1.

文字数 6,027文字

気が付けば、ただ無意味に生きる屍になっていた。

県道555号線沿いの南公園。白いグラウンド脇のベンチ。
自転車を漕いでいた僕はその真横で停まると、ズボンの右ポケットからスマホを取り出して、電源を入れる。現在の時刻は16時10分と画面に表示される。
少し暇つぶしていくか。
自転車から降りてベンチに座り、平均以下の体重なのに重たい体を背もたれにあずけた。
ベンチの真後ろにあるフェンスの向こう側。生い茂る大きな緑地の樹木が、日差しをなんとか遮ってくれている。
それでも、僕自身が自転車を漕いできたのもあるが、梅雨時期の湿気と蒸し暑さで鼻の下と額に汗が滲み出る。細い腕を通したワイシャツの袖口で拭う。白のワイシャツだから黄ばむと目立つが、これだけ暑くて、既に全身汗だくなのだから気にしてもしょうがない。
目の前の光景に目を向けて、呆然と眺める。いや、このベンチから見える光景なんて、何の変哲もない、たかが知れている光景さ。
狭い県道を次々と車が通り過ぎる。そのエンジン音と、無慈悲なクラクションが混ざりあった騒音が鳴り響いていて、聞いていてうんざりする。
グラウンドと県道の間にある歩道。ランドセルを背負った子供達がやかましい奇声をあげながら走っていく。歩行器を押す小さな老婆が、その子供達をよけながらゆっくり歩いていく。
近くの中学校の制服を着た男子と女子のペアが、グラウンド端の塀のフェンスに寄りかかって談笑している。その反対側の公園の端にある小さなバス停では、スーツ姿の男が腕を組んでは大きく貧乏ゆすりをしているのが僅かに見えた。
この公園はあまり好きじゃないんだよな。
この公園は今いるグラウンドと後ろの緑地全体が敷地になっていて、さっき言ったように端にはバス停もある。
だから親と一緒に来た幼児から、やかましい小学生、仲間と一緒に登下校する中高生、必死に通勤するサラリーマン、満身創痍で歩く老人まで、ほぼ全ての年齢層の人間がこの公園を通り過ぎていく。
そんな人間達を横から眺めていると、人間の余裕のない人生の全体像を見ているようで、なんだか虚しくなってくるんだ。
またそんな人間達を取り込もうと、たまにカルト宗教の信者が公園の角にスタンドを立てて通り過ぎる人間を勧誘しやがる。それを見ると無性に腹がたってくる。
あとこのベンチにずっと座っていると、目の前を通り過ぎる大概の人間に白い目で見られるから、そういう人間の目が気になって背中から冷や汗が吹き出すし、めまいもしてくるんだ。自意識過剰だなんて言ってほしくないね。そんなの百も承知、僕自身が一番わかってるよ。でもこの体質は、今では僕の左腕や首元にあるホクロと同じくらい決定的なものになってしまったんだから。こればかりは諦観で見るしかないよ。
まぁこういった理由で、僕はこの公園が好きじゃないんだ。
でも道路を挟んですぐ隣にはコンビニがあるから、もし何か口にしたいと思ったらそこに立ち寄れる。それにここら一帯は住宅街だから真っ直ぐ家に帰りたくない時の暇つぶしができる場所なんて、ここぐらいしかない。
いや、もっとここから自転車で40分ぐらい走れば、都会に行けなくもないさ。そこまで行けば、遊んだり時間を潰したりする場所なんて有り余る程ある。実際に仲の良い奴らから遊びに誘われることもあるけど、人間恐怖症の僕は人混みが苦手だから、ただ率先しては行かないんだよな。
また単純に、いつも倦怠感に付きまとわれている中で学校から約40分かけてここに来て、あと40分も自転車を漕ぐ体力なんて残っていないよ。それに何より面倒くさい。

そもそも何故真っ直ぐ家に帰りたくないのか。それは僕の父親の仕事が休みで、父親が家にいるからなんだ。
知っているかな。二人組ぐらいで家に訪問してきては、訳もわからない話をしてくる奴ら。そうあれ。まさにこの公園の角でたまに勧誘しているあのカルト宗教だよ。
僕の父親はそのカルト宗教の熱狂的な信者でさ。客観的に見たら全くひでえ父親さ。今となっては僕自身全く興味ないんだけど、一緒に過ごしていると色々とうるせぇんだ。母親は僕が幼い頃に死んでいて、成人した姉も家を出ているから誰も止めることができない暴走機関車だ。その父親のせいで僕の半生はめちゃくちゃになってしまったんだ。

つい最近まで父親に色々されたりさせられたりして、おかげで僕の半生はその宗教中心の、不自由で縛られた生活でさ。宗教活動を無理強いさせられたせいで疲労困憊、あと倦怠感と虚無感が体から離れなくなった。
しかもその宗教の教理的に学校の行事の大半はできなかったから、皆んなとは別行動を強いられてね。それではみ出し者の僕は小学校、中学校でイジメにもあった。冷たい視線や嘲笑や罵声、殴られたり蹴られたりは当然、あとカッターで切り付けられたりもしたな。
学校には親しくしてくれる奴らもいたが、当然そいつらにイジメを止められる力は無かった。元から期待なんてしてなかったけど。徐々に人間恐怖症と人間不信になっていって、挙句に心が病んで希死念慮にさいなまれた。徐々に僕自身が言いたいことを押し殺して、何も喋らなくなった。
僕には4つ上の姉がいるんだけど、僕が中学生の時に親の宗教から離れた。そして姉自身の友人の家に、家出同然で居候するにようになった。必要以上に自分の意思が叩き潰される生活なんて誰でも嫌がると思うから、そうなるのは必然だったと思うけど。
そしたら家庭崩壊まっしぐら。言い争い、怒号の嵐。いつも父親が投げた物が家中を飛び交い、リビングのテーブルを叩きつける音が鳴り響いた。「自分は間違えていない」と主張し合う父親と姉は最悪な関係になって、僕はそれの板挟みになった。僕が仲介役で入ったり場を鎮めたりしたけれど、どっちつかずで家族愛なんて爆散したよ。
また中学1年の時に、「いずれ自由に生きたい」という僕の密かな夢を誓った友人がイジメで飛び降りた。中学3年の時には、僕を支えてくれた恋人がこれもイジメで首吊った。そんなことが立て続けに起きて、二人を助けられなったことへの自責の念にさいなまれるようになった。
自分の意志とか目標とか活力とか、そういうの全部死んで、心が粉々に砕け散った。
ここで僕の限界が来た。僕の頭はおかしくなってしまったんだ。
学校とか宗教活動の時間とか、周りの人間の前では騙しだましに動いて、それ以外は死体みたいに寝たきりになってさ。
すっかり自殺願望に取り憑かれた僕は、自分の存在は周りに迷惑をかける、もう全てがどうでもいい、そう考えては死ねる方法を探した。
他人に気を遣うことも、誰かを信頼したり愛したりすることも、何かに必死になることも、生きることも全部やめたくて、密かに自殺未遂を繰り返した。
息をするふりばかりして、心配してくる人間には「大丈夫だよ」なんて嘘を言って作り笑いを振り撒く。
視界が黒くすすけて、もう自分が生きているのか死んでいるのか、そもそも人間なのかどうかもわからなくなっていた。
そして今となっては、元々倦怠感と虚無感を身にまとっているのに加えて、食事も睡眠も生死も一切合切面倒くさがる怠慢で、嫌な出来事や人間に一人で唾を吐く傲慢な偽善者。陰湿、細身で猫背で無口という全く嫌な奴に成り下がっていた。ただ無気力に生きる屍になっていた。
ゲームオーバー。人間失格。恥の多い人生を送ってきましたとさ。
まぁこんな感じに、僕の半生は全く酷いものになってしまったんだ。もちろんそこら辺の人間みたいな生活とか青春とか経験したことないよ。
詳しい話はここぐらいにしておくよ。すごい暗くなっちまったじゃないか。
不幸自慢する気なんて更々ないし、聞いててうんざりしてくるだろ? まぁ僕自身が面倒くさいのが本音なんだけどさ。

そんな訳で、仕事が休みで父親が家にいる今日はすぐに家に帰りたくなくて、ここに立ち寄ってベンチに腰掛けては呆然としている。
全くこんな碌でもねえ半生を過ごした、この町が嫌いだ。あちこちに嫌な記憶が転がっていて、僕からしたら地獄みたいな場所だよ。
だから僕は学校を卒業したら、普通に就職して、家やこの町とはおさらばしてやるつもりだ。
そりゃ頭がおかしくなった状態の僕だったら当然無理さ。でも僕の周りの優しい人間が色々動いてくれたから、おかげで死体からゾンビぐらいには動けるようにはなったんだ。
まるで社会復帰更生プログラムを施されたかのようだったよ。
成人した姉の助力のおかげで、最近やっと父親の宗教から抜け出せた。昔から唯一の親友が毎週誘ってくれて、この町の中央公園でランニングして少しずつ動ける体力を付けていった。学校の教師達に担当のカウンセラーを紹介してもらった。就活も今の所は順調だ。
やっと家やこの町から離れて自由に動けるようになると考えると、本当にせいぜいする。それなのに、さっさと忘れたいことに埋もれがちな美しき思い出を思い出すと、少し寂しく感じないこともない。本当、僕自身のこういう弱さや優柔不断なところにもうんざりする。
また最近、苦しくなった時の吐き出し口がある方がいいと、姉が父親に内緒で僕にスマホをくれると同時に、SNSの使い方を教えてくれた。
SNSで色々見たり思ったことを言ってみたりする内に、僕みたいに宗教やイジメなどに人生を汚された人達がたくさんいることを知って、またその何人かとSNS上で繋がりを持った。
自身を苦しめた社会、宗教組織、一個人を呪う毒吐き。過去の痛みから解放されて、今現在は普通の家庭を築けている喜び。また未だに地獄を味わっている人達の嘆き。
SNS上でのそれぞれの主張は様々だ。
何かの娯楽とか暇つぶしとかがまるっきり長続きしない僕だけど、近頃はSNSを開いてはそう言った呟きを見たり発言したりするのが習慣になっている。
悪趣味だとは言われたくないな。僕の中では、どこかの宗教の聖典の偉人とか、テレビや映画で流れる悲劇物の主人公とかよりも、断然こういう人の気持ちの方がわからなくもないんだよ。

そんなことを考えていると、公園端のフェンスに寄りかかって話していた男子と女子にまた目に留まった。
女子が男子の方に手を差し伸べる。男子がその手を取るとそのままお互いの手を絡め、二人並んでそのまま歩いていった。
制服を見るに、僕も昔通っていた近くの中学校の生徒だと思う。カップルだろうか。お熱いこった。
他人と接したり、ましてや好きになったりするのは案外命がけだよ。少なくとも甘い行為とは思わないね。
例えば迷霧と上辺だけで愛を紡いでしまうと、いずれほころびが生まれて嫌になってくるもんだよ。そしたらもうその相手とは接しづらくなる。
でも逆に深い関係になっても、出会いがあれば必然的に別れが訪れることを忘れて、いざという時に大きな喪失感を味わうことになる。
「さよならだけが人生だ」なんてよく言ったもんさ。でもそれがわかるのは、大抵今まで接してきたその相手がいなくなってからさ。それに、こんな内容をさっきのカップルとか他の誰かとかに話してもどうしようもないしね。
お前何様だって思うかもしれないな。
でもさっきも言った通り、今まで人間に冷たくされて、周りの人間の関係が切れないように歯を食いしばって、信頼した人の死も味わった。まだ学生の僕だけど、この年にしては人間の醜さとか繋がりと死とかを経験しすぎたせいか、色々皮肉りたくなるんだよ。

「一哉君はさ、きっと優しすぎて、真面目すぎるだけなんだよ」

いつか聞いたことのある言葉が、脳内でノイズを交えながら再生される。
こうやって一人で色々考えていると、死んだ恋人が言ってくれた言葉達が、後ろから背後霊に投げつけられるんだ。
その恋人は違う学校の同い年の奴でさ。中学3年の春に、この公園の近くにある川に入水した僕を助けてくれたのが始まりだった。
当時の僕はもう人間不信になっていたけど、その娘もイジメられっ子で、お互いの抱えている苦しみが一緒だったり似ていたりしてた所から意気投合してね。
それで頻繫に会うようになって、世界から見放されたお互いを肯定し合った。冷たい人間達のせいでかじかんだ手を温め合った。僕が親の宗教の中心の生活のせいで酷い世間知らずなのを知ると、その娘が僕の手を引っ張っては、最近の若者の遊びを教えてくれたり一緒に楽しんだりしてくれた。
一緒に過ごしていて、このクソみたいな世の中を生きる中で味わえる喜びを教えてくれた。粉々になった僕の心を一度は作り直してくれた。絶望の雨にずぶ濡れの僕を、一緒に濡れながら優しく抱きしめてくれた。そしてその年の冬、こんな僕なんかに告白してきてくれて恋人同士になったんだ。
でも翌年の春。その娘の叔父と名乗る人間から聞くに、その娘はイジメの主犯の男子達に強姦されて、その日の内に首を吊ってしまった。
その日からその娘の影や言葉が背後霊になってさ。その日からずっと、お先真っ暗で自分の生き方も存在もわからない僕を見張り続いている。

「君の知らない世界に、連れてってあげる」

僕に差し伸べられた、白く美しくも所々切り傷と青あざのついた手。
黒髪ショートの髪型で、今にも折れてしまいそうな細い体。
無邪気な笑顔と、落ち着いて温かい言葉を紡ぐ声。
夏の誰もいない砂浜。痣だらけの手足が露出した白のワンピース姿で、靴を脱ぎ捨て、にっこり笑いながらダンスをしていた少女。
僕の壊れた心を一度は優しく作り直してくれて、僕が唯一愛した人。
そして僕を助けたくせに宙吊りになって、今では背後霊として僕を見張っているあの娘が微笑む。
この町で過ごしていると、ふとした時にあの娘の幻影が顔を出す。あの娘の言葉を背後霊に投げつけられる。そして今の僕の姿を、生き方を鮮明に映し出す。特に彼女とよく幹に寄り掛かって会話した桜の木を見ると、少し胸が痛む。
それで尚更この町が過ごしにくく感じてしまう。これもまた、早くこの町から出ていきたい理由の一つになっていた。

もう一度ズボンの右ポケットからスマホを取り出して、電源を入れた。画面に17時半を少し過ぎた今の時刻が表示される。少し長居しすぎたか。
そろそろ父親が喚き出すから帰るとするか。いや、いつも父親は喚いているけどね。
そう考えると酷く憂鬱で億劫だが、重い腰を上げて自転車に跨る。
梅雨時期の地面から立ち昇る湿気と蒸し暑さに、汗と生気が絞り取られる。すっかり西に傾いた太陽が「惨めだな」と僕を罵ってくる。でもこんな僕にとっては、そんな罵声がお似合いなのかもしれない。

「苦しんだ一哉君にしか歩めない、一哉君だけの生き方がきっと見つかるから」

いつか聞いたあの娘の言葉がまた聞こえた気がして、頭が震える。
そろそろうるせぇぞ、背後霊。
ただ一切が過ぎていく。何も起こらずに今日が昨日になっていく。
ただ無気力に生きる屍になってしまった僕に、これからの僕の生き方なんか、もっとわからねぇよ。

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