第38話

文字数 3,332文字

 小鮒さんが楽屋を出るとわたしは急いで客席に向かう。間一髪で戻れた。客席では「外記猿」が流れている。この出囃子は太鼓や笛で始まるのではなく、三味線が一定のリズムを刻みながら始まる。そして段々と他の楽器の音が重なって行くのだ。だから最初から賑やかな「さわぎ」とか「祭囃子」とは違って最初は緊張感のある出だしとなっている。
 そしてその緊張感が最高潮に達した時に袖から小鮒さんが姿を表した。一斉に拍手が湧き起こる。高座の真ん中の座布団に座ると扇子を前に置いて頭を下げた。
「え〜今日はわたしが最後でございます。我慢ももうすぐ終わりですからね。後少しの辛抱です。そうしたら、二つ目の落語から開放されますからね」
 どっと笑いが起きる。この時の小鮒さんの表情が特に良かった。
「めくりには古琴亭小鮒と書かれています。古琴亭栄楽というのがわたしの弟子……じゃなくて師匠でございます」
 ここでも笑いが連続で起きる。掴みは完璧だと思った。
「よく言われるのは『お前は栄楽師匠の弟子なのに何故師匠の名が一字もはいらないんだ』って言う質問です。無理もありません。普通は二っ目になれば師匠の名前の漢字を一字貰うのが普通なんですが、実は師匠は弟子に一字も自分の栄楽という名を付けていません。皆魚に由来する名前です。わたしの兄弟子は小鮎ですし、弟弟子は金魚ですからね。なんでそうなのかと言うと、実は師匠が釣り好きなんです。只それだけなんですね」
 観客が楽しそうな表情をしている。それを見てわたしも嬉しくなって来る。そして噺に入った。今日の「替わり目」という噺は……。
 酔っ払った男が自分の家の前で俥に乗ったりして、さんざんからかって帰って来る。女房は早く寝かせようとしますが、寝酒を飲みたいと言い出す。しかし、つまみになるものが何も無いので、女房は女夜明かしのおでん屋へ買いに行く。
 女房をを買い物にやって誰も居なくなった亭主が
「何だかんだっつっても、女房なりゃこそオレの用をしてくれるんだよ。ウン。あれだって女は悪かねえからね……近所の人が『お前さんとこのおかみさんは美人ですよ』って……オレもそうだと思うよ。『出てけ、お多福っ』なんてってるけど、陰じゃあすまない、すいませんってわびてるぐれえだからな本当に……」
 そうしみじみと語っていると
「お、まだ行かねえのか! さあ大変だ。元を見られちゃった」
 寄席ではここで切る事が殆どだが、実はこの後があり、じかも題名はそこから来ているので、ここで切ると題名の由来が判らないのだ。
 わたしはこの場面を見て、小鮒さんがこの噺を選んだ理由が理解出来た。わたしの思い込みで無ければ、今日のこの噺はわたしに向けて語ってくれていたのだ。一門の師匠方が代々受け継いで来た大事な噺……。大師匠の師匠の古琴亭志ん栄師匠が病に倒れた後の復帰の高座で最初に掛けた噺。それはリハビリを支えてくれた自分の女将さんに向けての感謝の高座でもあったのだ。わたしは、かなり前に小鮒さんから、その逸話を聴かされていた。小鮒さんはそれを覚えていて、と言うよりそれに倣ったのだ。わたしはやっとその真意を理解した。
 わたしは間抜けだ。駄目な女だ。小鮒さんがどれだけ、わたしの事を愛してくれたいたか。どれだけ大事にされて来たのか、そんな事も理解しないで生きて来た。それが今判り涙が止まらなくなっていた。ハンカチで涙を拭うが後から後から出て来て止まらない。それでもこの高座を最後まできちんと聴くのが勤めだと思う。この後の噺は……。
 亭主はその間に家の傍を通ったうどん屋をつかまえて酒の燗をつけさせる。うどん屋が何か食べてほしいというのをおどかして追っ払ってしまう。そのあとで新内流しをつかまえて都々逸をひかせていい気持ちになっているところへやっと女房が帰って来る。
「おや、お前さん、どうやってお燗をしたの」
「いまうどん屋につけさせた」
「なんか食べたの」
「なにも食わねえで追っ払った」
「かわいそうに、うどんでもとってあげれば良かったのに。……うどん屋さーん! うどん屋さーん」
「おいうどん屋、あそこの家でおかみさんが呼んでるぜ」
「どこです」
「あの腰障子の見える家だ」
「あそこは駄目です。いま行ったら銚子の替わり目だから」
 このうどん屋の最後のセリフが題名になっているのだ。だからここまで聴かないと判らないのだ。
 小鮒さんの出来は後半も素晴らしかった。恐らくわたしが聴いた小鮒さんの高座で一番の出来ではないだろうか。それだけの出来だった。湧き上がる拍手の中、緞帳が静かに下がって行く。小鮒さんが
「ありがとうございます、ありがとうございます」
 と何回も繰り返して頭を下げている。わたしはそっと客席を抜け出し楽屋に向かう。
 楽屋では小鮒さんが高座から降りて来たところだった。
「聴いててくれたかい」
 わたしは静かに頷く。言葉に出せば泣きそうだった。
「里菜、良かったね。わたしも高座からあんな言葉掛けて欲しかったなぁ」
 翠が笑いながら横目で馬富さんの方を見ながらそんな事を言ってくれた。やはり彼女もあのセリフの意味が判っていたのだ。
 観客が帰り、出演者がもう一度高座に呼ばれた。今日の講評を伝えるのだ。それによると、一番の出来はやはり小鮒さんの「替わり目」だった。次が萩太郎さんの「代書屋」その次が馬富さんの「青菜」だった。二人の差は僅かだったと言う。四番目が段々さんの「黄金餅」で最後が福太郎さんの「菊江の仏壇」だった。福太郎さんもそれは想像していたみたいで、
「この次に上がる時は一番になります」
 そう決意を聞かせてくれた。次回は福太郎さんの代わりに遊五楼さんが出演する。それは三月後の八月だった。
「すると俺が次に出るのは十一月か。稽古する時間はたっぷりあるな」
 福太郎さんがそんな事を言うと馬富さんが
「時間は誰でも平等だけどな」
 そう言ったら皆が笑っていた。わたしはその様子、関係がとても羨ましく感じた。お互いに真剣にやり合いながらも常にユーモアを忘れない……きっと将来はそれぞれ特別な噺家になるのだろうと思った。
 
 あれから五年……。
 わたしは大学を卒業して演芸関係の雑誌の出版社に就職した。大学の教授からは、もっと条件の良い所もあると言われたが、わたしは落語に関わっていたかったのだ。小鮒さんとはどうしたって? 勿論一緒になったけど、大学を卒業してすぐでは無い。少し働いてからだった。子供も出来たが今でも雑誌記者は続けている。毎日寄席や落語会に通って取材をしている。そして今年は嬉しい知らせがあった。再来年の五月に小鮒さんと馬富さんが真打に昇進することが決まったのだ。それぞれ十人以上の先輩を抜いての抜擢昇進だそうだ。今から準備が大変だ。昇進の手拭、扇子などを考えて発注しなくてはならない。
 そして今でもバイクには乗っている。恐らく一生乗り続けるだろう。今は子供も小さいから後ろに乗せられないが、もう少し大きくなったら家族三人でツーリングに行こうと思ってる。
 翠はあの「特選落語会」の後に式を挙げて、賢ちゃんこと馬富さんと夫婦になった。今では二人の子供が居る。馬富さんの芸が著しく向上したのは奥さんのお陰と周りでは言われている。そんな翠はわたしに
「正直、一人昇進だったら嬉しかったけど、お金の算段が大変だったわね」
 そんなことを言っていた。確かに昇進には物凄くお金が掛かる。特に一人昇進なら全ての費用を一人で賄うのだが二人だとそれが半減される。
 五月の上旬から上野の鈴本演芸場を皮切りに、新宿末広亭、浅草演芸ホール、池袋演芸場と続く、そして最後は三宅坂の国立演芸場だ。都合五十日間の披露興行だ。わたしも取材にそして女将さんとして頑張らなければならない。
 こうして、わたしと顕さんの物語はここまで続いて来た。そしてこれからも続くけど、一旦、ここで終わりにしようと思う。またお目に掛かる日まで……。

               
             「バイクと恋と噺家と」       <了> 
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