第25話

文字数 3,370文字

 出囃子が鳴って小鮒さんが楽屋から高座の袖に出て来た。今日は黒紋付だ。この格好で彼の意気込みが判る。
「じゃ行って来る」
 小鮒さんこと顕さんは小さな声で、高座の袖の外れに居たわたしに告げて出て行った。
「頑張って!」
 聴こえているか判らないが、わたしも小さな声で送り出した。
 小鮒さんと交代で高座から下がって来た馬富さんには翠がタオルで汗を拭ってあげている。その二人の表情で、今の噺の出来が完全に満足の行くものでは無かった事が伺えた。会心の出来なら翠は、あんな表情を見せないからだ。
 わたしなりに考えると、後半の笑いの多い場面。片方の旦那が雨の中を傘を被って店の前をウロウロする所で動きが小さかった気がするのだ。
 と言うのも、そのシーン、わたしは客席の後ろで見ていたからだ。これは小鮒さんの指示だった。
「里菜。後半のシーンだけど客席の後ろで見て居てくれないかな? 目線の動きが伝わっているか確認して欲しいんだ」
 そう言われたのでわたしは見て居たのだった。その結果だが個人的にだが、一番後ろからだと少し動きが小さくて伝わったとは言い難いと感じた。
 きっと二人ともそれを感じているのだと思う。三百人程の寄席なら、あれで充分だと思うが、今日みたいに七百人も入る場所では、もっと動きが大きくないと駄目なのだと思った。きっと小鮒さんもそれを危惧していたのだと思う。
「笠碁」は小鮒さんも演じる噺だが、今日の演目には最初から選択には入っていなかった。それは、このようになる事を、ある程度理解していたからだと思う。
 小鮒さんが噺に入って行く。「芝浜」はかの三遊亭圓朝が創作した噺とされ、元は三題噺と言われている。それを弟子や後世の噺家が磨き上げたのだ。この噺は……。
 魚屋の勝は酒におぼれ、仕事に身が入らぬ日々が続く。ある朝早く、女房に叩き起こされ、嫌々ながら芝の魚市場に向かいますが時間が早過ぎたため市場がまだ開いていません。
 誰も居ない芝浜の美しい浜辺で顔を洗って煙管を吹かしていると、そこで偶然に財布を見つけます。開けると中には目を剥く程の大金。有頂天の魚屋は自宅に飛び帰り、仲間を呼んで浮かれ気分で大酒を呑む始末。
 翌日、二日酔いで起き出た魚屋に女房、こんなに呑んで酒代をどうするのか、と亭主に言います。勝は拾った財布の件を躍起になって訴えるが、女房は、そんなものは知らない、と言います。
 焦った勝は家中を引っ繰り返して財布を探すが、何処にもありません。勝は愕然として、ついに財布の件を夢と納得します。そして、『なんて情けない夢を見たのだ』と思い、酒を断ち、心を入れ替えて真剣に働き出します。
 懸命に働いた末、生活も安定し、身代も増え、やがていっぱしの定店を構えることが出来た三年後の大晦日の夜、勝は妻に対してその献身をねぎらい、頭を下げる。ここで、女房は魚屋に例の財布を見せ、じつは……と、告白をはじめます。
 あの日、夫から拾った大金を見せられた女房は困惑しました。と言うのも、横領すれば当時は死罪にあたります。(江戸時代では10両(後期は7両2分)盗むと死罪です)
 長屋の大家と相談した結果、大家は財布を拾得物として役所に届け、夫には酔って見た夢だと言うことにしました。
「財布なぞ最初から拾ってない」
 そう言い切ったのです。
 それから時が経っても、遂に落とし主が現れなかったため、役所から拾い主の魚屋に財布の大金が下げ渡されていたのでした。
 この真相を知った勝は、妻の背信を責めることはなく、道を踏外しそうになった自分を助け、真人間へと立直らせてくれた妻の機転に強く感謝します。妻は懸命に頑張ってきた夫の労を労い、久し振りに酒でも、と勧めます。
はじめは拒んだ魚屋だったが、やがておずおずと杯を手にします。
「うん、そうだな、じゃあ、呑むとするか」
 呑もうとしますが、杯を置きます。
「どうしたの?」
「よそう。また夢になるといけねぇ」
 そう落とす噺だが、オチがあるが今では人情噺に入れられている。小鮒さんは笑いの少ないこの噺をお客をダレさす事もなく、取り込んでいる。わたしにも、この高座がいい出来だと判る。
 女房の仕草などは寄席よりも大げさにしている。これは、この入れ物の大きさを考えたからだ。クサくても良い、その場のお客さんに判って貰えればそれで良いのだと小鮒さんは、わたしに言い切った。わたしも、それに賛成した。
「よそう、また夢になるといけねえ」
 サゲを言って頭を下げると一斉に降るような拍手が浴びせられた。その拍手の中、静かに緞帳が降りて行く。小鮒さんは緞帳が降りても頭を下げたままだった。拍手が鳴り止むと静かに座布団から立ち上がり袖に戻って来た。わたしは嬉しくなって出迎えてしまう。
「どうやら、お客さんを楽しませたのは間違い無いみたいだな」
 小鮒さんはそう言って嬉しそうな顔をした。
「良かったよ」
 わたしの言葉に静かに頷いた。
 高座から降りた小鮒さんは楽屋に向かう。そして楽屋でモニターを見ていた馬富さんと翠に先程の事を伝えた。
「ああ、そうなんだな。箱の大きさを、もっと大事にしなくてはならなかったな。俺の負けだな。でも仲入り後は負けないからな」
 馬富さんがそう言うと小鮒さんは
「ま、勝ち負けじゃないけどな。コンテスト本選出場者として、実力をちゃんと出せよ。という事さ」
 勝ち負けじゃないという言葉に翠は少なからず衝撃を受けたみたいだった。その表情を見て、わたしが
「勝負はお客さんとだって」
 この前、小鮒さんがわたしに言ってくれた言葉を口にした。
「そうか、そうだよね。何か肩に力が入ってしまっていたのね」
 翠が目を覚ましたように語ると馬富さんも
「そうだった。大事な事を忘れていたよ」
 そう言って爽やかな笑顔を見せてくれた。
 後半は馬富さんの「大工調べ」だ。今日はお白州の場面までやるので四十分は掛かる。かなり長い噺だ。この大工調べという噺は……。
 頭はちょっと弱いが腕の良い大工の与太郎を、棟梁の政五郎は何かと面倒をみていました。
「でっけえ仕事が入ったから道具箱を出せ」
 と言うと、溜めた店賃一両二分八百(一両八百の演者もいる)のカタに大家に持っていかれて無いと言います。
 八百足りないが手持ちの一両二分を持たせて大家のところへ行かせたのですが、金が足りないと追い返されて来ます。
 棟梁が出向いて頭を下げますが「タカが八百」との言い種が気に入らないと口論となり、
ついに政五郎は大家に啖呵を切ります。ついでに与太郎も締まらない啖呵を切ります。

普通は時間の関係でここで「大工調べの上(じょ)でございます」と切る場合が多いが今日は最後までです。
 遂には奉行所へ訴える騒ぎになります。
 お白州での奉行の裁きは、与太郎は不足分八百を支払い、大家は直ちに道具箱を返すこと、日延べ猶予は相成らぬ。とのお裁き。泣く泣く政五郎は大家に八百を払います。
これで終わりかと思ったら、
「ところで、大家は質株を持っておろうの?」
「ございません」
「何と質株を持たずして、他人の物品を預かり置くはご法度、罪に代えて二十日間の手間賃を与太郎に支払え」
 と、沙汰した後で、奉行は政五郎に
「ちと儲かったかな、さすが、大工は棟梁」
政五郎「へえ、調べを御覧じろ(ごろうじろ)」
 これだけの噺なのに、地口で落とす所が残念がられている。
 今日の馬富さんは棟梁の啖呵も見事で、胸のすく想いです。最後のオチも決まって、割れんばかりの拍手が湧き上がる。コンテストの時よりよい出来で、わたしは翠に
「これがコンテストだったら優勝だったね」
 そう言うと。翠は嬉しくて頷きながら涙ぐんでいた。わたしは翠の気持ちも判るので、わたしの目頭も熱くなってしまいまった。馬富さんが降りて来ると翠が飛びつくように出迎える。その二人の仕草で達成感がこちらまで伝わって来る。でも、わたしは、それをゆっくりと眺めている暇はない。すぐに小鮒さんの出囃子が鳴り出しているから。わたしの後ろから小鮒さんが高座の袖に出て来て
「じゃ行って来る。見ていてくれ」
 そう言い残して高座に出て行った。
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