第6話

文字数 6,642文字

 こうして目つきの悪くなった雅は、幼稚園でも孤立していき、給食の時間だけやけに明るいヘンな子として定着していった。
 幼稚園から家の近くまでは、園バスが送迎してくれたが、その後五分ほど歩いて自宅へ帰ることになる。バスがやって来る時刻にバス停にいないと引き渡してはくれないので、雅子は義務感丸出しの顔で、いつも待っていた。そこで降りるのは、雅だけだったから、雅子の不機嫌そうな立ち姿は、バスの中からでも確認できた。
 雅にとってそこは「地獄一丁目」という名のバス停だった。
 雅子のいたぶりは、引き渡された瞬間から始まる。決して寄り道は、許されなかった。道端に咲く花を見ようと立ち止まったりしたら、
「何よそ見してんの!」
 とどやされる。早く家に連れて帰るための、手つなぎ。一秒でも急ごうと、グイグイ引っ張られるが、悲しいことに雅は少しだけ「母のぬくもり」を感じていた。痛いほど引っ張られるので、どうしても小走りになる。遅れると、
「まったくのろまだね。早くしなさいよ!」
 と怒鳴られるが、大人と子供の足の長さが違うというのを、雅子は本当に忘れているのだった。
 ある時、バス通りで雅子は、中学時代の友達に偶然会った。はち合わせ気味だったので避けようがなかった。
「卒業以来じゃない? 雅子、元気だった?」
 相手の晴美は、くったくのない笑顔を向けてくる。
「晴美、変わらないねー。今どうしているの?」
「普通に働いてるよー。でも今日はライヴ行くから、半休してきたとこ」
 雅子は、ライヴと聞いて羨ましい気持ちが充満、一刻も早くこの場を去りたくなる。晴美は当然のごとく雅のことを聞いてくる。
「雅子の子?」
 雅子は、考えるより先に言葉を発していた。
「違う、違うー。親戚の子、預かってるの」
 中学時代の友人とは誰とも連絡を取っていないので、出産したことは皆知らない。
「そうなんだー、かわいいねぇー」
 晴美が、腰をかがめて雅の顔を覗きこむ。
「そうかしら? 誰に似たのか、鼻が低くて」
 このセリフ。言ったところで、誰の得になるのか。誰も、喜ばない。
 晴美は、親戚の子をいちいち批難する雅子が少し怖くなり、口をつぐんだが、それは結果的に良かった。
「そんなことないよー、つぶらな瞳がキラキラしててかわいいって」
 など、雅をかばおうものなら、
「とんでもない! 愛嬌ないし皆からムスッとしていて、とっつきにくい子ねって言われてんのよー」
 など、あることないこと雅をけなし、雅の心の傷はより深くなっていっただろうから。
「じゃーねー、元気で」
 再会を喜び、連絡先を交換するほど、親しくはなかった二人は、数分でお互いの人生に戻った。
 雅子は、
「どうして私だけ、こんな思いしなくちゃいけないの?」
 という怒りの感情を芽ばえさせながら、雅の手をまた強く引く。
 雅が真っ白になった頭をどうにか働かせながら、尋ねる。
「ねぇ、あたしママの子じゃないの?」
 いつもは怒鳴られるのが怖いので、雅子の機嫌を見つつ声をかけるのだが、今は一大事だ。自分の人生を根本から揺るがすようなことを言われたので、そこまで思いをはせられるような余裕はなかった。
「うるさい!」
 雅子は、自分の不幸に酔いすぎて、雅の悲しさに気づくことなど、できない。
「でも、さっき・・・・」
 イライラを発散させる糸口を見つけた、という感じの雅子は、立ち止まり、
「そうよ、あんたは橋の下で泣いてたのを拾ってきてやったんだよ」
 と言い放つ。
 手垢にまみれたこの言葉。心ない笑い話で、一体どれだけの子供が、うち震えてきたのか。人知れず嘆き悲しんできたことか。冗談かそうでないか判断のできない年齢の子は、それだけで崖っぷちに立たされてしまい、これが世間ではお決まりのジョークの一つだと長じて理解できるまでには、あと何年もかかる。とりわけ雅は、いつも無下に扱われてきたから、拾われた可能性は大きいと感じるのだった。
 拾われたから、こんなふうにひどいことをされるのか、と逆に納得もする。
 雅子は、
「そうだったら、どんなにいいか」
 小声で言い、そうだったらまた捨ててやるのに、と思った。雅の耳は、その小さな呟きをキャッチし、一縷の望みを抱く。
「もしかしたら、本当はママの子だけど、人には拾ってきたって言う理由があるのかもしれない」
 幼い頭で、考える。気をまわし、先回りして感情を抑え、いつも雅子を怒らせないように心配りをする。雅には、この世のどこにも安心できる居場所はなかった。
 自分を殺めてこの人生を終わりにできるほどの知識もなかったし、ただ毎日を指折り数えて、今日こそは雅子の怒りが少なくて済みますように、と願う。怒りませんように、と求めるのは、しょせん無理なことと悟ってしまった雅は、せめてその程度が軽く済むようにと祈るばかりだった。
 まだ、四歳にもならない年齢。引っ張られ続けた小さな手は、かさかさに荒れていた。

 雅子は、今も母の死を嘆き、
「お母さんが生きてさえいてくれたら」
 と現実から逃げてばかりいた。死してまもなく六年。雅も小学三年になるというのに、雅子の時は、止まっている。まだ母親とへその緒がつながっているかのように、朝に夕に遺影に向かい、
「お母さん、どうして死んじゃったの?」
 と声をかけ、涙ぐむ。
 さて。雅子は、雅からこんなふうに慕われたいとは思わないのだろうか。母のように、娘に大きないつくしみを与えたいと思わないのか。思わないのである。なぜならば、雅子自身は、両親の待望の娘、雅は望んでもいないのに勝手に生まれてきた子だから。予定外だから、愛さなくても良い。雅子の全く勝手な自論は、時にあまりに厚顔であるため、正論かもしれないとさえ思わせる。同じ命、しかも雅が勝手に生まれてきたのではなく、無計画に雅子が産んだのに。
「私って一人じゃ生きていけないんだものね」
 雅子は、誰にともなく夕暮れのリビングで呟く。膝の上には、色鮮やかな下着が数枚。もう一度きれいにたたみ直す。二泊三日の旅行のための荷造りだ。 
 父は、今も充分すぎるほどの仕送りをしてくるが、あまりにも退屈なので近所のスーパーマーケットでパートを始めた。雅が小学校になり、送迎はなくなったが、PTA役員というとても面倒な役割があり、仕事をしていない場合は有無も言わさず役員に指名されてしまう。昨年度は、断りきれずに引き受けたが、全く興味が持てず、定例会議に参加しているだけだったくせに、とても大変だったと記憶に入力し、二度と引き受けるのはやめようと思った。
 パートと言えど、仕事をしていれば、免除の対象となるので、
「週五日で平日もシフトされる日が多く、無理です」
 と堂々と言い訳をした。
 雅子が、スーパーマーケットでやっていたのは、品出しのパートだけではない。精肉部のチーフを見そめ、近づいて関係を結んだ。今回は、子供がいることは、黙っていた。
 二十九歳、前の職場を退職して家事手伝いをしているが、ほんのお小遣い稼ぎで、パートを始めた、というまことしやかな嘘に、チーフはまんまと騙されてしまう。結婚二年目で、妻が妊娠六ヶ月の彼にとって、初めての良くない関係だった。
 二人は、不規則なシフト勤務を利用して、逢瀬を繰り返し、それだけでは満足せずに、旅行に行くことにした。彼は、本社研修という名目で家を留守にすることにしている。それも二泊が限度だ。短い日程で遠出はできないので、千葉の千倉へ行く事にした。チーフは、研修という手前、自家用車を使うことは無理だから、電車での旅になる。
 雅子は、ウキウキしていた。チーフとどんな海の幸を食べようか、たしか枇杷が名産だったはず、運が良ければ「はしり」が食べられるかもなどと思いをめぐらす。海岸は、思いのほか紫外線が強いからストールを持って行った方がいいかな、などと他愛のないことで悩んでいる時、雅が帰宅した。
 今日も薄汚れたブラウスに、臭ってきそうなハイソックス、よれよれのスカートといういでたちだ。雅子は、自分の衣類はひんぱんに洗濯するが、雅のものは汚れてどうしようもなくなるまで洗ってやらない。ここでも意味不明の自論を展開していて、
「私は仕事してお金もらってるから、こぎれいにしなくちゃいけないけど、あんたはただ学校行ってるだけだから」
 と雅に言っていた。
 雅は、雅子が在宅しているとは思わなかったので、少し震え、そして無言で自分の部屋へ行こうとした。自分の部屋と言ったって、祖父すなわち雅子の父の衣装部屋である。窓も小さく、風通しも悪いが、雅子が目につく所にいるなと言うので、自然とそこが雅の場所になっただけのこと。学習机は買ってもらえなかったが、祖父が使用していたテーブルは天板がしっかりしているので、それを流用していた。
「ちょっと、あんた」
 雅子が、呼びとめる。雅の肩が、びくっと三センチくらい上がる。こんな時、怒られる以外の展開はありえないので、なるべく痛手を受けないように、見えない鎧を着用、盾も手にした。
「明日から二晩いないから、よろしく」
 予想外の言葉に、雅は逆にたじろぐ。
「え・・・今なんて」
「だーかーらー。明日から出かけんの。帰るのは木曜日だから」
「どこに・・・」
「そんなこと、あんたに話す義務あんの? 子供なら子供らしく素直にはいって言いなさいよ」
 小学三年生の娘を一人置いて、男と旅行。しかも、二晩も。
「火は、絶対に使うなよ。火事にしたら承知しないからな」
 雅は、今が五月であることに心から感謝した。ガスは使わないとしても、夏や冬であったら、エアコンも電気の無駄と使わせてくれないだろうし、熱中症や風邪という心配もまずない季節だからだ。
 とは言え雅は、心底不安になった。この広い家で、三日間も一人きり。今までだって何度も雅子が帰らない夜はあったが、あらかじめ言われていたわけではなかったので、
「もうすぐ帰ってくる、いくらなんでも、あとちょっとで帰ってくる」
 と呪文を唱えるようにして、長い夜を乗りこえてきた。それでも充分に怖く、震える時間だったのに、一体どうやって過ごせば良いのか。
「怖いから行かないで」 
 と言えれば。または、頼めば旅行を中止してくれる親なら、どんなに良いか。そもそも普通の親は、この年齢の子供を一人置いてどこかに行ってしまうものなのだろうか。
 雅には心を許せる友達が一人もいなかったので、それを確かめる術もなかった。ただの一人も信用できない。入学したての頃は、それでも話しかけてくれる女の子が何人かいたものだが、雅は受け答えが全くできなかったので、そのうちに誰も寄ってこなくなってしまった。
 昔なら、担任の教師が、
「そのお口は、なんのためについてるんですか?」
 と嫌味を言われるような存在だが、最近はそれも個性とみなして認めてくれている。その分介入してこないので、雅はいつまでたっても一人ぼっちだった。もしかしたら、すでに雅子がおかしな母親だということが知れ渡っていて、下手に雅にも関わらないようにしていたのかもしれない。
 旅行取りやめを雅子に頼んだところで無駄と思った雅は、返事もせずに立ち去った。いつもなら、
「まったく愛想のない子だよ。見てるだけで、気分が暗くなる」
 などと罵声を浴びせるのだが、今日は明日からの旅行が嬉しくて仕方がなく、嫌味を考える余裕もい雅子であった。雅は、何も言われなかったことで安心のため息をついた。
 その三日間の長かったこと。なるべく家に帰りたくなくて、最終下校ギリギリまで学校にいた。時折り行く図書室に寄り、読みたくもない児童文学のページをめくり、時間をつぶした。これから待っているであろう長い夜のことを考えると、文字は一つも頭に入ってこなかった。
 寝る時は、いつもの祖父の部屋ではなくリビングで電気とテレビをつけっぱなしにして眠りについた。一応菓子パンの類は沢山買ってあったので、パン二、三個と水で食事を済ませた。パンのパッケージを開けると、プンとイーストフードの香りがして食欲がわく。雅にとって、この匂いは明日へ命をつなぐ大切なものだった。冷たい食事。雅は、いつにも増して温かい給食が楽しみになった。
 雅子は、予定通りに木曜日に帰宅した。けれども午後十一時をまわっていたので、雅は気づかなかった。
 かわいそうに。雅は、この日リビングで眠っていたら叱られると思ったので、祖父の部屋で消灯して布団に入っていた。今か今かと待っていたが、暗闇が眠気を誘引して、不覚にも十時半頃には眠ってしまった。
 帰ってきた雅子は、一応雅の様子を確認したが、すやすやと寝息をたてている雅を見てこう思った。
「なーんだ、全然平気じゃない。けっこう度胸あんのね。大丈夫そうだから、また彼に甘えて連れて行ってもらお。今度は三泊で」
 雅子は、雅の心の中に渦巻いていた涙まじりの嵐を知る由もない。どんなに恐ろしく心もとなかったか。想像力が欠如している雅子は、こうして何百回目かの思い違いを犯すのである。
 翌朝。
 雅は、雅子が眠っている姿を見て、ようやく全てが終わったと思い、深い安堵の息をついた。規則正しい寝息を聞いているうち、安心しすぎてポロポロと涙がこぼれてきた。緊張の糸が切れた。雅子が、寝返りを打つ。雅は、あわてて涙をぬぐった。万一雅子が起きて泣いているところを見られたならば、どんなひどいことを言われるか。
 無用の涙は、絶対に見せてはいけない。それは、雅子の攻撃を甘んじて受けざるを得ない状況を与える以外のなにものでもないから。
 パンを残しておけばよかった。三日目の夕食までの回数で計算したので、今朝の食事の分は、ない。雅子を起こすわけにもいかず、雅は水道の水をコップに五杯飲んだ。登校中胃袋の中で、タポタポと移動する水の音を聞く。空しい音だった。
 その日雅子は、午後七時過ぎに帰宅した。午後からパートに行っていたらしい。期限切れの惣菜をもらって来たので、それを夕食にしろ、と言いつつ思い出したように、
「あんたにお土産買って来たんだった」
 と小さい紙の包みを投げてよこした。軽い。たぶんハンカチか何かだろう。外からさわった感触はやわらかく、押すとへこんだ。ここで開けても良いものか。それとも開けるとはしたないと怒鳴られるのではないか、色々なちゅうちょが頭の中を駆け巡り、一瞬全ての動作が止まってしまう。
 雅は自分の感情をそのまま出すことを封印していたから、まずどうすれば雅子の嫌味、罵りが最低限で済むかを考える。そうしないと、危険なのだ。ありとあらゆる罵倒をストレートに受けてしまうと、命が危ない。同じ言葉でも、子供は容量そのものが小さいのだから、気をつけないとすぐに一杯になってしまう。万が一の場合、それらの汚い言葉の海にて溺死してしまうから。
 雅は十歳に満たないこの年齢で嫌というほど、それを会得していた。一見、動作ののろい愚純な子供に見えたが、それは防衛本能だった。もしこれが備わっていなければ、この年にして精神疾患を患っていたに違いない。
「ありがとうは?」
 雅子が、催促をしてくる。目つきに悪意がこもっているので、うかつに目を合わせられない。
 お土産を放り投げた時に、すぐさまお礼を言うべきだったのか。
 けれども。それは枇杷の葉で染められたハンカチだったのだが、もともとは雅のお土産として買ったものではない。バスに乗るため一万円札をくずしたくて、ろくに選びもしないで買った一枚だ。子供が持つには、あまりにも渋い柄、材質だった。買ってから、思いつきで雅にあげようと思ったまで。
 雅は、怖いのですぐに、
「ありがとう」
 と言った。しかし、三日間の張りつめた緊張から解放されたので、つい素を出して雅子を睨んでしまった。
「せっかく買って来てやったのに、その顔何さ。まったくかわいくないったらありゃしない」
 楽しかった旅行の余韻をぶち壊されたとでも言うかのように、雅子は不機嫌になった。
 雅の恐怖は、このうす緑色のハンカチ一枚でチャラにできるほど軽いものでは、とてもとてもなかった。


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