五月下旬 その七

文字数 2,856文字

 会話を再開する前に、瑠瀬は紙を用意した。濃子からシャーペンを借りると、大きなYの字を書いた。

「ここが過去、今の時代としよう。もし濃子がテロで生き残れば…」

 左に手を持って行く。

「ここが源治の未来。で、何かしらの原因で濃子が…し、死ぬと…」

 反対側、右に手を動かす。

「平祁の未来になる」

 源治は首を縦に振って、

「その解釈で問題はないと思う」

 しかし疑問も残る。

「どうして、今の時代に? 平祁からすれば一度未来に戻って、源治が来る前の時間…最低でも三日前にでも行けば、簡単に目的を達成できるはずじゃ?」
「平祁も同じかどうかはわからないが、時間旅行には膨大なエネルギーが必要だ。ワタシはあと三カ月は、未来に帰れない」
「三カ月は私のこと、守ってくれるのね?」
「そうなる。アナタに死なれては、ワタシの存在は恐らく、未来ごと消える」
「未来ごと?」
「実は未来では、数々の不具合が生じているのだ。あり得ない自然現象、勝手に上書きされてしまうデータ、突然消える人々の記憶…。その全てが、原因不明。だがワタシはこの時代に来てわかった。平祁だ。平祁の存在が、未来に影響しているのだ。ヤツの未来も同じようなことになっているに違いない。だから平祁もこの時代にやって来た、と考えられる」

 なるほど、と瑠瀬は理解した。しかしわかったことが増えれば、また疑問も生じる。

「一昨日、戦ったって言っていたけど、その時にどうして決着をつけなかったんだ? 勝った方が未来を手に入れる様なものなのに、どうして?」
「きっと未来や母親が違っても源治と平祁は同じ人だから、互いに命を奪えないんじゃないの?」

 濃子が意見を述べた。それに対して源治が受け答えをする。

「すまないが、そのことに関しては本当に何もわからない。未来でも研究こそ進んではいるが、解明されてないのだ。人類が足を踏み入れていい領域ではないのかもしれないな」

 源治がわからないのなら、これ以上先には進めそうにない。三人は話し合いを断念することになった。


 もう時間が遅すぎる。流石に今度こそ、濃子を家に帰そう。
 瑠瀬が扉を開けて外の様子を伺った。これが出来るのは、平祁に命を狙われない瑠瀬だけだった。

「大丈夫? いない?」
「ああ。静まり返ってるよ」

 今がチャンスだ。三人は素早く店を出た。かなり周囲に気を配り、そして急いで移動し、何とか濃子を家に送り届けた。

「今日、お母さんは出張なの。だからこんなに遅くても怒られずに済む…」

 それは良いことなのか悪いことなのか…。

「じゃあ瑠瀬。また明日ね」
「うん。お休み」

 鍵とチェーンをかける音が聞こえた。これで一安心できる。


 でも濃子には、不満があった。

「瑠瀬…」

 瑠瀬はきっと、自分と一緒にいてくれる。残された時間は十年。随分と短い。そんなわずかな時間の中でも、瑠瀬は濃子との思い出を作ってくれるだろう。

 でもそれが、本当に自分が選ぶべきことなの?

 最初に平祁に会った時に、言われた言葉を思い出す。

「私が幸せなら、瑠瀬を不幸にしていいの?」

 次に源治から聞いた未来を思い出す。お世辞にも良い未来とは言い難い。濃子が死んでしまうことは避けられないにしても、瑠瀬は子供の頃からの夢を叶えられず、濃子の死から立ち直れず、挙句に借金も背負って…。源治は、高卒で就職したと言っていた。言い換えれば学業にも専念できない状態ということ。自分の子供にすら、負の遺産を残すことになってしまう。
 瑠瀬はきっと、濃子と少しでも長く一緒にいることが幸せと言ってくれる。でも濃子は、その先の未来に目を向けている。

 本当に好きな人の幸せを願うなら、何かやれることがあるんじゃないの? それを源治に教えてもらおうとしたが、二人はもう玄関の前にはいないようだ。


「ではワタシは、もう少しこの辺をパトロールしよう」

 源治が歩き出そうとしたのを、瑠瀬が止めた。

「あと一つだけ、聞きたいことがあるんだ。ごめん、もう一度店に戻ってくれないか?」

 源治は快諾してくれた。
 喫茶店に戻って来た二人。瑠瀬が自分の部屋から封筒を持って来た。

「これが、東京オリンピックの観戦チケットだよ。俺たちが見に行く予定なのは、八月一日の、競泳の決勝」
「結果を知りたいのか?」

 瑠瀬は首を振った。

「これ…。もし行かなかったらどうなる?」
「と言うと?」
「濃子は観戦に行って、そこでテロに遭ってしまうんだろう? ならばそもそも、行かなければ良い話じゃないか? 行かなければテロに巻き込まれないし、後遺症も何も負いやしない」

 今度は源治が首を振った。

「それは、駄目だ。ちゃんとオリンピックを現地で観戦してくれ」
「はあ?」

 瑠瀬は、源治の言っていることが理解できなかった。

「お前…。本気で言ってるのか? オリンピックにさえ行かなければ、濃子は死なずに済むんだぞ? お前だって、濃子に死んで欲しくないんだろ! ならこんなチケットはここで破り捨てて、未来を変えれば………」

 瑠瀬は今、源治が首を振った理由がわかった。

「………オリンピックに行かないって選択をすると、また別の未来が生まれちゃうんだな。その場合、源治の存在は、未来ごと消えてなくなってしまうんだな…」

 源治は無言で頷いた。

「しかも第三の人物がこの時代にやって来るかもしれないのか…」

 瑠瀬はそこまで考えることができた。

「だからワタシは、二人が観に行くのを止めたりはしない。例えそこで不幸が起きるとしても、行ってもらわなければワタシが生まれなくなるからだ。ワタシの未来は、オリンピックに行かなかった未来でも濃子がテロで生き残った未来でもない」
「テロで後遺症を負った未来…ってことか」
「そうだ」

 瑠瀬は、涙目になった。幼馴染に長く生きて欲しい、ずっと一緒にいたい。でもそれは叶わない。濃子は十年後には、この世を去る運命だ。これじゃあまるで、最初に平祁が言っていた通り…。
 我慢できず、ついに瑠瀬は泣いた。

「瑠瀬。悲しみはワタシにもわかる。だが泣いてなどいられない。テロの時、アナタは濃子を守らねばいけないのだ。ワタシが父と会話した時、父は当時のことを振り返って言っていた。出来る限り濃子を守ったと。もし自分がアレ以上動けていなかったら、濃子の命はその時に失われていたと」

 源治は続ける。

「アナタの行動によっては、テロ当日に濃子は命を落とすかもしれない。ワタシの未来には、アナタが行動しなければたどり着けない」

 瑠瀬はまだ涙を流している。でも一度だけこらえて源治に耳を傾けた。

「濃子のことを、頼んだぞ。濃子の命とワタシの未来は君にかかっているのだ!」

 それを聞くと、また泣いた。源治は瑠瀬が泣き止むまで、付き合ってくれた。
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