第4話

文字数 4,015文字

雅子は、そのうちに夜出歩くようになった。何もかも、面倒くさくなり、次第に部屋はゴミの山と化していったので、その中にいるのもゆううつだった。菓子パンの袋や一リットルの林檎ジュースのパック、足の踏み場のないほどに散らかった部屋で、雅は一人夜を明かした。
 初夏に向かう頃だったので、凍死は免れたが、一日中テレビを見て過ごした。雅子の母の死去以来新しい人を雇うことをしなかったので、今はテレビが唯一のベビーシッターとなってしまった。
 雅は、知らない。同じ年頃の子は、こんな毎日を送ってはいないことを。ひもじくて目眩がするほどだったり、替えてもらえないオムツから強烈な悪臭が漂ってきたり。それが間違っているかどうかの判断など、二歳半を少し過ぎたばかりの少女にできるわけがなかった。
 泣いても助けてもらえない、と学習してしまった雅は、めったなことでは涙を流さなくなってしまった。夜の十一時過ぎまで全く意味のわからないテレビをぼーっと見続け、眠くなるとそのまま横になって目を閉じる。それが、雅の一日だった。
 雅子は、夜遊びにはまり、勝山という男とつきあうようになった。二十八歳で、仕事の後にパチンコをやるのが、楽しみだった。雅子とは、駅前のパチンコ店で出会った。二、三回隣の台になり、言葉を交わした。
 近くの居酒屋でチューハイを飲み、語りあった。雅子にとっては、久しぶりの他人とのふれあいだった。勝山の性格や容姿がどうであれ、今この時自分をかまってくれるこの人はとても大切な人、と決めつけた。
 何回か居酒屋に通っているうちに、もしかしたら、と思い、部屋を片付け始めた。いつ勝山が来ても良いように。大晦日の掃除のように、徹底的に。雅にとっては、幸運だった。飢えすぎて、賞味期限がとうに過ぎたおにぎりなど、食べてしまったりしたら、命を落とすところだったからだ。あちこちに転がっていたそういう危険な食べ物が一掃され、見栄えの良い果物や焼き菓子が常備されるようになった。
 冷蔵庫の中身も、充実させた。雅は、すでに相当学んでいたので、全部一度に食べるようなことはしなかった。なくなっても気づかない程度に、様子を見て食べた。雅子が、次から次へと買ってくるので、食べたことも気づかれにくく、それは良かったが、そもそも今心は勝山に向いているので、そのようなチェックを全くしていなかった。
 けれども。それは幼児期に必要な食事の類ではなく、あくまでおやつなので、栄養的には相変わらずものすごく偏っていたのである。
 雅子は、自分に憐れみをむける単なる道具として、雅を利用した。普通なら、この年で子供がいるということを隠すものだが、雅子は、
「若くして出産して、一人で頑張って育てている健気な女」
 を演じようと決めた。
 生まれてから一度も整えられていない雅の髪の毛は、まもなく肩のところに届きそうだった。ピンクのリボンを買ってきて、ポニーテールに結う。アカだらけだった身体は念入りに洗われたが、基本的には邪魔者に思っていることには変わりないので、必要以上にゴシゴシこすってストレスを解消し、雅の皮膚は真っ赤になった。
 ユーズドショップで、かわいいワンピースを求め着させる。
 雅は。本当に美しい子供だった。髪を結んで顔を出すと、こめかみから目の下に至る線が涼しげで、それでいてこぼれんばかりの大きな瞳が全体の印象にコントラストをつけていた。古い外国の肖像画に描かれた少女のような、可憐な美しさもたずさえていた。人への不信感で真一文字に結んだままの口元は凛として、かえってその意志の強さを表す良い効果をもたらしていた。
 さすがの雅子も、そのことに気づいた。そうして抱いた感想が、
「生意気」
 だった。
「子供のくせして、色っぽい雰囲気なんか出しやがって。なんていやらしいの? 十年、いや二十年早いっての」
 と心の中で思いつつ、どうしても何かしてやらないと気がすまなくなり、
「ゆるいからもう一度結んでやる」
 とゴムをほどき、目がつりあがるほどきつくポニーテールを結び直すのだった。
 あちこちの髪がひきつって、痛い。顔の位置を変えるたび、引きつれる部分が変わり、だんだんと頭痛がしてきたが、雅は何も言わなかった。
 ぐじぐじのオムツをはいていなければいけないことに比べたら、こんな痛みは耐えられる。
「へぇ、キレイにしてるんだなー。しかも、なんか良い匂いー」
 勝山が、初めて訪れた時の言葉。雅子は、掃除した甲斐があったと有頂天になりつつ、
「そんなことない、ない。娘がすぐ汚しちゃうから、いくら片づけても追いつかなくてー」
 と微笑んだ。
 テレビの前にちょこんと座る雅を呼びよせ、
「挨拶しなさい」
 とうながした。挨拶のしかたなど習ってもいない雅は、きょとんとして、それでもまた自分をいじめる新しいベビーシッターが来たのか、と思い、身を固くした。
「こんにちは、でしょ! まったくねぇ」
 困ったような演技をして、雅子は雅の後頭部をぐいっと強く押して、挨拶を強要した。
「名前なんてぇーの? って聞いてもまだ無理か。二歳半て言ってたもんね」
 無理ではないのだ。ちゃんと会話をしている親子なら、
「お名前は?」
 と尋ねられれば答えられるし、
「いくつ?」
 と言えば、一所懸命二本の指を立ててくれる月齢である。ただ、確かに雅にはできなかった。なぜなら誰もそのやりとりについて教えてくれた人が、いないから。
「雅っていうのよ。名前何も考えていなくって、面倒くさいから私の名前から一文字取ってつけたのよ、何しろ予定外だったもんだから」 
 これは、雅がこれから何十回何百回聞かねばならない、心を泡立たせる言葉の記念すべき最初の説明だった。生まれたことそのものへの、否定。そんなふうに思ってしまう心ない言葉である。
「生まれてきてごめんなさい」
 心の中で、そう謝っていた頃もある。けれども長じると、
「自分が無計画だったくせによく言うよ」
 という悪態に変わった。
 嫌なことを言われた時、人はえてして険しい表情を作っているものだが、雅子の筋金入りの無頓着は、雅の変化に全く気づかない。
「へぇ、かわいい名前じゃん」
 勝山がほめると、急に闘争心を燃やし始めた雅子は、
「そんなことない、ない」
 と勝山と雅の間に割って入り、いつものように大袈裟に腕を振りまくるのだった。
 勝山が危害を加えないと思った雅は、少しだけ警戒をゆるめ安心した。それ以上は、話しかけてこなかったが、勝山と雅子の楽しそうな雰囲気が、張りつめたような空気しか知らない雅には、新鮮だった。テレビでも、ちょうどお笑い芸人達がギャグを言って大笑いしている。早口で雅には何ひとつわからなかったけれど、明るさは充分に伝わってきて。なんだかウキウキした気分になった。
 ふと気づくと、二人がいなくなっている。どこに行ったのだろう。安心していただけに、いつもより不安が募っていった。台所、玄関を探すが、真っ暗だ。リビングと和室の境の引き戸を引く。最近ようやく開けられるようになったが、まだ雅にとっては重いので、力いっぱいスライドさせた。
「うわっ」
 勝山が、叫ぶ。雅と目が合い、たじろいだ様子の彼は、雅子の身体から離れた。
「いや・・・やりにくいわ」
 勝山は、照れくさそうに、呟く。
「大丈夫よ、まだ二歳半なんだから、見たって何がなんだかわからないから」
「それでも・・・気になって、その気になれねぇや」
 雅子は、とても残念に思った。勇一郎以来男とベッドを共にすることなどなく、孤独を感じていて、やっと出会った勝山なのだ。なんとしても最後まで、抱き合いたい。上目使いをして、勝山にねだる。わざと身体をすり寄せ、誘惑にかかる。勝山の身体にも、火がついた。このまま何もせず、夜を越せそうにない。
「よし、ホテルかどこか行こうか。この子どうするかだけど」
 勝山は、それでもやさしい。その気持ちの狭間で揺れつつも、野獣の血がどくどくと脈打っていた。
「じゃ、ちょっと飲ませちゃう」
「そっか」
 雅子は、台所に立って、何やら準備をしている。子供のいない勝山は、成長過程が全くわからないので、勝手にミルクを飲ませれば寝るのだと勘違いした。雅子が持ってきたのは、コップに入ったオレンジ色の液体だった。
「これ、飲んじゃってよ」
 雅の口元に持って行く。ウィスキー入りのオレンジジュースだった。状況がわかった勝山は、あわて出す。
「子供にそんなもの飲ませて良いのかよ?」
「いいのよ、いつも飲ませてるもん。量さえ間違えなければ、大丈夫」
 雅子は、ウィンクのような目配せをするが、どうやって「適量」を知ったのか。世間の誰も、子供に酒を飲ますことを推奨してもいないし、適量が書いてある育児書もあるはずもなかった。
 ウィスキー入りオレンジジュースは、苦い。喉を通過する度、カッと燃えるような感触を味わう。雅は、この飲料が大嫌いだった。それでも、我慢して飲み干す。まずいので、顔がゆがむ。
 勝山が、玄関で靴を履き始め、こちらに注意をはらっていないのを確認し、
「なんて嫌な目つきをするんだろうね、この子は。気味悪いから、こっち見んなよ」
 と小声で言い、雅のおでこにデコピンをした。
 子供に酒を飲ますような女と長くつきあう男などいるはずもなく、勝山も適当に遊んだら行方をくらまそうと、スニーカーの紐を結びながら決めていた。
 雅子は、そんなことを知る由もなく、勝山の腕にしなだりかかり、わざと豊かな胸を押しつけるよう身体を密着させた。
 勝山は、出産を経験した女とホテルに行くのは初めてなので、好奇心ばかりが先に立ち、冷静になれないのではないかと、若干の不安を抱いていた。
 
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