第6話 傷

文字数 988文字

「鈴殿、泣いていたぞ・・・」

「健気な・・・ちとは優しくしてやればよいものを・・・」
 こんな門弟達の帰り際の呟きが聞こえたような気がした。そして道場はしんと静まりかえった。

(これでいい・・・)

 大祐はもう鈴太郎に惑わされる事はないだろうと考えた。
 嫌われただろう。
 憎しみの目で見られるのは慣れている。父がもし失脚したら門弟の内、何人かは敵となるかも知れない。
 俺はその時は躊躇無く、そいつらを斬り殺すのだ。

 大祐は汗を流すために道場脇の井戸に向かった。もう薄暗くなっている。
「!」
 井戸端には誰かいる。今日は師匠は珍しく登城していて、家中は皆ついて行っている。住居の離れには下女がいるが、道場にはもう誰も居ないはずだ。いるとしたら・・・


 果たして鈴太郎だった。
 釣瓶で水を汲んでいる。右肩を庇いながら。大祐が近づいたことは気付かない。大祐は去ろうかと思ったが、何故か鈴太郎の様子にそこに釘付けになっていた。
 思い詰めたような顔で、その動作は放心したように弱々しかった。それでいてどこか優雅で男のぎごちなさは無い。
 鈴太郎は大祐に背中を見せながら汲んだ盥(たらい)の前に膝を突き、右肩から小袖を落とした。そして大祐に打たれた当たりに水を吸った手拭いを当てる。
「え!」
 鈴太郎が気配に振り返った。
 大祐と目が合う。大祐は電撃に打たれたように身が震えた。鈴太郎も吃驚した顔で固まっていた。
 大祐の目は、鈴太郎の妖艶な裸の半身に見入った。白雪のような肌にあったのは、鎖骨から右の乳首まで引かれた紅い傷跡であった!

「そ・・・それは・・・?」
 大祐は自分が付けたのではないかと心臓がどきりとした。
 鈴太郎ははっと気付くとおなごがやるように両手で胸を覆った。そして下を向いて膝を閉じて突いた。

 大祐は思わず濡れ縁から飛び降りて、鈴太郎に駆け寄っていた。鈴太郎はさらに身を懐いて横を向いた。
「こ・・・れは、貴方様が付けた傷ではありませぬ!」

 大祐は片膝を鈴太郎の前に突いて、そっと鈴太郎の手を右肩から外した。白い肌がどんどん上気してくるのが分かる。そしてその傷は夕暮れに妖しく紅く映えた。
 鎖骨の上についた傷はそれが一旦、両断されたことを示していた。再び接合するのに時間を要する筈だ。
「この傷はまだ新しいではないか・・・その体で稽古に出ていたのか・・・」

 大祐は自分が間違っていた事を悟った。

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