第12話

文字数 2,654文字



 そして……約四時間が経った。


「……そうね。ここまでできるなら、八割くらいは余裕なんじゃないかな」
 私と望に課せられた最後の数学の応用問題が終わると、咲先輩は言った。
 私は座椅子の背もたれに思い切り寄り掛かり、思わず天井を見上げて大きく息を吐く。
「お、終わった―!」
 ここまで五分休憩が数回だけの、ほぼノンストップ。まるでフルマラソンを終えた後のように、疲労感は全身を包んでいる。望の疲労は私ほどではないようだけれど、深い息をして、一滴だけこめかみから汗を垂らしている。
 咲先輩は言う。
「まだだよ。ご飯食べ終わったら、歴代過去問のとこだけもっかいやっちゃわないと」
 私たちを担当しているおじいちゃん数学教師。彼の作るテストは、必ず最後の問題に大学入試の過去問を置いてくる。といっても、それにも傾向がある。咲先輩の解説を聞けばきっと大丈夫だろうけれど、今の体力ではそのことはもう考えられない。
 小夜先輩は机の上に伸びながら、私の気持ちを代弁するように言う。
「私はもう、パンクしそうだよ。少し、顔を洗わせてくれないか?」
「あ、私も行く」
 望は言う。意外だった。こんなにあっさり小夜先輩についていくなんて。
 咲先輩はまくった袖を戻し、リラックスしながら彼女たちに言う。
「ロビーまではわかるよね? 立花さんいると思うから、案内してもらって」
「……ふたりで大丈夫?」
 私は心配して言った。一応は、昨日ケンカしたばかりの二人組だ。何か間違いがあってはいけない。
 しかし望は、なんの不安も見せずに言う。
「へーき。馬鹿にしないで! 大和も、浮気しちゃダメだから!」
 そう言い放ち、扉の外へと消えていく二人。
 私は、咲先輩と二人きりになる。
「ふー。疲れたねえ」
「やっぱり、先輩すごいです。三人同時に、ここまでノンストップなんて」
 この四時間、咲先輩の口が止まることはなかった。代わるがわる私たちを指導し続けて、きっと一番疲れているに違いない。
「そう? 教師の才能あるかもね!」
 それでも、そう言って笑顔を見せる彼女の声は元気だ。
「絶対あります!」
 それに負けないよう、私も元気に返す。
 しかし、それで会話は途絶えてしまった。
 静寂に包まれると、不思議と思考は勝手に動き出す。
 そうして、不意に思い出す。


「やっぱり可愛いねえ、大和ちゃんは」
 この人は、私のことが好きなんだよな、と。
「や、やめてくださいよ……」
 私はわかりやすく視線を逸らす。本棚に並ぶ参考書たちの背表紙が見える。私が理解できないような学問のものも、そこにはいくつかある。
「望ちゃんが羨ましいよ」
 彼女は座椅子からはずれ、姿勢を崩す。両腕を後ろに伸ばし、天井を仰いで目を瞑る。
 そうしてまた沈黙が流れる。咲先輩の、優しい息づかいが聞こえる。服の上からでもわかる豊満な胸が膨らんで、また萎んでいって。部屋の外からは、なんの物音もしてこない。
 訊くなら、今しかないと思った。
「さ、咲先輩は。どうして、私なんかのこと……」
「んー?」
 望にしても、咲先輩にしても。私の疑問は未だ晴れていない。
 咲先輩は、しばらく考えてから言う。
「どうしてだろうね。出会ってまだ二ヶ月くらいなのに」
「いつの間にか、ってやつですか」
「その通り!」
「それじゃあ、納得できないです」
 橋田大和はからっぽじゃない。望はそう言ってくれたけれど。
 咲先輩は、きょとんとした顔で私の言葉を聞く。
「前、望にも同じこと言われたんです。恋するのは、意外と何でもない瞬間なんだって。でも、私にそういう瞬間があるとは思えない。望とか咲先輩の方が、人としてもっと魅力的だと思うんです。仮に咲先輩と付き合ってたとしても、絶対どこかでがっかりさせてたと思うし……」
 咲先輩は、私をびしっと指さす。
「あ! また難しく考えてる! 悪い癖だよーそれ」
「す、すみません」
「でもね。昨日の大和ちゃん、すごくかっこよかったよ。小夜先輩は友だちだ! って、叫んでたとこ」
 あのとき私は、いい加減自分に嫌気が差していた。そもそも自分のなよなよした精神が原因で引き起こした事態なのだから、マイナスをようやく平常に戻しただけ。
 それでも、咲先輩の言葉を否定し続けることは、彼女への侮辱になってしまうかもしれない。
 そう思って私は、何も言えなかった。
「あの一言がなかったら、小夜ちゃん、今日ここにいなかったんじゃないかな。自分の良いところって、確かに気付きにくいかもだけど。大和ちゃんが人として劣ってるとか、そんなことは絶対ない。だって、二人から同時に告白されてるんだよ? しかも二人とも女の子! こんなことってある?」
 そう言われて恥ずかしくなる。私なんて、ただ運が良かっただけなのに。
「そ、そうですよね。私もびっくりしてます」
「楽しみだなぁ。二人がこれから、どうなっていくのか」
 咲先輩は、遠くを見ながらそう言って。告白を断った張本人なのにも関わらず、私は寂しくなってしまった。
 彼女は今、三年生。共にいられる時間も、あと一年ない。
「あのっ」
 なるべく、本当の気持ちは伝えなければならないと思った。
「私、咲先輩のことっ、すごく尊敬しててっ」
 勇気を出して言いかけたところで、この部屋の扉が開いた。


「やまと」
 望はたった一人、私を外へと呼び出す。咲先輩は、笑顔で送り出してくれた。
 私たち以外誰もいない廊下を、望は無言で歩く。こっちの道はロビーの方向とも違う。呼び出した意図を教えてくれない彼女に、痺れを切らす。
「どうしたの? もうすぐ集合だよ」
 私が言うと、彼女はようやく振り返る。その髪をなびかせ、腰の後ろで手を組みながら、無邪気に。
「今から、探検しない? このお屋敷の中」
 不意に放ったその言葉。探検、と言われても。先輩たちは今頃、私たちの帰りを待ってくれている。それに、ここは他人の家だ。いくら親しい咲先輩といえども、礼儀を忘れてはいけないと思う。
「何言って……」
 私が望を止めようとしたときだった。
 私はその瞳に見つめられて、動けなくなる。
 そして、思い出す。これは、あのときの目だ。
 九年前に唯一見たあの目。
 私が彼女と出会って、初めて学校を抜け出したあの日。夏の始まり、少し蒸し暑かったあの空間を駆け回っていたときの、あの光。
 彼女はまるで別人になってしまったかのように、妖艶に笑う。
「いいでしょ? 探検」
「望……」
 彼女が何を考えているのか。私にはわからない。
 ずっとわからないことだらけなんだ。あの告白の日から、ずっと。
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