第4話

文字数 8,294文字

 鬼龍家から差し向けられた車は、目立つことを避けた国産セダンだった。屋敷の正門を入り母屋の車寄せに止まると、執事の鈴城が万由里を伴い自ら迎えに出ていた。
「お帰りなさいませ」
 うやうやしく頭を下げる鈴城に礼を返しながら康則は、母屋に一番近い駐車スペースに視線を走らせた。見覚えのある、シルバーのメルセデスが止まっている。
「……亜弥子さまが、いらしているのですね?」
「はい、つい先ほど、お見えになりました」
「いま、将隆さまと一緒ですか?」
「いいえ、亜弥子さまは離れの御部屋で将成さまと御一緒です。将隆さまは、昨夜遅くに帰って来られたのですが、武道場に籠もられて誰も近づけようとなさらず困っています」
 探るような鈴城の視線を受け止め、康則は頷いた。鈴城の仕事は、万事に手抜かりが無い。当然、昨夜の経緯は把握しているはずだ。
 将隆の行動は、康則が原因だと知っているからこそ、早く和解するように水を向けたのだ。
 昨夜の出来事と、堀川の言葉。短い時間に情報を整理し、康則は幾つかの可能性を導き出していた。
 後は、行動あるのみだ。
「鈴城さん、俺の正装を用意して下さい。将隆さまと少し話してから、二人で将成さまと亜弥子さまに御挨拶に伺います」
「承知、いたしました。直ぐに御用意いたします」
 一礼した鈴城は、後ろに控えていた万由里に敏速な指示をする。万由里は一瞬、不安そうな視線を向けたが、すぐに屋敷の奥へと姿を消した。
 部屋に戻ると既に万由里は、正装の学生服を抱えドア前に立っていた。
「あの……お怪我の手当を、させて下さい」
「ありがとう、でも大丈夫ですから」
 申し出を断り、学生服を受け取ろうとすると万由里は、渡すものかと胸に抱え込み上目遣いで康則を睨んだ。困った、眼に涙が溢れている。
「以前、武道場に籠もられた将隆さまは、二日も出てこなかったんです。その時は、死んでしまうんじゃないかと本当に心配で……。昨夜、何があったかお爺さまは教えて下さらないし、私……」
 急いで身支度をしたかったが、万由里の言葉に康則は興味を引かれた。
「以前って、いつ頃ですか? 何が、あったんです?」
 話すべきか少し迷う様子で視線を外した万由里は、呼吸を整えてから、真っ直ぐな眼を向けてきた。
「清愁さまが、亡くなられた日です」
「万由里さんは、清愁さんを知っているのですね?」
「はい……あの様な事になられた優希奈さまを御世話するため、私が鬼龍の御屋敷に来た当時、清愁さまは将成さまの露払いを務めていらっしゃいました。とても穏やかで、お優しい方でしたから、亡くなられた理由を聞いたときは信じられなくて……」
 康則は心のどこかで、自分の推測を覆してくれる材料を求めていた。しかし新しい事実を知る度、皮肉にも推測は逃れられない辛い現実へと近付いていく。
 それでも真実を明らかにし、決着をつけなくてはならない。
「清愁さんが亡くなる前、何か様子が変わったところがありましたか?」
「亡くなる前、一ヶ月ほど清愁さまは御一人で武道場に籠もられる日が多くなりました。優希奈さまの件があって亜弥子さまはすぐに御屋敷を出て行かれましたし、私も含め皆さん沈んだ毎日を過ごされていましたから、鍛錬で御気持ちを紛らせているのだと御爺様が言っていました」
「そうですか……いたたまれない御様子の将成さまと亜弥子さまの傍で、万由里さんは辛い思いをしたでしょうね」
 沈痛な面持ちで労りの言葉をかけると、万由里は白くなるほど唇を嚼み、泣きそうになるのを堪える。
「亜弥子さまが出て行かれてから半年経たずに将成さまが倒れられて、床に伏すようになりました。後になって、清愁さまに気を喰われた所為だと言う者もいましたが、違います」
「なぜ、違うと断言できるのですか?」
「だって……だって、もし清愁さまが将成さまの気を喰らった鬼なら、あんなに憔悴しきって、お辛そうにしているはずありません。私には不思議でした、それに比べて、あの方は……」
 言いかけて万由里は、咄嗟に口に手を当てた。自分の口からは、決して言ってはいけない言葉を呑み込んだのだ。
 何を言おうとしたのか、予想は付いていた。
「心配ないですよ、万由里さん。将隆さまは、俺に任せて下さい」
 笑顔で制服を受け取った康則を、信用してくれたらしい。万由里は無理に微笑み、頷いた。
 シャワーを浴びて身支度を調え、康則は母屋から西に石畳の道で繋がる武道場へと向かった。
 入り口の土間には、クーラーボックスが置いてある。昼食の握り飯と数本のスポーツドリンク、万由里の心遣いだ。
 人払いをしているだけで、道場に鍵は掛かっていなかった。扉を開けると、大音量の音楽に合わせてトレーニングウェアの将隆が、真剣を手に仮想の敵と戦っていた。
 目を閉じ、流れるような動きで数体の鬼を斬っている。
 康則が入ってきた気配には当然、気付いていた。しかし、路肩の石ほどにも関心を向けはしない。
 いや、違う。と、康則は思い直した。
 苛立ちを抑えるため将隆は、昨夜から一人で自分と戦っていたのだ。恐らくは、康則を待っていた。
 将隆に、応えなくてはならない。
 クーラーボックスの中から冷えたスポーツドリンクを取り出した康則は、将隆が仮想する敵の動きに合わせて正面に進み出た。
 白刃が、頭上の髪を数本、宙に散らせ頭蓋を断つ直前で止まる。
 将隆が、ゆっくりと目を開いた。
 差し出されたドリンクのボトルを受け取り、無造作に飲み干す。
 その様子を見て、康則の緊張が少し緩んだ。ボトルを受け取ったのは、話を聞くつもりがあるからだ。
「ご心配を掛けて、申し訳ありませんでした」
 真剣を鞘に入れて壁に設えた刀掛けに戻した将隆は、音楽を止めて康則に向き直った。
「誰がいつ、何の心配をした?」
 心中を量ることが出来ない、射貫くような鋭い目、冷たい口調。
「相馬さんから聞きました。俺が拉致されたと知った将隆さまは、初めて会った時の印象とは違い、少し冷静さを失っていたそうです」
 将隆は、小さく舌打ちをする。
「……あの刑事は意外と、お喋りだな」
 相馬から口止めされたが、将隆の気勢を削ぐため利用させてもらった。状況を話せば許してくれるだろうと、心中に詫びる。
「相馬刑事には、いろいろ世話になりました。おかげで俺は、自分自身の問題に気付くことが出来た。将隆さまが、俺に言いたいのは……」
「黙れ」
 低い威圧的な口調で将隆は、康則の言葉を遮った。
「おまえは勝手に一人で、先へ行こうとした。俺は、それが気に入らなかっただけだ」
 視線を外した将隆の横顔は、子供の頃と変わっていない。自分だけが、変わったと思い込んでいたのだ。
「ごめん……謝る」
「自分の過ちに気付いて謝るつもりなら、今後、敬称は止めろ」
「いえ、それはまた別の問題です。しかし今後は、公私で使い分けるようにします」
 つい、いつもの調子で康則が答えると、将隆は呆れ顔で溜め息を吐いた。
「頭の硬さは、変わらないな……それで? 俺の前に顔を出せたのは、有益な情報を得たからなんだろう?」
「はい」
 良昭に託されたマイクロSDから堀川を割り出し、戦いの末に得た情報を伝える。
 将隆は黙って聞いていたが、内容が鬼龍家内部の敵に触れたとき、きつく唇を結んで目を閉じた。
 将隆の判断を康則は、緊張を持って待つ。
「清愁の死は、全ての処理が終わった後に知らされた。優希奈は、俺が実戦訓練で岐阜に遠征していたとき、急に仙台の名家に望まれて養女に出されたと聞いた。鬼化して斬られ、幽閉されていると知ったのは、体調の思わしくないアイツが引退を決め俺が家督を譲られてからだ」
 目を開き将隆は、康則を見つめた。
「黒幕の正体は、アイツだと思うか?」
 いつから疑いを持っていたのか、将隆の判断は予想通りだった。康則に問いかける口調は冷静だが、僅かに感情の機微が汲み取れる。
 怒り、絶望、否定……それらを超えて、真実を知りたいという気持ち。
「確証は、ありません。しかし確かめる術がある。清愁氏は恐らくその術を使い、死んだのです」
「鬼斬りの暴走に対処するため、鎧塚に課されたフェイル・セーフだな? どんなものか俺は知らない。だけど……康則、おまえの命に関わる方法なら、許可することは出来ないな」
「俺が清愁さんと同じ末路を辿るかどうかは、あなたの判断次第です」
 鎧塚の血族に課せられた、使命。それは、康則を喰おうとした堀川の言葉に由来があった。『鎧塚の血族は、〈渡辺の綱〉が酒呑童子退治に出向いた時、自らの身に毒を仕込んで喰わせ、綱の戦いを助けた姫の血筋』
 姫の身分、綱との関係、犠牲となった理由など、詳しい経緯は明らかではない。しかし、鬼を狩ることで業苦に侵され暴走してしまった〈鬼斬り〉の使い手を鎮めることが出来るのは、鎧塚の血だけなのだ。
「そうか、わかった」
 将隆は穏やかな笑みを浮かべ、頷いた。康則の本気を、喜んでいるように思えた。
「支度をする、十五分後に母屋だ」
「了解しました」
 康則は一礼し、踵を返す。するとその背に、将隆の声が掛かった。
「殴った事を、悪いとは思っていない」
「はい」
 将隆らしい謝り方に、康則は苦笑する。
 しかし、背後にある将隆の気配が次第に肌を刺すほど張り詰めていくのを感じて、自らも身を引き締めた。


 ◇


 今朝、康則が相馬のマンションを出たとき湾の沖にあった雲が、昼を過ぎて陸まで流れてきたようだ。
 低く垂れ込めた、薄ねず色の幕に閉鎖され地上に風はない。じんわりと、汗が滲み出る蒸し暑さだった。
 しかし将隆は、外気を遮断した涼しい顔で母屋の玄関先に現れた。〈鬼斬り〉を携えた、隙のない美しい身のこなしは普段通りだ。
 強者を演じる者は脆く孤独だと、相馬は言った。
 真実が明らかにされ強者の鎧が砕かれたとき、将隆は何を想い、何を選ぶだろう? 
 自分は、将隆を支えることが出来るだろうか? 
 何があろうと、将隆を信じる。康則の覚悟は、揺るがなかった。
「将成さまは園で、お待ちになっています。万由里が御案内いたします」
 茶事に備え、しとやかな和装姿になった万由里が先に立ち、将隆と康則を庭園へと案内した。
 雲に遮られた日差しが、茜色に変わりつつある池の畔。
 仲睦まじく寄り添う、二つの影……。
 将成の和装は、普段の長着ではなく袴姿だ。帯刀はない。亜弥子は錆朱地紋に南天が描かれた小紋を、品良く着付けていた。
 人の気配で水面に現れる鯉の姿が、今日はなかった。不思議な事に池辺りの空間だけ、妙に空気が冷たい。
 足下の杉苔からは、薄い靄が立ち上っていた。
「将隆さま、康則さま、いらっしゃいました」
 将成の背に声を掛けた万由里が、後ろに下がるのを待たず将隆が進み出た。
「貴様に、聞きたいことがある」
 ゆっくりと身体を向けた将成は、優しい眼で将隆を見つめる。
「家族が揃うのは、久しぶりだな」
 途端に、将隆の目付きが険しくなった。
「家族? ふざけるな! ここには優希奈が居ない。今日は、貴様が口を閉ざしてきた真実を、話してもらう」
「真実とは?」
「優希奈を斬り、何を思った? 後悔はなかったのか? そして清愁が死んだ、本当の理由は何だ?」
 詰め寄る将隆の前を、亜弥子が塞いだ。
「口を慎みなさい、将隆。お父上に向かって、何という乱暴な言葉を使うのですか?」
 凛とした姿勢で息子を正す、断固とした口調。一瞬、将隆は怯んだが、亜弥子の肩越しに、なお将成を睨みつける。
 亜弥子の肩に、将成が手を置いた。亜弥子は物言いたげな眼で将成を見たが、黙って退く。
「優希奈は、可哀想なことをした。後悔があるとすれば、命を絶つだけの覚悟が、私になかったことだ。生き存えさせたことで、将隆……おまえと亜弥子を余計に苦しませてしまった」
「死が、全てを精算するとでも言うのか? どちらにしても、貴様のした事は変わらない!」
「優希奈の無念を、おまえは自分の迷いに重ねているのだ。優希奈を哀れみ私を恨むふりをして、自分を哀れみ己の責務を恨んでいる。康則は、おまえの良心だ。康則の存在が、おまえの崩壊を防ぎ、自分の正義を信じる支えになっていた」
 将隆は康則に視線を走らせ、きつく唇を結んだ。康則に聞かれるのは不都合らしいが、否定もしない。
 康則は改めて、自分の不甲斐なさを後悔する。そして同時に、将隆の力になりたいと心から思った。しかし将成の態度に、ある疑問が浮かぶ。
 将成は将隆に、何かを期待してるのではないか? 
 いや、将隆だけではない。康則に向けられた、決着を委ねる視線。
 将成の望みは、解らなかった。真意を測るためには、自分の役割を演じるしかない。
「私を殺せと、堀川に指示したのは将成さまですか?」
 康則の選択は、間違っていなかったようだ。将成は眼を細め、緩く微笑む。
「未明に、堀川から連絡があった。鳴海の失敗は、自分で始末をつけると」
「なん……だと!」
 怒りの形相で掴み掛かろうとした将隆の腕を捻り上げた将成は、右膝で左大腿部を払い上げた。倒れず踏み留まった将隆は、距離を離さず体勢を整え、すかさず〈鬼斬り〉の柄に手を掛ける。
「父親を斬れるか、将隆? おまえは恐れていたはずだ。優希奈が斬られたように、自分も近しい者を斬らねばならない状況を」
「……優希奈と、貴様は違う。堀川の話を、康則から聞いた。貴様が求める理想世界は、理不尽で横暴な我欲世界だ。優希奈は、貴様のように汚れた欲望で鬼になったんじゃない。我が一族の負う、業苦の犠牲者だった!」
 将成が、いかにも神妙な顔で頷いた。しかしそれは、相手を見下した態度だ。
「なるほど、世に仇為す存在ならば、斬るための大儀名分が立つな。では、おまえの責務を果たせ。〈鬼斬り〉で、私を斬るがいい」
「望み通り、俺が貴様の業苦を断ってやる! さっさと鬼化して、俺と戦え!」
「鬼化の必要は、無い。変化せずとも、おまえは私に勝てない」
「ほざけ!」
 将隆が、〈鬼斬り〉を鞘から引き抜いた。りん、と、涼しげな鈴の音が鳴り、光乏しい池まわりに一条の輝きが際だつ。
 その時、康則は将成の意図が解った。
 全ての罪を背負い、将成は将隆に斬られる覚悟だ。
 しかしそれは、間違った結末だ。正しい決着を付けなくては、悲劇の連鎖は終わらない。
「待って下さい、将隆さま。〈鬼斬り〉の使い手は、鬼のみを斬り人は手に掛けないと誓約しています。どれほどの罪があっても、人間を斬れば人殺し。あなたを、人殺しにするわけにはいかない。鎧塚の血で、鬼を呼び出します」
 康則は携えた刀の鞘を右脇に抱え込み、肋骨の間を抉るように両腕を大きく捻った。生木が裂けたような鈍い破裂音がして、康則は僅かに顔をしかめる。
 康則の目的に気付き、将成の表情が変わった。
「止せ……康則。その必要はない!」
「同じように、鬼を誘い出そうとして清愁氏は斬られた。将成さま……これ以上、我々を欺く事は出来ません」
 鞘を払い、抜き身の白刃で左前腕を斬る。ゆっくり流れ出した血は肘を伝い、黒味を帯びた鞍馬石の飛石に色濃い円を描いていく。
 むせるような香りが、鼻腔の奥を刺激した。焼けた鉄の臭いと、熟れた果実の甘い香りが混じり合い、五感を酔わせる。
「鬼龍の血族が〈鬼斬り〉に呑まれ、〈業苦の鬼〉と化したとき。薬物を仕掛けた我が身を喰わせ、命を絶つのが鎧塚の務めです。この血は、毒と分かっていても鬼が抗う事の出来ない甘露。正体を隠す事は出来ません」
 蹌踉めくように将成は数歩下がり、将隆と亜弥子を交互に見つめた。将隆は、これから起きるであろう出来事を、固唾を呑んで待ち構えている。
 緊迫した間を突然、亜弥子が破った。
「いけません、康則さん。これは、あまりにも……」
 着物の袂から懐紙を取り出し、苦悶の表情で康則の手を取る。
 そして……傷口から流れ出る血を、啜った。
「もったいない、でしょう?」
 真っ赤に染まった唇の端を懐紙で拭い、亜弥子は妖艶な笑みを浮かべた。
「亜弥子……さま」
 力なく康則は、呟いた。
 確証無く鬼の正体を結論付けたとき、心のどこかで間違いであって欲しいと願った。確かめる術は、このやり方しかなかった。
 蔵に保存されていた古書を調べるため、鈴城に鍵を借りた時。亜弥子が数冊、持ち出していたと知った。その時は、一族と掛け離れた家系から嫁いできた亜弥子が、鬼龍の記録に興味を持つのは当然の事だと思った。
 しかし、その数冊の内容が、鬼化の症例と能力に関するものばかりだったのだ。
 恐らく清愁は、その正体に気付き暴こうとした。しかし将成は、亜弥子を庇い正体を隠すために清愁を斬った。
 将隆に目を向けると、事態を飲み込めないのか驚愕の表情で我を失っている。
「馬鹿な事をしたものですね、康則さん。その血の臭いは、他の鬼までも呼び寄せるのに。ほら、ご覧なさい? おまえの肉を爪で切り裂き、滴る甘い血で喉を潤すため、可愛い私の隷属達が集まってきました……」
 園に来る途中、足首を覆っていた靄は、何時の間にか膝上まで立ち上る霧となっていた。視界を遮る霧の中、黒い人影が数体、近付いてくる。
 池の向こうからも数体、見渡せば多数の影に取り囲まれていた。五体、六体……十、十五、十八……確認できるだけで二十体以上はいる。
 海の方角から、遠雷が轟いた。
「将成さまの言う通りにすれば、今までと同じように将隆と二人で生きてゆけたでしょうに。戦闘能力が高い嘗ての部下相手では、少し分が悪いかもしれませんね」
 美しく優しい微笑みの中、残忍な愉悦を欲する瞳が妖しく光る。
 亜弥子は茫然自失の将隆に近付き、そっと頬を撫でた。
「もともと優希奈は、鬼龍家の〈業苦〉を分散するため養女に出される定めでした。あなたに反対されると面倒なので留守中に話を進めたのですが、嫌がって酷い癇癪を起こしたのです」
 何を思い出したのか、亜弥子は楽しそうに笑う。
「将隆さんも、知っているでしょう? 優希奈は素直そうに見えるけど、意外と気が強くて頑固なんですよ?」
 戸惑いながら将隆は、亜弥子の眼に焦点を合わせた。だが、指一本動かさない。
「幼い頃から共に遊び、兄と同じように慕っていた康則が、鬼龍家からの要請で〈露払い〉として来る日を優希奈は信じていました。だから、なお早く養女に出したかった。〈露払い〉ごときに心寄せられては、困りますからね」
「養女の話がなければ、あなたが無理に康則と引き離そうとしなければ、優希奈は鬼化しなかった……?」
 ようやく口を開いた将隆を、亜矢子は優しく抱きしめる。
「優希奈はまだ、幼すぎたのです。もう数年待てば、自分の役目が理解出来たのかも知れません。何れにしても鬼龍家の〈業苦〉は、あなたの世代か次の世代で誰かが負う運命でした。結果的に、その時の激しい感情が引き金となり、鬼龍家に積み重なった〈業苦〉は優希奈に引き寄せられてしまった」
 亜弥子は将隆から離れ、襟元に両手を掛けて大きく開いた。白く長い首と、豊かな胸が露わになる。
「そう、私が優希奈を……愛する娘を鬼にしてしまった。私は自分が鬼になればよかったと嘆き、苦しみ、将成さまと鬼龍の一族を憎みました。そして優希奈を犠牲にした我が身を呪い、命を絶とうと思った」
 透き通った肌に浮かび上がる太い血管に、直径一センチほどの何かが埋まっている。
「これは、斬り落とされた優希奈の小さな角。死ぬつもりで頸動脈を突いた時、私と一つになった。優希奈は私に、教えてくれたのです。愛する人を守るには、犠牲になる者を選べばよい。罪深き者を鬼に変え、我が一族で始末すれば、悲劇の連鎖は生まれないと。優希奈に託された想いは、私が叶える!」
 結い上げられた亜弥子の髪が、扇状に解け宙に舞う。眉間に浮き上がった三つの黒点が隆起し、禍々しい角として起ち上がった。眦を吊り上げ大きく見開かれた眼に、緋色の瞳。顎は猫科の肉食獣に似た細さに尖る。
 康則の血の後が残る赤い唇に、長い犬歯を突き出し、恐ろしくも美しい鬼女の面が恍惚の笑みを浮かべた。


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