三十五年後 その三

文字数 2,309文字

 平祁は自分の部屋に戻った。そこにあるパソコンで探せる。テロ被害者の名簿はネットで公開されているからだ。そこから名前と年齢から絞れば、すぐにわかる。
 検索サイトであるサイトにアクセスする。ちょうど父がこのテロで命を落とした人たちの人生をできるだけまとめたドキュメンタリーサイトを開いていたはずだ。そこに行く。下の名前と年齢だけで探した。

「あった。斧生濃子…。これで、おのおって読むのか。二〇〇五年七月三十一日生まれ、二〇二〇年八月一日テロに巻き込まれ…」

 そこに掲載されている顔写真は、今平祁の手元にあるものと同じだ。きっと、最後に撮影したのがこれしかなかったのだろう。

「むごいな、テロは。こんな子の命も容赦なく奪うのか…」

 下にスクロールすると、簡単な人生史が書かれている。しかし父との関係は、あまり掲載されていない。これはやはり、父に聞くしかなさそうだ。


 急に廊下の方が騒がしくなった。

「どうした、執事長?」

 平祁が部屋から出て聞いた。

「大変です、若様。旦那様が帰って来るのです」
「何?」

 ベネチアの平和講演に向かったはずだ。それを指摘すると、

「どうやらイタリアで大きな地震があったようです。飛行機はすぐにモスクワに引き返し、そのまま日本に戻るようです」

 驚いた顔をしているのは、平祁と執事長だけではない。他の執事やメイドも、血相を変えて動く。中には慌てふためいている者もいる。

 ここで驚いたまま固まっているわけにはいかない。

「執事長! モスクワからここにはすぐに戻っては来られない。落ち着いて冷静に対処しろ」
「それができたら、苦労はしませんよ。何せ帰宅は三週間後になっていたはずですので…」

 執事長の言い訳は、平祁の耳には入っていなかった。

「掃除長、今すぐ玄関からお父様の部屋までの廊下を最優先で掃除しろ! 料理長、帰宅は突然だ、それはお父様もわかっているはずだ。簡単なものでいいから食べやすい料理に専念せよ! メイド長、一番綺麗でシワのない服を一着は確実に用意だ!」
「わ、私は何をすれば…?」

 執事長が平祁に尋ねた。

「まずは冷静になれ。そしてお父様のスケジュールを再編成だ」

 平祁の指示通りに屋敷全体が動く。さっきまでの混乱が嘘のようだ。


 次の朝、父は帰って来た。

「もしベネチアに着陸できていたら、そこで支援活動が行えた」

 帰って来るなり父はそう言う。

「旦那様、その件についてなのですが…。いくつかスケジュールを用意いたしました」

 執事長が計画を見せる。

「ふむ…。私が飛行機の中で考えていたものよりも、こちらの方が良さそうだ」

 それを受け取ると、父は書斎に向かった。廊下は綺麗に掃除されており、メイドが料理と服を部屋に運び入れる。父からは文句がなかった。

「フゥ…」

 屋敷の者は、ほとんどがやっとため息をつけた。
 だが平祁の表情はまだ崩れない。濃子のことについて、聞かなければいけない。

「この人との間に、何があったんですか?」

 質問は簡単だ。だが返事は深刻なものかもしれない。何せ濃子は既に故人…。思い出したくもないことが、父の記憶に眠っているかもしれない。
 では、聞かずに、謎のまま済ませるのか? そんなことは研究者の性が許せない。

 執事長が提案した計画に、今日の活動は何も書かれていなかった。だからと言って父はずっと家にいるわけではない。聞くなら今しかない。

「お父様、入ってもよろしいでしょうか?」

 戸をノックし、聞いた。構わないとの返事が来たのでドアを開け、入った。
 父は既に料理を食べ終え、着替えも済ませていた。書斎に飾ってある、骨董品の手入れをしていた。

「どうしたんだ?」

 父から聞いてきたので、平祁は写真を見せた。

「この少女が、斧生濃子という人物であることがわかりました。濃子様はオリンピックでテロに巻き込まれ亡くなられていますが、お父様もそのテロは体験していますよね? お父様は濃子様と、どういった関係だったのですか?」

 父はある甲冑の肩に手を置き、

「これがまだ、私の遊水地近くの実家…喫茶店だったんだが、そこに飾られていた時ぐらいの話だな」
「それは、いつ頃なんですか?」
「私が中学三年生の時。東京で二度目のオリンピックが開催された時だ」

 父の実家の喫茶店とやらは、テロを境に畳まれたって聞いたことがある。祖父母が父の活動の手伝いを支援するために、もっと給料が高い職に就くことになったという話だ。

「濃子は私の幼馴染。私はね、当時濃子のことが好きで、一緒に競泳の決勝戦を観戦しに行こうって誘ったんだ」
「お父様が?」

 平祁は驚いた。小さい頃に母から、父とは中学時代からお付き合いしていたと聞いたが、父が本当に好きだった相手は母ではなくて、濃子だった。思い出してみれば母は先日、確かに失恋したと言っていた。

「母さんのことはもちろん今でも愛している。もし母さんがいてくれなかったら、助けてくれなかったら、当時の私は意気消沈し、立ち直れていなかっただろう。できたとしても今のようなことは、できていなかったと思う」

 そして父は言う。

「でも、未だに思うことがある。もし私が濃子を誘っていなければ、どうだったのだろうか…。濃子は私の目の前で爆発に巻き込まれ、病院に運び込まれる前に命を落とした。その悪夢を未だに寝ている間に見る。過去にもしもの話が通用するのなら、濃子が生きていたら、違う未来が存在したのかもしれない…」
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