五月下旬 その三

文字数 3,121文字

 放課後のコンピュータ室には、他のクラスの生徒もいた。今日、瑠瀬のクラスが最後の実験の番で、それに合わせてこの放課後に集まって一斉に解説するという手筈なのだろう。
 瑠瀬は空いてる席に座ると、パソコンのスイッチを入れて立ち上げた。

「…!」

 瑠瀬は驚いた。口を手で押さえて声は漏らさなかったのだが、思わず二度見をした。隣に座って来たのは、なんと濃子だった。

「瑠瀬…。久しぶり…」

 思えば今日、朝の電車で濃子を見かけなかった。学校に着くと濃子が既に席に着いていたので、彼女が早めに登校したとわかった。

「………」

 瑠瀬には、何を濃子に話せば良いのかがわからなかった。それ以前にここにいるべきなのかどうかも怪しかった。平祁に言われたことが嫌でも思い出される。

「東京オリンピック、観に行くんだってね…。徹から聞いたよ」

 それを濃子が知っていることは、別に驚くことではない。観戦チケットを購入できた生徒は、他のクラスにもいるぐらいだ。瑠瀬も徹を通して純心に伝わり、そのまま濃子にまで行くと思っていた。

「やっぱり麻林ちゃんを誘うの?」

 濃子の今の発言は、とても重たかった。瑠瀬の心中は穏やかではなかったが、濃子が質問している以上は答えなければいけない。

「実はまだ、決めかねてるんだ。だからまだ声は、かけてない」

 二人の会話は、とても幼馴染同士がするもののように聞こえない。明るさが全くと言っていいほど足りていない。

「そうだよね…。瑠瀬にだって、誰かを好きになる権利、あるものね…」
「えっ?」

 その一言に、瑠瀬は反応した。

「ちょっと待って濃子。俺は麻林さんがいいかもってみんなに言われたけど、好きかどうかまでは言ってないよ?」

 噂話特有の、嘘だろうか? 誰かが盛り込んだのだ。
 でもそれには狭すぎる。一緒にその話をした徹が、そんな嘘を含んで純心に教えるか? 徹から話を聞いた純心が、そんな拡大解釈するか?

「え? でも…。気になる人がいるのに、私がいるから困ってるって聞いたよ?」

 それは、あからさまな嘘だ。そんな話は、した記憶がない。

「それは、誰が言っていたの?」

 別に犯人捜しをしようとしたわけではないが、そこは気になってしまう。
 すると濃子が答える。

「鉄平祁って人が。『今、親戚の瑠瀬の家に泊まっていて、瑠瀬の悩みを聞いて自分が動かないといけないって思ったから』って昨日の夜、私の家にやって来たの」


「オマエが斧生濃子か?」

 塾の帰り道で突然、見覚えのない人に話しかけられた。濃子は最初、相手にしようとしなかったが、男が、

「毒島瑠瀬って知っているだろう? オレは彼の親戚…少し遠い従兄みたいなものだ。変に構えなくていい。だが話を聞いてくれ。瑠瀬は今、オマエのことでとても困っているんだ」

 瑠瀬の親戚と自称したので、少し聞いてみることにした。近くのコンビニのイートインに場所を移した。ここなら万が一の時、店員に助けを求めることができるからだ。

「改めて、オレは鉄平祁。瑠瀬の父方の親戚だ。とは言っても、オレも瑠瀬とは、一昨日初めて会った。それぐらい、遠い」

 瑠瀬ですら会ったことがないなら、濃子が知らなくてもおかしくない。

「私は、斧生濃子です。初めまして」
「ああ。写真で見たのと同じ顔だな。だからすぐにわかった」

 自分の写真を瑠瀬がこの人に見せた、と解釈できる発言だ。この時濃子は前向きに考えていた。製糸場には一緒に行けず、オリンピックも麻林を誘うって話を聞いたが、それでも自分の写真を見せた、つまり瑠瀬は自分のことを本当は誘いたいのではないか…。でもどうすればいいかわからないから、親戚に相談したのではないか?

 だが、そうではなかった。恐らく瑠瀬は、平祁に自分の代わりに話をして欲しくて、見せたんだ。

「瑠瀬から、手を引いてくれないか?」
「どういう意味ですか? そもそも私は瑠瀬と付き合っているわけじゃ…」

 平祁が話を始めた。

「それは知っている。思わせぶりな態度を取らないで欲しいとオレは頼んでいる。日常的に話しかけたり、どこかに一緒に遊びに行ったり…。そんな事をしても瑠瀬が苦しむだけだ」

 そんな理不尽な話、濃子には受け入れられなかった。

「何で私がそんなことを? 酷すぎます!」
「理由が欲しいのはわかるが…?」

 ワケも話されずに、頼み事なんて聞けない。濃子がそう反発すると、

「本当に聞きたいか? それでオマエが傷ついても知らないぞ?」

 平祁は若干脅し気味な前置きを言うと、続けて真実を述べた。

「瑠瀬には、他に好きな人がいるんだ。でも幼馴染の濃子の存在も、無視できない。そこで悩んでいるんだ、どっちを取るべきなのかを。瑠瀬に決めさせるべきという意見もあるが、瑠瀬の話をずっと聞いていると、他の好きな人には本気で、濃子への愛情を上回っていると感じた。こう言っては酷だが、濃子のことは幼馴染だからとしか思っていない。だがその想いが邪魔だ」

 平祁は確かにそう言った。

「瑠瀬に、好きな人が?」

 平祁の言葉は彼が先に言った通り酷いものであったが、それよりも瑠瀬が、自分以外の誰かのことを好きになったことの方が衝撃が大きかった。

「確か、藤枝麻林…。そう言っていた。心当たりはあるのか?」

 麻林…。今年の春に転校してきて、出席番号が瑠瀬の真後ろだった子だ。だからしょっちゅう瑠瀬に話しかけていた。席替え後も瑠瀬と同じ班の隣の席になった羨ましい子。

「話したことはないけれど、知ってはいる子です…」

 まさか出会って二カ月もしない子に、幼馴染の自分が、瑠瀬を取られてしまうとは、夢にも思っていなかった。

「そうか。なら麻林に関する瑠瀬から聞いた以上のことは、わからないというわけだな」
「はい…」

 麻林が悪い子だという話は聞かない。自分が知らないだけで、もっといい子なのかもしれない。

「オレとしては、瑠瀬が麻林に想いを打ち明けられればと思っているのだが…。そこで濃子、オマエが近くにいると、どうもできなくなってしまうらしい。だから手を引いてくれ」
「……」

 濃子は、素直に頷けなかった。それをしたが最後、自分は幸せにはなれないことを認めるようなものだ。無理がある。濃子は濃子で、瑠瀬のことを想っているのだから。

「オレの話が、理解できたか?」

 意味は濃子にだって理解できる。でもそれを飲み込むのとは、また違う。

「わ、私は…。どう、なるんですか?」

 自分の恋心だけが折られるのが、濃子が腑に落ちない点だ。

「オマエはし…。そうだな、容姿は麻林よりも優れているんだし、オリンピックには行けないにしても、相手には困ること、ないだろう」

 そんな事を言われても、納得いかない。濃子はもちろん反対する。

「私は不幸になってもいいってこと?」
「オマエ…。自分が幸せなら、瑠瀬を不幸にしていいのか? 誰かを不幸にしてまで、自分が幸せになりたいのか?」
「え、どういう…い、意味?」
「確かにオマエにも幸福を掴む権利はあるだろう。だが麻林から瑠瀬を奪い返して、瑠瀬はそれで幸せなのか? 麻林は恋敵だから仕方ないとしても、奪い返され恋心が叶わなかった瑠瀬はそれで笑ってくれるのか? そんな瑠瀬とオマエは隣にいたいのか? 人を好きになるなとは言わない。だがその人の幸せを考えることが、一番求められるのではないか?」

 平祁のその言葉に、濃子は何も言い返せなかった。
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