第2話

文字数 7,216文字

 J大学病院で新たな犠牲者の司法解剖に立ち会い、坪井遥香の詳しい臨床データを調べた。
 康則の素性を問わず、大学側は協力的だった。
 司法解剖を担当した法医学教授と鬼龍家が繋がっていると知り、その上に毒物検出の期待を裏切られた相馬は終始不服顔だ。
 病院の夜間通用口を出るとき、壁に掛けられた時計は二十一時を過ぎていた。
 帰りの車の中で「一緒に夕飯を食べに行こう」と誘われたが、康則は丁寧に断った。人間の相手をする方が、鬼を相手にするより何倍も疲れる。すると、携帯のアドレス交換を迫られた。
 アドレスを聞き出すまで一晩中、車を走らせるつもりらしい。しかたなく学校の友人連絡に使用しているアドレスを教え、ようやく解放してもらった。
 必要な情報は、手に入れた。
 県警本部駐車場で自分のオフロードバイクにまたがると、康則は深く息を吸い込んでからメットをかぶった。湿った空気は、潮とオイルの混じった匂いがした。
 バイクを走らせながら、頭を整理する。 
 汚泥のように、世代を経て血の中に溜まる〈業苦〉。身体の変化は年齢に関係なく、突然現れる。活力がみなぎり、不眠不休で働いても疲れない。高揚感に支配され、物欲、食欲、性欲が旺盛になる。
 だが、満たされた時間は一瞬だ。やがて癒しがたい渇きに、心身は侵されていく。
 渇きを潤すには人間の精気が、命が必要だった。本能が命じるままに獲物を見つけ、意識を操り、トランス状態にしたところで口や鼻、耳など内蔵に通じる穴から精気を吸い取る。
 そして、さらなる業苦を蓄え、〈鬼〉に変化を遂げるのだ。
 一般人である少女二人が、犠牲になった。この事実は、鬼龍家最大の恥辱だ。
 可能性としては低いが、高槻家の鬼狩りで討ち漏らしたか? それとも、全く関係のない一般人が変化した〈魔伏〉の仕業か? 
 鬼龍の監視を逃れ、近親者から出現した鬼を隠している一族もありえた。
 しかし、腑に落ちない点が一つある。
 二つの死体は、状態が異なっているのだ。
 餌となった人間は、精気を奪われた箇所から全ての体液が流れ出し、干からびた土塊のように肌は枯れて内蔵が硬化する。一人目の犠牲者、坪井遥香はの死体は、まさしく鬼の犠牲者と断定できた。だが、二人目の犠牲者は……。
 完全な、状態ではないのだ。枯れきるまで、喰われていない。
 精気を奪うさなか、人の気配を感じたとしても事は瞬時に終わる。ましてや、鬼になれば五感が鋭く発達し、身体能力も高くなる。喰い損なって逃げることなど、考えられなかった。
「鬼は二体……そのうち一体は、不完全……?」
 高槻家に潜んでいた八体の鬼が、脳裏をかすめた。
 彼等は間違いなく、頼子が作り出した戦闘員だ。だが、力、精力、不老不死。鬼が持つ能力を得るため、自ら変身を求める者もいる。
 潜在化にある業苦と欲望の程度によるが、力のある鬼から血を受け鬼になるのだ。
 当然リスクも伴う。血が合わずに、命を落とす確率の方が高い。
 高槻頼子の血で鬼となり、不完全のまま逃れて行きずりの犠牲者を出した者がいるのか?
「変身して間もない鬼ほど餌が必要だ……食べ残しは考えにくいな」
 屋敷に戻り次第、高槻家で始末した鬼と犠牲者と生存者の全てを洗い直す必要がありそうだ。気が重いが、忙しい鈴城の手を借りなくてはならない。
 街中を抜け、ファミレスやラーメン店の連なる郊外の県道をしばらく走ると街灯も寂しい住宅街に出た。次の信号を右折した所にあるコンビニを最後に、三キロメートルほど明かりのない上り坂が続く。坂の行き止まりが、鬼龍の屋敷だ。
 コンビニに用はないが、屋敷までの一本道にあるので前を通るとき注意を払った。
 店の前で一人の女性が、数人の男に囲まれている。
 数十メートル通り過ぎてからバイクを方向転換させ、店の前に戻った。人並みの良心があれば、当然の行動だ。他意はなかった。
 駐車場に停め、メットを外して店の前にいる集団を窺う。
 数は七人。だらしない服装に夥しい数の光り物をまとい、威圧のつもりか逆立てた髪を金や赤に染め上げているが、年齢的に高校生か中学生だ。地獄絵巻に登場する、餓鬼に似ている。
 その餓鬼どもを、毅然として睨みつけている女性に見覚えがあった。長く真っ直ぐな黒髪、ダークカラー・コーディネイトの気品ある佇まい。
「鞠小路……さん?」
 驚きと戸惑いが混じった白い顔が向けられ、大きく目が見開かれる。
 康則の姿を認めた鞠小路日向子は、今にも泣きそうな表情をした。だが、くっと唇を固く結ぶ。
 涙をこらえた瞳が、助けを訴えていた。
「あんた、彼氏? 彼女、迎えが遅いからオレらと遊びに行くってさ。いまごろ来て、邪魔しないでくれるかなぁ?」
 康則の前に、浅黒い顔をした背の高い金髪が立ち塞がった。この連中のリーダー格らしい。
「そうなの?」
 金髪の肩越しに惚け口調で問いかけると、日向子は髪を乱して首を振った。
「彼女、嫌がってるように見えるけど」
「うっせぇなっ! オレらとやり合うってか!」
 幼稚な恫喝を飛ばし、金髪が制服の胸ぐらを掴んだ。康則は眉一つ動かさず、その手首を左手で捻り右手拳を鳩尾に沈める。金髪は呻きも漏らさず、崩れて膝をついた。
 反撃など、予想していなかったのだろう。呆気にとられ、残り六人の動きが固まった。
 康則は一番近い男の喉に手刀を向け、半身に構えた。浅く呼吸を整え、顎を引いてから真正面を見据える。脱色した髪の根元がゴマ塩のように黒くなりかけた肥満体が、青ざめて二歩三歩と後ずさった。
 足下に転がった金髪が呻き声を上げ、地面に這いつくばったまま康則に尻を向ける。
 それを合図に、六人は各々のスクーターや原付に取り付きエンジンを掛けた。捨てゼリフを叫んでいたようだが、改造マフラーの騒音で聞こえなかった。
 群れたがる連中は弱く、危機に敏感だ。
 身構えた相手に、怪我を負ってまで挑む気概など持ち合わせていない。息巻いても、見かけ倒しだ。
 とはいえ、女性一人で相手にするのは無謀としか言いようがない。
 騒音が去るのを待って、康則は日向子の傍に立った。
「こんな遅くに出歩いて、ご両親が心配してると思うよ?」
 きつい口調で問い詰めると、日向子は上目遣いに康則を睨んだ。
「いいのです。私は、お父様やお母様の所有物ではないのですもの……昼でも夜でも、行きたいところに行く自由があります」
「そういう問題じゃないでしょ? じゃあ、今みたいに危険な連中に絡まれたら、自分で何とか出来るのかい?」
「そっ、それは……」
 じわりと、日向子の目に涙が浮かぶ。
 溜め息を吐き、改めて日向子を見れば、習い事の帰りらしくレッスンバックを抱えていた。日向子は良家の子女だ、習い事には専属の車と運転手が付くはずだが……。
 理由を問う無言の圧力に、日向子は俯いた。
「わたくし……お父様の言い付けに納得できなくて、素直に従わない意志を示したかったのです。だから今日、用事があると偽って、迎えの車がくる前にピアノのレッスン会場を出ました。K音楽ホールから最寄り駅まで歩いて、電車に乗って、家の近くの駅で降りたはずなのに、歩いても歩いても見覚えのある道が見つからなくて……」
「まさか、N駅からここまで歩いてきたの?」
 N駅は鞠小路家に一番近い駅だが、このコンビニとは逆方向だ。しかも、五キロ近く歩いたことになる。
「いつも車で通る道ですから、解ると思ったのです。駅前の道を右に曲がってすぐに大きな書店があって、それから次の信号を左に……」
「ちょっと待って、それは車で県道から駅前に出る道でしょ? 駅からなら右じゃなくて、反対の左に曲がらなきゃ同じ道には出ないと思うけど」
「あっ!」
 日向子は口元に手を当てて、真っ赤になった。
「わたくしったら……いやっ、恥ずかしい……」
 まともに外を歩く事も出来ない、世間知らずのお嬢様の反抗など愚の骨頂だ。康則が通り掛からなければ、どうなっていたか。
「父君に逆らうのは、自分で自分の身を守れるようになってからだね。とにかく家に電話して、すぐ迎えに来てもらおう。携帯持ってる?」
 日向子は、項垂れたまま首を振った。
「お父様は、わたくしに携帯電話を持たせてくれないのです。それに……家に電話をするのは嫌。迎えを頼むくらいなら、歩いて帰ります。反対方向に行けば良いのでしょう?」
 両親に頼りたくない、よほどの覚悟があるようだ。思い詰めた顔で、決然と言い切った。
「じゃあ、俺の携帯でタクシーを呼んであげるよ」
「結構です! 持ち合わせもありませんし」
「タクシー代なら……」
「鞠小路家の者が、人様に金子をお借りすることなど出来ません!」
 勢いよく康則に背を向けた日向子は、暗い県道を歩き出した。
 半ば呆れて、勝手にすればいいと思った。だが、日向子が足を引きずっていると気付いて、後を追う。
「足、怪我してるんじゃないの? さっきの連中に、やられたのか?」
「……」
 日向子は足を止めたが、俯いたまま黙っている。足下を観察したところ、左足ローファーの踵が踏みつぶされて白いハイソックスに血が滲んでいた。歩きすぎで、靴擦れが出来たようだ。
 無駄な時間は費やしたくなかった。しかし、放っておく訳にもいかない。
「困った人だな」
 康則は深い溜め息を吐いて、日向子を抱き上げた。
「えっ、きゃっ、なにっ!」
「いいかい? 俺は早く帰りたいけど、ここで君に会ったからには家に無事送り届ける責任がある。立場上、放っておいて何かあったら、鬼龍家に迷惑が掛かるんだ。おとなしく、ここに座ってくれるかな?」
 驚くほど軽い日向子の身体をコンビニ入り口横にあるベンチに下ろし、康則は店に入った。ガラス越しに見える日向子は、呆然としている。逃げ出す心配はないだろう。
 清浄綿と包帯は置いていなかったので、ウエットテッシュと大判絆創膏を購入しベンチに戻った。ついでに買った温かい紅茶を差し出すと、受け取った日向子は暖を取るように両手で握りしめた。
「靴、脱いで」
「あの、でもっ……」
 日向子の態度に焦れた康則は、さっさと両足の靴を脱がせソックスを下ろした。踵部分の透き通るように白い肌が無残に捲れ上がり、真っ赤な皮下組織から血が滲み出している。
「酷いな、この足で歩くのは無理だよ」
 ウエットテッシュで丁寧に汚れをぬぐい、絆創膏を二重に貼った。
「ソックスと靴、履いて。家まで送るから……っと、えっ?」
 日向子の顔先にソックスを突き出した康則は、狼狽えた。両手でベンチを握りしめ、声殺して日向子が泣いている。ぽたぽたと滴り落ちる涙が、プリーツスカートの膝に黒いシミとなって広がった。
「うっ、ひどっ……酷いです、康則さま……。無理矢理……脱がすなんて……えぐっ……」
 不良さえ睨みつける、気丈な日向子が泣いている。まさか、康則がソックスを脱がしたから?
 時間を惜しむあまり、配慮が足りなかった。康則は、己の余裕無さに気付き後悔する。
 途端、日向子のすんなりと伸びた白い足が記憶に蘇り、赤面した。
「……ごめん、悪かったよ。謝るから、泣かないで」
 しゃくり上げる日向子の膝に、そっとソックスを置いて隣に腰掛けた。
「父君に、何を言われたの? 話したくないなら、無理に聞かないけど」
 日向子が落ち着きを取り戻すまで、康則は待った。すると間もなく、すすり泣きが止まった。
「先日、学園の生徒が犠牲になった事件が原因です。お父様は、事件が解決するまで学校に行ってはいけないと言うのです。だから、わたくし駅で電話を掛けて、登校を許していただけるまで帰らないと言いました。駅の近くにある書店が、深夜まで営業していると知っていたので、本を見ながら時間を見計らって帰ろうと……」
「そんな理由で?」
「わたくしには、大事なことです!」
 康則の言葉に憤慨して、日向子が睨んだ。
「……ごめん」
 気圧された康則は、困惑顔で二度目の「ごめん」を口にする。日向子は真顔になり、次の瞬間、小さく吹き出した。
「やっぱり康則さまは、優しい方ですね。謝るのは、わたくしの方です……ごめんなさい。それから助けてくれて、ありがとうございます。家には、そのバイクで送って下さるのですか」
「えっ、ああ、そのつもりだけど……」
 康則は、コンビニの駐車場を見渡した。幸い、従業員駐車場にスクーターがある。
「ちょっと、待ってて」
 再び店内に入ると、先ほど会計をした大学生風の従業員が、カウンターから心配そうに首を伸ばした。
「すみません、外に駐めてあるスクーターは、誰のものですか?」
「あっ、俺のだけど」
 銀縁眼鏡を掛けた、針金のように細い青年だ。日向子が絡まれている様子を、そわそわしながらガラス越しに窺っていたが、助けに出て行く勇気は無かったようだ。
「メット、貸してもらえませんか? 彼女を家に送り届けたら、すぐに返しに来ますから。多分……三十分か四十分くらいで戻れると思います」
「いいよ。貸してあげるから、彼女を送ってあげて」
「ありがとうございます」
 礼を述べた康則に、青年は親指を立てた。
 外に出て、スクーターのシートフックに掛けられていたフルフェイスのメットを手に取り、自分のオフロード用メットと見比べて少し考える。
 日向子には、マウスガードを外せばオープンフェイスになるメットの方が良いだろう。
 マウスガードを外した自分のメットを日向子に渡し、また、考えた。
 膝下丈の、プリーツスカート……。
「その格好で、シート跨げる?」
 康則の目の前で、いきなり日向子はスカートを捲りあげた。
「平気です、ショートレギンス、はいてますから!」
 真っ白な太腿に映える、レース飾りの黒いレギンス。
「……解ったから。スカート、戻して」
「あっ! ……はい」
 昼のように明るい外灯の下、耳まで赤くなった日向子を再び抱き上げ、タンデムシートに乗せた。
 ソックスを脱がされただけで泣き出すのに、自分でスカートを捲り上げる女の子が理解出来ない。
 日向子のポジション決めを待って、康則はシートを跨ぎエンジンを掛けた。
「しっかり、掴まって」
「はい」
 荷物を括り付けた狭いシートでは、密着度が高い。細い両腕が腰に巻き付き、温かく柔らかな感触が背中に押しつけられた。
 取り回しや右左折、ブレーキングに気を遣いながらバイクを走らせる。
 数時間前の、警察を相手にした緊張感が嘘のようだ。気持ちは軽く、少し、くすぐったい。
 ゆっくり走っても、十五分ほどで鞠小路家の門前に着いた。家人に見つかると面倒なので、少し離れたところにバイクを駐める。
 オフロードバイクはシート位置が高いので、先に降りて手を貸そうとしたが、日向子は自ら軽やかに飛び降りた。
「君が門の中に入るのを、見届けて帰るよ。これからは、あまり無茶しないほうがいいね」
 括り付けてあったバックを外して手渡すと、日向子はメットを脱いで康則を見つめた。
 優しい風が吹き、長い黒髪が扇状に広がる。
 甘い香りが、康則を包んだ。
「康則さまは、お強いのですね……今になって、わたくし恐くなってまいりました。助けていただいて、感謝いたします」
「格好だけで、本当は強くないよ。はじめの一撃は、偶然なんだ。あれで相手が怯んでくれたから助かったけど、向かってきたら鞠小路さんを背負って、逃げなくちゃならなかったな」
 康則の軽口に、日向子が笑った。その笑顔に一瞬、心臓が高鳴る。
「と、とにかく、ご両親を安心させてあげて。それから、俺に敬称をつけるのは止めてくれないかな? クラスメートなんだし」
「康則さま……と、お呼びしてはいけませんか? 康則さまも、お親しい将隆さまに敬称を付けていらっしゃいます」
「将隆さまは、特別な方だから……」
 日向子は知らない。親しく見えるようでも将隆は、康則にとって主だ。立場が違う。
「……わたくしにとっては、康則さまが特別な方なのです」
「えっ?」
 気持ちを伝えようとする真剣な眼差しを受け止め、康則は戸惑った。
 こんな時、どんな態度を取ればいいのか解らない。
 学園では生徒、警察では鬼龍の調査員、戦場では将隆の露払い。他にも、あらゆる場面をシミュレートし、迅速に対応出来る自信があった。
 しかし今、目の前にいる一人の女性に対する言葉がシミュレートできないのだ。
 これまでのように、友人でいるためにはどうすればいい?
 日向子は学園のマドンナだ。突き放す言葉で傷つけると、康則の立場が悪くなるかもしれない。
 様々な考えが、脳裏を横切る。ところが、どの考えも康則の気持ちを動かさなかった。
 戸惑いの中に、何か別の感情が存在していた。
「困って、いらっしゃるんですね? でも……わたくし本気です。だから、お父様が何と言おうと、康則さまに会うため明日も登校いたします。今日、康則さまは、もっともっと特別な方になりました。では、おやすみなさいませ」
 天女の微笑みを残し、日向子は踵を返した。正門横にある通用門前で一度振り返り、小さく手を振る。
 その姿が消えてから、康則はバイクのエンジンを掛けた。
 一方的に好意を伝えられ、複雑な心境だった。意識の深層に押し込めていた感情が、浮かび上がりそうになる。
 自分に素直な、ありのままの感情。
「だめだ……俺には、やるべき事があるんだ」
 屋敷に帰れば、また殺伐とした仕事に追われる。
 だが少しの間だけでも、甘く優しい空気を感じていたかった。

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