17. 狙われた伯爵
文字数 2,782文字
このヴェネッサの町に住むグレーアム伯爵〈ドレイク・ルーヴェン・グレーアム〉の邸宅は、壮麗な整形庭園をもつ豪邸である。屋敷には百余りの部屋があり、規模と外観の美しさ、その絢爛 さは王家のちょっとした離宮並みにあった。
目の前にはイデュオンの森を、そして東にミナルシア神殿、西に荒涼 とした大地を見下ろして立つその大邸宅は、昨夜、恐怖に見舞われた。じわじわと現れた黒い霧に敷地内が覆われ始めると、主人である伯爵のドレイクが急に苦しみだしたのである。さらに恐ろしいことには、庭先で蠢 く幾 つもの赤い眼と、この世のものとは思えぬ化け物じみた呻 き声にも取り巻かれたことだった。
だが、それらは何もせずに、夜明け前にはおとなしく身を引いていった。
ただ、ドレイクの容体は一向に良くはならなかった。
伯爵である父親のドレイクが病床 に伏しているそのあいだ、父の代行をも務めることになった息子のルーヴェン子爵〈ロザリオ・ルーヴェン・グレーアム 〉は、恐る恐るベランダに立った。ここは二階の父の執務室。そこから眼下の暗闇をじっと見据える。庭園の茂みが風に吹かれて物音をたてるのにびくつきながらも、ロザリオは、しばらく息を潜めてそうしていた。夜が来るのを、どれほど恐れたことか・・・。
父の机の上には、様々な施設からのまだ目を通していない報告書などが一緒になって、何通か置かれてあった。
赤い点が現れないことを願いつつ、やがてロザリオは窓辺を離れて、机の上の手紙を手にとった。一通目はネル孤児院からのもので、生後六か月ほどの乳児を引き取ったという連絡だ。ロザリオは、その赤ん坊がそうなるに至った考えられる理由に切ないため息をつきながら、二通目に目を向けた。
突然、ロザリオはその手紙を持って部屋を飛び出した。まだ文面の全てを読み終えてはいなかったが、欄干 伝いに階段を駆け下り、一階の会議室へ向かう。
隅から隅まで落ち着いた煉瓦 色の絨毯 が行き渡り、壁に大きなタペストリーが掛けられている会議室では、昨晩の件で傭兵 を雇 うということについて、その人数や報酬などの相談が、十人の議員によって行われていた。
いきなりその場へ駆け込んだロザリオは、みなに持っていた手紙を見せ知らせ、すっかり興奮したまま席にも着つかずにこう告げた。
「話し合いの最中に申し訳ないが、みなの者、聞いて欲しい。それについての報告があった。この手紙によれば、例のケダモノが、白昼、トリーゴの鐘楼 広場に現れたとある。警備の強化についてはひとまず任せると言ったが、それも早急に願いたい。」
そのあとで、ロザリオは長机の空席に腰を下ろした。父の席だ。隣には、父の秘書であるグラハムが座っていた。
子爵であるロザリオからその手紙を受け取ったグラハムは、聞き取りやすいよく通った声で読み上げていく。
「白昼、トリーゴの鐘楼広場に新種の生物が現れました。その生き物は赤い目をしており、口は大きく裂け、そして黒い剛毛 に覆われています。別の大陸の生物かもしれません。我々で退治をし、死骸を預かっていますので調べてください。」
「なるほど、まさしく例のケダモノに違いありませんな。」
「夜だけでなく、白昼にまで現れるとは。」
「数が分からないだけに、対策が困難ですな。」
「彼らがしとめるまでに、負傷したものは? その報告はないのですか?」
「何人がかりで、どのようにして退治したのですか? 対策を練るうえで状況把握が必要ですぞ。」
意見が次々と飛び交った。
ロザリオは手を挙げて場をしずめ、「では、明日これを報告した者を呼び出し、これに関わった者を調べ ――。」
「いえ、お待ちください、ロザリオ様。」と、秘書のグラハム。「これによりますと、続いてこう書かれております。その猛獣を素手で食い止めた勇敢な青年に、どうか感謝状を・・・と。」
「素手で食い止めただと?馬鹿な。それが本当なら、いったい何者なのだ。」
「はい・・・ああ、記名はされておりませんが、最後にその特徴が。何でも、金髪で青い目をした二十歳ほどの美青年・・・だそうです。その彼だけは肩を負傷したものの、おかげでほかに犠牲者は無しとなっております。」
室内がざわめいた。
「美しい若者・・・が、あのケダモノを素手で? 信じられん・・・。」
「いいえ、お兄様。それはきっと、あの方だわ。」
突然そこで妹シーナの声がして、思わず呆然としていたロザリオは我に返った。そして気付いた。扉を開けっ放しにしていたことに。ほかの者たちも同様、話が気になって閉めることを忘れていた。
「シーナ、その者を知っているのかい。」
「ええ、助けていただきましたの。四人の狼藉者 をものの見事に追い払ってくださって。本当に、お強くていらしたわ。スカーベラの白馬亭の前でお会いしましたの。お友達の方と待ち合わせをしていらしたけれど、あの辺りのことはあまりご存じでないようでしたわ。確か、リューイ・・・と、そう呼ばれたように聞こえましたわ。」
シーナは意気揚々 と兄に報告した。
「この町にそのような強い若者がいたとは。早速、トリーゴ地区の方から住民登録を調べてみます。」
一人が意気込んで言った。
「報告が遅れましたが、そのことでもう一報。」
グラハムが言った。
「先日、レドリー・カーフェイ氏が、この町に戻られたそうです。」
「レッドが?」
ロザリオは歓声を上げた。
レッドと彼 ―― ロザリオ ――とは、レッドがロザリオの父であるグレーアム伯爵の用心棒を務めていたことで知り合った。互いに初めは敬語で語り合っていたものの、すぐに気軽に話せるようになり、今ではよき友人としてロザリオの記憶に残っている。
「なんと幸運なことだ。では、彼から隊を編成する手ほどきを受けよう。明日、その金髪の青年とカーフェイ殿をここへ、いや、これから私が行こう。じっとしてはおれん。」
「お兄様、お話はまだありますのよ。テオ・グラントのおじいさまは、いらっしゃいませんでしたわ。」
「ああそれなら、もう調べはついたんだ。テオ殿は、ミナルシア神殿におられる。悪いね、シーナ。」
「まあ、そうでしたの。よかったわ。これでお父様のご病気は治るのね。」
「ロザリオ様、夜はなお危険でございます。どうか明日まで待たれては。」
グラハムが眉をひそめ、あわてて引き止める。
「いや、今夜これから何があるとも知れぬ。カーフェイ殿がいてくれれば心強いではないか。」
「それでは警備の者を。」
「いや、私もゆく。護衛は二人でいい。大勢はかえって危険かも知れん。」
ロザリオは断固としてみなに言い聞かせ、早速、席を立った。
シーナは行って欲しくはなかった。
だが、そんな兄の気迫に押されてそう言い出すことができず、どうしようもなく不安になりながらも、身支度 を整えに部屋へ戻る兄の背中を黙って見送った。
目の前にはイデュオンの森を、そして東にミナルシア神殿、西に
だが、それらは何もせずに、夜明け前にはおとなしく身を引いていった。
ただ、ドレイクの容体は一向に良くはならなかった。
伯爵である父親のドレイクが
父の机の上には、様々な施設からのまだ目を通していない報告書などが一緒になって、何通か置かれてあった。
赤い点が現れないことを願いつつ、やがてロザリオは窓辺を離れて、机の上の手紙を手にとった。一通目はネル孤児院からのもので、生後六か月ほどの乳児を引き取ったという連絡だ。ロザリオは、その赤ん坊がそうなるに至った考えられる理由に切ないため息をつきながら、二通目に目を向けた。
突然、ロザリオはその手紙を持って部屋を飛び出した。まだ文面の全てを読み終えてはいなかったが、
隅から隅まで落ち着いた
いきなりその場へ駆け込んだロザリオは、みなに持っていた手紙を見せ知らせ、すっかり興奮したまま席にも着つかずにこう告げた。
「話し合いの最中に申し訳ないが、みなの者、聞いて欲しい。それについての報告があった。この手紙によれば、例のケダモノが、白昼、トリーゴの
そのあとで、ロザリオは長机の空席に腰を下ろした。父の席だ。隣には、父の秘書であるグラハムが座っていた。
子爵であるロザリオからその手紙を受け取ったグラハムは、聞き取りやすいよく通った声で読み上げていく。
「白昼、トリーゴの鐘楼広場に新種の生物が現れました。その生き物は赤い目をしており、口は大きく裂け、そして黒い
「なるほど、まさしく例のケダモノに違いありませんな。」
「夜だけでなく、白昼にまで現れるとは。」
「数が分からないだけに、対策が困難ですな。」
「彼らがしとめるまでに、負傷したものは? その報告はないのですか?」
「何人がかりで、どのようにして退治したのですか? 対策を練るうえで状況把握が必要ですぞ。」
意見が次々と飛び交った。
ロザリオは手を挙げて場をしずめ、「では、明日これを報告した者を呼び出し、これに関わった者を調べ ――。」
「いえ、お待ちください、ロザリオ様。」と、秘書のグラハム。「これによりますと、続いてこう書かれております。その猛獣を素手で食い止めた勇敢な青年に、どうか感謝状を・・・と。」
「素手で食い止めただと?馬鹿な。それが本当なら、いったい何者なのだ。」
「はい・・・ああ、記名はされておりませんが、最後にその特徴が。何でも、金髪で青い目をした二十歳ほどの美青年・・・だそうです。その彼だけは肩を負傷したものの、おかげでほかに犠牲者は無しとなっております。」
室内がざわめいた。
「美しい若者・・・が、あのケダモノを素手で? 信じられん・・・。」
「いいえ、お兄様。それはきっと、あの方だわ。」
突然そこで妹シーナの声がして、思わず呆然としていたロザリオは我に返った。そして気付いた。扉を開けっ放しにしていたことに。ほかの者たちも同様、話が気になって閉めることを忘れていた。
「シーナ、その者を知っているのかい。」
「ええ、助けていただきましたの。四人の
シーナは
「この町にそのような強い若者がいたとは。早速、トリーゴ地区の方から住民登録を調べてみます。」
一人が意気込んで言った。
「報告が遅れましたが、そのことでもう一報。」
グラハムが言った。
「先日、レドリー・カーフェイ氏が、この町に戻られたそうです。」
「レッドが?」
ロザリオは歓声を上げた。
レッドと彼 ―― ロザリオ ――とは、レッドがロザリオの父であるグレーアム伯爵の用心棒を務めていたことで知り合った。互いに初めは敬語で語り合っていたものの、すぐに気軽に話せるようになり、今ではよき友人としてロザリオの記憶に残っている。
「なんと幸運なことだ。では、彼から隊を編成する手ほどきを受けよう。明日、その金髪の青年とカーフェイ殿をここへ、いや、これから私が行こう。じっとしてはおれん。」
「お兄様、お話はまだありますのよ。テオ・グラントのおじいさまは、いらっしゃいませんでしたわ。」
「ああそれなら、もう調べはついたんだ。テオ殿は、ミナルシア神殿におられる。悪いね、シーナ。」
「まあ、そうでしたの。よかったわ。これでお父様のご病気は治るのね。」
「ロザリオ様、夜はなお危険でございます。どうか明日まで待たれては。」
グラハムが眉をひそめ、あわてて引き止める。
「いや、今夜これから何があるとも知れぬ。カーフェイ殿がいてくれれば心強いではないか。」
「それでは警備の者を。」
「いや、私もゆく。護衛は二人でいい。大勢はかえって危険かも知れん。」
ロザリオは断固としてみなに言い聞かせ、早速、席を立った。
シーナは行って欲しくはなかった。
だが、そんな兄の気迫に押されてそう言い出すことができず、どうしようもなく不安になりながらも、
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