第2話

文字数 7,630文字

 鬼龍の屋敷から自転車で二十分ほどの所に、将隆と康則が通う〈私立叢雲学園横浜校〉があった。
 十九世紀末の有名なオランダ人建築家が建てた美麗な学園は、東京湾を望む自然豊かな高台の景観に荘厳な存在感を与えている。
 高槻家の件から一夜明けた月曜日、康則は学園へと続く私道に自転車を走らせていた。
 新緑のケヤキ並木は朝日を受け、コンクリート上に煌めく模様を映し出す。ロードワーク中のラクロス部女子達が、明るい笑顔で通り過ぎていった。
 後方に車の気配を感じ振り向くと、黒塗りのセダンが康則の自転車を追い抜いた。
 後部座席で目を閉じ、眠っているように見える端正な横顔。線が細く、同い年にしては幼くも見える将隆の、いったいどこに揺るぎない気概と強さと冷酷さが潜んでいるのか。
 選ばれた名家の子女が通うこの学園でも、鬼龍家は別格だった。
 生徒ばかりでなく、教師までも将隆に敬称を付ける。成績は常に首位、全校生徒に義務付けられた部活動では乗馬部と弓道部に所属し相応の実力を持っていた。しかし部としての活動に参加することはなく、競技会に出ることもない。
 中等部・高等部あわせて女子生徒憧れの的ながら、透明で冷たい瞳は他者を排斥する光を宿し、近付く者を許さなかった。
 昔は、違った。
 家柄の違いから将隆は〈私立叢雲学園横浜校・中等部〉に入り、康則は公立の中学校に入ったが、小学校時代は房総にある縁者の屋敷で共に生活し、学園本校の小等部に通っていた。
 互いの名を呼び捨て、大人に隠れて海辺の岩場に秘密基地を作り、厳しい剣の稽古に励み、時には行き過ぎた悪戯を諌められた。
 いまから思うと、一番楽しい時間だった……。
 中学校の卒業間際、鎧塚では本家筋から一番遠い康則に〈露払い〉の達示があった。
〈露払い〉は大事な役目だ。鬼龍家では若い当主に年長者を付けることが定石となっている。康則のように若輩で、家柄が下位に当たる者が任命される事など本来なら有り得ない。
 短い時間に過酷な訓練を受け、四月になって満開の桜に彩られた鬼龍家の門をくぐった。
 風が強い日だった。
 視界を遮るほどの花びらが庭に舞い、桜色の霞を作る。
 その霞の向こうに、一人の少年が立っていた。
 心の中まで見透かされそうな、冷たく、透明な瞳。
 康則は知った。二人の関係は、一変したのだと。
 将隆の瞳に映る自分は、既に友ではなかった……。
 頭を振って当時の記憶を振り切り、煉瓦で作られた高塀を回って駐輪場のある裏門に向かう。
 自家用車の送迎は、将隆を含め特例を認められた数人だけだ。名家の子女であろうと通学は徒歩か自転車が学園の方針だった。
 徒歩と言っても大概は私道の下まで送迎車を使う家が多く、自転車で通うのは主に男子の少数派だ。
 裏門の門柱手前で自転車を降りた康則は、背後に視線を感じた。それも直視ではなく、伺い見るような視線。
 振り向かず、半分ほど開かれた真鍮の門扉に向かう。気配に敏感なことを気取られると、相手に警戒心を与え正体が掴みにくくなる。
 数メートル歩いたところで、声が掛かった。
「きみ、ちょっといいかな?」
「えっ? ボクですか?」
 驚いた顔を作り、自然に振り返った。道路を挟んだ歩道に、二十代後半から三十代前半くらいの若い男が人当たりの良い笑顔を浮かべて立っている。どうやら道向こうの敷地外駐車場から出てきたようだ。
 量販店物の濃紺スーツ、ブルーのピンストライプシャツ。ワインカラーのドッド柄ネクタイは、結び目がだらしなく緩んでいる。
 小走りに道路を横切り、男は康則に近付いた。
「駐輪場に並んでるの、外車ばかりだけど君は国産車なんだ? 趣味が良いなぁ……これ、アンカーでしょ?」
 バイクを口実に、話の糸口を作るつもりらしい。
 男の言う通り、門扉越しに見える駐輪場には名高い海外メーカーのロードバイクばかりが並んでいた。康則の自転車は国内メーカーの〈アンカー〉だが、フォルムも性能も海外メーカーに遜色なく気に入っている。
 康則としては中学校の登校に使用していたママチャリで不自由なかったが、執事の鈴城が渋い顔をしたのでロードバイクに換えたのだ。
 康則は、男に話を合わせて時間を無駄にするつもりはなかった。
「あの、何か用ですか? 始業前にやることあるから、急いでるんですけど」
「いやぁ、悪いね。実は僕、神奈川県警の者なんだけど二、三、質問に答えてくれる? 一応、学園の敷地外という条件で許可はとってあるから」
 提示された身分証には、神奈川県警捜査一課・相馬祐介と書いてある。身分は巡査部長だ。
 捜査一課所属刑事と解り、康則の中に警鐘が鳴った。
 鬼龍家の役目柄、警察との関係は深い。しかしそれは上層部で行われるやり取りで、巡査部長クラスでは分厚いカーテンの向こうを覗き見るなど不可能なのだ。
 高槻家の件で無いことは、明白だった。ではいったい、何だろう?
「ええと、名前聞いても良いかな? うん、鎧塚康則くん……っと。君は昨日、何時くらいに帰宅したかな? 自転車置き場に来た時間は?」
 昨日は鎌倉近くの高槻家に出向くため、所属する理学部に出ないで帰った。
「三時半くらいだと思います……昨日は用があって、早く帰ったから」
「何の用?」
 そんな事まで、詮索するのか? 
 少し不快に思ったが、警察に協力的な一市民を装う。
「鎌倉に住んでる叔母が病気で、見舞いに行きました」
 裏を取りに行くとは思えないが、念のため執事の鈴城に話を合わせてもらう必要がある。
「そっか、じゃあ、もう一つだけ。最近、裏門のあたりで不審な人物を見かけなかったかな? この学校は一般道に面した入り口がないから、外部の人間が近づくと気配ですぐ気が付くんじゃない?」
 相馬は口元だけに笑みを浮かべ、上目遣いに康則を見た。嫌な言い方をする刑事だ。
「刑事さん以外の不審人物なんて、見てません。何かあったんですか?」
 すましてやり返すと、相馬はきまり悪そうに笑った。
「まあ、いずれ解っちゃうと思うけど……僕からは言えないんだよ。急いでるところ呼び止めて悪かったね、ありがとう」
 素直な反応に、康則は当惑した。
 肩書きを、意識しすぎたか? 警戒の必要は、無いようだ……。
 軽く頭を下げて、その場を後にした。
 だが門扉に遮られるまで、まとわりつく視線は康則を追いかけていた。

 ◇

 思い返してみれば送迎車に似つかわしくない車が、私道入り口に数台止まっていた。目立つことを避けた、警察の車に違いない。
 教室に入ると、他にも事情聴取を受けたらしい数名の生徒が固まり、深刻な顔で話し込んでいた。
 何が、あった?
 学園内のざわつきに耳を澄まし、情報を集め、必要なら将隆に報告しなければならない。
 成績は中の上、スポーツも一通りこなし、気さくに誰とでも付き合う康則に表向きの友人は多かった。
 フレームのある眼鏡を掛けて長めに前髪を下ろしているのは表情を読まれないようにするためだが、かえって物静かで優しげな印象を与える役に立っている。
 康則の立場は「誰からも好感を持たれ成績も良いが、目立たず、出しゃばらない鬼龍将隆さま付き御学友」であった。
 どうやって話の輪に加わるか思案していたとき、一人の男子生徒が輪から離れニヤニヤしながら康則の机にやってきた。
「ヤス~! 聞いてくれよ! オレさ、今朝、刑事に事情聴取されちゃったんだぜ? スゲェと思わね?」
 鳴海良昭(なるみよしあき)は興奮気味に鼻の穴を膨らませ、小さな身体を康則の机に乗り出した。
「別に、思わない。俺も今朝、裏門で刑事に話しかけられたよ」
 軽くいなすと、良昭は大げさに肩を落とす。
「なんだ……じゃあ裏門使ってる生徒は全員、刑事に会ってるのかな?」
 どうやら格上の生徒が使う正門に、刑事はいなかったようだ。
 良昭は、大手外食産業会社の社長子息だ。家柄は格下でも、堂々と正門を使える規模の大会社である。
 しかし良昭にとって気兼ねなく朝の挨拶を交わす事が出来るのは、裏門を利用する生徒だった。
 十六歳にしては小柄だが、気が強く足が速い。ちょろちょろと話の輪に潜り込んでは、様々な噂話を拾って来て自慢そうに話してくれる。いまも机越しに大きな目をくるくる回し、何か言いたそうな顔で康則を見ていた。
 まるで、遊んで貰うことを期待している子犬だ。
「で? 何かあった?」
 背負い型の学生鞄から机の中に教科書を移しながら康則は、興味なさそうに聞いた。興味ありそうな顔をすると、もったいぶって情報を出し渋ると解っている。
 我が意を得たとばかりに、良昭の目が輝いた。
「それが、おっそろしい事件がさぁ……」
 良昭が聞いた噂話では、今朝六時頃に犬の散歩をしていた女性が学園裏手のケヤキ林で死体を見つけたそうだ。
 ケヤキ林の中には一般道から裏門に続く遊歩道があり、最寄り駅から徒歩で通う生徒の近道になっている。死体は、その道を利用して通っていた坪井遥香という学園二年生の女子生徒だった。
 目立った外傷や着衣の乱れはなく、死因も死亡推定時間も今のところ特定出来ないそうだが……。
「ココまでは誰でも知ってるんだけどね、オレは独自のルートで、さらに細かい情報を仕入れたわけさ!」
 さらに鼻の穴を膨らませ、大きく息を吐いてから話を続けようとした良昭の頭が突然、細い指に鷲掴みにされた。
「独自のルート? 第一発見者のお知り合いが偶然、良昭さんの近くにいらしたからでしょう?」
 もう一人の貴重な情報源が登場し、康則は口元を緩める。 
「日向子さーん、オレの身長コンプレックス刺激するのヤメテください! 縮んじゃう、縮んじゃうよ!」
 鞠小路日向子(まりこうじひなこ)は、わざとらしくジタバタ逃れようとする良昭の頭から手を離し、肩に掛かる長い黒髪を背中に払った。
 日本舞踊家元の令嬢らしく、すっと背筋が伸びた立ち姿が美しい。ただし学園内での行動と言動は、とても名家令嬢に似付かわしいものではなかった。
「康則さま、良昭さんの情報はもう皆さんが知っています。この方は教室に入るなり大騒ぎして、まるで春先の椋鳥のように煩かったんですよ?」
 二人の並んだ様相は、背の高い女王と小さな下僕だ。笑いを噛み殺し、康則は良昭に尋ねた。
「あいにく、俺の耳には入ってないんだ。教えて欲しいな」
 日向子に向けて精一杯の睨みをきかせたあと良昭は、打って変わった真顔を康則に向けた。
「いま、死因と死亡推定時刻は不明だって話しただろ? それってさ、死体の外見が特殊すぎて警察も頭抱えてるんだよ」
「特殊?」
 聞き返した康則の脳裏に、嫌な予感が走る。
「オレんちで働いてる家政婦のオバチャン、第一発見者の姉なんだけどさ。死体の肌がビーフジャーキーみたいな赤紫色で、カビみたいな苔みたいな緑色の模様が所々にあって、最初は枯れ木の上に制服が脱ぎ捨ててあるのかと思ったって!」
 そこまで一気にまくし立てた良昭は、大きく鼻から息を吸い、声を落とした。
「それが近付いてみたら、真っ白な目玉と歯が剥き出しになっていて、鼻とか耳からは真っ赤な血がダラダラとさぁ……え? どうしたのさ康則?」
 そんな馬鹿な……! 平静を失い、思わず腰を浮かせてしまった。
「あ、いやっ、良昭の話で日向子さんが倒れそうになってるから」
 口元に手を当て、真っ青な顔で立っていた日向子の足がふらついている。素早く立ち上がり、その肩を支えた。
「大丈夫?」
「べっ、別に……何でもありませんわ!」
 日向子のおかげで、何とか自分の動揺を誤魔化すことが出来た。
「へぇ……日向子さんは、こんな情報、もう知ってたんだろ?」
 まさしく鬼の首を取ったようにニヤニヤする良昭を、今度は日向子が睨む。
「先ほどは、これほど詳しく話されていませんでした。わざとですね? いいわ、覚えてらっしゃい!」
 気の強い美女は後が怖いとばかりに、良昭は肩をすくめた。
「あの……康則さま、もう平気ですから……手を、お離しになってください」
 小さく呟いた日向子から、康則は手を離した。少し顔が赤いのは、良昭に怒った為だろう。
「わたくし……昨夜は眠ることが出来なかったのです。昨夜、父とお付き合いがある方のお屋敷から火が出て、わたくしも知っている姉様と多くの方が亡くなられました。昨日は姉様の婚約披露宴で両親も招待されていたのですが、急に参列を取りやめたから大事なかったのですけれど……」
 高槻家のことだ。鞠小路家が参列を取りやめたのは、鬼龍家からの伝達があったからに違いない。
「とても穏やかな心情ではいられなくて、気分が優れないのです……」
「無理しないで休んだら? 迎えを呼んであげようか?」
「康則さまにお願いするなんて、出来ません! 自分のことは自分でしますから、大丈夫です!」
 切れ長の目に強い意志を込め、日向子は優美に微笑んだ。
 よほど気分が優れないのか、まだ頬が赤かった。

 ◇

 午前中に集めた情報は授業時間の一部を使って整理と確認を行い、昼休みを待って康則は学習室を訪れた。
 学習教室は別名〈朱雀館〉と呼ばれる科目棟五階にあり、HR棟の〈青龍館〉からは一階と三階がガラス張りの渡り廊下で繋がれている。
 眼下に広がる東京湾の眺望が美しい窓際の机で、将隆は本を読んでいた。
 熱反射ガラスを透過した、柔らかい光が浮かび上がらせる色素の薄い髪や肌、深く澄んだ瞳、高く細い鼻梁。西洋人形の佇まいは、外界の雑音をオーディオプレイヤーから伸びたイヤフォンで遮断している。
 闇色の髪と瞳、日焼けした褐色の肌。一般社会との関わりを、用心深く保とうとする自分とは対照的だ。
「刑事に、捉まったそうだね?」
 気配を感じ顔を上げた将隆は、悪戯っぽい笑みを向けた。
「……ご存じでしたか。今朝、裏門手前で幾つか質問されました」
 捉まった、と言われ康則は苦笑で応じたが、内心では不本意だった。
 不審な視線の正体と目的を確かめるため、自然な行動を心掛けていることくらい当然、将隆も知っている。知っている上で、揶揄しているのだ。
「では、件の概要もご存じでしょうから説明は省きますが……」
 戯れ言に取り合わない康則の態度は、少なからず将隆を興醒めさせたようだ。つまらなそうに、また窓の外へと視線を移す。
「死体の形状に、問題があります」
 まわりに注意を払い、声を落とした康則は改めて良昭から得た情報を伝えた。話の途中、窓に向けられた将隆の目がすっと細められ、瞳の奥に険が宿る。
「魔伏(マブセ)か?」
〈魔伏〉というのは鬼龍家が退治を請け負うような名家出の鬼ではなく、残虐な事件や殺人を犯した先祖を持つ一般家系に現れる〈業苦の鬼〉だ。
 鬼としては下賎で力も弱いため、主に鬼龍配下の下部組織が処理を行っている。
 名家出の鬼を人知れず葬ることで、鬼龍家には莫大な報酬が支払われていた。その資金を元に、一般人から現れる鬼を葬るのも鬼龍家の仕事だった。
 旭川・宮城・横浜・京都・長崎、五本の〈鬼斬り〉を元に組織化された一族は、横浜の本家を中心として警察や地回り組を利用し情報を集め出現を予想、監視と迅速な処理を行う。
 後援者に不自由はなかった。〈業苦〉を積み重ね、豊かな富と地位を得た一族が、いくらでも出資してくれるからだ。
 それが少しでも〈徳〉となり、鬼が出ないでほしいと願いながら。
 従って一般人の犠牲者が出たとすれば、鬼龍家の体面は丸つぶれだった。早急に対応し、鬼を狩らなくてはならない。
「お館さまに……将成さまに、報告しますか?」
 その名を出すことに躊躇いながら、思案顔の将隆に尋ねた。
 鬼龍将成(きりゅうまさなり)は、体調を崩して引退した将隆の父である。床に伏すほどではないが、いまや激務に耐えられる身体ではない。
 将隆は僅かに眉を寄せ、鼻先で笑った。
「アイツに知らせる必要はないよ、我々の仕事だからな。警察と地回りは鈴城に任せて、おまえは犠牲になった生徒のまわりを調べろ」
「はい」
「俺は他の可能性を当たろう……病人の、出る幕じゃない」
 苦々しく呟いた将隆が、父親に快い感情を抱いていない事を康則は知っていた。表向きの場で、あからさまな叛意を唱えることさえあるのだ。
 近習の者達には当主となった気概と思われているようだが、瞳の奥に宿る憎悪を、康則は感じていた。
 しかしなぜ、そこまで父親を憎むのか? 理由は解らない。
「では、早急に」
 将成の話題にはこれ以上触れず、康則は一礼して踵を返した。すると、その背に将隆の声が掛かった。
「情報の出所は、例のチビだろ? 確か、鳴海とかいったな」
 思いがけない言葉に、足を止め向き直った。ゆっくり本を閉じた将隆が、口元に薄く笑みを浮かべている。だが問いかける視線は、鋭かった。
「……鳴海から得る情報は、早いのですが信憑性に欠けるので確認を取ってあります」
 康則の答えに、将隆の笑みが軽い蔑みを含んだ。どうやら良昭が康則にまとわり付いていることも、ご存じのようだ。良昭が懐くに至る事件に多少なりとも関わっているのだ、当然だろう。
「半端な覚悟で、深入りするな」
 それだけ言って将隆は立ち上がり、机から離れた。
 意味不明の言葉を投げられて、康則は呆然とする。良昭は便利な情報源だ。一定の距離を取りながら、上手く利用している。やり方が、気に入らないのだろうか? 
 どういう意味なのか、問う立場ではなかった。しかし釈然としない気持ちが、つい、別の形で言葉になった。
「万由里さんに、頼子さまの事を話されたそうですね」
 観音開きの学習室出入り口前で将隆は、肩越しに振り返った。
「話したよ」
「頼子さまと、親しかったらしく悲しんでいました」
「誰かから聞く前に、教えてやったんだ。俺が、殺したってね」
 表情も変えず、将隆は左手を軽く挙げてから扉の向こうに消えた。
 将隆の後ろ姿を見つめ、康則は両手を握りしめる。万由里の件は、言わなくても良い事だった。皮肉めいた言葉で、将隆に不快な思いをさせた。自分らしくない。
 将隆の残像から逃げるように、視線を窓に映した。外は風が強いらしい、学園を取り囲むケヤキ並木がざわざわと揺れていた。ケヤキ並木の向こうには、午後の太陽に眩しく輝く海が広がっている。
 暖かな日射しの中に佇みながら康則は、心中が急速に冷えていくのを感じていた。それが事件に対する不吉な予感なのか、他の何かを意味しているのか、解らなかった。


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