第22話 戻る場所

文字数 3,922文字

第一章 東京の日常

楽しかった旅行も終わり、俺たちは東京に戻った。
帰りの飛行機は家族連れの夏休み客で混み合っていた。

隣りの席に座った赤ちゃんを抱えた母親が、泣き止まない子供に手こずっていた。火がついたように泣きじゃくる顔は真っ赤に染まり、まるでこれから起きる人生の悲しみや喜びの涙の半分以上を放出させる勢いだ。

隣に座っていたアダンがニコリと笑って、赤ちゃんの顔を覗き込んだ。暫くするとアダンの丸い目を見て落ち着いたのか、赤ちゃんはコロコロと笑いはじめた。

母親はありがとうとお礼を言って、ようやく大人しくなった我が子を抱えてグッタリとシートに身を沈めた。

「椎名、少し焼けたな。何だか身体が引き締まってカッコいいぞ」
アダンはふわりと笑った。

いつもこうやって、周りを落ち着かせる雰囲気をまとっている恋人を、俺は少し自慢に思う反面、この優しさは俺にだけ向けて欲しいと願う時がある。

赤ちゃんに嫉妬してどうすると思うが、俺はかなり狭量だと自覚している。要はアダンを独占したいんだ。

アダンはアフっとあくびをして、俺の肩にもたれて目を閉じた。
膝掛けの下からそっと俺の手を繋ぎ、指に自分の指を絡めながら一本ずつ優しく撫でる。
その少しイヤラしさを感じる手つきに、俺は抱き寄せたい衝動を押し殺して小悪魔な恋人を睨んだ。

全くお構いなしに幸せそうに目を閉じる恋人を見て、俺は控えめなため息をついた。


「イチコ、ただいま!いい子にしてたか?」

イチコが尋常ではない喜び方でアダンと俺の足元をクルクル周り、バタンと床に倒れてお腹を見せている。やっぱり寂しかったようだ。

俺たちはイチコの気が済むまでお迎えの舞に付き合った。

ペットシッターさんの置き手紙には、ご飯もトイレも問題なかったこと、少し遊びの時間を儲けて運動不足にならないようにしたとのコメントが書いてあった。

明日は一日休みを取っている。そのため、今夜は荷物の片付けはやめて、移動で疲れた身体を癒してゆっくり休むことにした。

「椎名、お風呂沸かしたぞ!先に入ってきて。俺は洗濯物を洗濯機にセットしたりしておくよ」

俺はアダンの好意に甘えて、先に風呂にゆっくり浸かった。この家の浴槽は大きく、大柄な俺でもゆったりと足を伸ばすことができる。
窓辺は庭の木が生茂り、緑の空間が広がる。まるで森の中にいるかのような時間だ。

アダンは俺が越してきてから、メンタル対策だと風呂場の電気を、仄暗く蝋燭の明かりのような照明に切り替えることができるようにしてくれた。
お陰でバスタブに浸かる時は、仄暗い空間で静かに瞑想のような時間を持つことができる。

俺は楽しかった旅行をぼんやりと思い返していた。日常の仕事などのストレスは、知らない間に身体や心に蓄積する。
俺はその対処が下手なため、アダンから不調が出る前に休んだり気分転換をするように言われている。

アダンはぼんやりとしながらも、付き合った当初の俺のメンタルの弱さを医師として把握して、あれからずっと気にかけて食事や生活に工夫をしてくれている。

俺は幸せものだな…
プロポーズの頭出しを今回出来て良かった。
もう少し付き合ってからとは思ったが、アダン以上に俺を支えて愛してくれる人と出会えるとも思えないし、現れたとしても俺はアダンがいい。

俺は自分の幸福に少し酔いしれて、窓の外を再びぼんやりと眺めた。


「上がった?ゆっくりできたか?3階にビールとお茶置いておいたから、飲んでくれ。
小腹空いたかもと思って買ってきたタコスも温めてあるから食べてて」

アダンは明日片付ける荷物をテキパキとほぼ片付け終わったようで、ふぅと息を吐いてお風呂入ってくるとバスルームへ向かった。

いつもは2階で眠るイチコが、3階についてきた。よほど寂しかったのだろう。

大きなソファで俺の横にピタリとくっついて目を閉じている。俺はビールを一杯飲み干し、ふぅとひと息ついた。

西側の窓には東京の明るい夜空が広がる。星はほぼ見えない。大きな月だけが沖縄と一緒だ。

「お待たせ。俺もビール飲もうかな」

俺はアダンにビールを注いだ。そして2人で改めてお疲れと乾杯をした。

髪を濡らしたまま、首にタオルを巻いて、お気に入りの白いシルクのパジャマを着たアダンは、お腹が空いたとタコスを頬張っている。

日に焼けなかったのか白い肌はそのままで、俺の話を楽しそうに頷きながら聞いている。
時折り、イチコが甘えるように俺の膝に登ってくる。

俺は自宅での安堵感に、心が解けていくのをぼんやりと感じていた。

「タコス付いてるぞ」

俺はアダンの口元をティシュで拭いた。
サンキュと笑い、俺の頬にキスをする。

思わず肩を抱き寄せて、楽しかった旅の思い出をしばらく話し合った。

月が空の真上にきた頃、俺はイチコを2階に寝かせて、うとうとし始めたアダンを抱えてベッドに入った。

ドライヤーをあてないアダンの髪は自然なカールが出てフワリとハネが出ている。
その髪をクシャリと胸に抱き寄せて、俺はそっと目を閉じた。

ああ、日常に戻ってきたな。戻る場所があるのは、こんなに幸せなんだな。
規則的な寝息が、俺の耳に心地よく響いた。


第ニ章 未来の憂い

俺は夢を見た。
飛行機で見かけたら親子が頭から離れない。
つぶらな瞳で可愛かった。1人の時には思いもしなかった家族のあり方をこの旅の中で感じてしまった。

椎名も赤ちゃん、子供を持つ未来を選択するチャンスはまだある。俺にもだ。

でも椎名と離れることなんて想像したくない。
何が一番2人にとって良い選択なのか?
俺は夢の中でグルグルとそんな思いに悩まされた。今までも浮かんでは消えた思いだ。

明日、話してみよう。いや、プロポーズを受けるまでじっくり考えても遅くない。焦ることはないし、焦っても答えは出ない。何を選択するかが重要なんだ。

そう思って重い瞳を開けることなく、俺は夢の世界に沈んでいった。

・・・・・

俺は隣で動く気配を感じて目を開けた。
「せいいち、起きたの?今何時?」

「ん?まだ3時だ。起こして悪かったな。イチコの鳴き声が聞こえて、様子見てきた。水飲ませておいたよ」

そう言って俺の頭を撫でた。

「何か考え事してるのか?帰ってきてから少し元気ないからさ、疲れたのか?」

ううん、と首を振ってみたものの、椎名は俺の目をじっと見つめる。

俺の横顔を見て、どこか少し様子がおかしく感じたのだろう。表情が硬いのがバレたか。

「アダン、話してみて。お前、どこか遠い目をしていて悲しそうに見える」

俺は椎名の方を向き、ゆっくりと抱きつくと、椎名も動きに合わせて、抱きしめる態勢になった。

「せいいち、ごめんね…」

「どうして謝る?」
椎名は尋ねた。

俺は暫く沈黙したが、椎名の腕の中でゆっくりと口を開き始めた。

「今日、赤ちゃん達を見てて、思ったんだ。子供っていいなって」

「うん」
椎名は俺の頭を撫でながら、話を聞く。

「両親が共に仲が良くて、愛し合ってあの子たちが生まれたんだって思ったら、自分たちの子供がいるだけで、自分たちが愛し合ってた証明になるんだなって、思ったんだ」

椎名はこの話で、俺が何を考えているかを察したようだ。

「いつか、僕たちもよぼよぼのおじいちゃんになって、いつかはこの世からいなくなる。そしたら子供って、自分たちが愛し合ってたことの証になるし、また、孫やその子孫たちがいることで、例えどんなに忘れ去られても、その子たちがいることで、永遠に愛し合ってた証明になるんだよな…

俺、付き合う時に、たかだか100年しか生きられない身体だから、自分の好きな生き方を選択って言ったけど、俺は良くても椎名はどうかなって思ってさ。お前カッコいいし、子供好きだしさ」

俺は何だか泣きそうになった。

「だから…」

「アダン、それ以上、話さなくていいよ」

椎名は俺の話を止めた。とても、難しいことで、なんと言っていいか解らないのだろう。

「アダン、ここで俺が何も言えずにいては、お前を不安にさせたままになってしまうな。お前のことだ、何か良からぬことを考えて、ある日突然、別れ話を切り出されるのもイヤだし。俺はそれだけはどうしても耐えられないよ」

そうして、ふぅとひと息ついて話しはじめた。

「俺はね、アダンと一緒にいられて、嬉しいし、幸せだ。それはどんなことがあっても変わらない」

「うん、俺も椎名と一緒にいれて、幸せだよ」

「でも、俺達には、子供が作れない」

「うん」

「確かに子供が残せたら、素晴らしいことだ。だけど、それは愛あってのことだ。愛があるから、そう思えるんだ。
でも、作れないからって、俺はアダン以外を選ぶつもりはない。俺はお前だから、好きになったんだ。生涯お前と共にいたいって思った」

「うん」

「愛のない結婚はしたくない。子孫を残すための結婚はしたくない」

椎名は、ギュッと俺を抱きしめる。

「これが俺の気持ち」

「うん」

「アダンが信じ切れていないのは俺自身ではなく、未来に起きうるであろうことに怯えているんだよな。俺さ、メンタル弱いけど、アダンのお陰で少し強くなった。考え方を変えたんだよ。
不確実で手に入らない事は、悩むのをやめた。そもそも、あれもこれも手に入れることなんてできない。一番手を離していけないものだけ、死んでも手を離さない。そう考えてる」

椎名は、俺の背中に回している手をぎゅっと強めた。そして祈るように、俺の額に口づけを落とした。

何だか心が解けていくようだ。
俺は安心して、思わず笑った。

それから他愛のない話をして、眠くなる頃までお互いの体温を求めあって、抱き合って寝った。

俺が手を離してはいけないもの。
今、目の前にあるんだよな。

朝日が登るまで、もう少し寝よう。この愛おしい恋人と。
俺は大きな胸に身体を預け、再び瞳を閉じた。
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登場人物紹介

⑴椎名 晴一  しいな せいいち

年齢;31歳

身長;181センチ

特徴;切長の目、黒髪ショート

職業;エンジニアリンング部

会社;大手AI企業のミソトラルの社員

性格;正義感が強く優しい、真面目

特技;運動全般、特にマラソン

外見;細身の筋肉質、薄めイケメン

その他;腹違いの弟

⑵奈木 アダン  ないき あだん

年齢;31歳

身長;174センチ

特徴;ヘーゼルカラー瞳、栗毛の癖毛

職業;精神科医 兼 データアナリスト

会社;公務員 セキュリティ庁情報部

性格;おっとり、少しコミュ障

特技;頭脳明晰、得意分野に能力発揮

外見;ボサボサ髪で無頓着、唇が厚め

その他;曽祖父がフランス人、姉1人

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