第33話

文字数 2,425文字

三月十五日の「若手特選会」にはわたしも顕さんも行かなかった。それは、行けばそれぞれの出来を見ることになり、不安の種になりかねない。当然、翠は会場に足を運ぶだろうし、そうなれば彼女の一喜一憂に付き合わなければならない。それは今のわたしの本意ではない。顕さんこと古琴亭小鮒の今度の戦いは既に終わったのだ。結果こそ未だ出ていないが、今更ジタバタしても仕方ないと思うのだ。そんな時間があるのなら、やりたいことは沢山ある。ツーリングにも行きたいし、バイトをしてお小遣いを貯めたいし、また小鮒さんの稽古に付き合っても良い。兎に角、わたしが会場に足を運ぶ理由は見い出せないのだった。だから当日の模様は後で翠から聞いた。
 馬富さんの「厩火事」は翠が言うには感動モノだったそうで、トップバッターにも関わらず会場を沸かせたそうだ。萩太郎さんの「茶の湯」はそれほど笑いが多い噺ではなかったが萩太郎さんの個性が出ていて悪くなかったとか。銀竜さんはの壺算は悪くなかったが、店の番頭さんが少ししつこく感じたとのこと。そこが上方落語だった面影を感じさせる出来だったそうだ。そこがどう評価されるかだと言っていた。遊五楼さんの「猫の皿」は少し噺が「壺算」と被るところがあったが、こちらは騙し騙されの展開に持ち込み、客席を沸かせたそうだ。そして洛市さんの「百川」はこの噺を自家薬籠中としていた大師匠を彷彿とさせる出来だったという。尤もその大師匠のことは翠は知らないので他の人から聞いたそうだ。
 その日、わたしは朝からバイトでスマホをロッカーに置いていた。だから休憩時間まで大事な知らせを知らなかった。スマホを開けて見ると、LINEのアイコンに赤い数字のマークが付いていた。ドキリとして開いてみると顕さんからだった。
『先ほど連絡が来た! メンバーに選ばれたよ!』
 その文字を見た瞬間涙が滲んで画面が霞んだ。わたしの様子を見て同僚の子が
「涌井さん大丈夫!? 何か辛い知らせ?」
 勘違いをさせてしまった。
「ううん違うの嬉しい知らせだったの」
 そう答えて同僚を安心させた。
 バイトが終わるとわたしはバイクに乗って顕さんの元に急ぐ。今日は向島のおばあちゃんの家に泊まるはずだった。わたしは大学の近くのバイト先から向島に向かう。冷たい風も何も気にならなかった。それだけ心が喜びに溢れていた。
 向島の家で顕さんから詳しいことを聞いた。まず、選ばれた六名は、小鮒さん、馬富さん、福太郎さん、談々さん、遊五楼さん、そして萩太郎さんが選ばれた。小艶さん、銀竜さん、文吾さん、洛市さんは残念だった。
「良かったね」
「うん、ありがとう」
 おばあちゃんは今日は踊りの仕事で箱根に行っていて帰って来ない。二人だけの家でわたしは、身も心も何かも脱ぎ捨てて顕さんに、思い切り甘えた。感情が高ぶって、顕さんが心配をしてくれるほど幸せな時間を過ごした。
 その後に聞いた講評では一番の出来は福太郎さんだったそうだ。難物の「親子茶屋」をあれだけ演じられたという事が評価されたそうだ。次が我が小鮒さん。やはり親子の情愛が噺の根底に流れている事が伺えたと言う評価だった。三番目が段々さん。そして馬富さんで、最後が萩太郎さんだった。次点の小艶さんとの差は僅かだったという。
 二番目だろうと何だろうと、わたしは嬉しかった。「特選会」に出て上手くなり、そのうち一番になれば良いと考えたからだ。そして本番の「若手特選会」は五月に開かれる事となった。演目のリストが送られて来ていて、小鮒さんは何を演じるか考えていた。
「夏の噺だよね」
「そうだな。馬富は『青菜』だろうな。師匠の得意な噺だし。あいつも得意にしてるからな」
 翠は結果が馬富さんが小鮒さんより評価が低かった事が気に入らない感じだそうだ。五月といえば二人の式があるが、幸い「特選会」の後だった。
「一番の評価を貰って披露宴の添え物にするわ」
 そんな事を言っていたので翠らしいと思ったのだ。
「でも出来が悪いと次点の小艶兄さんと交代させられるけどね」
 小鮒さんはそんなこと言っていたが、この前の「厩火事」だって素晴らしかった。落ちることは無いと信じる。
 
 四月になりわたしも進級して三年生となった。そろそろ、就職のことも頭に入れておかなくてはならない。でも、講義が始まる前に以前から約束していた温泉にツーリングに行くことになった。顕さんが二日続けて休みを取れたのだ。
「一泊二日だけどね」
「ううん。それでも良いわ。うれしい」
 そうなのだ。好きな人と温泉で一夜を過ごす。どんなに素敵なことか……。
 バイクの調子を見て貰いにメンテナンスを頼みにバイク屋さんに持って行った時だった。バイク屋のオジサンが
「その日は雪の予報が出ているよ」
「え、うそ!」
「東京とか神奈川、千葉は大丈夫だけど箱根とか埼玉の山の方は降るみたいだよ」
 四月になって雪とは考えていなかった。
「最近天気予報当たるからね」
 オジサンはそう言ってタイヤの溝を測ってくれたり空気圧を調べてくれている。
「雪の心配ない地方に行けば?」
「だって予約しちゃったもの」
「何処に行くの?」
「伊豆」
「なら大丈夫だろう」
「でも天城だから」
「ああ、際どいなぁ」
 心配しているわたしに
「天城なら電車とバスでも行けるから、当日の朝に旅館に電話して、雪の具合を聞いてから変えても良いと思うよ」
 さすが年の功だと思った。確かにそこは連絡さえしておけば、近くの駅まで送迎してくれるのだった。
 家に帰ってLINEで顕さんに天気のことを伝える。するとすぐに返事が返って来た。
『当日向こうに電話して決めよう。バイクでなくても里菜と二人だけで温泉に行きたいから』
 二人だけで温泉かぁ……。わたしはその日、ずっとそのことばかり考えていた。周りからみれば、変人と思われたかも知れない。
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