七章

文字数 9,065文字

 七章
 二十三
 蜘蛛男となった日の夜八時過ぎ、マンションに帰宅した岩瀬は、エントランス前でまたしても凛子につかまった。
 「けさは何時ぐらいにご出勤されましたか」凛子はこれまで見せたことがないほど強張った顔つきで訊ねてきた。
 それに合わせて岩瀬も頬を引きつらせ、はっとしたかのような印象を演出して足をとめた。「なにかありましたか」
 「九時過ぎにいろいろあったみたいなんです」
 「その時間には会社にいましたよ。出掛けたのは八時半前かな。なにがあったんです?」岩瀬は凛子のほうに身を乗りだした。甘酸っぱい香水のにおいが鼻先をくすぐった。つい心を許してべらべらと余計なことまでしゃべりだしそうになったが、気を引き締めた。
 「溝口さんのお隣に暮らす男性、桜田さんとおっしゃる方ですが、亡くなっているのが見つかったんです。お隣の男性が異臭に気づいて通報したそうです。死後、三日ほどたっていたそうです」
 凛子相手を予想した様々なシミュレーションのなかで、ここがいちばん肝心な部分だった。会社にいる間じゅう、それこそ何度、心のなかで予行演習をくりかえしたか知れない。それだけにハッピーなくらい自然に驚いてみせることができた。「ぜんぜん知らなかった。桜田さんなら何度か見かけたことがある。品のいいおじいさんですよ……亡くなったんですか……どこか悪かったのかな」
 「こないだ霊柩車が来ていたの、桜田さんの家だったんです。奥さまが亡くなられたらしくて。気がつきませんでした?」
 「そうだったのか。だけどこれはうそじゃないけど、ほかの家のことには気が向かないんですよ」
 「警察は、奥さまが亡くなられたことで前途を悲観した桜田さんが薬を大量服用したと見ています」
 「薬……?」
 「睡眠導入剤です。ただ、直接の死因は吐瀉物を喉に詰まらせた窒息死みたいですけど」
 「もともと不眠症だったんですかね」
 「騒音問題などで近所にクレームをつけたりしていたようです。とくに溝口さんのお子さんがうるさいと感じていたらしいです。それについては被害者の母親からも確認してきました。そのストレスが高じてカミソリ事件を引き起こした。薬の大量服用はそれによる罪の意識から逃れるためでもあった可能性がある。警察はそう見ています」
 「それって桜田さんがカミソリ事件の犯人だってことですか」岩瀬は眉をひそめてみせた。
 「捜査の結論が出たわけじゃないですけど」凛子は肩を落としてつぶやいた。「状況的にはそうなるのかな。でも結局は死人に口なし。番組でもどこまで放送できるかわかりませんね」
 溝口夫妻は納得するだろうか。それ以前に愛息を傷つけたと疑われる老人が隣戸で薬をあおって死に至ったマンションに舞いもどって、それまでどおりの生活にもどることができるだろうか。
 無理だ。
 遠からずやつらは引っ越すにちがいない。それはあのクソガキにそろって悩まされていたフロアの残りの住人にとって――もちろん堀内にとっても――好都合なことこのうえない。だったら岩瀬と圭子は、堀内に感謝されこそすれ、恨まれたり、足もとをすくわれたりする筋合いはない。ただ、やつが人格障害であることはまちがいないし、道理が通じる相手でもなかろう。ここは腹をくくって、やつの出方を見極める必要がある。それにカミソリ事件に関する圭子の行動について、やつがどんな証拠を握っているのかもたしかめたほうがいい。所詮はのぞき穴から見ただけの話だろう。自転車のハンドルに凶器を装着する確たる瞬間なんて、そうそう見えるものではない。
 そう思って帰宅した岩瀬だったが、その日の深夜零時過ぎ、そろそろベッドに入ろうかというとき、インターホンが鳴った。
 堀内だった。
 帰宅してまだ着替えていないようで、いつもの白シャツに紺のスラックス姿だ。のぞき穴の前で岩瀬は唇を噛んだ。やつが自宅に岩瀬を訪ねるのははじめてだ。岩瀬は堀内とおなじマンション――しかもおなじフロア――に住んでいることはまだ明かしていない。これまでの言動を考えれば、やつがそれを知っているのはまちがいないが、いまここでこっちが姿を見せるとなると、いよいよ岩瀬はやつから逃れられなくなる。おなじフロアの住人どうしという岩瀬がもっとも忌避したい関係を認めることになり、あとは抜き差しならぬ状況がつづくことだろう。
 立てつづけにインターホンが鳴り響いた。フロアにはまだ風間嬢が暮らしている。へんに勘ぐられたくはない。岩瀬が妻に向かってうなずくより先に圭子が受話器をあげていた。
 「デジカメ知りませんか。わたしのデジカメです」夜分にすいませんなんて前置きはいっさい無視して、堀内は一気にまくしたててきた。その声は受話器なんかより、このマンションの名物である内廊下に奔放に、それこそがんがんと響きわたっていた。「玄関の前に置いておいたのがなくなってしまったんです。そのカメラがあれば、この階で最近起きたとても恐ろしい事件を解決できるかもしれないんです」
 風間方のドアののぞき穴からは、岩瀬方の玄関がよく見える。彼女がそれを実行しているさまが岩瀬の脳裏にありありと浮かんだ。
 「デジカメ……さあ、見たおぼえはないですけど……」苦しげに圭子が告げたが、堀内はさらに噛みついてきた。
 「じゃあ、ご主人なら知っているかもしれない。お話できませんかね。ドアを開けてください」その言葉と同時にドア全体が音をたてて揺れた。やつがノブを持ってがたつかせているのだ。「もうそろそろ出てきてくださいよ、岩瀬さん。おねがいしますよ。顔を見せてください、岩瀬次長……」
 アームロックを外し、錠を回転させたのは岩瀬だった。つぎの瞬間にはドアが引き開けられ、サンダル履きの堀内が玄関の内側に入りこんでいた。
 岩瀬は圭子を守るようにしてその前に立った。会社にやって来た宣伝会社の男が、向かいの部屋の住人であることが表向きは判明した瞬間だったが、岩瀬は気まずさは感じなかった。むしろすっきりした気分さえした。こんなことならもっと早く顔を見せておくんだった。とはいえ、堀内はいまにも先端の割れた長い舌を吐きだしそうなほどの不敵な笑みを浮かべている。
 「ようやくわたしのこと、認めてくれたみたいですね、岩瀬次長」そう言って堀内は玄関の錠を回し、アームロックまでかけた。そしておもむろにスマホを取りだし、動画の再生をはじめた。
 のぞき穴から撮影したとは思えぬくらいクリアな映像だった。ズームを使ってもぶれることなくくっきりと被写体にピントを合わせていた。わずか数秒間の動画だったが、岩瀬は鉛でも飲まされたように胃袋にどんよりとした重みを感じた。圭子のほうに目を向けることもできなかった。
 おなじ動画が何度もくりかえし再生された。そのたびにスマホのなかの圭子は、子どもの自転車に近づき、中腰のままそのハンドルになにかを装着していた。そこでズームが始まり、圭子が手にしているのがカミソリの刃であるとわかる。ありがたいことにそれが天井の明かりをきらりと反射する瞬間までカメラはとらえていた。
 「そっちの要求はなんだ」岩瀬は思いきって訊ねた。
 それにはすぐに答えず、堀内はサンダルを脱いで部屋にあがってきた。つかつかとリビングに入りこみ、岩瀬が愛用する北欧製の牛革ソファに腰かけた。「いい暮らししてるじゃないですか。思ったとおりだ」リビングのあちこちに目をやり、堀内はひざをたたいた。「わたしだって新聞社勤めを辞めなきゃ、こんなふうだったかな。結婚だってできたかもしれない。こんなふうにきれいな奥さんをもらってね」ソファの前に立ちつくす夫の背後でびくびくする圭子の体を舐めまわすような視線を送りつけてきた。
 「なにが言いたいんだ。自分で新聞社を辞めたんだろう」
 堀内はソファに寝転び、ぶつぶつと呪文を唱えるように話しだした。「経済部を出されて、IT事業部ってとこに行かされたんですよ。編集部門じゃないからそりゃ給料下がりましたね。だけどIT部門の現場で働く下請け会社のエンジニア連中とくらべりゃ、奴隷と主人みたいな経済格差でしたよ。もちろんこっちは現場の知識なんて皆無にひとしいから、じっさいの作業は連中にまかせてる。いきおい向こうは残業だってハンパじゃなくなる。そうなると高い給料もらってふんぞり返るだけで、ろくに仕事もできない社員なんて白い目で見られるだけなんですよ。そんなある日、連中のなかの一人がわたしのことをチクりやがった。よりによってライバル紙の社会部にね。せっかく会社は必死に隠してくれていたのに、その苦労は水の泡。コンプライアンスとかうるさい世のなかでしょ。それで人事部も守りきれなくなっちまって、はい、さよなら。クビですよ」
 「クビ……なにやったんだ」
 「痴漢ですよ。女子高生の短いスカートに前から手を入れたんです。本当はそれで経済部を出されたんですよ。あんただってやりたいでしょ。毎日毎日似たようなこと考えて通勤してるはずだ」
 「それで宣伝会社に……」
 「そうですよ。収入はガタ落ち。FXとかも手を出してますけどなかなかね。このままじゃお先真っ暗ですよ。だけどわたしだって希望を失ったわけじゃないんだ。頼みの綱は岩瀬さん、あなたですよ」堀内は小男にしては細長いピアニストのような指を一本立て、岩瀬に向かって突きつけた。「デジカメ盗ったでしょう。桜田さんの家から出てくるときに。ちゃんとわかってるんですからね。でもまぁ、いいでしょう。デジカメなんて。あなたたちがあの家にいた証拠なんて、鑑識が本気出せばすぐに見つかるはずだ。わたしはね、善意で警告したんですよ。レッドカード入れて」やっぱりだ。あの赤い警告書はこの男が差し入れたのだ。「あんたらがこれ以上、悪事に手を染めないようにね。ところがどうだい。あんたらは、あの老人に罪をなすりつけようとした。そうなんだろ? まったくどこまでふてえ野郎なんだ!」
 堀内の怒声に岩瀬はひるんだ。だが視線はやつが握りしめたままのスマホに注がれていた。タイミングを見はからい、それを奪わねば。
 こっちの魂胆は完全に見抜かれていた。「奥さんのやったことはこれに録ってある」堀内はスマホを二人に見せつけた。「バックアップのご心配はなく。ちゃんとべつの場所に保管してありますから。だから奥さん、あんたには――」堀内はソファから立ちあがり、圭子のほうに一歩近寄った。岩瀬はつぎなる堀内の行動を阻止しようと身がまえた。「傷害罪でちゃんとムショに入ってもらいますよ」
 「それがあんたの望みなのか」岩瀬はかすれ声になって訊ねた。「おれたち夫婦を……破滅させたいのか」
 「目下のわたしの一番の望みは、生きてここから脱出することですよ。だってあなたたちは人を一人あやめているんだから。なんて恐ろしい人たちなんだ。だけどわたしがここへ来ていることは、隣のあの女がのぞき穴から見ているだろうから、もしわたしがこの家から出ていかなかったら、そりゃ不審に思うでしょうねぇ。だからあなたたちもへんな考えは起こさないほうがいい。そのうえでわたしを満足させてほしいんですよ」

 二十四
 翌日、夕方までにすべての書類が整った。なにより神経をつかったのは、上司の黒井への説明だった。だがすでに黒井は堀内の術中にはまり、やつに好意を抱きだしていた。不幸中の幸いでそれに後押しされたこともあって、黒井は宣伝会社の変更をあっさり許可してくれた。
 烈火のごとく怒ったのは、イン・ザ・ポットの椎原武だった。電話だけでは納得せず、午後一番で乗りこんできた。それまでとは打って変わって狂犬のような噛みつき方だった。それもそのはずだ。イン・ザ・ポットの仕事の大半は、マングローブホテルグループの宣伝で成り立っている。それを他社に奪われたら、従業員はもちろん、社長の椎原だって路頭に迷うことになる。
 「聞いたことないですよ! ラザーなんて会社! これまでわたしが岩瀬さんのためにしてきたことって……酒もゴルフも――」
 部下の森野も向井も凍りついた。抑制がきかなくなった椎原とともに会議室にこもった岩瀬は、やつの激情に身をゆだね、全身血まみれになった。最後に椎原がいすを蹴り飛ばして出て行ったとき、岩瀬はすべてが終わったと放心状態になった。へとへとだった。サラリーマン生活でまちがいなく最悪の一日だった。だが椎原の顔を見ることは金輪際あるまいし、法的にはうちはなにひとつ悪いことはしていない。宣伝の包括委託契約書にだって、相応の事由によりいつでも解約できる条項が盛りこまれている。岩瀬にとって致命的なことなどなにひとつなかった。
 これから堀内とどう仕事をしていく? それよりあのマンションでどう暮らしていく? そんなことは追々考えればいい。おれもあいつも似た者どうしじゃないか。
 だがおあいこというわけにはいかなかった。

 二十五
 前夜とおなじ深夜零時過ぎ、堀内がインターホンを鳴らした。風間嬢も帰宅している。ちがうのは溝口家の主人が帰ってきていることだった。うちと堀内がトラブルになっていることは、とくにあの夫婦にだけは知られたくなかった。圭子は寝間着用のTシャツにショートパンツ姿で太ももを露わにしていたが、気にしているひまはなかった。岩瀬は二度目のインターホンが鳴る前に玄関を開けた。
 やつはコンビニのビニール袋をさげていた。
 「なにか用ですか」岩瀬はそれ以上やつを家に入れぬよう玄関に立ちはだかり、できるだけ毅然として言い放った。圭子はリビングから怖々と顔をのぞかせている。
 小男は上目づかいでじっと岩瀬のことを見た。口もとに気持ちの悪い微笑みを浮かべている。「まるで野良犬を追っ払うみたいな言い方ですね。せっかくお近づきになれたんだ。もっと仲良くさせてくださいよ」そう言って堀内は玄関を閉め、部屋にあがろうとしてきた。
 「待ってくれ。用があるならここで言ってくれよ」
 「すこしばかり感謝の気持ちをあらわしたいだけなんですよ」ガサガサと音をさせて手にしたビニール袋からなかのものを取りだした。スパークリングワインのボトルだった。「御社の仕事を請け負うことができて本当に感謝しているんです。いっしょに飲みましょう。隣近所なんだし、ささやかながらお近づきのしるしですよ」すでに栓を保護する金具を外しはじめている。
 「ちょっと待ってくれよ」頭のなかがかっと熱くなった。マンションの住人どうしで酒を酌み交わすだと? 岩瀬の辞書にはただのひと言も記されていない行為、現代を生き抜くうえで存在してはならない行為だった。「仕事はやったろう。それで勘弁してくれないか」
 内廊下にも響きわたるほどの盛大な音がして栓が抜け、天井にぶつかったコルクが岩瀬の足もとで跳ねまわった。瓶の口から吹きだした泡をこぼすまいと、堀内はあわててそれをすすった。チビのゲイが外人の巨根をうれしそうにフェラチオしているみたいだった。
 「勘弁……ですか? まるでわたしがあなたを責めているみたいじゃないですか。そんなんじゃない。もっとふつうにお付き合いがしたい。このマンションに暮らすすべての住民が心の底で感じていることを実践したい。それだけなんですよ」堀内は瓶をあおり、ぐびぐびと喉を鳴らしてから大きなげっぷをした。ジャングルのホエザルが仲間を呼ぶときみたいな感じで、それもまた内廊下に響いた。
 岩瀬は限界だった。いつの間にか夫の背後に近づいてきた圭子もがたがたと体を震わせている。「おたがいこれまでどおり――」岩瀬が口走ったとき、いつの間にかビニール袋に突っこまれていたやつの手がにゅっとこっちへのびてきた。
 首筋に激痛が走った。
 岩瀬はアメフトのタックルを食らったように体ごとうしろに吹っ飛ばされ、圭子もろともカーペットに転がった。
 首の左側を中心に全身の神経が火であぶられたみたいに痛み、網膜まで異常をきたしたかのように断続的に目の前が真っ暗になった。頭のうしろで過呼吸でも起こしたような圭子のすすり泣きが聞こえる。岩瀬は底知れぬ恐怖に襲われたが、体はまったく動かない。
 堀内は左手にスパークリングワインのボトルとビニール袋、右手に電動シェーバーのようなものを手にしていた。シェーバーらしき物体の先端から青白い火花が散る。
 かろうじて立ちあがった圭子に向かって、堀内はスタンガンを突きだした。端子が彼女の体に触れることはなかったが、抵抗を制するには十分だった。堀内はサンダル履きのまま家にあがり、倒れたままの岩瀬のわきをすり抜け、拳銃で脅すようにして圭子をリビングに追い詰めた。
 「よせ――」
 声を発した途端、やつが踵を返してもどってきてもう一度、スタンガンの先端をこんどは反対の首筋に押しつけた。
 気づいたとき岩瀬はリビングの台所側に転がっていた。堀内が引きずってきたのだろう。口にガムテープのようなものが厳重に貼りつけられている。隣には圭子も倒れていた。体を丸め、つらそうに顔をしかめて首に手をあてている。電撃銃を見舞われたらしい。岩瀬は立ちあがろうとしたが、思うように体が動かず、バランスを崩して横ざまに倒れてしまった。それで気づいた。なにかがおかしい。両手が背後から強く引っ張られ、そのたびに左右の手首に痛みが走った。岩瀬は倒れたままの格好でうしろに目をやった。
 まうしろにシステムキッチンがあった。その下にある扉が開放され、そのなかに両腕とも引きずりこまれている。左右の手首にはいずれも手錠がはまり、鎖の部分が扉を開いたすぐのところを走るガス管に通されていた。腕に力をくわえてみたが、ガチャガチャいうだけでびくともしない。
 堀内はぐったりとした妻の体を抱えあげ、ソファに放り投げた。圭子は短い悲鳴をあげ、逃げだそうとしたが、堀内が目の前で青白い火花を散らせるとたちまちおとなしくなった。その姿を愉しむように眺めながら、堀内はコンビニのビニール袋からもうひとつ手錠を取りだし、圭子の左手首にはめた。そして反対側をソファの脚にはめるや、もういちど電撃銃の先端を妻の鼻先に近づけた。
 「やめて……」もはや圭子は悲鳴すらあげることができなくなっていた。かわりに岩瀬がくぐもったうなり声をあげた。
 ダイニングテーブルに置いたスパークリングワインのボトルに堀内は手をのばし、満足そうにあおった。そして夫がいることなどおかまいなしに目の前の女に覆いかぶさった。「奥さんのことがずっと好きだったんですよ」
 圭子は自由になる右手と両足を使って暴れだした。強烈なキックが堀内のみぞおちに食いこみ、トカゲが車に轢かれたときのようなグエッという声がやつの口から漏れた。
 「…………!」声にならぬ声をあげ、岩瀬は必死に両腕を動かしてガス管を折ろうと試みたがむだだった。
 「いやっ!」やっとのことで圭子が悲鳴をしぼりだしたとき、スタンガンが火花を散らし、ふたたび彼女は失神した。よりによって両腕を頭上に高くあげ、立てた片ひざをソファの背もたれのほうに緩やかに開いた格好で。ショートパンツの隙間からは、真っ白い太ももの付け根を覆うオレンジ色のパンティまでのぞいていた。
 「こんな好き放題なことができるなんて夢のようだ」そう言いながら堀内はボトルを握りしめたままソファに腰掛け、空いた手で失神したままの妻の体を撫でまわしはじめた。
 「…………!」
 声にならぬ夫の絶叫が悪魔の気をひいた。堀内はボトルを持って立ちあがり、近づいてきた。「失礼しました。今宵は宴でしたね。岩瀬次長もぜひともめしあがってください」そう告げるなり、堀内は岩瀬の顔の上でボトルをすこしばかり傾けた。黄金色の液体が泡を立てながら岩瀬の顔を濡らした。「もっと飲みたいならどうぞ。犬みたいに飲んでてくださいよ」堀内はボトルを岩瀬の目の前の床に起くなり、服を脱ぎだした。
 黄ばんだトランクスを脱いだとき、やつのペニスが激しく勃起してべつの生きものさながらに揺れているのが見えた。
 「今夜はたっぷり愉しませてもらいますよ」堀内は床に転がっているガムテープをつかみ、正気づいた圭子の口に貼りつけた。それから岩瀬のほうを向きながら、彼女の顔の上にまるで回転木馬にでも乗るように無造作にまたがった。そしていやらしく腰を動かしはじめ、屹立した肉茎を化粧水をつけたあとの頬にこすりつけはじめた。圭子は顔を歪めたが、まだ体がまともに動かないらしく、ろくに抵抗もできずにいた。
 「…………!」
 「そんな非難がましい目で見ないでくださいよ。だって岩瀬次長、奥さんがムショ入るよりはいいでしょう。傷害罪なんですよ。とくにいたいけな子どもを狙った卑劣な犯行だ。同情する裁判員なんていやしませんよ。それであんたたちは破滅する。エリートサラリーマンになればなるほど、転落したときの傷が深い」堀内は激しく腰を振りつづけた。圭子が首を曲げてそれから逃れようとしているのが見てとれた。「岩瀬次長、あんたなんてとくにそうだ。だったら無事でいられることに感謝してくれないと。これくらいの面倒見てくれたっていいだろう」
 岩瀬は目の前のボトルを凝視した。三十センチも離れていない。手は使えないが、足なら使える。ボトルを蹴り飛ばしてやつの頭に激突させてやろうかとも思ったが、現実的でなかった。
 そのときだった。ボトルの曲面にシステムキッチンのようすが鏡のように反射しているのが見えた。岩瀬が横たわる場所からさほど遠くない位置、ガスコンロと調理台の間あたりに白っぽい箱状のものがあるのが見えた。
 ピルケースだった。
 岩瀬が息を飲んだとき、ふいに堀内がふてくされた声をあげた。「だんなのなさけない顔見てるとこっちがしょげてくるんだよ!」小男は圭子の顔から降り、もういちどスタンガンを使って獲物の動きをとめると、夫のほうに背を向け、ためらうことなくショートパンツに手をかけた。
 圭子……もうすこしだから……。
 心のなかで叫びながら、岩瀬は音を立てぬよう注意して片方の脚を台所のうえへとのばした。
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