第15話 思わぬ提案

文字数 4,876文字

第一章 セキュリティ庁の一日
第一節 退職の意志

「退職の気持ちは変わらないのか?」

セキュリティ庁の上司である尾崎部長が残念そうに言った。周りを慮っ(おもんばか)てか、会議室で2人で話している。
尾崎部長は先月に異動してきたエリート部長だが、そんな態度は一切見せない切れ者だと思っている。

俺ははっきりと退職の意志を伝えた。

「安西君の件で、君に迷惑をかけたのは分かっている。ただ、3年間もミソトラルに出向してもらい、あちらでの評価も高いんだ。
今回、本来は本部の良いポジションをと思っていたんだが、安西議員への配慮もあり申し訳ない。
いったんセンター勤務で新たなスキルを身につけてもらい、改めて本部の幹部候補を考えているんだが、もう少し検討してもらえないか?」

俺はセキュリティセンターでの24時間勤務は無理であること、センターでの深夜激務などは望んでいないことをはっきりと伝えた。
そして、医師としての仕事に比重を起きたいことを明確に伝えた。

尾崎部長は公務員らしい、事なかれ主義のタイプではあるが、飄々としている反面、社内での影響力は大きく、控えめながら実力のある上司だ。
少し考えて、尾崎部長は提案をしてきた。

「奈木君、君の実力と人物は私も高く評価している。とは言え、ここは政治も複雑に絡む駆け引きの世界でもある。安西君の事は済まなかった。彼と距離をとる配慮は、今度こそ守ろう。

そこでだが、君にはセキュリティーセンター勤務はそのままで、二直勤務のオペレーターの産業医としての健康管理をメインにしてもらい、出勤は平日の定時内の2日の医局勤務だけはどうだろう?
それであれば、出勤は今と同じ本庁の医局になり、センターへの出勤もない。

それと、企画的なサイバー攻撃などのインシデント対策は、基本は自宅からのリモートでの勤務で対応してもらう。攻撃の新手口などは自宅で分析可能だし、自宅での業務環境の構築は私が手配する。

また、インシデント対策の件は、引き続きミソトラル社に業務委託しているので、今後もミソトラル社と業務を行うこととなる。
つまり、実質的にミソトラル社に半分くらい足を突っ込む形だな。どうかな?」

願ってもいない提案だ。
センター出勤がなく、センターの社員の健康管理は医師として行うことができる。
更に基本は在宅勤務で、出勤することがあるとしたら、椎名の会社のミソトラル社だ。知り合いも多く、やり易い。

俺は、返事を明日にすると伝え、尾崎部長へ配慮頂いたお礼をして頭を下げた。

「いや、君は本当に優秀だし、それに人柄も良い。こんな殺伐とした本庁だからこそ、君のようなタイプは今後必要になってくるんだよ。
それに、今君に辞められたら、ミソトラル社と関係が悪くなりそうだしな。あちらの大川専務が君をとても気に入っていてね、くれぐれもよろしくと釘を刺されている。
もっと早く言うべきだったが、私も裏で色々動いていて遅くなってすまない。是非、前向きに検討して欲しい」

退職の意向が、思わぬ展開となった。
以前の上司ならこの提案は無理だったろう。上司が尾崎部長に変わったことで風向きが変わったと言える。


俺は椎名の携帯に手短かに用件を連絡し、帰りにミソトラル社の近くのカフェで落ち合うことにした。
椎名はメールで、とても喜んでくれた。

俺も在宅勤務が多ければ、椎名とイチコとの時間も大切にできる。俺は2人のことを思い浮かべて、自然と足取りが軽くなった。


第ニ節 久しぶりの邂逅

「奈木、帰任してから初めてだな。元気だったか?」

同期の花本が声をかけてきた。名前の通り華やかな見た目で、女子社員に人気のあるエリートだ。

「おう、お陰様で。花本、本庁は相変わらずだな。最新のセキュリティとは名ばかりか?この前もサイバー攻撃受けてたよな。大丈夫かよ」

俺はチクリと言ってやった。
お役所って所は、仕事を委託ばかりしてて、頭でっかちで、いざとなったら手足を動かせる人間が少ない。

「そう言うなって、奈木。お前は外で3年も自由な空気吸ってきたからそんなこと言えるんだよ。
本庁のおじ様達とのやり取りで、俺は精気も吸い取られているんだぜ。
なっ、今度飲みに行かないか?たまには同期でゆっくり話そうぜ」

俺は花本が割と好きだ。正直な奴で、エリートだが計算高くない。俺とは本音で話せる数少ない同僚だ。来週にでもと約束をして、花本と別れた。

去り際、花本にからかわれた。

「奈木さ、なんか小洒落たよな。好きな人でもできたか?カッコよくなって、女子が、と言うかお前の場合は男子もざわめいているぞ。
まぁ、俺から見たらカッコいいと言うか、可愛いが正しいけどな。どっちでも良いけど、お幸せに!」

ふん、面白い奴だ。
俺はようやくセキュリティ庁に帰任した実感がわいてきた。

それにしても、早く定時にならないかな。椎名に早く会って話したいと思った。家でも良いけど、早く顔を見たい。

俺もたいがい重たい男だ。すっかり恋に溺れている自分を改めて自覚した。


第ニ章 今後の相談
第一節 明日の返事

椎名は俺を見て軽く手を上げた。
その笑顔と切れ長の綺麗な瞳に見惚れ、俺は一瞬遅れて笑顔で手を振った。

「忙しいところごめんな。定時過ぎてもまだ仕事だったろ?この後、オフィスに戻るのか?」

俺は定時で上がる真面目な公務員だが、椎名は多忙なエンジニアだ。俺の都合で中抜けさせてしまい、申し訳ない。

「いや、今日は定退だ。うちの会社も働き方改革でさ、最近うるさいんだよ。
お陰様でアダンとデート出来るからラッキーだな」

ウインクして微笑む顔は、眩しすぎて直視できない。俺はメニューを見て気を逸らせた。

「ここさ、いちごパフ美味しいみたいだぞ。谷藤さん言ってた。アダン、好きだろ?これにしたら?」

俺はプリンアラモードにすると、椎名まで甘いものを頼んだ。甘いものに合わせ、2人で紅茶も選ぶ。
沢山あってわからないので椎名に任せた。

しばらくして出てきたパフェとプリンは見た目も豪華で、フルーツがたくさん乗ってキラキラしていた。考えたら、こんな女子的なカフェデートは初めてかもしれない。

俺は今日の趣旨を若干忘れ、パフェの写真を撮ってしばらく美味しく食べてしまった。

その様子を微笑んで眺めていた椎名は、俺のパフェをひと口スプーンで取って食べながら聞いてきた。

「アダン、良かったな。やっぱり会社はお前を手放したくなくて、上が動いていたんだな。
どうするんだ、この好条件だとしばらく続けるのも悪くないと思うけど、アダンはどう考えているんだ?」

俺は、いったんパフェのスプーンを置いた。

「俺、椎名との時間をこれまで通り確保出来るから、今回の異動は悪くないと思っている。
上司も尾崎さんになったことで、前の部長より信用できそうだ。
センターの社員は、24時間の交代勤務で確かに疲弊しているし、労務環境の改善にも正直言って興味あるし、続けてみようかと気持ちが変わったよ。良いかな?」

椎名はもちろん!と言って、俺の頭をワシワシ撫でてくれた。

「大川専務が、結構動いてくれたみたいだぞ。ミソトラルとしても、お前とまた仕事が出来るから嬉しいと言っていた。
大学の医局はまた今度考えよう。医師として、現場の社員をもっと救ってから考えても遅くないしさ」

そして周りを見渡して、俺の手のひらにチュッとキスをした。そして言った。

「アダンの在宅勤務とミソトラル勤務、めっちゃ嬉しいよ。また同僚としても、よろしくな」

俺は耳まで赤くなって、とりあえず頷いた。
俺は今だに外出先ではコミュ障気味となり、椎名のスマートさに照れてしまうところがある。

照れ隠しにまたパフェを食べると、不意に椎名が自分のプリンを口に入れてくれた。

何だか幸せだな、と美味しい紅茶を飲みながらカフェのひと時を楽しんだ。


第ニ節 明日への希望

カフェの後、簡単に夕飯を済ませて俺たちは帰宅した。

アダンは本来なら、今日は退職を申し出て少し気落ちして帰ってくると思ったので、俺は少し胸を撫で下ろした。

アダンは駆け寄ってきたイチコにご飯をあげて、小さなベットに寝かしつけている。

「今日はありがとう。退職のつもりが思わぬ継続になったけど、来月からセンターへ異動する辞令は変わらないので、引き続きよろしくな。明日、正式に部長へ返事するよ」

アダンは俺に礼を言った。俺はアダンの選択に任せただけだったが、大川専務に事前に帰任後のアダンの配属について相談していたのはよかった。

大川専務は、アダンの異動は3年間のミソトラル社の経験が考慮されていないと、本庁まで出向いて話し合ったそうだ。可能であれば、うちの会社で採用したいとまで言ったらしい。頼もしい上司だ。

「晴一、先にお風呂ありがとう。お前も入ってこいよ。上がったらビール飲もうか。今日は暑かったし、少しゆっくりして早めに寝よう」

アダンの顔がほころんでいる。安心したんだな。退職は勇気のいる事だけに、今日は気が張っていたんだろう。俺はアダンの肩にポンと手を置いて、ビールありがとうと、バスルームに向かった。

・・・・・

3階の照明は予想以上に部屋に馴染んでいる。
優しい灯りが、3階の空間に入った途端に俺を癒してくれる気がする。

窓を少し開けて夜風を取り込みながら、アダンはビールをグラスに注いでいた。

俺のお気に入りのレコードが流れている。
アンティークの棚のステンドグラスのほのかな灯りが、少しレトロな雰囲気を醸し出していた。

「風呂上がったよ。ビールありがとう。あれ?今日のビール、ベルギーのトラピスト修道院のだな、これ美味しいよな!」

俺は普段なかなか飲めない好みのビールを、ストックしてくれたことが嬉しくて、思わずアダンを抱きしめた。

ふはは、とアダンは可愛く笑って、俺の頬にキスをしてくれた。そして乾杯しようと、コップを俺に渡してくれた。

ビールは芳醇で果実味があり、熟成された赤ワインのような複雑なアロマがある。日本のビールとはまた違う美味しさに、風呂上がりの身体が癒されていくようだ。

「でもさ、なんで修道院でビールなんだ?」
アダンは美味しそうに飲みながら俺に聞いてきた。

「中世のヨーロッパは伝染病が流行っただろ?それで生水が飲用に適さなかったから、水の代わりに栄養価が高く安全な飲み物として、ビールが重宝されたんだ。
もともと『ビールは液体のパン』という考えがキリスト教にあって、それで修道院で盛んにビールが作られたって話だ」

「晴一、詳しいな!そうなんだ、液体のパンか。俺、患者さんにはビールは飲みすぎると痛風になるし、太るぞっていつも言ってた。健康な人には栄養価高いって勧めておくよ」

たまに医者目線になるアダンは、パフェも食べたし太るかなと言いながら、ビールを改めて美味しそうに飲んでいる。

俺は隣に座る恋人をチラリと眺めた。
太るとは縁遠い細身の身体で、少し伸びた髪をピンで止めている。白い顔とビールでほのかに蒸気した横顔が綺麗だ。

ビールを飲み干したのを見て、俺はアダンの顎に手を添えて、ビールが香る柔らかく赤い唇を貪った。

俺のパジャマを握りしめながら、一生懸命にキスを返してくる恋人が愛おしい。

窓を閉め、俺たちはそのままベッドに入り、しばらく横になりながらキスを楽しんだ。

ふと,アダンが枕元のHomePodに「おやすみ」と話しかけた。すると、3階の照明が、枕元のサイドランプ以外すべて消えた。

「HomePodをプログラムしてみたんだ。いくつか話しかけるパターンで、電化製品のつき方が変わるんだよ。エアコンとかも自動設定だぞ」

さすが、俺の可愛い恋人は何でも出来る。
照明を俺が買った時からプログラムして、既に設定を終えていたらしい。

「やっぱり俺、アダンがいないと何もできないや。プログラムもたまに教えてくれよ」

アダンは破顔して、それはお前の専門だと、またキスをしてきた。

俺たちは平日の夜にじゃれあって、深く愛し合った。笑い声がいつの間にか、お互いの吐息と鳴き声に変わる。

気づけば月は西に傾き、ベッドカーテンを月が美しく白く照らしている。

優しい時間が、今夜もゆっくりと過ぎていった。
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登場人物紹介

⑴椎名 晴一  しいな せいいち

年齢;31歳

身長;181センチ

特徴;切長の目、黒髪ショート

職業;エンジニアリンング部

会社;大手AI企業のミソトラルの社員

性格;正義感が強く優しい、真面目

特技;運動全般、特にマラソン

外見;細身の筋肉質、薄めイケメン

その他;腹違いの弟

⑵奈木 アダン  ないき あだん

年齢;31歳

身長;174センチ

特徴;ヘーゼルカラー瞳、栗毛の癖毛

職業;精神科医 兼 データアナリスト

会社;公務員 セキュリティ庁情報部

性格;おっとり、少しコミュ障

特技;頭脳明晰、得意分野に能力発揮

外見;ボサボサ髪で無頓着、唇が厚め

その他;曽祖父がフランス人、姉1人

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