第13話

文字数 4,004文字

 日曜日は顕さん達噺家にとって需要な日だ。それは本業の落語の仕事が入るし、また余興の仕事が入ることもあるからだ。でも今日から隔日だけど浅草の寄席に出るのだ。今日から十日間のうち交代で馬富さんと交互にで出るのだ。小鮒さんは、今日が日曜だから出るのは、日、火、木、土、月となる。本当は初日に行きたかったのだが、用事があって行けなかった。昼席なので学校のある平日は行くことが出来ない。すると今度の土曜しか行ける日はなかった。勿論、翠も行くはず。今までなら一緒に行くはずだが今回ばかりは一緒という訳には行かない。なぜなら小鮒さんが出る時は馬富さんは休みで、馬富さんが出る日は小鮒さんが休みだからだ。
「里菜とは今回は一緒に行けないね」
 翠はそんなことを嬉しそうな顔をしてわたしに言う
「嬉しそうだね」
「そりゃそうよ。好きな人が高座に出るんだもの。それも言わば公式の高座だからね」
「公式の高座?」
「うん、自分たちでやる会は言わば私的な高座でしょう?」
 確かにそうだが
「それに比べて寄席というのは協会や寄席のお席亭から出演依頼されて出るんだもの、言わば格が違うと思うの。寄席で評判が良ければ、あちこちから声がかかるでしょう。そうすれば次第に売れて行くと思うのよね」
 確かに、それは理屈だけど。今からそんな事まで考えている翠にわたしは少し驚いた。それに楽語界の事まで良く知っている。
「なにかまるで奥さんみたいね」
 わたしとしては半分冗談。半分からかいで言ったのだが
「そうよ。だって来春になったら一緒に住むんだから」
 教室の窓から外を見ながら毅然として言うのだ
「それって、あんたの願望でしょう?」
「そんなわけないじゃ無い。約束してるもん」
「え、馬富さんが一緒に住もうって言ったの?」
「そうよ」
 そう言った翠は本当に嬉しそうだった。聞けば、この所、毎週金曜になると馬富さんのアパートに行き色々と世話をして日曜の夜に帰って来る生活をしてるそうだ。それって週末妻じゃん。そう思った。翠ってこんなに情熱的だったかしら? どちらかと言うと恋愛には冷静な方で、今まででも告白された事は多いけど、ちゃんと付き合った事は数えるほどだったはず。それも噂では身持ちが堅いと言われていた。だから今回みたく翠の方が前のめりになっているのが正直信じられなかった。
「わたしは土曜に行くから翠は金曜には間に合わないから日曜だね」
「うん。土曜は賢ちゃんは連雀亭の夜席に出るからね」
 それから翠は馬富さんのスケジュールをわたしに語ってくれた。それによるとなんだかんだで、ほぼ毎日何かしらの仕事が入っているらしい。顕さんとは違う。噺家小鮒はそれほど毎日仕事が入っている訳ではない。先日の土曜はわたしのために仕事をオフにしてくれたのだろうけど、翠から話を聞いて少し複雑だった。
 そこまで会話した時に午後の始業のチャイムが鳴って翠が
「じゃ後でね」
 そう言って自分の席に戻って行った。
 翠の話を聴くまで正直、土曜に寄席が終わったら、東京でデートしたりと考えていた。顕さんは寄席以外の仕事の事は言ってなかったけど、入っていないのかしら? 翠は馬富さんのことを真剣に考えているのに、わたしは顕さんの家族に紹介されたことで舞い上がっていた。訊いたら翠はお互いの家族に紹介済みで卒業したら一緒に住むことも承諾してると言う。この時わたしの頭に古い言葉だが「契り」と言う言葉が浮かんだ。そうなのだ翠と馬富さんは契を結んでいたのだ。わたしと顕さんはそこまで行っていない。単に形式的なことだけとも言えなくも無いが時間の問題とは思うがそこまで行っていないのも事実だ。色々と考えていたら授業が終わっていた。

 土曜日、わたしは朝早く東京に向かう電車に乗っていた。急行だからそう時間はかからない。終点のターミナルで地下鉄に乗り換える。途中で銀座線に乗り換えて浅草に向かう。顕さんから
「終点の浅草だと歩くから、ひとつ前の田原町で降りるといいよ」
 そう聞いていたので田原町で降りて地上に出た。いい天気で青空が広がっていた。こんな日にツーリングに行ったら、さぞ気持ち良いだろうと思った。風が心地よい。でも、もうすぐこの風も湿って梅雨になるのだ。
 グーグルマップで調べていたので浅草の寄席の場所は判っていた。昼の部は朝の十一時半には始まるそうだ。その前に前座さんが練習代わりに高座に上がるので実際はそれより早いそうだ。
「平日なんか並んでいるよ」
 顕さんにそう教わったので少し早めに着いた。今日は並んではいなかった。切符売り場で入場券を買う大人は二千八百円だが高校生なので二千三百円で済んだ。窓口には猫が出迎えてくれた。顕さんが
「浅草演芸ホールのテケツにはジロリって言うサバトラの猫が居るんだ。可愛い奴でね。もし切符を買う時にジロリに出会えたら良い事があると言われているんだ」
「テケツって?」
「切符を売る窓口のことさ」
 そう言っていたのを思い出した。そうか今日はラッキーな日になると単純に喜んだ。
「あら可愛い」
「ジロリって言うんですよ」
 窓口のお姉さんが教えてくれた。
 場内に入ると寄席は思ったより広くはなかった。二階席もあったが一階に入った。半分ぐらい埋まっていて、わたしは真ん中より少し前に席を取った。
 「平日だと前座が話してると招待券のお客さんがガヤガヤ入って来るんだよね。でも土日はそれが無いから前座は土日に上がるのを希望する奴が多くてね。調整が大変だったよ」
 ふたつ目になる前、顕さんは立前座と呼ばれる前座でも一番上の立場だったそうだ。この立前座は寄席の運行管理を担っているので、大師匠と言えども立前座の人に言わないと出る順番を変わって貰うことも出来ないそうだ。それに時間が押してるとそれぞれの出演者に「短めに」とか「長めに」とか言って時間の調整をするのだそう。何か色々大変だと思う。その他に師匠方にお茶を出したり、着替えを手伝ったり、着物を畳んだり、雑用をしたり、それらが全て落語の為になるのだそうだ。聴けば聴くほど噺家の世界って大変だと思う。
 やがて出囃子が鳴って前座さんが出て来た。どうやら「たらちね」という噺らしい。これは長屋の独り者の八五郎の所にお嫁さんが来るのだけど、この人の言葉遣いが特別丁寧過ぎるので色々とトンチンカンな事が起きるという噺だ。顕さんと付き合うことになってから、わたしも落語を聴いたりしている。
 前座さんがパラパラとした拍手を貰って高座を降りると顕さん、いや小鮒さんの出囃子が流れた。小鮒さんの出囃子は「外記猿 」(げきざる)という出囃子で緊張感があるので個人的には小鮒さんに合っていると思う。
 小鮒さんは青い着物姿で扇子を右手に持って出て来た。わたしが来てる事は知ってるので目が合った。本当は楽屋を訪れれば良かったのだが、出番が早いので終わってからの方が良いと思ったのだ。
「え〜ようこそのお運びで御礼申し上げます。この度ふたつ目昇進となりまして、寄席に出ることになりまして古琴亭小鮒と申します。どうぞ宜しくお願い致します。顔と名前を覚えて帰って頂けければ幸いです」
 湧き上がる拍手を貰い、小鮒さんは噺に入って行った。どうやら今日は「かぼちゃ屋」という与太郎が出て来る噺みたいだ。
 与太郎がかぼちゃを売ることになり町内を売り歩くのだが、ドジばかり。あげくは卸値で売ってしまい叔父さんに怒られる始末。もう一度売って来いと言われて再び売り歩くが売れないので先程の場所に行くと、さっき買ってくれた男が居るので、また買ってくれと言うが今度は値段が高い
「なんで高いんだ」
「さっきのは元値で今度は上を見てるから」
「なんで上を見てるんだ?」
「上を見ねえと女房子供が養えねえ」
 と下げる噺で小鮒さんは上手く纏めて高座を降りた。わたしは客席の横にある楽屋入り口の所で、小鮒さんが出て来るのを待っていた。
 十分ほど待っただろうか、小鮒さんが楽屋から出て来た。手には着物が入ったカバンを持っている。
「お疲れ様」
 わたしが声を掛けると小鮒さんは顕さんの顔になり
「ありがとう。高座に上がったら目の前に居たので驚いたよ。楽屋で『今日は可愛い子が居る』って評判になっててね。余りにも愉快と言うか可笑しいので言っちゃった」
「なんて?」
「俺の彼女だって」
 その時楽屋から数人の人がこちらを見ているのに気がついた。慌てて会釈をする
「いいなぁ〜兄さん。物凄く可愛いじゃん」
 先程高座に上がった前座さんだった。
「いいだろう」
 そう言った顕さんの表情は今までで一番嬉しそうだった。わたしは今まで可愛いなんて言われたことが無かったのでドキドキが収まらなくて顕さんの陰に隠れてしまった。
 顕さんはわたしの肩を優しく抱いて
「今日は、この後二時から連雀亭なんだ。どうする? 一緒に来る。それとも二時まで見てて地下鉄に乗れば神田まですぐだからね。十分とかからないよ。連雀亭の前で待ち合わせしても良いし」
 確かに二千三百円払ったのに未だ前座さんと小鮒さんしか見ていない。それで出てしまうのは勿体無いと考えた。恐らく翠なら迷うことなく一緒に行くのだろうと思った。
「じゃあ二時まで見てる。時間になったら出るから終わったら連絡して」
「判った。そうする。じっくり寄席を見ておいた方が良いよ」
「うん。顕さんの職場だものね」
 わたしのその言葉の意味が判ったのか、顕さんはわたしの耳元で小さく
「今日は家に帰したくないな」
 その言葉に収まりかけてた胸の高まりが又強くなった。
「俺は遊びなんかじゃないよ。本気なんだ」
 思わず顕さんの胸に顔を埋める。楽屋から誰が見ていようが構わなかった。
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