五月下旬 その二

文字数 3,924文字

「ちょっと目が赤いぞ? 何かあったのか?」

 朝、学校で朋樹が瑠瀬に向かって言った。

「今日の実験のために、徹夜で予習でもしたの? 勉強熱心ね、感心しちゃうわー」

 由香が笑った。瑠瀬もそれに合せる。

「何でもないよ、ちょっと擦っただけ」
「ちょっとでそうなるって、お前の手は熊手か何かなのか?」
「うるさいぞ! ほっとけ!」

 徹の問いかけに、瑠瀬は乱暴に答えた。これ以上深く探られると、また涙が出そうだった。

「それにしても今日の実験、面倒だな。教科書に載ってないし、プリント見た限りじゃあ、面白そうでもない」
「教科書が全てではありませんわよ、恵美様」

 恵美と麻林が今日の実験の話をしていた。今日の理科、物理の実験をすると北上(きたかみ)理恵(りえ)先生が言っていた。恵美が言うように教科書には載っていないので、北上先生は先週の段階でプリントを配った。

「それより、放課後にコンピュータ室に残る代表を決めようぜ。俺はもちろん、嫌だ」
「言い出しっぺが何を言う? 朋、お前が残れよ!」
「何だと徹、お前こそ残ればいいだろ。ここで挽回しないで、いつ内申点稼ぐんだよ?」

 朋樹と徹が揉め始めた。面倒なことにしたくないので、瑠瀬が切り出した。

「ここは公平に、ジャンケンで決めよう。恵美も由香も麻林さんも、文句ない?」
「私が負けると思えないがな」
「全く面倒ね。でも残ることも面倒だわ」
「わたくしは構いませんわ」

 残る朋樹と徹の顔を瑠瀬が見ると、二人は頷いてくれた。

「恨みっこなしだぞ? せーの、ジャンケンポン!」

 六人がジャンケンをする光景を、濃子の班が見ていた。

「何で俺が…」

 瑠瀬だけうなだれており、残りの五人は喜んでいる。

「どうやら、瑠瀬が残るみたいね。ジャンケンなんて言い出さなければ、そんな事にはならなかったかもなのに。口は災いの元ってヤツ?」

 亜呼が言った。

「亜呼。今はそれどころじゃないんだぞ?」

 そう言いながら純心が亜呼を叩いた。

「………」

 濃子は瑠瀬の方を見ている。だが、口を動かせなかった。

「可哀想に、濃子…。でも過ぎちゃったことはしょうがないよ」

 純心が濃子の背中を撫でた。昨日の夕方、瑠瀬たちの班が麻林の家の製糸場に行ったことを聞いた。
 だがそれに誘ってくれなかったことを怒っているんじゃない。濃子が一緒に知った、他の二つのことが衝撃的だった。

 一つ目は、麻林が瑠瀬に好意を抱いてることがわかったこと。
 二つ目は、瑠瀬が東京オリンピックを一緒に見に行く相手を誘うことになったこと。

 かなり妄想が入っており粗い推理になるかもしれないが、濃子たち三人は、瑠瀬が誘う相手は麻林なのではないかと予想している。実際にそういう話をしたってことも、聞いた。まだ誘ってはいないようだが、そこは時間の問題だろう。

「…まさか、本当だったなんて……」

 濃子がやっと口を開いた。でもその声は弱々しい。あまりにもか細くて、亜呼も純心もよく聞けなかったほどだ。

「瑠瀬…。濃子がいるのに、何て酷い人!」

 純心が文句を言う。

「でも誰が誰を好きになるかなんて自由でしょう? そこは瑠瀬に非がないんじゃ…」
「じゃあ麻林に文句を言う? 泥棒ネコとでも?」
「それは…。でもちょっと何処か、濃子のことを考えると許せない気がしなくもない…」

 エスカレートする純心を止めることは、亜呼にできそうにない。どうにか彼女を止めるために、濃子が決意した。

「私が今日、コンピュータ室に残る…。瑠瀬に確かめなきゃ…」

 濃子には瑠瀬に聞きたいことがあった。だが今、直接言いに行く勇気もない。ならば放課後に…。
 しかしそれがかえって濃子を苦しめた。瑠瀬のことを思えば思うだけ、彼に会いにくくなった。お昼休みに瑠瀬の方から歩み寄って来た時、濃子は我慢できなくなって教室から出て行ってしまったぐらいだ。
 ただでさえ瑠瀬とは会話をあまりしなくなったのに、さらに気まずくなってしまった。しかし今さら代わってくれとは、班員に言えなかった。


 六時間目になると、みんな理科室に移動した。

「何に緊張してるんだ、濃子。大丈夫か?」

 あまり良くない顔をしていたため、和哉が心配した。

「だ、大丈夫…」

 それしか言わないので勇刀が、

「それを聞くと、全然大丈夫そうじゃないけど…。濃子さん、体調悪いなら俺らが実験操作をやってあげるよ。それに放課後残るの、大宙君にすれば」

 しかし和哉がそれを全力で否定する。

「駄目駄目。大宙は自分で学ぶ能力はあっても、人に教える力はねえから。後でヒサンなことになっちまうぜ。俺が代わるよ」

 すると今度は大宙が黙っていなかった。

「君こそ行っても、理解すらできないんじゃないの? いや、行くことすらすっぽかしそうだね…」

 男子三人が騒ぎ始めたが、北上先生が理科室に入って来るとすぐに黙った。

「ではみなさん。実験を始めましょう。今日はボルダ振子の実験です。最小二乗法を行う必要がありますので、放課後にデータを各班の代表者がコンピュータ室に来て下さい。それから…」

 実験に関する注意事項を、先生はホワイトボードに箇条書きした。針金は曲げない、振子は落とさない、刃先は常に水平を保つように置く等々…。先生はわからないことがあれば、何でも対応すると言ってはいた。
 実験台の上に置いてある実験器具をまず、プリントに記載されている通りに配置する。最初の難関は水準器だ。水準ネジのどれかを回すと、気泡が動く。中央の円の中に入れなければならないのだが、それが中々上手くいかない。まず和哉が担当したが、いつまで経っても埒が明かないので亜呼が代わった。

「これで、良し! 上手くいったよ」

 次は針金の長さだ。メジャーを使って測れば終わりと思いきや、先っちょだけ刃先に入れる。しかももう片方は既に振子に接続済みだ。針金は曲げてはいけず、振子を落としてもいけないので、ただ単に長さを測るだけでも異常に気を使う。刃先の長さはノギスで測定するようだが、このノギスの使い方も複雑であり、濃子たちは正確な数値がわからず、先生を呼んだほどだ。

「これで…長さが求まりましたと。で、次は?」

 トドメが周期ネジ。振子の周期をまずストップウォッチで測る。次に刃先から針金を外して、これだけの状態で再度測定。

 それだけで終わるのなら誰も嘆かない。問題はこの二つの周期が同じになるように周期ネジを適度に回して調節しなければいけないこと。

「…おかしいわね? ちゃんとやったはずなのに」

 純心が首を傾げた。

「もう一度、試そう。まずは針金を入れて…」

 大宙は率先して実験を行ってくれた。

「今度の周期はどう?」

 勇刀が無言でストップウォッチを見せる。

「あと少しだね」

 亜呼がちょっと喜んだ。だがこれは、実験を始める前の準備である。

「今日は、大変そうね…。早く帰れるかな…?」

 その準備の段階で四苦八苦しているため、純心が心配そうに言った。ちょうど先生が通りかかり、

「これさえ乗り切れば、実験自体は簡単よ。データ解析もそれほど難しくないから、安心して」

 と言う。

「やっと、同じになった…」

 勇刀が言った。準備が完了したようだ。濃子が理科室中を見回すと、まだ作業をしている班もあった。苦しんでいるのは、濃子たちだけではなかった。時計を見ると、これだけで授業時間の半分以上を費やしている。

 肝心の実験はと言うと、振子が一九〇回往復するのにかかる時間を測るだけ。随分と楽な作業である。放課後残ってデータ解析をする濃子がこれを測定し、プリントに記載した。

 これだけでは、意味が全くわからない実験。先生がホワイトボードの前で、

「みなさん。振子の測定が終わったようですので、データ解析の前に説明をします」

 先生がホワイトボードに、何やら難しい数式を書いた。まだ中三の濃子たちにとって、それを解くのは早すぎる。

「これを解くのは、みなさんでは難しいです。ですので今日代表者がコンピュータ室に残り、パソコンを使って解きます。残らない人は提出までに結果を教えてもらって下さい。提出は二週間後にします」

 先生によれば、式を入れたエクセルのファイルが既に用意されているらしい。それに数値を打ち込めばすぐに重力加速度が求められるそうだ。
 残った時間は後片付けとなった。実験器具を注意してしまい、箒で床を掃く。

「ふう、終わったぜ。楽勝楽勝! これで今日は部活に行ける!」

 和哉が言うと大宙が、

「君に任せていたら、本当にアウトだったかもしれないね」

 と言った。それを聞いた亜呼と勇刀が笑った。

「濃子、瑠瀬と話できそう?」

 純心が心配そうに濃子に聞いた。

「多分、大丈夫だと思う…」

 そう答える濃子の顔は、全然大丈夫そうではない。しかし今瑠瀬から逃げてしまうと、この先ずっと逃げ続けてしまう気がする。現に今日の昼休み、逃げてしまった。ちゃんと瑠瀬と向き合わなければいけない。そう思ったから、瑠瀬が班の代表に決まると、濃子もこの班の代表に立候補したのだ。

 自分を強制的に瑠瀬に会わせるようにしなければ、例え今後に何かチャンスがあっても掴めない。一度逃げられない状況に、自らを追い込まなければ…。

「絶対、大丈夫」

 濃子は純心にそう返事をし直した。
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