてきたのだろう。日中よりもとろんとした目つきをしている。が、あきらかに岩瀬方の玄関を見つめているようだった。
 それは昼間の会社での出来事をふまえ、こっちをどうやって挑発しようかたくらみをめぐらせているようにも見えた。だがその一方で、帰宅早々、嗅覚を襲ってきた悪臭の源を突きとめ、どうやって制裁をくわえようか思案しているとも思えた。
 「どうなの……?」うしろから圭子が聞いてきた。
 「しいっ……」岩瀬は片足にサンダルを引っかけたまま、体をこわばらせた。
 それからじっくり一分ほど、堀内は岩瀬方の玄関をにらみつけていた。それから踵を返して自室に吸いこまれていった。岩瀬は生唾を飲みこんだ。禿頭の小男はきっと、向かいの部屋の玄関からふたたびあらわれる。黄色い紙切れを握りしめて――。
 そうはならなかった。九〇四号室の玄関はそれっきり開くことはなかった。二十分以上、玄関の内側に貼りついていた岩瀬は、肩のこわばりをおぼえながらリビングに引き返した。たまらず缶ビールをあおった。「無理だよ。警察が来てるんだし、へんに目を向けられるようなまねは、だれもしないんじゃないか」ソファに腰を下ろし、くすみが目だちはじめた天井を見あげた。
 圭子ももどってきて言った。「あなたはもう寝てて。あした早いんでしょ。あたしはもうすこし粘ってみるから」
 「向こうだってもう寝てるよ。それに、おい、ちょっときつすぎないか」岩瀬は限界までたちこめた悪臭のことを言った。「これじゃ、こっちが寝られないよ」
 圭子はむすっとした顔のまま思案していた。どうしても今夜、警告書の配達人を突きとめたいようだった。だが夫のことをすこしは気づかってくれた。「じゃあ、しかたないわ。あなたが出張してるあいだ、もういちどやってみるから」
 「うん、それがいい。だったら回収、回収!」岩瀬は妻の尻をたたき、玄関のニンニク爆弾を撤去に向かわせようとした。
 そのときだった。
 どこかの家の玄関で錠が回る音が響いた。
 「うそ……」玄関に急いだ圭子が声をあげた。困惑と恐怖の入り混じった声音に岩瀬も本能的に腰をあげた。
 それはキムチの入った白いダンボール箱の端にぶつかってとまっていた。玄関のドアの下から差しいれられたのだ。あのときとおなじ蛍光色の黄色い紙きれ。イエローカードだった。
 立ちつくす圭子のわきから裸足のまま玄関に飛びだし、岩瀬はのぞき穴に目を押しあてた。
 だれもいなかった。
 耳をすませてみても、物音は聞こえない。ついさっき岩瀬と圭子がリビングに引き返したわずかなすきにやって来て、警告書を入れ、すばやく部屋に入ったのだ。
 やはり堀内なのか。それとも――。
 出張前の夜、妻ばかりか岩瀬まで不眠に苦しみそうだった。

 十三
 東京スカイツリー見物とマングローブホテル東京の宿泊を組み合わせた特別割引プランが、オータム・キャンペーンの目玉だった。たいして値引きしているわけではないが、そもそも高額がネックとなっているスパ利用料金を雀の涙ほど割引したり、わざわざ東京に出てきた田舎者たちに食べさせるにはさすがにしのびないメインダイニングのスペシャルセットメニューを一〇%値引くなど、どうでもいい“特典”をこれでもかとつけて、イン・ザ・ポットの椎原にまとめさせたら、うまいことキャンペーンらしく見えてきた。
 それらを関西の旅行代理店に紹介し、なんとかパンフレットのラインナップにくわえてもらう。それが今回の出張先で開かれる商談会の趣旨だった。中国人観光客は、ひところの日本批判が盛んだったころにくらべると持ち直してはきたが、それでもピーク時ほどではなくなっている。しかも連中も勉強をしはじめ、よりコストパフォーマンの高いビジネスホテルを利用するようになってきた。高級ブランドのマングローブホテルにとっては、もはや中国人観光客はドル箱ではなかった。それよりもスカイツリー人気にかこつけて、金に余裕のある関西のおばちゃんたちをかき集めたほうが営業的には得策だった。その意味では、今回の商談会の成否は、岩瀬の将来をも左右しかねなかった。
 だから本音はべつとして、岩瀬は周到に準備をととのえたうえで、椎原を引きつれて現地に臨まねばならなかった。イエローカードのことは、とりあえず頭から振り払い、代理店の連中をうまいこと納得させねばならない。彼らがマージンの増額を要求してくることは目に見えているが、こっちは予算ぎりぎりの線でプランニングしており、正直なところ交渉の余地はない。商談会後の懇親会で多少高いワインを注文されても、翌日のゴルフで岩瀬が本来のシングルの腕前を見せられなくても、最終合意に至ればそれでいい。逆にそうでないと、上司の黒井もいい顔はしない。
 だが黄色い紙切れのことは、いつまでも岩瀬の頭にこびりついていた。マングローブホテル大阪のバンケットで開かれた肝心の商談会の間じゅうも、岩瀬はずっとそのことを考えていた。懇親会に移る前、圭子にメールを出した。フロアのようすをたしかめたかったのだ。するとしばらくして返信があった。
 よくわからないけど、なんだかバタバタしてるみたい。
 どこかの家に人が出入りしているということだろうか。きっと圭子ものぞき穴にへばりついているのだろうが、肝心のところまでは見えないようだ。ことによると警察がどこかの家に踏みこんだのかもしれない。それならそれでかまわない。一件落着……いや、そうなるだろうか?
 不安を暗示するメールがスマホに着信した。圭子からではなかった。堀内だった。渡した名刺に印刷したアドレスに送ってきたのだ。
 昨日はありがとうございました。御社オータム・キャンペーンへの参入希望の件、あらためてよろしくお願いもうしあげます。誠心誠意、お仕事させていただきます。色よきお返事をお待ちしております。堀内
 オータム・キャンペーンは動きだしている。それはきのう面会したさいにも伝えていた。いや、はっきりとは伝えずとも、わかったはずだ。だいいち初対面でちょっと口をきいただけで、「色よきお返事を」だと? なんて非常識なのだ。かっとなって岩瀬はそのメールをスマホから削除した。
 だが岩瀬の脳裏からは容易には削除できなかった。中華料理中心の懇親会の間、四度にわたってやつはおなじ内容のメールを送りつけてきたのだ。まるでいますぐ返事をもらわぬと困るとでも言いたげに。
 もちろん岩瀬はそのすべてを無視し、そのたびに削除をくりかえした。だがもはやあの男のにやついた顔は頭から離れなくなっていた。同時に昨夜、悪臭漂う玄関の前で見せた挑むような顔つきも。いったいなにを考えていやがる。が、真意がつかめぬまま、不気味な予感だけが黒い煙となって岩瀬の胸に立ちこめた。北京ダックもフカヒレスープもまるで味わえなかった。
 スカイラウンジでの二次会がお開きになる午後十時までの間に結局、十通のメールが着信した。中国発の迷惑メールだってここまでしつこくはない。注意をうながすために返信しようかとも思ったが、それも腹が立つのでやめた。部屋に帰り、寝る前に圭子に電話したが、いちいちそんなことまで伝えなかった。へんに怯えさせるのは賢明でないし、また眠れなくなったらかわいそうだ。
 岩瀬はミニバーにあったスコッチのミニボトルを空けた。こっちだって眠れなくなりそうだった。圭子は睡眠導入剤をピルケースに入れて台所の目につく場所に置いてあるが、岩瀬はそんなもの体に毒なだけだから使ってはならないと告げていた。だが正直に言うなら、今夜は岩瀬のほうがそれをためしたい気分だった。
 もとはといえばカミソリ事件だ。堀内が岩瀬に対してこうも執拗な態度を取るのは、岩瀬夫婦をカミソリ事件の犯人として疑い、つけこもうとしているからだろう。だがそれはお門ちがいだ。圭子は札幌出張のアリバイがあるし、もちろん岩瀬だって無関係だ。それにイエローカードの一件がある。その送り主こそ――堀内を除外すれば、じいさんか風間嬢ということになる――カミソリ使いということになる。だったらそのことを面と向かってやつに言ってやったほうがいいのだろうか。だが自分がマンションの向かいに住んでいることを、いよいよ岩瀬のほうからカミングアウトした場合、その後の事態にどう影響するだろうか。すでにやつは十中八九、岩瀬の正体を知っている。だからわざと向かいの奥さん――つまり圭子――の話なんかを持ちだし、岩瀬を揺さぶろうとしているのだ。いまここで腹を割ってやつと向き合い、カミソリ事件の真相について議論したらどうなるだろう。
 どうしても頭をもたげるのは、その後の暮らしのことだ。住人どうしとして一度でも接触を持ったら、なにかにつけ気をつかうはめになる。それがずっとつづくと思うと、岩瀬は鬱々とした気分になった。たとえそうなったとしても、そんなもの軽くうっちゃってしまえばいいのだが、それができるくらい岩瀬は――それに圭子も――図太くはなかった。これまでの人生経験からすれば、余計な人間関係は作らないのがいちばんだった。
 翌朝、空は曇っていたが、雨粒は落ちていなかった。そのぶん涼しく、ラウンドするにはかえっていい感じだった。コンペの一組目が定刻よりも十分遅れの八時七分にスタートし、とりあえず岩瀬はほっとした。すくなくとも昨夜の懇親会の時点では、代理店の連中からマージン増額の要求は出なかった。接待と言ってもゴルフは遊びだ。この場で仕事の話を持ちだすのは野暮というものだ。あす以降、事務的な手続きを進めるが、それは森野や向井にまかせてしまえばいい。それに椎原もいる。岩瀬としては、あと半日の辛抱だった。
 だが帰ったら帰ったでべつの悩みがある。これには岩瀬も閉口したし、進退きわまった。堀内はこの日の朝にも、それどころか昨夜から一時間置きにメールをよこしてきたのだ。これはもう異常者と断定してもいい領域に踏みこんでいた。そこで岩瀬はコースに到着後、スマホの電源を落としていた。こうすればすくなくとも数時間、狂人に悩まされずに仕事に集中できる。
 「うまくいきそうな感じですね」昼食休憩のさい、前の組でプレーしていた椎原が、岩瀬がレストランに入ってくるのを待ちかまえて言った。
 「うまくいってもらわないと困るんだよ」椎原に責任を転嫁するように岩瀬は言い放った。「とにかく気分よく帰ってもらう。土産のほうはだいじょうぶなんだろうな」
 「ばっちりです。おまかせください。少々予算オーバーしてますが、だいじょうぶです」
 「予算オーバーってなんだよ」代理店の連中が先にテーブルについていた。そこに向かう前に岩瀬が訊ねた。椎原には今回の接待は予算厳守と告げてあった。
 「ご心配なく。オーバーしたぶんはうちで持ちます。それでも喜んでいただけるお土産を用意しましたから」
 「そうか。それならいいが、参考までにいくらオーバーした?」
 「そうですね……ざっと十万ほど」
 「十万? おまえ、マジにそれ、そっちで落とせるんだろうな」
 「がんばります。ご迷惑はおかけいたしません。わたしも勝負かけてますから」
 「よし。これはうちのイベントだ。成果もうちの営業努力によるものだ。おまえのところは存在しないも同然だ」テーブルについていた客が手を振って岩瀬のことを呼んだ。岩瀬は作り笑いを浮かべ、そっちに向かいながら声を低めて椎原にたしかめた。「それでもいいんだな」
 「結構です。仕事をいただけるだけでありがたいんです」
 「忘れるなよ、その言葉」そう言い放ってから岩瀬はゴルフズボンの前ポケットに突っこんだスマホを取りだし、電源を入れてみた。
 テーブルにつき、客の飲み物とランチを注文している間にポケットにしまいなおしたスマホが振動をくりかえした。生ビールのジョッキが運ばれるのを岩瀬はじりじりと待ち、形ばかりの乾杯をしたのち、テーブルの下でさりげなくスマホをチェックした。
 二件着信していた。
 新しいほうは午前九時二十一分、圭子からだった。
 さっき堀内さんが玄関の前に立っていたわ。キムチまだにおうのかなぁ。
 「だいじょうぶですか」客が声をかけてきた。大阪に拠点を置く大手代理店の部長だった。
 「え……」岩瀬はすぐには返事ができなかった。体から血の気がみるみる失せていくのが感じられた。「いや……はい、問題ありません」
 「お忙しいんやな」
 「あぁ、いえ……」
 「かまへんでっせ。どうぞ、どうぞ」
 「すみません……」唇をかみしめ、岩瀬はスマホを操作した。もうひとつの着信は午前八時四十二分、やつからだった。
 あんまり無視すると大変なことになりますよ。成果が出ないとわたしも会社でたいへんなんです。これじゃほんとに嫁さんももらえないろくでなしですよ。向かいの部屋のきれいな奥さんを見てしごくしかほんとに楽しみがなくなってしまう。
 「ちょっと失礼します」きんきんに冷えた生ビールをあおる客たちに深々と頭をさげ、岩瀬は席を立った。

 十四
 迷惑メールさながらにさらにやつから一時間おきにメールが入った。羽田からタクシーを使いたかったが、経費として落ちるか微妙だった。はやる気持ちを抑えて電車を乗り継ぎ、岩瀬が豊洲駅にもどったのは、夜中十時をまわっていた。
 コースから昼にかけた電話では、堀内の姿はもう見えないという。だが岩瀬はその場で東京にもどるわけにいかなかった。コンペのホストとして、後半も――接待ゴルフのレベルをはるかに超えてスコアは乱れに乱れたが――最後まできっちりつとめ、その後、懇親会が終了するまで無理をして笑顔を振りまきつづけた。
 極度の疲労感にひざの裏の筋が両脚ともこわばって歩くのもつらかったが、駅からマンションまで懸命に速足をつづけた。もう何度目の電話になるか。しかし確認せずにはいられなかった。圭子は、夫が堀内に最近悩まされている事情を知らない。それでももともとやつのことを嫌っていたから、がっちり鍵をかけた玄関の内側で気味悪がっているようだった。
 エントランスが近づいたとき、見知った人影に驚いた。土曜の夜だというのに、また来ている。リポーターの西海凛子だった。週明けのネタに困っているのだろうか。
 「すみません、夜分に」
 「警備員の話、どうなりました?」早く家に帰りたかったが、会社に押しかけてきた堀内が言っていた話の信憑性をたしかめようと、つい聞いてしまった。
 「どうもちがったみたいなんです」けろっとした顔で凛子は言った。「あとは内部の線だって、警察は見ています」
 げんなりして岩瀬はため息をついた。「そんなこと言われてもねぇ。うちじゃないってこと以外はわからないですよ。被害者を除く三軒のうちのどこに犯人がいるかなんて」
 「どんな方たちなんですか」凛子は迫ってきた。
 岩瀬は堀内のことを話そうかと思ったが、いまは圭子のほうが心配だった。「悪いけど、きょうは急いでいるから」
 「どなかた亡くなられたようなんです。それで急いでるんですか」
 岩瀬は一瞬ぎくりとしたが、妻とは数分前に話したばかりだ。
 「昼過ぎに霊柩車が来てました」
 「どこの家だろう」
 「さあ、何人か聞いてみましたが、わかりませんでした」
 「カミソリ事件の犯人の第二の被害者だって言うんですか。しかもこんどは命まで奪われた?」
 「そうとは思っていませんけど……きょうはお仕事ですか?」愛らしい笑みを浮かべながら凛子はさりげなく訊ねてきた。
 「仕事……まあ、そんなものかな。くたくたですよ。じゃあ、ごくろうさま」そう言い残し、岩瀬は美人リポーターを残してエントランスに吸いこまれていった。
 エレベーターが九階で開くなり、キムチの残り香が鼻を突いた。またイエローカードが入ったかと岩瀬は不安になりながらも、ようやく自宅の玄関までたどり着いた。
 「堀内さんに怒鳴りこまれるかと思ってひやひやだったわ」
 怒鳴りこむだけじゃないかもしれないぞ。岩瀬は言ってやりたかったが、そんなことをしてもへんに妻を怯えさせるだけだ。冷静に考えれば、向かいの男はうちがカミソリ事件に関与していると勘ちがいして悪のりしてきているだけだ。だからそれをただすには、真相を解明するのがいちばんだ。そこですくなくともいま、カギを握っているのがイエローカードの警告者だった。しかしそれについてふたたび推理を巡らせるには、身も心も疲れきっていた。岩瀬は圭子の話もろくに聞かぬ間に、いつしかソファで寝入ってしまっていた。
 日曜は遅くまで寝ていた。疲れが抜けないし、堀内と顔を合わせることを考えると、外に出る意欲は出なかった。圭子にたのんできょうはごろごろさせてもらうことにした。とはいえ廊下で物音がするたびに夫婦そろってのぞき穴に飛びついた。午後になって風間嬢が出掛けていくのが確認された。じいさんは三時過ぎになってあらわれた。どこかから帰ってきたようだった。白シャツに黒っぽいズボンをはいている。膨らみきった大きな紙袋を両手にさげていた。堀内の姿だけが確認されなかった。いや、こちらから見えないだけで、向かいの玄関の裏にヤモリのように張りついているのかもしれない。メールだけは相変わらずほぼ一時間おきに着信する。内容は変わらないが、変質者への疑念はますます高まっていく。
 夕方遅くになって、新聞も取っていないことに気づいた。アルコーブに据えつけた新聞受けから朝刊を取ろうと、おっかなびっくり玄関を開けた。向かいの玄関ののぞき穴から顔が見られないよう注意して腕だけのばしたら、肩にぴきっと痛みが走った。やれやれこんなことで四十肩にでもなったらしゃれにならない。岩瀬はゆっくりと新聞をつかみ、ドアを閉めた。
 そのとき廊下の空気が室内に入ってきて、それが岩瀬の嗅覚をかすかに刺激した。キムチ臭ではない。もっとべつのにおい。煙っぽい香りだった。トイレの悪臭を消すのにマッチをするといいと、むかしテレビでやっていたが、そんなような感じだった。
 さすがに六時前になって、圭子が夕食の買い物に出かけた。外に出たとたん、堀内がヒルのようにたかるのではと心配だったが、ボディガードとして同行するだけの度胸は生まれなかった。なんといっても表向き岩瀬は、堀内とおなじマンションのおなじフロアに暮らしていることをまだカミングアウトしていなかったからだ。
 「なんてことなの……」
 三十分ほどして帰宅するなり、買い物袋を放りだし、圭子は台所に飛びこんだ。
 「だいじょうぶか――」
 「まちがいないわ。これよ」圭子は例のイエローカードを手にしていた。「これってなにかの包装紙を切ったものよね」
 岩瀬はわけがわからなかった。「たぶんそうだと思う。でもなにがあったんだ」
 「切る前の紙、もとの包装紙があったのよ」
 「えっ……」
 「外よ。玄関にごみ袋が出ていたの。そこに入っていたのよ。まちがいないわ。じっくり見ちゃったもの」
 岩瀬は玄関に飛びだし、胡桃材のドアに頬骨を激突させんばかりのいきおいで、のぞき穴に顔を寄せた。
 それは都指定の半透明のごみ袋だった。それが二つばかり転がっているのが確認された。正面の部屋ではない。その左側。じいさんの部屋の玄関だった。
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