第7話

文字数 5,932文字

 とは言え、雅はいつまでも雅子の気分を探っておどおどしていたわけではなかった。十三歳になった頃から、じょじょに言い返す技を身につけた。よくあるパターンだが、家庭に居場所がないと悪い友達ができて、男性と軽はずみな性行脚を繰り返しそうなものだが、雅はそうはならなかった。
 第一に、小学校から友達のいない一人ぼっちというイメージがついてまわり、中学でもそれが覆されるということはなかった。そして第二に、雅子の所に来る全ての男は、とても不誠実で、時には雅にも手を出そうとするので、男を受け入れる気は全くなかった。
「こんな傷があったら、結婚できない」
 雅子は脅かしたが、それならそれで上等だった。気持ちの悪い男に触れられるくらいなら、または雅子のようにポイ捨てされるくらいなら、結婚なんてする気はさらさらなかった。
 心を閉ざし、雅子の言葉に一切反応しなくなっていた。本当は、人生で一番多感で楽しい時期が始まるというのに、雅の心は真っ黒だった。マイナスのエネルギーに満ち満ちた雅子の言葉の毒矢が、飛んでくる。刺さらないよう逃げているうちに、雅も学習した。時折りちくり、と痛い言葉をちりばめ反撃に出る。学校では相手の顔が蒼白になるほどシニカルな物言いだとしても、雅子にはあまり効果がない。笑うほど鈍感だから。
「生意気だ! 自分を何様だと思ってる!」
 憤慨はするけれど、そもそも自分が発した言葉が、それほどまでに雅をいたぶり続けてきたとは認識していないので、同じような言葉を投げられても、傷つくという繊細な感情を持ち合わせてはいないのだ。哀れである。
 それでも、言い返すことができるようになった分、雅は少しだけ救われていた。
 ある日家に帰りたくなくて、うらぶれた公園のベンチに座っていると、隣のベンチに中年女性が二人座って、何やら話しこんでいた。悩み相談だろうか。片方が、すごく親身になって聞き、そして語る。
「人間、悪いこともあるある。良いことの何十倍もあるんだから」
 隣り同士に座っているのに、浅く腰かけ、ほとんど向かい合わせの体勢で、激を飛ばしている。白髪まじりの女は、あらゆる言葉を駆使して励ましている。
「それはわかるわよ。でも、何十倍も悪いことがあるって思っちゃう人生って何? そんな人生嫌だわー」
 落ちこんでいるはずなのに、反撃にでも出るかのような相手の女は、年に似合わずポニーテールだ。
 雅は、興味をそそられ聞き耳をたてた。
「でも、それが人生ってものなの。幸せでい続けるのは大変で、不幸になるのは簡単なのよ」 
 白髪まじりが、さらに深い論理をぶちまけていくが、
「じゃぁ、今の状況を黙って受け入れれば良いのかしらねぇ」
 とポニーテールがあきらめ気味になると、
「基本そうだけど、きっと時間が解決してくれるから」
 とまとめた。
 雅は、他人の悩みにこんなふうに向き合う人間がいるのを知り、新鮮な驚きを感じた。どんな苦しみだか知らないが、一人で抱えるよりは、絶対に楽だと思う。
 雅は、悪いことが良いことの何十倍もある、という言葉に妙に引っかかってしまった。
「私の場合、良いことは一つもなく全部悪いこと」
 自嘲気味に考えると、絶望が胸の周りをぐるぐる飛びまわり、締めつけてきた。
 泣きそうになるが、我慢に我慢を重ねた。こんな所で見知らぬ女達の会話を聞いて泣いてたまるか。意地でも、涙を分泌させないよう、雅は悲しい努力をした。
 生まれてから今まで、流したくても流せなかった涙は、どこに。心の奥の襞に澱のようにたまっているのだとしたら、そこは深い深い沼となり、底が見えないだろう。その水はきっと、煮つめられたような色をしていることだろう。
 雅は、ふと思った。自分にはこんなふうに親身になってくれる友人はいないが、雅子にはいるのだろうか、と。聞いてみたこともないが、十中八九いないだろう。時によりたわむれる男達はいても、女友達の影はない。
 雅は、自ら意識して友人を作らないでいたが、それは潜在的に雅子からの遺伝で何か欠陥があり、対人関係を結べないのでは、と怖かったから。そうであるならなおさらに、誰も近づけないようにその姿勢を強化しないと、自分の本性を見破られてしまう、とおびえていた。
 
 雅は、高三になり、相変わらず孤独をまとっていたが、同じクラスに一人だけなんとなく似た雰囲気を持つ真弓という少女がいて、とても気になった。そのくせ、ほんの時折り言葉を交わすことがあると、必要以上に皮肉めいた事を良い、真弓を怯えさせてしまうのだった。そんな時真弓は、突然目の焦点をぼかし、何も見えていないかのような表情をする。雅の言葉をやり過ごしているらしいのだが、この瞳はどこかで見たことがあると思いいつも気になっていた。
 ある日、突如気づいた。それは、鏡の中にいる自分の目と同じだということに。雅子に攻撃された直後、偶然に鏡の前に立った時、雅はこんなような目つきをしていた。高校三年は、将来の進路を決める大切な時期でもある。ここ一、二年雅子とろくに口をきいていなかったが、書類を学校に提出しなければならない。進学か就職か。高校まで公立だったので、授業料はさほどかかっていないはずだ。制服もないので、私服で登校していたがその服だっておしゃれをしようとは全く思っていないので、リサイクルショップで適当に安いものを見つくろって着ていた。実は、雅は日に日に美しく成長していたのだが、顔の半分を覆うようなヘアスタイルをしていて、いつも下を向いていたので誰もがその変化に気づかなかった。それも幸いだったかもしれない。雅子に悟られたら、その攻撃はさらに強まるだろうし、幼かった時でさえあれほど敵意を丸出しにして、雅の容姿を否定しにかかったのだから。
 生まれつき身体も丈夫だったのだろう、病気らしい病気もせず医療費もほぼかかっていないから、そういう点では本当に親孝行な娘であった。
「大学行きたきゃ行って良いよ。ただし国立ね。ま、無理だろうけど。きゃはっ」
 その笑い方は、なんだ。自分は、大学に行って楽しい日々を送ったと言っていなかったか。キャンパスの西側にある学食で毎日おしゃべりして、そこの苺パフェがとてもおいしかったとか。それをぶち壊したのが、雅。
「あんたが、お腹に入ってきたから」
 と吐き捨てるように言ってはいなかったか。
 雅の中で、何かが割れた、割れて中からドクドクと得体の知れない液体が吹き出てきた。久しぶりにまともに見る雅子の顔は、老けていた。まもなく四十を迎えるのだから、当然のこと。最近は、あまり男の影もちらつかず、本人もだいぶパワーダウンしているようだ。
 反撃の時。
 この醜い塊に対する怒りが、脳天から溢れ出て、もう押さえることができない。
「何よ。自分は私に邪魔されたみたいにいつも言うけど、それまでは幸せだったわけじゃない。おばあちゃんにかわいがられて、今でも写真見てお母さんお母さんってさ。私にはそうやって甘えられる母親なんていない!」
 雅子は、チラッと雅を見たが、ことの重大さに気づいていない。相変わらず状況の把握が遅い雅子であった。
「私は・・・私は生まれた時から一度だって幸せと思ったことないから! ずっといつ怒られるかびくびくしてたから」
 言いながら雅は、とても冷静に、
「この際全てをぶちまけよう」
 と決めた。
 塩辛い涙が、溢れる。怒りを含むと涙は塩辛くなるらしいが、いつも人知れず流す涙とは似ても似つかない濃いものだった。表情が、昔絵本で見た鬼のようになってくる。握りしめたこぶしは大きく震え、雅子を睨みつける瞳の周りの白目は、真っ赤になっていた。その勢いをもってして、ようやく雅子はいつもと違うのでは、と思い始めた。
「そんなに私のことが邪魔なら、私を羊水の中に返せ!」
 渾身の力を振り絞って発した声は、地獄からの使者のようなおどろおどろしい響きを伴っていた。学校の保健の時間に習った羊水という言葉。胎児は、プカプカと浮いていてとても快適らしい。無邪気に浮いていられるそこに戻れたら。
「羊水の中に返せ!」
 繰り返す。叫ぶ。
「返せったら! 生まれてくるんじゃなかった。こんな女のもとになんか!」 
 そこまで言うと、力尽きて膝を折ってしまった。物心ついて以降、初めて雅子の前で声をあげて泣いた。今まで我慢してきたものが全て流れ出してくるかのように、手をついて下を向いたままでいると、床に涙がぽたぽたと垂れていく。一つの雫がもう一つと結合して、水面が揺れるほどに水分をたたえると、そこに鼻からの分泌物も加わって、小さな池を作った。
「そんなに思いつめていたの? 知らなかった」
 そんな言葉を言える雅子ではない。雅も、重々承知だ。ただただ全てを吐き出したかっただけ。それ以上のことは、何も期待していなかったとは言え、軽く笑って、
「羊水の中になんて戻せるわけないじゃない。何考えてんの?」
 と言われた時、雅の頭の中で、大きな爆発が起こった。
「こいつ、本当にダメだ」
 潔いほどの打撃。驚くほどに未練も感じず、この女に見切りをつけようと決めた。そう思うと涙は、急に引っこみ、雅はすっくと立ち上がった。
 雅子は、雅が気を取り直したと大いなる勘違いをして、冷蔵庫にアイスコーヒーを取りに行った。
 もう、おしまいなのである。その夜雅は、学校からの書類の「就職希望」の項に丸印を書きこんだ。

 雅は、家を出た。高校の卒業と同時に。小さな会社に入社し事務職に就いたが、何より重要なポイントは社員寮があることだったので、他の多少の悪条件は受け入れた。
 あの日羊水のことを鼻で笑った雅子は、雅が見切りをつけ家を出るまでにもたくさんの暴言を吐いていた。
「何言ってんの? 世の中にはもっと不幸で辛い人がたくさんいるのよ。それをさも自分が一番悲しいみたいなこと言っちゃって」
 その顔には、雅子の方が母に死なれ、男に逃げられ大変な状況だと言いたくてうずうずしているのが、見てとれたので、雅はこの不毛な会話を終わらせようと横を向いた。
 それも気に入らない雅子は、さらに追い討ちをかける。
「堕ろさなかっただけでもありがたく思いなさいよね! あの時お母さんは、堕ろしても良いって言ってくれたんだから」
 雅の思考が、止まった。
「おばあちゃんがそんなことを」
 あまり記憶にはないが、遺影が微笑んでいるせいでなんとなくやさしい人だと思っていた。生きていれば、もしかしたら自分の味方になってくれたのかも、といつも思っていたのだ。それなのに。雅は、その言葉を幻聴として処理することに決めた。そうしないと、もう立ってもいられない。それほどまでに、深く傷ついた。誰一人として味方のいない世界。
 十八歳を生きぬくには、最悪だ。川で溺れても、揺らめく藻にさえつかまれないような状況で、雅は常に浅く呼吸をしていた。
 雅子は、どうして雅が出て行ったのか、理解できなかった。
「あんなにかわいがってやったのに、恩をあだで返す奴だ」
 一人の長い夜に、ぶつくさ文句を言う。
「結婚を申し込まれたけど受けなかったのは、あの娘のためなのに」
 いや。そんな軽々しくプロポーズする男について行ったら、同じ轍を踏むこと必至である。雅のおかげで被害は小さかったのだ。
 雅が家を出て行くことを知った時、本能的にそれは大問題だと思った。かわいい娘を手元に置いておきたかった、などと他人には言ったが、単に愚痴をこぼしたりストレスで八つ当たりする相手がいなくなるのが困るだけだ。
 それだけ。
「あんたなんかのろまだから、使えないよ。クビになっちゃえば良い」
 くやしまぎれに放った雅子の言葉は、雅の頭上をかすめて遠くに飛んで行った。いつもなら、グサッと入ってしまう罵りをかわせた。なぜだ。おそらく本当に見限ったからだ。
 雅子の言葉は、行きどころを失い、空中で空しくさまよう。 
 時として、強い言葉は速度を増し飛んで行く。人間は、とても悲しい。自ら放った毒はブーメランのように必ず戻ってくる。長い年月をかけて風にとぎすまされ、丸かった角は鋭角になり。その鋭い痛みは、雅子の目に耳に胸に正確に刺さるのだが、全然痛みを感じない。雅子が他人の痛みをわかる人であったら、周囲にはたくさんの友人がいただろう。
 どこまで罪深い。そして自分が傷つかないからと言って、同じ刃で人を傷つけても良いという掟は、どこにもないのだ。
 寂しくなった雅子は、急に近所の井戸端会議に参加するようになった。
「最近娘さん見ないけど?」
 噂好きの中年女が尋ねれば、
「ああ、あの自分勝手は就職したんで出て行きました。今までどれだけ面倒見てやったかしれないのに、呆れます」
 としれーっとして返す。中年女は、本当は雅子の男出入りが激しいことも充分覗き見て知っているので、それを聞きたいがための伏線だった。
「あら、それはそれは・・・」
 他の女達は、最初は同情してくれるが、遅からず雅子の本性を見破り疎遠になっていった。ブーメランは、尖りに尖っているのだが、相変わらず雅子は鈍くていけない。
 いつのまにか雅とはもう五、六年も音信不通になっていた。そうして自分に娘がいたことさえ忘れて、また、しょうもない男達を夜毎招き入れている。
 雅は、資金が溜まった時点で寮を出て、一人で暮らしている。社内の誰とも親しくはしていないが、雅子の予言に反して仕事は淡々とこなし、クビを言い渡されたりはしていない。ただ、そうするしか術がない雅は、いつも皮肉めいことを言い周囲をびっくりさせてはいる。そのお蔭で、社内の人間関係には巻きこまれずに済んではいるのだが。
 よくよく考えれば、羊水は雅子の身体の一部。あんな女の中に戻りたくなんかない、と今は強く思う。できるだけ遠くに。そうして二度と会いませんように。絶望で編まれた雅の服は古くなり、少しずつほころびてきて、新しい一枚を買う頃合だった。
 今度は、どんなことも跳ねかえし、染みこんでいかない硬いエナメル素材のシャツが欲しいと思っている。そんな理想の衣服がこの世にあったなら、の話。または、たった一人でも良い、雅子のことを、
「ひどいね」
 と言ってくれる人が現れないものか。いくらなんでも一人くらいはいるのではないか。雅は、ほんの少しの、だけれども生きていくのに必要最低限の希望は、捨ててはいない。捨てられない。

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