第9話

文字数 1,794文字

 ソータが図書室に行くと、レンリはおすすめ本のコーナーで埃を取ったり、ポップの向きを直したりしていた。ソータが近づくと、ハンディモップを両手に持ってレンリが振り向いた。どうしたの? 別に。
 蛍光灯の光が書架に薄い影を作っていて、塩ビシートの床をピカピカに光らせていた。吸音パネルの壁には大きなコルクボードが掛けられていて、掲示物が几帳面に貼られている。飛び出した柱にはクッション材が巻かれていて、雪の結晶の切り紙が飾られていた。
 ソータは受付の中に遠慮もせずに入り、棚の中から空いた花瓶を取り出して、廊下に出ると、水を汲んで戻ってきた。花瓶には竜胆が一凛さしてあった。こっちこっち。レンリは記入用紙を書く小さな机の上を指して、ここに飾るのはどう? うん、いいね。
 今日はツムギちゃんいないんだね、最近アキコさんと仲がいいみたい、アキコさん? ああ、新しいお義母さんか。
 スピーカーから下校時間を告げるバラードが流れ始めた。窓の外からは定期的に陸上部のホイッスルが短く空を切る。図書室の空気はどんな小さな音の邪魔もしなかった。女性の先輩、ソータに受付の仕事を教えてくれた常連さんが咳払いをした。
 二人で戸締りを確認する。勉強机の脇にある物置きラックに忘れ物がないか確認する。先輩の借り出しを処理する。はい終わり、お疲れ様です、帰ろうか。鍵を閉めた。

 木島ヨリトの悩みはもっぱら蛍原リンネにあった。木島ヨリトは柔道部のキャプテンで、二人の出会いは入学式のころにさかのぼった。ヨリトはリンネの才能を一目で見極め……
「ちょっと待って、ストップ!」
 ヨリトは面食らった。
「なにしれっと話を続けてるんですか? 僕がいつ力を貸すと言いましたか?」
 ソータは本気で怒っているように見えた。
「でも柔道部は廃部寸前なほど追い詰められているんだ!」
「知りません」取り付く島もない。「それは美化委員の仕事ではありません」
 え? なんで助けてくれないんだ? 君は稀代のラッキーボーイにして史上最高の美化委員、飯田ソータじゃないのか。
 どうしていいのか分からないヨリトを見て、ココアは厚かましい同情心を覚えてレンリを呼びに廊下を駆け出した。2年J組は昼休みの解放された陽気さに包まれていたが、だれもかれもが聞き耳を立ててソータの動向を伺っていた。昼食を終えた後でも一人もグラウンド出て行かない。サッカーボールはショウの手の上でくるくる回るだけだった。スマホをいじっているふりをしている者が多数。白々しい高速のスワイプ。
 屈強な筋肉に覆われたヨリトの両肩がうなだれていた。ソータは頭を掻いてずっと何かに悩んでいた。
 ココアに連れられて息を切らせたレンリが現れた。椅子を動かして、ソータの隣に座った。息を整えるまでしばらくかかった。ソータは…… ソータは右手を額に当てて、菜の花の苦みでもかみしめているようだった。
「ね」と。
 レンリは。
「ソータ君」
「やだ」
「助けてあげよ?」
「やだ」
 また二人きりの時間がなくなっちゃう!
「恵まれない人、不器用な人、逃げ出しちゃう人、頑張りたくても頑張れない人、いろいろいるけど……」
 レンリの瞳の輝き! 微塵もソータの事を疑っていないようだった。ソータのまだ見ぬ可能性を信じ切っている瞳だった。
「こころの居場所がなくても平気なひとは…… いないんだよ?」
「僕だって恵まれてないです! 陰キャだし、ブサイクだし! 将来ハゲそうだし!」
 レンリはソータの右手を掴んだ。両手で、力強く。
「運動神経悪いし…… 滑舌悪いし…… ギャグセンスだってないし…… かといっていじられてもろくに面白い返しもできなくって空気が悪くなるし」
 レンリはソータの右手におでこをつけた。祈るように、ひたむきに。
「ダメだよレンリ。ずるいよ」
「なにが?」
「それ」
「どれ?」
 ああもう、知らない! 柔道部、かかってこいよ! 楽勝だよ!
 美化委員の手にかかれば、学校内のいかなる困難も、ちょちょいのちょいなんだよ! ばーかばーか!
「本当かい! 助かるよ!」ヨリトは飛び上がった。
 2年J組は普段の昼休みに戻った。みんな心がほんわりと暖かだった。

 高瀬ココアは思った、もうお前ら結婚しろ。
 二階堂ユメは思った、もうお前ら結婚しろ。
 本田ショウは思った、もうお前ら結婚しろ。
 岸辺リイチは思った、もうお前ら結婚しろ。


―おわり―
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