第5話

エピソード文字数 4,233文字

 雅は、もしも愛に満ちた家庭に生まれたならば、その意志の強さは長所として認められ、鋭い目つきもその表れだと好意的に受けとめられただろう。
 そうしてたくさんの良いところを上手に伸ばしてもらい、長じて独特の才能を開花させることができたかもしれない。
 それほどに利発で、感情豊かな子供であった。
 教わってもいないのにいつのまにか字を読めるようになり、テレビでかかっている歌も数回聴いただけで、歌うことができた。
 誰も、褒めない。歌うと、
「うるさいっ」
 と雅子に叱られるので、小声で口ずさむことにしていた。
 雅の賢さは、何より生命維持を最重要課題としていることだ。過酷な状況でも工夫して、風邪を引かないようにしたり、空腹が続いても凌げるよう、食べる事が許されている食糧の全体を把握して、痛みやすいものから食べ始める。食べる前に腐っていないか、臭いをかぐことも忘れない。
 一方雅子は、たとえ雅が顔色を伺って行動していても、それでも全てが気に入らない。雅に対して、ロボット以上の従順さと正確さを要求するからだ。そんな完璧な動きができる子供など、世界のどこにも存在しないのに。それなのに、
「まったく、のろまなんだから」
 と外出しようと靴を履いている雅の気力をそぐ。
 何かを持って来いと命令、雅が急ぎ足で探して持ってくると、
「そのサイズじゃない!」
 と怒鳴る。最初から大きさの指定などしていなかったくせして。
 雅子は、インターネットに公開されている友人たちのページを、見ない。もっとも相手からは友達と思われているかどうかは怪しいが、一応仲間には入れてくれているので閲覧することは、できる。どこかへ旅行しただの、有名なイタリアンレストランで食事しただの、写真と共に載っているそれらは、雅子を不快にした。
「雅さえいなけりゃ、今頃私だって、同じように楽しめたのに」
 ねたましい気持ちが募りだす。癪にさわって、たまらない。
「どうして私ばっか、こんなに苦労しなくちゃならないの!」
 一人叫んで、パソコンの電源をオフにする。本当に悔しかったのである。自分は全く悪くないのに、一人で不幸を背負い、誰も助けてくれない。唯一の味方だった母は、死んでしまった。
 人のせいにしているという自覚もない。高校・大学の時の友達は、誰一人として連絡をよこさない。本当にたまに雅子の方からコンタクトを取ると、
「わぁ、久しぶり。元気だった? 娘さんも、元気? また会える日を楽しみにしているね」
 とあたりさわりのない返事が来る。会う気などゼロの文面なのに、雅子はやっぱり誤解して、そのうち皆で会おうかな、などと呑気なことを考える。
 雅が三歳になる頃には、男を誘う作戦に磨きがかかっていった。男を引き寄せる道具として雅を最大限に利用した。
「幼い子供をたった一人で育てているのに、日ごろからきちんと片づけて懸命に生きている女が、今夜は息抜きで外出している」
 という設定にしておくと、少しまじめな男もなびくのである。夜更けのバーで、視線をからめ、顔なじみになった頃自宅に招く。きちんと整頓された部屋で、すやすやと眠る少女。ここまで完璧にしていたら、たまには羽目をはずしたくもなるだろう。子供を置いての夜遊びも、なぜか大目に見てしまう男達であった。
 雅の格好も洗練されてきた。あいかわらずユーズドショップではあったが、ブランドもののワンピースを与えられ、定期的に美容院にも連れて行った。
 食べる物に関しても、近くにおしゃれなデリカテッセンができて、そこで買い物をするのが気に入った雅子が、しょっちゅう高級な惣菜を買ってくるので、雅の胃袋も満たされた。
「こんなに苦労してるんだから、おいしいもん食べたってバチ当たらないわよね」 
 いつもの思考回路で、言い訳。雅にではなく、自分自身に問いかけて全面肯定するばかりだった。ゆがんだ考えは、さらに大胆な行動に出た。
「頑張って育てている偉い母親」と思ってもらいたいためにだけ、雅を健康診断に連れ出した。母が生きていた一歳健診までは連れて行ったが、それ以降は予防注射の通知と共に全て無視していた。
保健センターの担当医は、母子手帳を見て、
「ずいぶん久しぶりですねー」
 と言いつつ、横目で雅の様子をすばやく観察する。健診にきちんと来ない親は虐待をしている可能性が高い。栄養状態はどうか、言葉の遅れはないか、身体のどこかに痣はないか、見るべきところはたくさんある。
「お名前は?」
「水上雅です」
 今日の雅は、とりわけかわいらしいノースリーブの花柄のワンピースを着て、濃い水色のリボンのついたカチューシャをしている。
 続くいくつかの質問にも、雅はよどみなく答えた。全てテレビからの受け答えから学んだことだが、そんなことは微塵も感じさせない年相応にふさわしいふるまいだった。
 担当医の女性の頭の中では、虐待の可能性は消去されていった。雅の心に渦巻く悲しみなど、次から次へと流れ作業でこなしていかなければならない彼女には見抜けるわけがなく。
 雅もまた、助けを求めるならこの場所だとわかるほどの判断力など、芽ばえているはずもなく。雅を、責められない。
 諸々の入力が済み、担当医は雅に笑顔を向けた。
「雅ちゃんて言うの? とってもかわいい名前ね」
 雅が反応する前に、雅子がしゃしゃり出てきた。
「いやいやそうじゃないんですよー。予定外だったものですから、あわてて私の一文字をー」
 いつもの雅子劇場が、始まる。
 その言葉を聞いた者の多くが、引きつった笑いを返すことなど、気づくはずもなく、ましてや雅のつむじが悲しみで震えていることなど知る由もない。雅は、すべての言葉を理解しているわけではないが、自分がけなされていることくらいわかっていた。自分が邪魔者であるということを、何度も何度も知らなければいけない現実。
 虐待は、身体の傷だけではない。この言葉が虐待に値するかどうか。雅の表情を見れば、明らか。担当医は気づいて手を差しのべる唯一のチャンスを逸した。あいにく。市に提出する書類を打ち込むため、下を向いていたからだ。
 直後雅子は、
「どうもありがとうございました」
 と礼を言い、雅にも、
「ほら、ちゃんとお礼言いなさい」
 と後頭部をつかんで無理にお辞儀をさせた。雅子が言い終わった後に言おうと、息を吸って待っていたのに。悲しみのつむじは消滅してしまった。

  雅子は、あいかわらず働いていなかったので、雅は保育園に入ることはできなかった。近所の給食、通園バス、延長保育が充実した幼稚園に年少から入った。その頃には、オムツも取れていた。
 いくら肌にやさしく通気性の良い商品でも、長時間つけていれば不快感は募る。雅は、テレビを観てトイレに行くことを覚え、実行した。もちろん、粗相などしようものなら激しく叱られるのはわかっていたから、それがオムツはずしに拍車をかけたとも言える。皮肉なものだ。
 それなのに。雅子は、
「他の子は保育園でトイレトレーニングしてもらうのに、あんたは家でやってもらってありがたく思いなさい!」
 と恩着せがましく言い、黙りこくっている雅に、
「ありがとうは?」
 と感謝の言葉を強要した。オムツはずしに関して、雅子は何もしていない,のに。
 幼稚園は、パラダイスだった。バランスの取れた給食が食べられる。しかも、おかわり自由だ。少食の子が多いので、最初の盛りつけは少なめだ。その分鍋におかずが大量に残る。何度おかわりしても良かった。雅は、毎日三、四回おかわりをした。チーズやパンなど持ち帰りできそうなものは、こっそり園のバッグにしまった。あの飢えた日々が、そうさせる。そしてそれは、決して終わったわけではない。またいつあの日々に戻ってしまうか、わからない。雅子は、気まぐれなので、今でも食べ物を切らすことがある。特に狙う男がいない場合は、急に無頓着になり、冷蔵庫が空になることもあった。
 だから、食べ物の確保は、大袈裟なことではなく、とても重要なことなのだった。
 年中クラスになって、夏のプールが始まった頃のこと。午後からのプール遊びに浮かれ、水着に着替えて並んで歩いていた雅の後ろの子がつまずいた。つられて雅も前のめりになり、プールへ行く外廊下に敷かれていたすのこで顔を打ち、出血した。鼻の横が軽く切れただけで、きちんと手当てをすれば、どうということのない怪我だった。
 園側は、大事になる前に、見舞金と高級菓子折を持って謝罪に訪れ、雅子は一応は文句は言ったものの、その額に満足して、事故自体は落着した。問題は、雅への態度である。
「あーあ」
 子供なのだ。気になったら、さわってしまうのは当然ということに、思いをはせられない。
「今度さわったら、その手腕から切るよ!」
 雅の頭の中は、どんな光景が展開されていただろう。恐ろしいものに違いない。雅子が、腕をひっつかみ、斧を振りおろす。泣き叫ぶ雅を助けてくれる人は、いない。なぜかそこには野次馬が何千といて、皆雅を指さしてせせら笑っている。
 子供を育てるにあたり、やってはいけないことの一つは、恐怖心を植えつけること。雅子は、まるで楽しいアクティビティのように雅を集中攻撃し、恐れる姿を見て喜んだ。
「せっかくきれいな肌に産んでやったって言うのにねぇ。これじゃ結婚できないかもよ」 
 にやり、と笑う雅子。自分だって、していないくせに。
 このように、ひどい仕打ちを重ね、雅子は雅から生きる楽しみ、成長する喜びを根こそぎ奪っ
ていった。雅子は、思慮の浅い的はずれな女であったから、ただただ自分の気分で雅をいたぶった。
 もう口に出してしまったことは、喉の奥に戻せるはずもなく、言われた方の心に邪悪な種をまいてしまうのだった。
 それは、小さい子供を、無意識に自分より弱い者と下に見ていることも大きい。遠い未来の「結婚」まで否定された雅。幼稚園の友達が、雅の近くでよく話している、
「パパと結婚するんだー」
「あたしもー」
 という会話。雅にはパパもいなければ、顔に傷ができたので結婚もできない、と言われている。悲しいことが何もなさそうな二人を、睨む。何も持っていない妬みを隠すという技は、この年齢の子が持っているわけもなく。

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