第32話

文字数 3,697文字

「若手特選会」は選ばれた十名のうち、最終的に六名に絞られる。つまり今回のメンバーから二名が落とされるということらしい。未だ出ていない残りのメンバーは来月に開かれる会の出来で選考されるという。
 でも、次の回の出来が皆悪かった場合は、二回の会を総合的に判断して六名を選ぶそうだ。だから来月の会が終わらないと「特選会」のメンバーに選ばれるのかは判らないのだ。でも、わたしは小鮒さんがきっと選ばれると信じている。あれだけの出来だったのだ。あれだけの高座を見せてくれたのだ。落とされるハズはないと心から信じている。
 そうして六名が固定されれば三月に一度開かれる「若手特選会」に、お互いに交代で出ることになるのだ。交代というのは会に出るメンバーは五名で、一名は予備ということらしい。メンバーに何か不都合があった場合に出演するのだと言う。次の会は出演しなかった者から選ばれて、前の会の出演者から一名が休むということだそうだ。
 年度末の試験も終わり、大学も休みになっていた。翠は短大を卒業して卒業式の時の袴姿の自分の写真を送って来ていた。わたしは、その写真を顕さんにLINEで送った。そうしたら顕さんは楽屋で他の噺家さんや芸人に見せたそうで、後で顕さんが
「楽屋ではこんなに綺麗なのにお嫁に行っちゃうのがとても惜しい。って言っていたよ」
 そんなことを嬉しそうに言っていたが、彼女としては、馬富さんの妻になることが当面の目標なんだから仕方ないと思った。わたしは翠の晴れ姿を見て彼女なりの覚悟をそこに見て取れた。きっと翠は独身として着飾るのは、これが最後だという想いがあったのだと思う。そこに彼女の心構えの覚悟を見た気がしたのだ。翠と馬富さんの式は五月に決まった。翠はその時に自分も馬富さんも笑顔で迎えたいと考えているはずだ。だから今度の「若手特選会」の選考会には絶対負けられないと思っているはずなのだ。
 今度の会には協会からは、宝家馬富、秋風亭萩太郎、萩家銀竜、芸協からは三圓亭遊五楼、そして圓洛一門会からは三圓亭洛市の五名が出ることになっている。そしてまだ寒い三月の十五日に行われるのだ。演目も発表された。馬富さんが「厩火事」、萩太郎さんが「茶の湯」、銀竜さんは「壺算」、遊五楼さんは「猫の皿」、そして洛市さんが「百川」と決まった。どれもこれも簡単には行かない噺だと小鮒さんが言っていた。噺そのものは、わたしも寄席や落語会等で聴いたことがある。その中で馬富さんが「厩火事」を選択したのには理由があると思った。落語好きな人ならこの噺が、どのようなものなのか判ると思う。要するに仲の良い夫婦の噺なのだ。この噺を翠の前で演じる事で、わたしは馬富さんが翠との結婚。ひいては、彼女のことをどの様に思ってるのかを、告白するつもりで選んだのだと思うのだ。正面切って言うのが恥ずかしいので、自分が、全身全霊をかけて臨む高座を通じて、伝えるつもりなのだと思うのだ。
「賢治の奴、結構シャイなんだよな」
 寒い日に向島の家で、炬燵にあたりながら顕さんが、わたしに語った。
「え〜そうなんだ。そうは見えないけどね」
「ま、人は見かけによらない。ということさ」
「じゃあ、顕さんは?」
「俺は見かけ通りかな」
「じゃぁ、エッチでスケベってことね」
「おい、俺そんなにエッチか?」
「充分」
 顕さんと、そんなやり取りをしてお互いに笑ってしまった。何時か約束したツーリングは、未だ行けていない。それを思い出したのか顕さんは
「特選会の選考が終わったら結果に関わらずツーリングに行こうな。春の温泉も楽しいよ」
 そう言って、わたしにツーリングのことを思い出させてくれた。覚えていてくれたことが嬉しかった。だって、わたしは温泉のことなど正直忘れていたからだ。
『二人だけで温泉かぁ……』
 頭の中で色々想像をする。もしかしたらエッチなのはわたしかも知れない。
「どうした?」
 気がつくと目の前に顕さんの顔があった。
「あっ」
 気がつくと口を塞がれていた。やっぱり顕さんはとてもエッチだ。
「俺なら馬富より上手くやって、里菜を喜ばせてみせるさ」
 そう言って少し自慢げな表情をわたしに見せてくれた。こんな時、心の感情のひだを見せられると、お互いの距離が近いのを感じる。少し幸せな気持ちになった。
「それが本当なら見たいな」
「いいよ。じゃあ今度の連雀亭でやるよ。聴きに来てよ」
「判った! 楽しみにしてるね」
 こうして顕さんは連雀亭で「厩火事」をわたしの為にかけてくれる事になった。

 三月に入ろうかと言う時期に小鮒さんは連雀亭に連日出演することになっている。十九時から二時間で、四名の噺家が出演する夜席が二度。昼の「キャタピラー寄席」が数日出る事になっていて、「厩火事」をかけるのは夜席だと言うことだった。
 わたしは、その日東京に出て来て神田の連雀亭に座っていた。ここは良く来るので出演者も顔なじみが多い。特に知っている人がテケツに居たりする。「テケツ」というのは切符を売る所の隠語で英語の「チケット」から来てるそうだ。
「あ、涌井さん。小鮒兄さん、もう楽屋入りしてますよ」
「うん。でも今日は演じる前には楽屋には行かないつもりなんだ」
「へえ〜そうですか。じゃぁ来てるの言わない方が良いですかね?」
「うん。そうしてくれると助かります」
 わたしは、そう言って席に座った。
 小鮒さんの出番は最後。トリだ。だからそれまでに三人の高座を楽しむ。皆、結構噺に自分なりの工夫をしていて、とても楽しめた。そしていよいよトリの出番となった。「外記猿」が鳴り出す。今日小鮒さんが演じる「厩火事」という噺のストーリーは……。
 髪結いで生計を立てているお崎の亭主は、文字通り「髪結いの亭主」で、怠け者。昼間から遊び酒ばかり呑んでいて、年下の亭主とは口喧嘩が絶えない。
 しかし本当に愛想が尽き果てたわけではなく、亭主の心持ちが分からないと仲人のところに相談にやって来る。
 話を聞いた仲人は、孔子が弟子の不手際で秘蔵の白馬を火災で失ったが、そのことを咎めず、弟子たちの体を心配し弟子たちの信奉を得たと話と、瀬戸物を大事にするあまり家庭が壊れた麹町の猿(武家)の話しをする。そして目の前で夫の大事な瀬戸物を割り、どのように言うかで身の振り方を考えたらどうかとアドバイスをする。
 帰った彼女は迷った挙句、早速実施。その結果、夫は彼女の方を心配する。感動したお崎が
「そんなにあたしのことが大事かい?」
 と尋ねると亭主はあっけらかんと
「当たり前だ、お前が怪我したら明日から遊んで酒が呑めねえ」
 と下げる噺だ。この最後のオチと亭主が体の事を心配して彼女が感激するシーンが聴きどころとなっている。小鮒さんは登場して頭を下げると
「え〜トリでございます。これ今日は終わりですので、もう少しの辛抱でございます」
 そんな挨拶をして噺に入って行った。
「お前さん、いったいどうしろと言うのさ」
「だから、どうなるのかが知りたいんですよ」
「何だそりゃ」
「だって、わたしの方が六つも歳上なんですよ。今は良いけど、これが歳を取って、わたしが皺くちゃだらけになって、あの人が他所で女なんか作った事には……もう悔しいじゃありませんか」
「要するに相手の気持ちが知りたいという訳かい」
「そうなんですよ」
 小鮒さんはお崎さんの心情を中心に噺を展開して行ってる。揺れる女心の表現が上手く出来ている。顕さんいつの間に、こんな女の心持ちを理解出来たのだろうかと思った。
「思い切ってやってみな」
「思い切ってって言ったって、そりゃ体の事を心配してくれると思いますけどねぇ」
「思いますけどねぇって少しは心配なんじゃねえか」
「旦那、いっそ、これからウチに行って、『これからお崎が帰って来て茶碗を割るから必ず体の事を心配してくれ』って言って来てくださいな」
「そんな事が出来る訳ないだろう。いいからやってみな!」
 ここも上手いと思った。愛しているから、相手から嫌われたく無いという心……その辺りの心のひだの表し方が見事だと思った。そして、こんな素晴らしい人がわたしのことを愛してくれていると思うと、幸せを感じるのだった。
「明日から遊んで酒が呑めねえ」
 サゲが見事に決まって拍手が起きる。ここは三十名ほどしか入らない席だから全員が拍手をしても、それほど大きな音ではないが、それでも大きな拍手だった。
 帰りは一緒に帰ることにする。今夜は実家に帰るのだそうだ。明日の仕事が実家の方だからだ。
「とても良かったよ」
 わたしが、そう感想を言うと顕さんはわたしの肩を抱いて
「里菜が楽しそうに聴いてるので俺も嬉しくなってさ」
「何回も演じてる噺だけど毎回違うんだね」
「ああそうさ。だから俺達噺家は毎回全力で高座を務めるのさ」
 月が煌々と照っていて、わたしは噺家の彼女で良かったと実感した。そして翠が噺家の妻になりたいと、強く願うのも理解出来たのだった。
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