第3話

エピソード文字数 4,971文字

 三月十七日、雅子は女児を出産した。黒い瞳が美しく、目力のあるかわいい赤ちゃんだった。その強い意志を感じる目は、雅子をじっと見る。
 雅子は、この時。泣くと突如真っ赤になり、歯のない口を大きく開けて、手足をバタバタさせるこの娘を少しもかわいいと思わなかった。はなから母は、雅子をわずらわせる存在とみなしているので、
「かわいい」
 という言葉を一度も発しなかった。
「なんだか、おでこが出ていないかしら? 勇一郎に似たのかしら?」
 と不満をこぼす。去った男は、呼び捨てである。
「泣きすぎじゃない? 雅子ちゃんは、こんなに激しく泣かなくてすごく良い子だったわよー。一体誰に似たのかしら」
 とあら探しをする。
 父親は、世間体を気にして、雅子に一人暮らしを勧めたが、母の看病を任せた手前、強くは言えないのだ。駐在を切り上げ帰国しようかとも考えた。ここで帰るとキャリアが途切れてしまうので、留まった。商社というところは、少しでも気を抜くとすぐに一線から脱落してしまう。父は、家族のためと言い訳しつつ、実は自分のポケットに入る少なからぬ駐在手当を手放したくはなかった。
 その娘は「雅(みやび)」と名づけられた。要求があれば、どんな状況でも叶うまであきらめず、汗だくになりながら泣き叫ぶ。生命力にあふれたその声は、どんな音よりも尊いが、雅子と母には騒音以外のなにものでもなかった。
 足をバタバタさせて叫ぶため、ますます汗をかき、着替えの回数が増える。雅子は、それさえ面倒くさいこと、とみなして時々汗で濡れているロンパースをそのまま着せ続けたりもした。雅の熱気で部屋の温度、湿度も上昇する。ちょうど、初夏に向かい暑くなり始める時期と重なり、
「うっとうしいね、この子は」
「何の目的があって、こんなことするんだろ」
 と母子で言い合った。
 おかしな話。理不尽な話。母は雅子が赤ん坊の時、あんなにかわいがったというのに、世間では孫は子供よりかわいいと言われているのに。何故だ。
 余裕のない人間は、自分が健康で経済的にも満ち足りている時しか、他の人にやさしくできない。あの頃の母は、病を得ていなかっただけだ。今。雅は、病気の自分の安眠を妨げる嫌な存在でしかない。雅子に至っては、母の看病を思う存分にさせてくれない厄介者とまで感じていた。
 悪魔のスィッチがいつのまにか押されていた。本当は、神が送りこんでくれたこの愛らしい娘雅を、強制的に悪の化身とおとしめていった。
 母の病状はゆるやかに下降線をたどり、一日中寝込む日も多くなった。珍しく具合がよく、三時のお茶を二人で楽しんでいると、雅が昼寝から起きて泣き出す。何か不快なことが起きている泣き方だ。空腹なのか、おむつが濡れたのか。
 雅子は、クッキーを割って口に入れようとしていた動作を止め、立ち上がる。廊下を歩いて、雅がいる部屋のドアを閉め、ダイニングの扉も引き、泣き声が聞こえないように対策を打つ。雅の顔など、一度も見ずに。
 戻って来て、雅子は母と目くばせ。
「これで少しは静かになったわね」
 とでも言うように。
 雅のせいか? それとも、雅子をぞんざいにあつかった勇一郎の娘だからか? 母は悪びれた様子もなく、共犯者然とふるまっているが、普通の母なら、このような状況をいさめるだろう。壊れた家の崩壊した絆。もう誰も、まっとうな判断を下せる者は、いなかった。
 母の通院の頻度が高まるにつれ、雅子はベビーシッターを利用することを思いついた。年金をもらうには、まだ早かったが、母にはそれなりの蓄えがあったため費用は母が出した。母が、通院の付添いを雇えば良いのである。日に日に表情が豊かになっていく雅の方を、犠牲にした。雅子と母は、自分達が一番不幸だという強固な共通意識でより深く繋がり、逆に周囲への配慮がおろそかになっていったのである。
 ベビーシッターへの気遣いは、ゼロ。雇っているのだから、とでも思っているのか、日ごろのイラ立ちを、五十歳手前の女にぶつけた。もともと人の気持ちをおしはかれる雅子ではなかった。けれども、ひどい言葉を投げかけた時の快感を知ってしまった雅子は、覚えたてのゲームで、必勝する技を見出したかのように「罵り」という武器を、ベビーシッターに投げつけた。一分遅れただけなのに、「この一分で母の具合が悪くなって、処置がまにあわなかったら、あんたのせいだからね」
 と言い放ったりした。
 雅の世話は、完璧にしてもらって当然。だから感謝の言葉をかけない。夫を亡くし、数十年ぶりに働き始めたこのベビーシッターは、それでも頑張って半年勤めた。
 雅がつかまり立ちから、よちよち歩きを始めるころ、ちょっとつまずいて転んでしまい、腕にすり傷を作った時、母は、
「あなた本当に子供育てたことあるの? 嘘じゃない? 私は雅子にかすり傷一つ負わせやしませんでしたよ。こんな傷つけられて、まぁまぁまぁ!」
 と雅を抱きしめた時、その仕打ちに耐えられずに辞めた。
 日ごろ毛嫌いされている雅は、こんなときだけ重宝がられる。ひどい話だ。
 それからは、数ヶ月おきにベビーシッターが、入れ替わった。思うように身体が動かなくなってきた母の罵声は、ベビーシッターが受けとめ、そんな母を見つめているのが辛い雅子は、ベビーシッターに八つ当たりした。
 ある時、雅子は雅の下の始末に手間どっているシッターに、冷たく言い放った。
「マニキュアなんか塗っちゃっておしゃれなんかしてるから、そっちの方ばかり気を取られんのよ」 
 氷のような視線を、投げる。このシッターもやはり子育て終了済みの五十代の女。久しぶりで忘れてしまったのと、雅のパワフルな足のキックで少しあわてただけだ。じきに勘を取り戻していくだろうに、最初からこのように言われると、心を閉じてしまう。
 いっぽう雅子は、雅のオムツを替える回数を極力減らしている。最初便をされた時など、吐いてしまったほど。尿の時は、紙おむつが水分を吸いすぎて、パンパンになるまでそのままにしておくし、便の場合は始末しながら、
「まったくこんな時間にうんちしやがって。もっと時間を選べってーの!」
 と、雅の身体をごろんと転がし、お尻を天に向けると、雑な仕草で拭いた。
 そこに母が通りかかると、
「あ、うんち? くちゃいくちゃーい」
 と輪をかけてひどい言葉を投げかける。雅は、ごく普通の生理現象、排便をしただけなのに、いちいちマイナスの感情を含む言葉を浴びせられるのだった。
 ベビーシッターの中には、経済的な理由で辞めにくい者がいた。雅子と母にさんざんなことを言われ、出口がなくなった時人は、どうするか。もっと弱い者に矛先が行く。雅への攻撃は、必然であるかのようだった。
 二人が病院に行っている間、密室では様々な虐待が繰り広げられていた。つねる、はたく、転がす、どつく。オムツ替えは、二人の帰宅予定時刻の直前に一回だけ。当然オムツかぶれがひんぱんに起こり、痛い、かゆいの不快感から、雅はよく泣いていたが、誰も手当をしてくれないので、しだいにじくじくと水ぶくれができ始めた。これ以上ひどくなると雅子に叱られるので、
「雅ちゃん肌が敏感なのかかぶれたようなので」
 と軟膏を塗ることを提案するベビーシッター。自分がやったことなのに。
 地球の誰一人からも大切にされない雅。本質的に弱い子供であったら、感染症になって死亡していたかもしれない。そうでなくとも、身体への打撃で脳内出血をしていた可能性もある。
 けれど、雅は強かった。おそらく身体だけでなく心も。泣き続け助けを求める声は、雅子と母、ベビーシッター達には、はなはだ耳障りだったかもしれないが、これこそが生きるための大切な確認行為だった。
 雅子が二歳になる前に、とうとう母は力尽き旅立った。
 雅子の嘆きは、尋常ではなく、自分が食事を取らないだけならまだ良いが、雅にも何も与えない数日間が続いた。雅は、あちこちに散らばる葬儀の余りの菓子、冷蔵庫の中のかまぼこやソーセージをかじって、飢えを凌いだ。
 母親らしいことをしてもらっていない時、子供はどうするか。その女を母親として認知していないから甘えたり、すり寄ったりする術を知らない。もっと幼い時に、甘えたらうっとうしく思われた苦い記憶があるのかもしれない。それだけでも充分に哀れなのに、こんな時だけ寂しくなった雅子は、つかのま母親としての自分を思い出した。なついてこない雅に、
「まったくこの子は、何なの? かわいくないね。ふつうならママ、ママって寄ってくる年齢だってのに」
 と睨みつけた。二歳は、もう言葉がわかる月齢である。あまり話しかけられていないので言葉の発達に若干の遅れはあるものの、表情と共に何か嫌なことを言われているのは、充分に理解できる。
「お母さんの代わりに、あんたが死ねばよかったのに。あんたさえいなければ、お母さんの看病思う存分できたのに」
 昔から言って良いことと悪いことの境目が見えない雅子だったが、今は自分はどんなことでも言って良いと思っているようだ。なぜなら、自分はこんなにも不幸なのだからという理解不能な言い訳がまかり通ると信じきっているからだ。
 父は、母の危篤の知らせを受けて帰国し、臨終、葬儀、残務整理までした後に、また戻って行った。一人で子供を育てなければならなくなった雅子を、表面的に心配し、
「もし良かったら、父さんと一緒に暮らしてもいいぞ」
 と声かけをした
 東南アジアの湿度の高い国、衛生的にも疑問を感じざるを得ない地域、想像しただけで無理だった。雅子は、即座に断った。
「お母さんの気配を感じるこの家で暮らしたいから、一人で頑張る」
 健気な様子を見せつつ、
「あんな所の水、飲めないから」
 と棘のある言葉も加える。
 父は、帰国直後に雅を見た時、瞬間的にかわいい娘だと思い、その旨口にしただけなのに、
「とんでもない! お母さんに言わせると、目つき悪いし、だいたい顔がかわいくないの!」
 と自分の顔の前で、両手をブルンブルン大きく振り、否定のジェスチャーをした。雅がその足元に座っているというのに。
 雅は、これらの暴言をどう処理していたのか。嫌われても嫌われても愛されたくて甘えて行く子もいるが、雅は二歳にして完全に雅子を見限っていた。甘えようという発想すら、捨てた。
 母の死により、経済的な状況に変化が生じた。父は仕送りをしてくれたが、足りない。
 それは、
「こんなに子育てで苦労してるんだから」
 という口実のもと、育児用品を買いあさるからだった。もう歩けるのに、ベビーカーを四台も。一台あれば充分なところ、「坂道もラクラク」というコピーに魅せられ、電動のものに買いかえたり、電車用に超軽量の一台を購入したりした。
 雅のためのものならまだしも、雅子自身のものも衝動買いした。前は無頓着だったくせして、妊娠線を消すための高価なクリームや、ホルモンの安定を目的としたサプリメントの定期購入、コラーゲンを補給してくれる美容器具など買いあさった。買うことが目的なので、たいして使わずにあたりに放置。空腹の雅が、勝手にプラスティックボトルを開け、サプリメントを食べてしまったこともあった。雅のことに気をまわしていないので、たとえ子供の誤飲防止のための逆ねじキャップが採用されていたとしても、蓋をきちんと閉めていなければ、簡単に開いてしまう。これだけ湯水のようにお金を使っているのに、雅の栄養状態は良くなかった。そこにいるだけで迷惑な存在の雅が、食べたり飲んだりするなんて、ずうずうしいと思う思考回路は、雅子の中では正論だった。もちろん衛生的にも大変に不潔で、雅のために風呂を沸かしたり、洗濯をしたりするのは、光熱費がもったいないと思っていた。
 雅さえいなければ、今頃きちんと大学を卒業して、しかるべき所に就職して。
 どうして自分だけが、こんな目に遭わなければいけないのだろう。雅子の被害者意識は、日増しにふくれ、雅もその気配を察してか、なるべく雅子の視野に入らないように心を配っていた。
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