#2 焚き火

文字数 4,757文字




――おれは狂ってしまったのだろうか?

 だとしても、それを認め、見届けてくれる人間も、公共機関も身の回りにいない。

 たとえ出会えたとしても、どこかで金を受け取った瞬間に、元の状態に戻されて終わりだ。


        ◇


 金を稼ぐことを諦めたおれは、日々をおとなしく過ごすことにした。

 どうせなら平穏な日々を求めていきたい。


        ◇


 しかし仕事もできず、別にすることも思いつかず、だんだんと気力を失いかけていたおれは、ひたすらにじっとしていられる何かを求めていた。

 そうしておれは何とはなしに、誰かが揺らめく炎を見つめる姿を思い描いた。


        ◇


 その誰かは思っていた。

――おれはもう老成した。やるべきこともない。

 目的もなく薪を燃やしていたい。


        ◇


 おれもまさしくそんな気分だった。

 そんな理由で、おれは焚き火台を購入し、じっくりと焚き火を楽しむことにした。


        ◇


 さっそく狭い庭先でやろうと思ったが、どうやら条例で禁止されているらしい。

 たしかに、ここは家と家との距離が近いため、おれの家から出た大量の煙が、隣の家に直接流れ込みそうな気はする。

 平穏に暮らしたいからこそ、ご近所トラブルは避けたい。

 隣人を燻製にするのは無しだ。

 考えを改め、近くの自然公園に焚き火を楽しめる場所を見つけ、おれは管理者に問い合わせた。

 先客はおらず、使用許可は二つ返事でオーケーだった。

 そりゃそうだ。

 平日のど真ん中に焚き火に興じる人間の数は少ないだろう。


        ◇


 おれは公園に着くと、管理事務所で手続きをし、薪をひと束購入した。

 指定された区画にレジャーシートを広げて腰をおろし、さっそく焚き火を始めた。

 細かくしてあった薪から順に火をつけていき、勢いを増していく。炎が大きくなっていったところで、最後に薪を大きなまま火にくべた。

 薪はぱちぱちと音を立てながら、順調に燃えていった。

 おれは思わずため息をついた。


        ◇


 立ち上がる炎を見つめながら、おれは自分の置かれた状況について考えを巡らそうとしていた。

 しかし、その目的は叶わなかった。


        ◇


 焚き火をしていると、近所を散歩しているらしい爺さんたちが、入れ替り立ち替り近づいてきて、おれに話しかけてきた。

 用意した薪がすべて燃え尽きるまでに、おれは5人もの爺さんの話し相手になっていた。

 自分が暇じゃないことを証明するのが困難な状況で、おれは逃れようもなく爺さんたちの話を一人ひとり聞いていった。

 爺さんたちは長々と話し、おれはひたすらに頷いていた。大昔のフロイト派の精神分析家にでもなったような気分だった。


        ◇


 おれから話すようなことは特になかった。

 おれが相槌を打つと、爺さんたちはとめどなく喋り続けた。

 焚き火を前にすると、人は正直になり饒舌になるのかもしれない。

 しかし、正直者を相手にし続けるというのも、それはそれで疲れる。

 爺さんたちは、ひとしきり自分のことを話し終えると、急に満足を得るのか、プツリと話を切り上げ、なにやら頷きながら名残惜しそうにその場を立ち去った。

 その際、別れの挨拶のようなものも特になかった。ただ立ち去った。


        ◇


「すみません、ここらへんで、白い猫は見かけませんでしたか?」一人目の爺さんはそう言って焚き火のそばに近づいてきた。

 おれは猫は見かけていない、と伝えた。

 すると爺さんは、その白い猫の説明を始めた。

 その猫は、すでに年寄りで、おとなしい性格で、すらりと痩せている。

 かつてこの場所で長期に渡ってキャンプをしていた風変わりな人がおり、その頃にその主に懐いて、ここら近辺を縄張りにして住み着いたらしい。見たところ、その主は野宿をしながら全国を旅して周っているようだった。

 おそらくカメラマンか作家だったのでしょうね、と爺さんは言った。

 もし猫が居た場合、人懐っこいので逃げはしないだろう、とのことだ。

 一人目の爺さんは猫の説明をし終えると、再び猫を探すために焚き火の前から立ち去った。


        ◇


 それから、おれは猫のことを念頭に入れながらあたりを見回していたが、猫の姿は見当たらなかった。

 猫は来なかったが、代わりに二人目の爺さんが現れた。


        ◇


「焚き火とは、いい趣味をしているね」二人目の爺さんは焚き火の向こう側からおれに声を掛けた。爺さんはグレーのツイードのジャケットを着ていた。

 これが初めてなんですけど、とおれが言うと。

「いや、良い心がけだ。人生が豊かになる。続けると良い」その爺さんは言った。

 話し通りに受け取ると、焚き火は人生と深く関わりがあるものなのかもしれない。


        ◇


「わたしもかつては道具を一式揃えて、よくキャンプをしたものでね」

 そこから爺さんの話が始まった。爺さんは杖に寄りかかりながら話を続けた。


        ◇


 思えば爺さんたちは、腰を下ろすこともなく、誰もが立ちっぱなしで話し続けていた。みんな話に夢中で、疲れることを忘れているようだった。

 それらの話を、おれはレジャーシートの上で胡座をかきながら、原始時代の偉い族長のように、ひたすらに小さく頷きながら聞いていた。


        ◇


「さすがに、いまはもうキャンプはしなくなったね。ただ、わたしは退職をきっかけに、ここ10年ほど、終の棲家を探して全国を旅しているんだ」

 おれは炎に薪を追加しながら顔を上げた。

「住む場所を探すってのは、なかなか難しいものでね。全国を巡るとよく分かる。各地に自然が豊かで風光明媚な場所はたくさんある。けれど、生活の利便性と両立するとなると、ちょっと、なかなかいい場所は見当たらない」

 おれは面白いアドバイスだと思い、耳を傾けながら頷いていた。

「わたしの人生には後悔がたくさんあるが、特にそれを感じたのは、一軒家を建ててからだったね」

 そうなんですか、とおれは言った。

 たいてい、爺さんの話は飛び飛びで、とりとめがない。

「なんと言っても、まったく身動きが取れなくなるからね。家を持つとはそういうことだ。そうしている内に、今まで気にせずにいられた身の回りのことが気になるようになる。自分を取り巻くルールだとか、月々の支払いだとか、無意識の習慣のようなものが、どんどん気になるようになる。それに気がついたときに、自分が不自由だってことに直面して、その感覚はどんどん強まっていく」

 爺さんはそう言いながら、自分で納得するように大きく頷いていた。

「とにかく、あなたも家を建てたり、買ったりすることには、慎重になったほうがいい」

 具体的で明確なアドバイスだった。

 なるほど参考になりますね、分かりました、と返事をしながらも、おれは知らない内にすでに一軒家に住んでいることを思い返していた。


        ◇


 3人目の爺さんは、薄い黃緑色のウインドブレーカーを着て、公園内を見回るように歩いてきた。

 おれは最初、爺さんのその振る舞いから公園の管理人かと思ったが、ただの近所に住む爺さんだった。

「いやいや、一人で居るところを邪魔して申し訳ない」爺さんは何度もそう断りながら、それでいて長々と話した。


        ◇


 その爺さんは、知り合いが詐欺被害に遭った話をしてくれた。どうやら投資の話を持ちかけられて詐欺被害にあったらしい。ちなみにこの爺さんは、5人の爺さんたちの中で最もスリリングな話ぶりだった。

 特に、その知り合いが騙されていたと気がついてから、すでにどうしようもないことを悟るまでの流れが良かった。

 きっとこの爺さんは、色んな人に向けて何度もこの話をしていたに違いない。

「まったく、年を取ると考えが短絡的になるからいけない」爺さんはそう言いながら話を締めくくった。顔の前で両手を合わせ、真剣な顔でいかに世の中の老人の視野が狭いか、おれに伝えようとした。

「詐欺師なんて長期的な話なんて絶対にしないんだから、まともに話を聞いてりゃ気がつくはずなんだけどねえ」爺さんはそう言いながら、やけに同情的なため息をついた。

 おれは一瞬、実はこの知り合いのエピソードは爺さん自身の経験なんじゃないかと疑ったが、爺さんの余裕そうな顔と話しぶりを見る限り、違うような気がした。


        ◇


 4人目と5人目の爺さんは、主に時事問題について話していった。情報源が同じニュースなのか、2人とも驚くほど内容が一致していた。もしかして頭の中で思い描いていた風景さえ同じだったかもしれない。

 おれは聞きながら、その話の似通いぶりに感心したくらいだ。まるで人間が新しい言葉や概念を習得する様子を観察しているような気持ちにすらなった。

 爺さんたちは落ち着きなく左右に揺れながら話をした。

「最近よく聞くでしょう? あれ、マナーの悪い、ええと、危険運転だっけ?」爺さんたちは迷惑そうに眉間にシワを寄せながら言った。それでいて、どこか嬉しそうだった。

「ほんと、最近になって、ずいぶんと心の狭い人が増えたんだろうねえ……」爺さんたちは、やれやれ、と言いたげに長く唸った。

 どうして心の狭い人が増えたんでしょうか、とおれは冷静な捜査官のように尋ねてみた。

「ええ、きっと、みんな忙しくて、心に余裕が無くなってきているんでしょうよ。まったく考えてみりゃあ、心に余裕がないなら車なんて運転するべきじゃないよねえ」

 5人目の爺さんに同じ質問をして、4人目の爺さんと同じ回答を受け取ったときに、おれは誘導尋問に成功したような気分にさえなった。


        ◇


 5人目の爺さんが立ち去ったときには、おれの手元の薪は尽きていて、焚き火台の上には燃えきった灰と、小さな炭の欠片だけが残っていた。

 炭をすべて燃やし切ると、おれは焚き火台を片付けて家路についた。


        ◇


 暇な爺さんの話を聞き続けたせいで、おれはどっと疲れていた。

 はなから話半分に受け流していれば良かったのだろうけど、おれはなぜか、爺さんたちを無視できずにいた。


        ◇


 一晩寝て起きてもなお、おれは爺さんたちに、どこか同情していた。

――おれと同じかもしれない。

 そう思った。

 爺さんたちも、いまのおれと同じく、暇を持て余していながらも、どこか浮足立っていて気持ちはそぞろな雰囲気を出していた。

 社会からの用事が一切ない点では、まったく同じだ。


        ◇


 長年に渡って働き続け、無事に退職したと思ったら、周囲の人から尊ばれるわけでもなく、社会から持て余されている。

 働いている間はひたすらに暗いニュースを見せられ続け、いざ退職してみたら、無用の長物扱いを受ける。

 それでも正気でいることを自認している人間がいたら、そいつは既に人としての大事な神経回路がどこかでブッツリ切れている可能性を考慮したほうが良いだろう。

 暇を持て余して、役割もない。

 老人はそれを都合よく解釈するしかない。

 そうして、生き字引を自称する頭のオカシイ老人ばかりが量産されていく。

 爺さんたちがこれ以上残せるものは何もない。

 社会にとって、爺さんたちは燃え尽きた薪と同じだ。

 既に燃えようもなく、灰として風に吹かれて散るのを待つしかない。


        ◇


 おれも似たような日々を繰り返す中で、その気持ちはよく分かった。

 そうして、徐々に目先のことしか考えたくなくなってきていた。


        ◇


 暇なおれは畳の上に寝そべった。

 段々と、これまで自分が何を考えて、何を打開しようとしていたのかさえ、ぼんやりとしてきていた。

 いまなお、おれは代り映えのしない、繰り返しの中にいる。
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