7.

文字数 2,426文字

それから幾年。
気がつくと僕は、普通に働く大人になっていた。
暑い夏も終わりを迎える8月31日の昼間。
住んでいるアパートの近くにある小さな公園のベンチで、僕は少しばかり肩幅と筋肉がついた体を、休ませていた。
気温は軽く30度度を超えていて、体全体から汗が滲み出る。夏が終わると言ってもまだまだ残暑が厳しくて、学生時代よりも体力が落ちた肉体にはかなり堪える。すっかり声が枯れたし、シワも増えたし、目の下のクマなんかもできてしまっているしね。

合わなければすぐ転職してやろうと思っていた職場は、単刀直入に言うと今は結構辛いけど結局は続けている。
最初にこの地方に移ってきた時からは仕事内容が変わってね。今では騒音が激しい環境で、時には重い物も持って、周りと連携して動く肉体労働という、貧弱で他人とコミュニケーションを取るのが下手な僕とは明らかに相性の悪い仕事をしている。その上、納期とか作業時間とかの関係で残業とか土曜出勤とかも当たり前だ。正直あまりオススメできない仕事だよ。
でもまだ僕が若いということもあるだろうけど、そこで働く人達も案外優しく接してくれているから、転職してないけど。
特に帰りが途中まで一緒になる、同僚の先輩や年上の同期がよく可愛いがってくれていてさ。
最初は物怖じして、僕の方から距離を取っていた。だけどそんな僕を誘ってくれて、仕事終わりの夕飯や生活品の買い出しを共にするようになった。会話も増えていった。
ドラッグストアに寄ってはオススメの品を教えてくれたり、一緒に仕事をしていて危ない同僚の愚痴をつい言ってしまう僕の話を聞いてくれたり、僕が怪我をしたりするとすごい心配してくれたりしてくれて、今では僕が残業で休日出勤するようになったのを気に掛けてくれている。
仕事も会話も不器用だから主義主張もできない僕だけど、一緒に帰っていて「今日の夕飯どこで食べようか?」とか「どこか寄っていこうか?」とかの話になると、申し訳ないなと思えるくらい率先して僕の意見とか考えとかを取り入れてくれている。
この間なんて、その先輩と年上の同期と僕で日帰り旅行に行ってさ。そこの名物の食べ物を楽しんだり景色に酔い浸ったりした。
仕事終わりに一緒に乾杯して、夕飯を食べて、買い出し行って、人がまばらなコンビニ前で一緒に煙草を吸っては夜遅くまで駄弁る。お互いの仕事での失敗談、上司の愚痴、二人から出るボケに腹抱えて笑う一週間。
これが普通の大人の生活というものなのだろうか? もしそうなら、なんて尊いものなんだろう。
学校のレクリエーションとか親の宗教での複数人による食事会とかみたいにさ。変に仲のいい振りしたり、その場全員で神様に祈ったり、話す内容や口調に気を付けたりしなくていいんだ。
この世界の中ではありふれた情景なのかもしれないけど、裏の顔も感情も無くて純粋無垢で、なんとバカデカいものなんだな。この間は先輩と生まれて初めて花火をして、花火の美しさと周りの人達の優しさが相まって、アパートに帰ってから涙を流したよ。

またSNSで知り合って、現実で実際に会ったり話したりする友人とのやり取りは今も続いている。
その友人は僕と同じ元宗教二世で、心の苦しみを味わったことも共通しているから、同じ境遇を味わった人間しかわからない話や心境なんかを自然に話せるんだよな。その友人が話上手というのもあるけどね。
またいつしかラインで、毎週月曜日朝には「マイペースに頑張りましょう」、その週の金曜夜には「一週間お疲れ様でした」と励まし合うのも習慣になっていた。僕的には、忙しい日常の波に埋没しそうになったり、定期的に訪れる不調の波で落ち込んだりした時にそのラインを見ると、心が落ち着く。だからこの習慣的なやり取りは、個人的に気に入っているんだ。
あとその友人とは今度、旅行に行く約束もしている。言い過ぎかもしれないが、その約束を果たさないといけないという事実が、今の僕が死ねない一番の理由になっている。

そうやって、気がつけば多くの人達に支えられていた。
今更そういう、優しさとか温もりとかに感情的になる義理も資格も僕にはない。
それに、ずっと一人で過ごしてきた過去の僕を裏切る訳にはいかない。
だから、今更優しい人の好意をよりどころにしてしまうのは、今まで一人だった僕自身そのものを否定してしまうような気がして、怖くなった。
今まで絶望とか悲しみとかと一緒に過ごしてきたせいで、結局はこんな自分がいいのかとつい戸惑ってしまう。暗闇の中で何かの光に誘われる虫は、白日の元ではどこに行けばいいのかわからなくなる。そういう弱虫は幸福でさえ恐れるものだよ。綿で怪我するんだよ。
でも、手を差し伸べてくれた人達には本当に感謝している。また向けてくれた好意を無に帰すこともしたくない。
だからそういった優しい人達には、僕自身が死ぬまでには、何らかの方法で恩返しできたらいいなと思った。それで色々、その方法を考えた。

でも結局、僕に手を差し伸べてくれた人達への一番の恩返しって、僕が僕らしく生きることなんじゃないかという結論に至った。
こんな僕を生かしてくれた人達が一番喜ぶのは、僕が僕らしく考え、選び、動いて、生きて、最終的に笑っていられるような人生を送ることではないだろうか。
なら、今は他人の為でも面目の為でもなく、僕自身の為に生きよう。
僕自身が今できることだけ、やりたいことだけに手を伸ばしていこう。
過去に押し付けられた、痛みも喜怒哀楽も全部無くなった自由なんていらない。かけがえのない不自由を手に入れていくんだ。
そう確信して、移り変わる季節の中を疾走してきた。
それが、紆余曲折しながらもようやく手に入れた、僕だけの生き方だと悟った。

そうやって今、一哉という名の僕はここで息をしている。
夏の暑さと蝉の鳴き声が残る今、生きる屍で流離った先に思う。
たとえ誰にも理解されなくとも、僕が僕自身の為に生きる他に、生きる道など無いのだ。
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