古川

文字数 2,888文字

古川
 古川は15時51分着、停車時間1分だ。
 『三四郎の車中談義もそうだが、漱石は会話を効果的に使う。中でも、漱石には『二百十日』というほとんどが会話の小説がある。1906年に発表された中編である。「二百十日」とは立春から210日目のことで、8月31日から9月2日までの間である。天候が荒れやすいとされている。作中では9月2日が二百十日となっており、実際に1906年はそうである。
 阿蘇山に登る圭さんと碌さんという若者が主人公だ。ビールや半熟卵を知らない宿の女とのやり取りを始め些末な会話が続くと思いきや、チャールズ・ディケンズの『二都物語』に唐突に話が及び、華族や金持ちに対する圭さんの慷慨が展開される。阿蘇の各地をめぐり歩き、いよいよ阿蘇山に登ろうとしたところで、二百十日の嵐に遭ってしまう。二人は登山を注視して宿屋に戻り、翌朝、いつか華族や金持ちを打倒しようと阿蘇山への再挑戦を誓う。
 宮城県はキリンやサッポロのニール工場があることで知られているが、この会話体小説において最も有名なのが次のビールをめぐる会話である。

「何でもいいから、玉子を持って御出(おいで)。それから、おい、ちょっと待った。君ビールを飲むか」
「飲んでもいい」と圭さんは泰然(たいぜん)たる返事をした。
「飲んでもいいか、それじゃ飲まなくってもいいんだ。――よすかね」
「よさなくっても()い。ともかくも少し飲もう」
「ともかくもか、ハハハ。君ほど、ともかくもの好きな男はないね。それで、あしたになると、ともかくも饂飩を食おうと云うんだろう。――姉さん、ビールもついでに持ってくるんだ。玉子とビールだ。分ったろうね」
「ビールはござりまっせん」
「ビールがない?――君ビールはないとさ。何だか日本の領地でないような気がする。(なさけ)ない所だ」
「なければ、飲まなくっても、いいさ」と圭さんはまた泰然たる挨拶(あいさつ)をする。
「ビールはござりませんばってん、恵比寿(えびす)ならござります」
「ハハハハいよいよ妙になって来た。おい君ビールでない恵比寿があるって云うんだが、その恵比寿でも飲んで見るかね」
「うん、飲んでもいい。――その恵比寿はやっぱり(びん)這入(はい)ってるんだろうね、姉さん」と圭さんはこの時ようやく下女に話しかけた。
「ねえ」と下女は肥後訛(ひごなま)りの返事をする。
「じゃ、ともかくもその(せん)を抜いてね。罎ごと、ここへ持っておいで」
「ねえ」
 下女は心得貌(こころえがお)に起って行く。幅の狭い唐縮緬(とうちりめん)をちょきり結びに御臀(おしり)の上へ乗せて、(かすり)筒袖(つつそで)をつんつるてんに着ている。髪だけは一種異様の束髪(そくはつ)に、だいぶ碌さんと圭さんの(たん)を寒からしめたようだ。

 「エビスはビールではない」という命題は「全く問題ない」。非論理的だという「そのような指摘は当たらない」。エビスは、他の「ビール」と称して販売されている炭酸飲料に比べて、抜群にうまい。もしそれらが「ビール」だとすれば、エビスはそのカテゴリーに収めることができない。従って、エビスは「ビール」ではない。エビスは「ビール」を超えているというわけだ。これはエビスの愛飲者にとって論理的である。なお、今日ではエビスのプレミアムブラックも販売されており、その愛飲者にはそれも「ビール」ではない。
 「恵比寿麦酒」が発売されたのは1890年、すなわち130年前のことである。それは一ノ関駅=盛岡駅間の東北本線が開業した年でもある。『IBC岩手放送』は 2020年10月10日12時00分更新「東北本線一ノ関ー盛岡間130周年 記念ビール発売/岩手」において次のように伝えている。

JR東北本線の一ノ関ー盛岡間の開業130周年のオリジナルビールを発売です。
一ノ関ー盛岡間が来月1日で開業130周年を迎えるのを記念してJRが発売しました。一関市の世嬉の一酒造のゴールデンエールは、遠野産ホップの香りとすっきりした苦みが特徴。そして盛岡市のベアレン醸造所のラガービールは、華やかな香りとコクのある味わいです。9日はセレモニーが行われ、関係者がそれぞれのビールを楽しみました。オリジナルビールは10日から盛岡駅ビル・フェザンや、東北本線の一ノ関ー盛岡間の主要駅などで販売されます。

 機会があれば、飲んでみたいものだ。「ビール」ではないものに出会うためには、「ビール」を試さねばならない。
 非論理的なのは「第3のビール」の方だ。飲むに堪えないあれが「ビール」だというのなら、従来「ビール」と称して販売されていた炭酸飲料もそれではなくなる。「ビール」と称する飲料が「ビール」でないのだから、「第3のビール」もあり得ない。だとすれば、この世に「ビール」が存在しなくなってしまう。
 ビールの件はアボット&コステロやエンタツ・アチャコの掛け合いを髣髴とさせる。プラトンの対話篇が物語るように、複数の登場人物による議論は知的な世界を展開する。ノースロップ・フライの『批評の解剖』の文学ジャンル論で言うと、これはアナトミーに属する。社会を諷刺する文学である。ただし、それは再現ではなく、記号化した表象だ。傾向は外向的・知的であり、扱い方は客観的である。登場人物は、病気や怪我の分類よろしく、社会的・学問的類型に従っている。展開は因習的ではなく、極めて大胆で、時として天衣無縫や破天荒でさえある。アナトミーは総合的・体系的な知識・認識に基づいているため、読む側の負担が大きく、読者に能動的な姿勢を要求する。書き手には、当然、ジョン・ドライデンのように、夏目漱石ほどの読者を尻込みさせるだけの圧倒的な学識・教養を有していなければならない。その短編形式が「会話」や「座談」である。
 漱石がその博覧強記に恐れをなした英国のジョン・ドライデンの代表的な作品『劇詩論(Of Dramatick Poesie: An Essay)』(1668)は諷刺的批評である。ドライデンは古今東西の文化を並列化・相対化し、すべてを土俵に載せている。1865年6月の第二次英蘭戦争の最中、戦火を避けてテムズ川で舟遊びをする四人の文学者によるシンポジウムという設定で書かれている。『オズの魔法使い』同様、登場人物にはモデルがいて、それぞれに意味深な名前がつけられている。近代文学を賞賛する「ユージニアス(Eugenius)」は「生まれよき人」に由来し、国王の寵臣チャールズ・サックヴィルであり、古典こそ真の文学と力説する「クライティーズ(Crites)」は「批判者」を指しており、共作者でドライデンの義兄ロバート・ハワード、フランスの新古典主義に傾倒する「リシディアス(Lisideius)」はコルネイユの『ル・シッド』を暗示させ、劇作家チャールズ・セドリー、さらに「ネアンダー(neander)」は「新しき人」を意味し、ドライデン本人である。
 漱石の会話もこうした風刺の文学として理解する必要がある。登場人物は思想を表象する記号である。圭さんと碌さんの見立てはいくつか考えられるだろう。前者が急進主義、後者が穏健主義はほんの一例である。『二百十日』は風刺の点で『吾輩は猫である』の系譜に属する作品と捉えることができる。
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