文字数 1,375文字

哲郎は小便をして、歯を磨き、クローゼットを開け、濃い青のウールシャツとオリーブドラブのチノパンに着替えた。その間、一刻も早く矢島を迎えに行きたい気持ちではあったが、冷静に考えれば、面倒に巻き込まれている立場なのに会うのが楽しみなのもおかしいと思い、なるべく自分を落ち着かせ、髪を整え終わった頃には、なんなら少し遅めに到着しても差し支えないという心持ちになっていた。
哲郎は黒の靴下を履き、スマホ、財布、Zippoのライター、家と車の鍵をチノパンのポケットに入れ、胸ポケットに緑のアメスピを入れた。玄関の下駄箱から黒白のジャノスキを取り出して履き、ドアの横に置いた姿見で全身を確認した。
ドアを開けると、雨の音が聞こえた。哲郎は傘を手に取り外に出た。ドアの鍵をかけたあと、ノブを回して引き、施錠を確認した。灰色のビニル床の廊下を歩き、なるべく音を立てないように階段をおりながら、雨のにおいと湿気を鼻で感じ、事故の原因は雨なんだろうなと考えた。
アパート一階の駐車場は、切れかかった蛍光灯が点滅しており、哲郎には紫のフィットの横顔がまぶしがっているように見えた。哲郎がリモコンを押すと、紫のフィットのウィンカーが点滅した。
哲郎は車にこだわりがないタイプだが、紫のフィットには初心者マークの頃から4年乗っており、その年月分の愛着を持っていた。
しかし、哲郎は矢島のせいで、自分のフィットを見るたびに少し嫌な気分になるようになっていた。矢島が哲郎のフィットを見るたび必ず一つは悪口を言うからだ。
例えば、キーを回した後に鳴るビープ音が安っぽいだの、フィットは主婦が乗る車で男が乗る車じゃないだの、唯一お前のフィットがマシなところはデザインが悪くなる前の初期型であることとピンクじゃない車体だけだの、妙に詳細な悪口で罵った。
矢島にフィットの悪口を言われた哲郎はそのたび「親戚のお下がりで乗ってるだけやから」だとか「屋根がついて走れるならなんでも良い」と言って話を終わらせるのだが、愛着があるぶん、言葉で伝える程度ではないものの若干の不快感を感じずにはいられなかった。
しかも、矢島自身は車を持っていないにも関わらずフィットの悪口を言うので、哲郎はその厚かましさには呆れ果てていた。たまに悪口の返答に「はよ車買ってから抜かせ」と、矢島が車を持ってないことを指摘することもあるが、そういうとき矢島は「おれは今のところバイクでええねん」だの「おれは妥協せんから時間がかかる」だの、そういう言い訳を言っていた。
哲郎はフィットのドアを開けると、いつものように矢島の悪口を思い出したと同時にハッとした。改めて考えれば今日は珍しく自分が悪口を言える番になったと思ったからだ。
矢島は高校の頃、誰よりも早く250ccのスポーツバイクを買って、地元のみんなに見せびらかしてきたほどの自慢好きだ。その時矢島は「NSR250R SEやで。お前らこれで色んな意味でおれに追いつかれんでな」と得意げに言っていた。そんな性格だから車を買ったら真っ先に自慢しに来るだろう。おそらく自慢しに来る前に事故をしたのかもしれないし、そうだとしたら買ったばかりである可能性が高いなと哲郎は考えた。
哲郎はフィットのキーを回した。今日はいつものビープ音も心地よく聞こえた。
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