第29話 サミエラは契約を結ぶ
文字数 4,066文字
サミエラは奴隷たちの衣食住を備え、奴隷たちを人道的に扱うこと。女性であるアネッタと漣に娼婦として客を取らせることをしないこと。
奴隷たちはサミエラとゴールディ商会に忠節を尽くすこと。主人の不利益となる行動をしないこと。業務上知り得た商会の秘密を部外者に口外しないこと。
奴隷商人のジョージは奴隷たちの売上金のうち、仲介手数料を除く分を生き残った乗組員たちに公平に分配すること。彼らをオランダの植民地まで乗船させること。
細かい内容は他にもあるが、
「では、契約の締結に移りましょう。まずはサミエラ嬢からお願いします」
「はい」
聖書の上に契約書が重ねて置かれ、サミエラがその上に手を置く。
「サミエラ・ゴールディ、この契約により奴隷たちはあなたの所有物となります。しかし、不幸にも奴隷堕ちすることになったとはいえ、彼らもまた神の子です。彼らへの扱いは必ず父なる神の目に留まり、この最も小なる者の1人をどのように扱うかによってあなたもまた神から同じように扱われるでしょう。あなたは父なる神
「誓います」
固唾を飲んで見守っていた奴隷たちがほっと安心した表情を浮かべ、ジャンとロッコとジョージがパチパチと手を打ち鳴らし、遅れて奴隷たちもその拍手に加わる。
同様の誓約はジョージと奴隷たちに対しても行われ、ここにサミエラの奴隷購入に関係する契約が締結されて、奴隷たちは正式にサミエラの所有物となった。
「今回は良いお取引ができたことに感謝なのですな。またご贔屓いただければ幸いなのですな」
「こちらこそ思わぬ掘り出し物の人材を紹介していただけて良かったわ。またいい人がいたら紹介してね」
「もちろんですとも。可能であればまた2、3カ月後にヨーロッパから手に職のある者を連れてまいりましょう。では、わしは明日の奴隷市の準備もありますのでこれで失礼させていただくのですな」
売買契約が無事に締結され、約束していた奴隷たちの私物の引き渡しも終わったので、ジョージが手短に挨拶だけして従者たちを連れて去っていき、後にはサミエラとロッコとジャンと奴隷たちが残された。
「さて──」
サミエラが奴隷たちに向き直ると、奴隷たちは緊張した面持ちで背筋を伸ばす。
「ああ、どうぞ楽にしてちょうだい。ここにはもうある意味身内しかいないから、これからのことを話し合いましょう。……おじ様、頼んでいた物は持ってきてくれたかしら?」
「おう。持ってきたぜ」
ロッコが肩掛けのカバンから、さっき農園に一度戻った時に取ってきた自家消費用の干し果物の入った小袋を取り出す。ジャンが会議室に備え付けの食器棚から皿を3枚出してきたのでロッコがそれに袋の中身を等分に分けると、ジャンはさっさと自分用に1皿を確保して自分の席に戻る。
「は? ジャン、おま……」「……まさかの鮮やか過ぎる手口ね」
ロッコは唖然とし、サミエラは苦笑しつつ、色とりどりの干し果物の入った皿を奴隷たちの前に置いた。
「……? これは?」
「まずは実物を知ってもらうのが早いわ。これがうちの商会の主力商品よ。そのまま食べれるからまずは味見してちょうだい」
「…………っ!」「甘い!」「美味しい!」
初めはおそるおそる口に入れ、次の瞬間に全員が目を見開く。アボットだけは商人らしく、干し果物をそのまま食べきってしまうのではなく、味を見て、匂いを嗅ぎ、細部を観察してその商品価値を冷静に見極めていた。
「……ふむ。これは果物を干した物のようですが、腐ったりカビが生えたりもせずに綺麗に乾燥できてますな。味も風味も良い。船乗りたちに喜ばれそうですな」
「アボットさんは目敏いわね。ええ、船乗りにも大人気よ」
「ああ、どうか私のことはアボットと呼び捨てにしてください。他の者たちもです。上下関係ははっきりさせませんと」
「そうね、分かったわ。それであなたたちにとってうちの干し果物はどうかしら? ……って聞くまでもなさそうね」
サミエラが若者たちに目をやれば全員すっかり気に入ったようで、とりわけ少女たちが先を争うように次々に皿に手を伸ばしていた。
たちまちのうちに2枚の皿が空になる。少女たちが未練がましくジャンの方を見れば、ジャンがにっこりと笑う。
「あげませんよ。これは私のです」
「「…………」」
絶望的な表情を浮かべる少女たちに、隣に座っている権之助とアボットがそれぞれ割りと容赦のないげんこつを落とし、2人が頭を抱えて悶絶する。
「痛っだぁ……」「うう……」
「ナミ、主様の前で無様をさらすでない」「アニー、身のほどを弁えろ。お前はもう奴隷なんだぞ」
サミエラはクスリと笑って続けた。
「ふふ。気に入っていただけたようで嬉しいわ。うちはこの干し果物の製造販売を手掛けているのだけど、このサンファンではすっかり人気が出ちゃって作り手がぜんぜん足りてないのよ。しかも製法はうちの商会が握っているから他の商会も製法を知ろうと虎視眈々と狙っているわ。だから秘密を守れる信頼できる奴隷が欲しかったのよ」
「ふむ、なるほど。確かにこれは人気になるでしょうな。しかも独自の製法を握っていて独占販売しているならば成功は約束されていると言っても過言ではない。……して、私共はこの果物の加工品作りが主な仕事になるということですかな?」
「最初はそうね。今はまだ需要に供給がぜんぜん追いついてないからまずは製造量を増やすのが優先よ。あなたたちにも製造ノウハウは覚えてもらわないとね。それから商会の規模も拡大していきたいと思っているわ。でも、組織が大きくなると経理などを専門にする人間や製造や流通を監督する人間も必要になるわ。当然、警備などを担う人間もね。あなたたちにはいずれそのような責任を任せたいと思っているのよ」
思った以上に大きな話にアボットが驚き、そして楽しそうに笑う。
「ははっ! それはなんとも胸の躍る話ですな。まさか奴隷堕ちしてすぐにこれほどの大きな仕事に関われるとは。ご主人様は若いのに商人としてはずいぶんとやり手であられるようだ。……年齢をお伺いしてもよろしいですか?」
「17よ。父が死んでゴールディ商会を引き継いで1ヶ月になるわ。まだまだ若輩者で頼りない商会長だけど、これから商会を大きくするために努力は惜しまないつもりだから支えてくれると嬉しいわ」
「おう、なんと! うちの娘と同い年でしたか。とてもそうは思えないほどの落ち着きと決断力ですな。もちろん、精一杯お支えさせていただきますぞ」
「期待してるわよ。といっても、すぐに目一杯働かせる気はないわ。まずは壊血病を治すのが先ね。1週間もすれば良くなると思うから、まずはきちんと体調を整えて、本格的に働いてもらうのはそれからよ」
「お気遣い、感謝いたします」
「……そういえばサミエラ嬢、当初の予定より人数が増えてしまいましたが奴隷たちの住まいの準備はできているのですか?」
ふと思い出したように口を挟むジャンにサミエラがうなずく。
「ええ。元より明日の奴隷市では奴隷を購入する予定だったし、最終的に10人ぐらいは増やすつもりだったから、奴隷小屋もかなり余裕を持たせて増築済みよ」
「そうですか。それなら大丈夫ですね。では、今日はこの場はそろそろお開きにしましょうか。奴隷たちも休ませてあげた方がいいでしょう」
「そうね。バール副所長、今日も色々と無理を聞いてくれて助かったわ」
「なんのなんの。またいつでも声をお掛けください。あ、私は干し果物はマンゴーが特に好きですねぇ」
しれっと要求してくるジャンの強かさに苦笑しつつも、覚えておくわ、と応じ、サミエラは奴隷たちを連れて交易所を出た。
すでに日は落ちて街は夜の
酔っぱらった港湾労働者や水夫たちが陽気に騒ぎ、安宿近くの街角で客引きをする娼婦たちの姿もある。
荷馬車の荷台に奴隷たちと私物の入った箱を乗せ、サミエラはロッコと共に御者台に座る。
昼とはまた違うサンファンの喧騒の中、一行を乗せた荷馬車はゴトゴトと郊外のアレムケル農園に向かって進んでいくのだった。
【作者コメント】
YHWHは聖書の神の固有名を表す略語で
西洋文明においては契約、とりわけ神に懸けて誓う誓約は本当に重視されます。国が違えば文化も価値観も言語も違うのでなかなか互いに信用するのは難しいですが、キリスト教圏のヨーロッパ諸国は同じ神を信じているので神に懸けて誓った誓約は信用できるとみなしており、カトリック、プロテスタントの違いはあれど聖書という共通ルールをお互いに尊重しているということが信用の担保となっていました。
当然、同じ神を信じていない相手にはこの理論は通用しませんので、個人間ならともかく、国同士の関係においては別の宗教を信じている相手を信用することは難しくなります。大航海時代に
ちなみに、それだけ契約を重視するキリスト教圏において、自らキリスト教を奉じていると主張しながら国家間の条約や規定を平気で破る国は、元々のルールが違う仏教国やイスラム教国が条約を破ること以上に問題視され、