第2話

文字数 5,858文字

 秋、雅子は妊娠した。五月に二十歳になったばかり。
 まさか、こんなことになるなんて。原因となることを繰り返していたのに、自分だけは大丈夫と思っていたのはどうしてだろうか。間違えであってほしい。明日の朝起きたら、妊娠が思い込みだったという赤い印が染みていて、ほっと胸を撫でおろせますよう。
 あんなに何でも話していた母には、相談できなかった。
「だって、お父さんはずっと海外勤務で、お母さんには私しかいないんだから、こんなことで悲しませちゃいけない」 
 その気持ちが強すぎて、秘密にしていた。インターネットで、付け焼刃の知識を得る。着床とか周産期などの言葉が、とても難しい専門用語のような気がして、なかなか理解できなかった。どうしていいかわからないまま学校に行き、いつものメンバーに相談を持ちかける。
 学食で、男子学生の手前声をひそめて、
「私、妊娠したみたいなの」
 と告げる。
「え・・・・ゆーちゃんの子?」
「そうなの」
「どうして避妊しなかったの? ゆーちゃん知ってるの?」
 雅子は、首を横に振る。
 妊娠がわかってからも、ひんぱんに会い、身体を重ねているが、どう言えば良いのかわからない。まだ二十歳なのに。これから、楽しいことが、たくさんたくさん待っているのに。なんで私だけ。
 そんな思いがグルグルめぐって、どこから説明して良いかも全くわからない。
「ゆーちゃん、産んでいいって言うかしら」 
 千秋が言うと、
「全然わからない」
 雅子が、受ける。
 それまでの、たとえ半年に満たないつきあいだったとしても、きちんと相手を見ていれば、ある程度の予測はつくだろう。それが、全く読めない。雅子という女は。
「産みなよ、雅子! せっかく授かった命じゃない。いつもゆーちゃんゆーちゃんって言ってるじゃない。それほど愛し合ってるってことでしょ。尊い命じゃない」
 皆が、振りむく。言っていたのは、牧代。真顔だ。
「世の中には子供が欲しくても授からない人、たっくさんいるんだよ。それなのに雅子、悩むなんてそういう人達に失礼だよ」
 牧代が、続ける。あの時の復讐かと思うほどに、通り一辺倒の意見を言う牧代だった。他の皆も、びっくりしている。牧代は、遠い目をしていた。
「そうか。せっかく授かったんだもんね」
 雅子の軸は、どこにあるのか。牧代の言葉一つで、産む気になっている。
 聞いている方も、あわてる。学生生活を続けながら、子供なんて育てられるはずがない。誰もがそう思っているのに、雅子はだんだんと根拠のない自信をつけ始めていた。愛するゆーちゃんとの子なら育てられる。育ててみせる。次第にとんでもない妄想が入り始めてきた。
 雅子は、誰と誰が自分と感性が似ていて誰が異なった考えをするのか、そういうことを感じる力が希薄だった。もとより他の人間に興味がないので、わからないと言ったほうが正解。勇一郎を愛していると思いこんでいるだけ。愛しているわけが、ない。
 午前中の陽光がさしこむ階段教室。雅子は、性別不明の赤ん坊を横抱きにして、講義を受けている。時々その赤ん坊が雅子を見て、ニコっと笑う。雅子もつきあって声を出さずに面白い顔をして赤ん坊を和ませる。満面の笑み。
 いったい何ヶ月の設定なのだ。新生児なら、のべつまくなしに泣いているし、お座りが可能な月齢になれば、じっとはしていられないし、無言で笑い返すなどありえない。
 このおめでたい甘さは、けれど雅子自身が招いた結果なのだ。少しでも周囲に気を配っていれば、誰かのために真剣に声かけをしていれば、状況も変わったはず。
 牧代の言葉に皆驚いたけれど、
「雅子、育てるのは大変だよ。よく考えて」
 とアドバイスする者は、いなかった。なぜなら、日ごろから雅子の言動で傷つけられてきた人達は、ここでその一言を言うことで、さらなる傷を負うことになるのを恐れていたから。
「え、できるよ。彼氏いない人にはわからないかもしれないけど、愛があればね。あ、でも彼氏がいないのも寂しいけど楽だね」
 こんなことを平気な顔をして言いかねない雅子。そこにいた皆は、それぞれの心の中で雅子が言いそうなことを予測して、助言をちゅうちょした。ここが人生の分かれ目になってしまうとも、思わずに。

今日こそは、明日こそは、と思っているうちに、かなりの日数が経ち、勇一郎には言い出すタイミングを逸していた。産むことは決めても、なんとなく面倒くさいことは後回しにしてしまう。しかし、だんだんとお腹も大きくなってきて、裸になったらごまかせないほどになった。
「最近太っちゃって恥ずかしいから、電気消して真っ暗にして・・・」
 雅子は、ねだるような目つきで勇一郎を見つめ、媚を売った。そして、世間的には妊娠五ヶ月目を迎えた。
 大学では、誰もその話にはふれようとはしなかったので、雅子が結局どうしたのか知る者はいなかった。
「なんか、お腹だけ異様に丸みをおびてるんだけどー」
 勇一郎がおどおどしつつ、聞いてくる。さすがの雅子もこの機会を逃す手はないと、覚悟を決める。
給料日直後だったので、夜景がきれいなホテルの上層階を予約していた。窓から見える高層ビルの屋上の赤い点滅ライトが、お腹の子供の心拍と同調しているような気がして、しばらくそのリズムを楽しんだ後、
「そう。ここにゆーちゃんの子供がいるのよ」
 と雅子は言った。
「今、何て」
「だから、ゆーちゃんの子供」
 勇一郎は、蒼ざめ状況が飲み込めない。明らかに焦っていて声が出ないのに、雅子はここでも状況把握がとても下手で、勇一郎の沈黙の意味がつかめない。
「せっかく授かったから、産むつもり。友達に相談したら、愛さえあれば大丈夫って言われたし」
 友達に相談。あの会話が。違うだろう。雅子の中で、こんなにゆがんで記憶されてしまったあの日の会話は、勇一郎を恐れおののかせる結果となった。
「いやいや、ちょっと待ってよ。僕は、まだ経済的に子供を持てるような状況じゃないよ」
「大丈夫よ。私もあと二年で卒業だから、そうしたら働くし。なんとかなるわよ」
 その根拠は。どこにあるのか。愛さえあれば、と言っているが、勇一郎は雅子を愛してなんかいない。面と向かって聞かれたらぶるぶると首を横に振り、否定するくらいの勇気があるほどに。
 せっかくの夜景が台無し、むしろ驚愕の現実に立ち向かう時には、あまりにロマンチックすぎて、ものすごく邪魔な光景だった。
 勇一郎は、赤い光を見るともなく見た。あの点滅が、ここから他の惑星に逃げることができるカウントダウンならどんなに良いか、ぼんやりと考えていた。勇一郎は、臆病だが計算高い。産まないという選択をさせても、堕胎にかかる費用を出したくはなかったし、手術をしたら、きっと暫くはベッドを共にできないだろう、と考えた。
 どうしたか。逃げたのである。よくある話だ。
 それは、思いのほか簡単だった。連絡があっても、出なければ良いだけのこと。あの日のパーティに参加した人脈をたどっても、追跡は困難だった。勇一郎は、関係のある先輩が急遽不参加になったために、当日駆り出されたので参加者のリストにも載っていない。勇一郎はそれを、不幸中の幸い、と思った。
 雅子は、が勇一郎が音信を絶ったことに気づくのに、十日ほどかかった。仕事が忙しいのだろう、と解釈して、メールの返事がなくても、さほど気にしなかった。ようやく気づいた時には、さすがの雅子もショックを受けた。連絡してみると番号を変えたらしく、つながらなくなってしまった。年末に向けて大学の授業もあらかた終了していて、誰かに会って相談というわけにもいかない。
 雅子は、ずっとこんなふうだったので、小学校から長期休暇中に遊びに誘われることはなく、また雅子以外の友人が会って楽しんでいることを知らないので、休み中友人に会うという発想がないのだった。長い休みは、ふだんなかなか一緒にいられない家族と濃密な時間を過ごす期間、と思っていたが、父親が運良く帰国することは、稀であった。
 雅子は、どうしようもなくなって母に相談することにした。
「勘違いかもしれないけどね、私ね、お腹に子供がいるかもしれないの」 
 ある日の昼下がり、庭の草木に越冬対策を施して戻って来た母親に、告げる。間違いかもしれないという前置きは、そのまま自分の願望だった。
「で、ゆーちゃんと連絡取れなくなっちゃったの」
 母は、手指にクリームを塗りこみつつ、ぎょっとした顔をした。そういえば最近なんとなくふっくらしたな、と思っていた。
「それは、確かなの?」
「ううん、わからない。病院に行ったりしてないから」
「ちょっとお腹見せてみて」
 雅子は、素直にセーターをたくし上げた。絶句の母。勘違いかもしれないわけが、ない。確実に妊娠している。
「早く病院に行きましょう」
「お母さん、あのね」
「駅前のクリニックなら、午後もやってたはず」
「お母さん、私産むから」
「雅子ちゃん」
 そう言ったまま母は、言葉を失う。彼女は、雅子を溺愛するあまり、あらゆることで世間のものさしが通用しなくなっていた。
「友達が愛さえあれば大丈夫だからって言ってくれたし」
 都合の良い解釈を、ここでも。
「そう、雅子ちゃん、良いお友達を持ってるのね。お母さん、羨ましいわ。でもね、子供を育てるっていうのはね」
「わかってるよ。大変だよね。でも、私きっとできる。やってみせる」
 雅子はすでに勇一郎に逃げられているというのに、愛さえあれば、と言い放つ。
 おめでたい。
「そう。雅子ちゃんの言うとおりなんだけどね。堕ろすっていう選択もあるわよ。雅子ちゃんは二十歳になったばかりじゃない? まだまだ遊びたい盛りなんだしね」
 雅子の頭の中には、「堕胎」という選択はなかったので、少し驚く。驚きつつも、そうしたらまた身軽な身体となり、学校に行けるかも、という安直な考えが頭をよぎった。
 それも、いいかもしれない。揺らぐ。自分の中に確固たる芯のない人間は、このように平気で正反対のことに、心を奪われてしまう。
「さ、仕度して、雅子ちゃん。行きましょう」
 母は、世間体を気にしたり、父の怒りを憂慮して堕胎を言い出したのではない。ただただ雅子が、面倒をこうむるのがかわいそうだと思っただけだ。
 深い考察や全体を見渡すまなざしは、ない。あったら、数ヶ月前に雅子が勇一郎と寝た話を報告した時、きちんと避妊のことなど伝えるはずだ。親なら。
 結果。雅子は、妊娠六ヶ月だった。もう堕胎できる期間は過ぎている。
「もう少し早くお医者さんに行っていればねぇ」
 母は、
「なんで早く言わなかったの!」 
 と雅子を責めたりはしない。しかしながら。丸ごと雅子を愛しているように思いこんでいるが、実は細かいところで無関心なのだ。毎日顔を合わせているのに、体型の変化にも気づかないほどには、関心がないのは確かである。
「しかたないね」
 雅子は、言う。母の提案により、一時は堕胎も考えた。でも、もう手遅れ。「しかたない」は「面倒くさい」と共に雅子がもっとも口にする言葉でもあった。
 母は、夫つまり雅子の父に、どのように報告すれば一番波風が立たないか考えていた。相手が逃げてしまったことも上手に伝えないと、大事になる。
 責任を取って結婚しようと言ってくれたのだが、雅子自身が愛情を感じなくなり別れたことにするか。そのおかげで、私達はまたあの小さくてかわいい赤ちゃんを、この家に迎えることができる。雅子の赤ちゃん時代を、もう一度体験できる。雅子の子供なんだから百パーセントかわいいに決まっている。などと、夫が喜びそうな流れを作ろうと必死になった。
 本当は。お腹の子供が、憎らしかったのである。せっかく大学に入学し、まだまだ楽しもうと思っていた雅子の自由を奪う邪悪な物体として、とらえていた。雅子の人生のすきまに悪魔が種をまいていく。その種は、どんなに荒れた大地にも平気で根を生やし、すくすくと育つ。肥沃な土にだけ芽を出し、実をつける良い種とは正反対。なぜなら、その種をまいたのは、悪魔なのだから。
 母子手帳も入手、春の便りが届く頃には雅子のお腹はせり出すように大きくなり、胎動もひんぱんに感じるようになった。大学は、休学することにした。このお腹で毎日電車に乗るのは大変だし、産んでしまえば母が面倒を見てくれるというので、一年間ほどで復学できるはずだ。
 たまにキャンパスに連れてきて、皆にかわいがってもらおう、とまだ悠長なことを考えていた。
「雅子―、生まれたら知らせてねー」
「元気な赤ちゃん産んでねー」
 たくさんの激励の、けれど取ってつけたような言葉を背に、雅子は大学を後にした。
 時に雅子のような存在は、周囲の人達の調子をも狂わせる。彼女達は、善良な大学生であるのに、雅子に対してだと、ついついいい加減な対応をしてしまう。まともに相手をしていると、じわじわと疲弊して、判断力さえ奪われてしまうからだ。
 残念な関係である。
 身体も順調、少しのんびりして出産に備えようと思った矢先に、母に病が見つかった。数年ぶりに受けた市の無料の健康診断で、要精密検査の通知が来たのに、雅子の妊娠騒ぎにかまけて、受診が遅れた。
 まだ若い母の身体。できた悪性腫瘍の進行は、思いのほか早く、告げる医師も言いよどんだほどだった。いずれは入院が必要だが、しばらくは通院での治療が可能ということだった。
「ごめんね、雅子ちゃん。こんな時に病気になっちゃって。でもお母さん、頑張って治して、雅子ちゃんを助けるからね」
 母が、笑う。
「大丈夫よ、お母さん。今は身体が重いけど、産んじゃえばラクになるから」
 雅子は、母に関して医師からある程度の余命宣告を受けているのに、こんなに元気なんだから、絶対大丈夫と、勝手に良い方に解釈していた。
「産んじゃえば」などと言っているが、産んだ後のことは、何も考えていない。
 本来なら、経験者である母が、
「そうは言っても、出産直後は充分に眠れないしホルモンのバランスも崩れて大変だからなのよ」
 と軽くいさめなければいけないのだが、雅子の言葉をうのみにする。おかしなスパイラルが、ここでもできあがりつつあった。
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