第15話

文字数 2,753文字

 向島というのは東京の東にある街で江戸時代は別荘が沢山あったという。顕さんが教えてくれた。落語にも良く登場する所だそうだ。
 上野から銀座線で浅草まで行き東武線に乗り換える。この辺りになると私は全く土地勘が無いので顕さんの手を離さないようにする。浅草駅は渋谷や新宿ほどでは無いが結構人が多かった。
「大丈夫だよ。そんなに強く握らなくても」
 顕さんに言われて自分が緊張してるのが判った。恥ずかしくて頬が赤くなる。東武電車に乗り「東向島」という駅で降りた。
「この駅は以前は『玉ノ井』という名前だったんだ。聞いたこと無いかな『赤線玉ノ井』って」
 正直なところ知らなかった。
「この辺りは昔は赤線地帯でね」
「赤線というと売春の?」
「そう。だから街の名前も駅の名前も変わったんだ。何れ人々の記憶からも消える」
 わたしは、その言葉に少し悲しみを感じた。
「もしかして、顕さんの家系ってこの辺りの生まれなの?」
「母方がね。おばあちゃんは母方なんだ」
「だから噺家になったのも下町の血」
「そうじゃないけど、影響はあるかな」
 改札を抜けると駅前は狭い道が交差していた。右に歩くとすぐに広い道路に出た
「国道六号線、水戸街道だよ」
 物凄く車の量が多い。わたしは自分がこの道をバイクで走る姿を想像する。これだけ車が多いと余り快適には走れないと感じた。それでも多くのバイクが車の間を練って走っていた。車から離れて走るのが大切というのは都会も田舎も変わりないと思った。
 広い道を横断すると消防署がありその前を横切って歩いて行く。
「ここを入るんだ」
 顕さんは中華料理屋さんの脇を曲がった。わたしも続く。広い道路から一本入ったばかりなのに、もう世界が違った感じがした。狭い路地にくっつくように家が立ち並んでいる。家の前には植物が植わった鉢が並べられていて、写真で見る東京の下町の風景がそこに広がっていた。
「驚いたかい」
 顕さんは半分笑いながらわたしに問う
「少し。道一本で全く感じが違うから驚いた」
「そうだろう。これが下町なのさ」
 正直、何が下町かは良く判らなかったが、わたしは初めての街を興味深く観察していた。ここに顕さんのルーツがあるなら、それも知っておきたかったからだ。
 顕さんはさらに路地を二回曲がった。正直、後で一人で帰れと言われても帰れる自信は無くなった。
「この家だよ」
 顕さんは突き当りの家の前で止まった。小さいが格子戸の玄関の洒落た家だった。郵便を確認して鍵を開け、格子戸を開いた。
「さ、入って」
 顕さんは半身だけ入ってわたしを招き入れた。玄関は黒い御影石みたいなタイルが敷き詰められていてオシャレな感じがした。
「おじいさんが亡くなった後、相続の関係で母親の名義になったんだ。それを期にリフォームしてね」
 相続のことは良く判らないが確か顕さんのお母さんにはお姉さんが居たはずだった。
「兄弟で分けたんだね」
「俺もそれほど詳しくないけど、大した財産も無いからね。おばさんには子供が居ないから、ここを母親が相続したのもそんなことが理由だったかも知れない」
 要は姉妹と配偶者で相続したのだろうが、一件しかない家が顕さんのお母さんの名義になった事情のことを言った。
「おじゃまします」
「さあ入って」
 上がり口が一段上がっていて、御影石の上に平べったい敷石が置いてあった。その上に乗り靴を脱ぐ。
「この辺は水害が多かったから家に上がるにも一段高くなってるんだ。こうしておけば床下浸水で済むからね」
 学校で習った気がする確か「江東ゼロメートル地帯」って
 上がり口は畳二畳ほどの広さで障子が嵌められていた。それを開くと家の中が見えた。わたしは息を呑んでしまった。障子を開けた先は近代的な模様だったからだ。
 ダイニングキッチンって言うのかな? 対面式のキッチンとダイニングが一体となった空間だった。
「こっちだよ」
 顕さんに手を引かれて左に行くとそこはリビングだった。低いソファーが置いてありガラスのテーブルがありテレビも置かれていた。
「この先はバストイレだよ。この部屋の横に二階に上がる階段があるんだ。上は八畳と六畳で俺は六畳を使わせて貰っているんだ」
 そうか顕さんの部屋は二階なのかと思った。正直ちょっと覗いてみたい気がした。
「見たいな」
「え、見たいの?」
 確か実家の方だって顕さんの部屋は見ていなかった。少しおかしいだろうか?
「こっちだよ」
 顕さんは手招きをしながら脇の階段を登って行った。わたしも後に続く。上がり切った左の部屋がどうやら顕さんの部屋みたいだ。扉に手を掛けて静かに引くと部屋の中が少し見えた。
「さあ入って、良く見て欲しいね」
 部屋に入らせて貰う。顕さんがカーテンを引き、灯りを点けてくれた。部屋には着物が掛かっていてノートPCが机の上に置かれていた。机の棚には落語関係の本とCDやDVDが並べられていた。変わっていたのは和箪笥が置かれてあった事だ。
「着物を置いてあるんだ。それと襦袢や帯に足袋もね」
 そこまで見てわたしは、この部屋が落語家、古琴亭小鮒のベース基地になってるのだと理解した。
「この部屋に他人を入れたのは初めてだよ」
 その言葉の意味を考えていると抱きしめられた。お互いに唇を求め合った。その後、顕さんは今日着た着物を干して、干してあった着物を丁寧に畳んで箪笥にしまった。
「一旦着た着物は干してからしまうんだ」
 顕さんこと小鮒さんはそう言って着物をしまうと、わたしに
「何か買って来よう。ついでに近所を案内するから」
 そう言って下に降りて行った。正直、わたしはキスの続きがあるかもと思ってしまった。考えすぎなのかも知れない。

 結局近所のスーパーで惣菜を買って来た。お金は顕さんが出してくれた。でも、こうして夕方に一緒に買い物をして手を繋いで歩くのも悪くないと思った。翠が卒業したら一緒に住むというのも何か判る気がした。
 帰って来て台所で買って来たものをお皿に並べていると、顕さんが後ろから脇の下に手を入れて、わたしを後ろから抱きしめてきた。手はしっかりとわたしの胸を触ってる。
「あ、エッチ! 胸触った!」
「良い感触だったよ」
「わたしそれほど大きくないから」
「そうでも無かったよ。これだけあれば」
 男の人に胸を触られたのは生まれて初めてだった。でも今は正直嬉しい。なんでだろう。
「さご飯食べて、お風呂入って」
 お風呂に入る……まさか二人で入るのだろうか?
「二人で入れるの?」
「まさか、それほど広くない」
 それを聴いて少し安心した。明るいところで裸を見られるのは恥ずかしかったからだ。
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