四十六頁 ささやき
文字数 1,564文字
夜道を進む視界の隅で、吐いた白い息が流れていくのが見える。道端の街灯は間延びした間隔で、仄かに頭上に揺れている。秋人はとめどなく前進する自分の爪先を見るように背を丸めたまま、内心歯を噛み締めた。寒さばかりでなくて、鼻の奥がつんとする。
ウロはそれ以上話してくれなかった。秋人の手を振り解いて、行ってしまった。一体何があったのかも知りたいが、何があっても秋人が離れず側にいることを、信じていないような素振りのウロが、秋人は辛かった。信頼されていない、心の弱さを見透かされているのは仕方ないとしても、秋人はウロと再会できたことが嬉しかったのだ。この感情は、ウロの過去を知ったらかき消えてしまうようなものなのだろうか。そうは思わない。
「本当に警戒心が無いね」
ぼやけていく思考が、聞き覚えのある声に覚醒する。秋人は顔を上げて身構えた。
「貴方こそ、人が弱っている時をよく見ていらっしゃる」
街灯の影に男は立っていた。他に人通りは無い。切れ長の目に青白い肌、短く刈った頭髪に猫背は、一見どこにでもいそうな中年男性だが、老練の術士である。
「清根夫人の手掛かりになるかと思ったら、あの坊やが引っ掛かるとはな」
態とらしく肩を竦めるさまもぞっとしない。秋人は意味を理解して気色を上げた。
「あの鏡は貴方のせいだな」
「君は個人的な事情も知っているようだから、見えると踏んだんだが、結局居場所は分からずじまいか」
やれやれ、とコートのポケットに手を突っ込んだまま近付いてくる。冷たいナイフのような視線が睨め上げる。
「媒介しただけだよ。私が見た限り、清根夫人は会島邸で行われる会合の内容には一切関知していない」
「自分でも見られるのに、何で俺たちにも見せようとするんですか」
鼠狼は秋人の顔を覗いたまま、呆れた溜め息を吐いた。
「術士によって見えるものが違うって、教わらなかったの? ……いや事実は一つで、石はそれを記録しているに過ぎないが、それぞれの術士による選択、解釈は変わってくる」
何を見て、どう読むか。記録をつなぎ合わせて、記憶として構成するのは術士の役目だが、主観を完全に排除することはできない。
「清根さんはメイデンと三上の談合を知らない?」
「そう。彼女は館の主人としてのステイタスにこそ固執しているが、法的な問題には巻き込まれたくないと思っている」
「じゃあ、絵を取り替えたことに関与していない?」
混乱する秋人を尻目に、鼠狼は白い顎を撫ぜた。
「……または絵を取り替えた目的は、会合の内容を隠すためではない」
「そんな、タイミング悪すぎでしょう」
「警察に絵を没収されたくない、ナイツに絵を見られたくない、多分それが理由だね。単純に」
「絵が持っている別の記憶のため……?」
「君ねえ」
白く冷たい指先が伸びてきて、秋人の頬を思い切りツネった。
「いててて!?」
「そのために君に清根夫人の鏡を見せたんだからね、しっかりして欲しいなあ」
作りものの笑顔を貼り付けた顔が迫って、秋人は悲鳴を呑んで身体を引く。色白で線の細く、人の印象に残りにくい容貌をしていながら、触れたら噛み砕かれそうな凶暴な本性を秘めていることは、よく知っていた。街灯の朧ろな光を映して、眇められた瞳孔が銀に艶めいている。薄い唇を舐める舌が、血を啜るように紅い。
「守って見せるがいいよ、君の大事なものをね」
それで強くなれると言うならね。失うことを、恐れないほどに。手が離れていき、くたびれたジャケットを翻して、男は行ってしまった。闇に靴音が紛れて消えてしまうと、秋人は腰が抜けそうになった。辛うじて膝を押さえて踏みとどまるが、しばらく動けない。ラーメン、と乾き切った口の中で唱える。あったかいラーメンを、ウロと一緒に食べたい。二人の方が、もっと良いアイデアだって、思いつくはずだから。
ウロはそれ以上話してくれなかった。秋人の手を振り解いて、行ってしまった。一体何があったのかも知りたいが、何があっても秋人が離れず側にいることを、信じていないような素振りのウロが、秋人は辛かった。信頼されていない、心の弱さを見透かされているのは仕方ないとしても、秋人はウロと再会できたことが嬉しかったのだ。この感情は、ウロの過去を知ったらかき消えてしまうようなものなのだろうか。そうは思わない。
「本当に警戒心が無いね」
ぼやけていく思考が、聞き覚えのある声に覚醒する。秋人は顔を上げて身構えた。
「貴方こそ、人が弱っている時をよく見ていらっしゃる」
街灯の影に男は立っていた。他に人通りは無い。切れ長の目に青白い肌、短く刈った頭髪に猫背は、一見どこにでもいそうな中年男性だが、老練の術士である。
「清根夫人の手掛かりになるかと思ったら、あの坊やが引っ掛かるとはな」
態とらしく肩を竦めるさまもぞっとしない。秋人は意味を理解して気色を上げた。
「あの鏡は貴方のせいだな」
「君は個人的な事情も知っているようだから、見えると踏んだんだが、結局居場所は分からずじまいか」
やれやれ、とコートのポケットに手を突っ込んだまま近付いてくる。冷たいナイフのような視線が睨め上げる。
「媒介しただけだよ。私が見た限り、清根夫人は会島邸で行われる会合の内容には一切関知していない」
「自分でも見られるのに、何で俺たちにも見せようとするんですか」
鼠狼は秋人の顔を覗いたまま、呆れた溜め息を吐いた。
「術士によって見えるものが違うって、教わらなかったの? ……いや事実は一つで、石はそれを記録しているに過ぎないが、それぞれの術士による選択、解釈は変わってくる」
何を見て、どう読むか。記録をつなぎ合わせて、記憶として構成するのは術士の役目だが、主観を完全に排除することはできない。
「清根さんはメイデンと三上の談合を知らない?」
「そう。彼女は館の主人としてのステイタスにこそ固執しているが、法的な問題には巻き込まれたくないと思っている」
「じゃあ、絵を取り替えたことに関与していない?」
混乱する秋人を尻目に、鼠狼は白い顎を撫ぜた。
「……または絵を取り替えた目的は、会合の内容を隠すためではない」
「そんな、タイミング悪すぎでしょう」
「警察に絵を没収されたくない、ナイツに絵を見られたくない、多分それが理由だね。単純に」
「絵が持っている別の記憶のため……?」
「君ねえ」
白く冷たい指先が伸びてきて、秋人の頬を思い切りツネった。
「いててて!?」
「そのために君に清根夫人の鏡を見せたんだからね、しっかりして欲しいなあ」
作りものの笑顔を貼り付けた顔が迫って、秋人は悲鳴を呑んで身体を引く。色白で線の細く、人の印象に残りにくい容貌をしていながら、触れたら噛み砕かれそうな凶暴な本性を秘めていることは、よく知っていた。街灯の朧ろな光を映して、眇められた瞳孔が銀に艶めいている。薄い唇を舐める舌が、血を啜るように紅い。
「守って見せるがいいよ、君の大事なものをね」
それで強くなれると言うならね。失うことを、恐れないほどに。手が離れていき、くたびれたジャケットを翻して、男は行ってしまった。闇に靴音が紛れて消えてしまうと、秋人は腰が抜けそうになった。辛うじて膝を押さえて踏みとどまるが、しばらく動けない。ラーメン、と乾き切った口の中で唱える。あったかいラーメンを、ウロと一緒に食べたい。二人の方が、もっと良いアイデアだって、思いつくはずだから。