文字数 5,947文字

 チャイムの音で目が覚めた。
 目脂だらけの睫毛を擦って玄関に立つと、ドアスコープの向こうにボーダーのシャツを着た角刈りの男が、荷物を持って立っていた。
「宅急便です。ここにサインお願いします」
 汗だくの男にペンを渡され、言われるままに名前を書いた。荷物はホールケーキが入るくらいの箱で、差出人はやはり原田淳子、伝票の備考欄には〈割れ物注意〉とある。
「毎度どうも」
 男は小走りに去って行き、重さ一キロぐらいの荷物が僕の手の中に残された。
 心当たりが、まるでない。
 割れ物と言う事は、瓶か何かに入った物だろうか。お中元によくある、世界のビール。そう言った物を想像したが、お中元なんて貰った事も貰う予定もないし、そもそもビールにしては軽過ぎる。箱の形状から見て、もしかすると、やはり誰かが手作りケーキかフルーツか何かを送って来たのではないかと考えたが、その誰かがまるで思い浮かばないし、その場合の注意書きは割れ物ではなく、ナマものになるだろう。
 部屋の中に戻りながら、引き千切るように白い包みを破った。包みの中から、また光沢のある白い紙の箱が現れ、その箱には同じ紙質の上蓋が付いている。
 蓋を開けた。
 御挨拶
 そう印刷された和紙の手紙が一通、一番上に乗っている。
 手紙を手に取り、その下にある物を覗く。梱包用のエアキャップで包まれたそれは、中身がよく見えないが、少なくともケーキではなさそうだ。
 香典返しか。
 そう思ったのは、手紙の表が薄墨風の毛筆体だったからだ。そう言えばヨシユキが死んでから、つまり僕の誕生日から、四十九日を過ぎた頃だ。女の子からのプレゼントではない事に少しがっかりしたが、合点が行った。原田淳子はヨシユキのお袋だろう。
 それにしても荷が大きい。不審に思いつつ、僕は取り敢えず手紙を開いた。
 ぞっとした。
 印刷された手紙の最後に、追伸として、手書きの文字が埋まっている。写植よりも達筆にすら感じる几帳面な文字に、何か怨念めいた物を感じた。
 何はともあれ、読んでみる。

謹啓
この度 亡息子良幸永眠の折りは御多用中にもかかわらず早速御丁重な御弔問御厚志まで賜りまして深く御礼申し上げます
突然の余りの悲しみに只只茫然と致すばかりでございましたが漸く心の平静を取り戻しつつあります
三十年という誠に短い一生ではございましたが皆々様からの御友情に恵まれました事がせめてもの慰めとなって居ります
あらためて生前の御厚誼に心から御礼申し上げます
この程お陰を以ちまして四十九日の法要を滞りなく相済ませました
供養のしるしまでに心ばかりの品をお届け致しましたのでご受納下さいます様お願い申し上げます
謹白
喪主 原田淳子
追伸
他に同封致しました物は故人の意思により遠藤様にお送りするよう遺言された物です
このような物を郵送にてお送りするのは大変失礼かと存じますがそれも含めて故人の意思でありますのでお納め下さいます様何卒お願い申し上げます
申し訳ございません
本当に申し訳ございません
書中を以って失礼ながら謹んでご挨拶申し上げます

 取乱しながら訃報を伝えた彼女の声と、葬儀での憔悴した顔を思い出し、僕は少し憂鬱になった。喪主が母親だと言う事は、ヨシユキは片親だったのだろう。奴は確か一人っ子だと言っていたから、彼女の家族は誰もいなくなってしまったかも知れない。
 ところで同封の物って一体何だろう。遺言って何だ? 遺言までして僕に送りたかった失礼な物って……。
 僕は箱の中身を取り出した。全体をぐるぐる巻きに包んでいるエアキャップのシートを剥がすと、中は三つに分かれている。
 一番上の箱。熨斗の付いた蓋を開けると、白と薄いブルーのストライプ柄のダサいハンカチが入っていた。これが普通の香典返しだろう。失礼な物ではない。貰い慣れない物だからよくは分からないが、至って無難な香典返しに見える。
 残りの二つは、それぞれが更に別のエアキャップで包まれている。小さい方の包みは十センチ強の正方形をしていて、若干中身が透けて見える。透明プラスチックのケースに入った円盤。CDかDVDのどちらかだ。梱包を解くと、盤面にマジックで〈ミチオくんへ♥〉と書いてある。DVDだ。一体、何の? ケースは紙テープで封がしてあり、〈本人以外開封禁止〉と書かれている。封を開けた形跡は、ないように見える。
 何だか無性に嫌な予感がした。
 すぐにでも中身を確認したかったが、もう一つの包みも気になった。もしヨシユキの母親が注意書きを守ってDVDを観ていないとすると、失礼な物は、多分こっちだ。
 高さ十センチ弱の円筒形をした、もう一つの包み。梱包を解くと、寸足らずの黒い茶筒が現れた。一瞬、これも香典返しの日本茶かと思ったが、茶筒にしては小さ過ぎ、重い。よく見ると真鍮の削り出しで出来ていて、黒塗りのドイツ車のように威圧的な高級感がある。蓋を開けようと引っ張ってみたが、茶筒とは構造が違うようで、容易には抜けない。試しに捻ってみると、それは小さく音を発て、弛んだ。
 螺子式になった蓋が外れ、そっと中身を覗く。
 布。
 塗装されていない筒の内側は無垢の真鍮が黄色く輝いていて、その中に白い布が見える。布には金色の紐が付いていて、摘まみ上げると京都の土産屋にあるような小さい巾着袋が出て来た。袋は白い絹地に生成りの糸で花模様の刺繍がしてあり、手の込んだ細工に何かただならぬ物を感じた。お守りの中身を覗く時のように変な気持ちがする。見てはいけない物を見るような、妙な気分だ。 
 好奇心に勝てず金色の紐を弛めた。中身が見えた瞬間、僕は低く悲鳴を上げた。
「うわぁっ」
 骨。
「何だこれっ」
 骨だ。
 巾着袋の中には、恐らくヨシユキのものであろう遺骨の欠片が七八個入っていた。僕は慌てて巾着袋の口を縛り、筒の中に戻した。
 何考えてんだ……、あいつ……。
 異常だ。
 会った事もない男の家に、遺言までして、自分の骨を送り付ける奴が、いるか?

このような物を郵送にてお送りするのは大変失礼かと存じますがそれも含めて故人の意思でありますのでお納め下さいます様何卒お願い申し上げます

 失礼な物は、ヨシユキの骨だった。
「どうすんだよ……これ」
 力一杯蓋を閉め、呼吸を整えた。
 今度はDVDの中身が、気になって仕方がない。
〈ミチオくんへ♥〉
 僕へ? 何を?
 観てはいけない気がした。途轍もなく不吉な予感がする。僕は冷蔵庫に走り寄り、ペットボトルの水を一気飲みした。変な所に水が入り、涙が出る程咳をした。
 気になる。
 無視しようとしても、どうしても視線がそれに向かってしまう。
〈ミチオくんへ♥〉
 僕は四つん這いでテレビラックに近付き、DVDをデッキに突っ込んだ。背骨の真上を、冷たい汗が流れて行く。小さくモーター音が鳴り、ディスクがロードされる。あれ程水を飲んだのに、貼り付くように喉が渇く。眩しいぐらいの朝なのに部屋中の電気を点けて、僕は唾を飲み込んだ。

 椅子がある。

 几帳面に片付いた味気ないワンルームマンションに、エマニエル夫人が座っていたような藤の椅子。撮影されたのは多分夜で、白熱球の照明が、椅子を黄色く照らしている。ボリュームを上げると、誰かが何かを飲む音がして、テーブルにグラスを置く音が続いた。映像は暫くの間、何の変化もなく、僕は数十秒間、異様な存在感を放つ藤の椅子を、じっと見ていた。
「あっほん」
 咳払いの音に驚いた。僕は慌ててボリュームを絞った。直後、ぺたぺたとフローリングを裸足で歩く音がして、タイトなシルクの白いシャツを着た男がフレームインした。
 オートフォーカスが、ピントを探って動く。
 男が、レンズ越しに僕を見る。
 この顔。
 フォーカスが定まった。
 遺影の男。ヨシユキだ。
 椅子に座ったヨシユキはうーんと唸りながら伸びをして、膝下でカットされたジーンズを履いた脚を組み、若干上目遣いに僕を見た。潤んだ瞳が、赤く充血している。目の焦点が少しずれているように見えるのは、酒を飲んでいるからだろうか。
「ミチオくーん、元気ぃ?」
 聞き覚えのある声が僕の名前を呼ぶ。ぞっとした僕は体半分後退り、畳の上に置いておいた骨壺を倒した。
 これは……、ヨシユキからのビデオレターだ。
 数秒間、自分の右耳に右手をあてていたヨシユキが、また僕を呼ぶ。
「あれ? あれあれ? ミチオくん、元気がないぞー。もう一回いくぞぉ。元気ぃ?」
 遺影では内気な青年にしか見えなかったヨシユキが、オカマ丸出しで弾けている。チラシモデルに居がちな特徴のない好青年の顔と、芝居がかった大袈裟な身振りのギャップが、僕を堪らなく不安にさせた。
 真夏なのに、凍り付きそうだ。
 満足そうに頷いたヨシユキが、口の端でにっこりと笑う。
「そうそう。いいぞ。元気が一番。ま、そういうわたしは元気ゼロだけどね。死んでるから」
 全身に鳥肌が立った。
 奴は、酔っ払いのおっさんが得意の駄洒落をかました後のように、嬉しそうにカメラを見ている。僕の笑いを待っている顔だ。
 まるで笑えない。
 僕はいつでもビデオを止められるように、停止ボタンに親指をかけてリモコンを構えた。奴が立ち上がり、ぬっと近付いて来る。親指が、石になったように動かない。
「あーあ。でもずるいなぁ。そっちだけわたしの顔見て。ずるいっ。わたしも見たかったな、ミチオくんの顔」奴はレンズにぐっと顔を近付け、色白の顔がクローズアップになった。「どう? わたし。いい感じ? 会っとけばよかったでしょ。後悔してる? ふふ」
 画面一杯の顔に見据えられ、僕はリモコンを向けたまま仰け反った。
「もしかして逆? 会わなくて正解だったと思ってる? もしそうだったら化けて出るからね! わっ!」
「ひっ」
 悲鳴を上げて目を閉じた。
 奴の声がしない。停止ボタンを押してしまったかも知れない。
 そう思ってゆっくりと薄目を開けると、ヨシユキはまた椅子に座って脚を組んでいる。緩くウェイブのかかった細い髪を、痩せた指が掻きあげる。ボタンを三つ開けたシャツの胸元から覗く十字型のペンダントヘッドが、白熱灯の光を受けて小さく光った。
「で、そろそろ本題に入っていい?」
 奴は少し前屈みになって言った。
「入ってた? わたしの骨」
 そう言ってカメラから目を逸らしたヨシユキは、少し寂しそうに笑った。
「どう? 奇麗? 臭くなかった?」
 元々潤んだように濡れていた瞳が、涙目になっているように見える。
「入れ物も中々素敵でしょ。すっごい調べてそれに決めたんだ。人ってさあ、死ぬと白いおはじきみたいになるんだね。知ってた?」
 俯いたヨシユキは手を組み、指の節を弄った。巾着袋に入っていた白い欠片は、奴のその部分かも知れない。テレビ画面の中の男は動いていて喋っていて生きているのに、その骨は僕の尻の後ろで、黒い壷に入って転がっている。
 外の日差しが強くなり、うるさく蝉が鳴き始めた。
 奴がまた、僕を見た。
「でさぁ、結局一回も会ってくれなかったお詫びにさぁ、ちょっと頼まれて欲しいんだけどいいかな」
 試すように僕を見る濡れた瞳。頭蓋骨を透かして脳味噌の中を覗かれているような、そんな気がした。奴は一度大きく息を吸い、吐きながら言った。
「っていうかあなた、考える余地とかないから。やってね。いい。言うよ。入ってたわたしの骨、今から言う人のお墓に入れといて。埼玉県三郷市……、エイチョウジ。永遠の永に長いに寺、永長寺。タチバナショウゴのお墓。立つ座るの立つに普通に花、省エネの省に漢数字の五の下に口書いて吾。分かった?」
「何だそりゃ……」
 僕は思わず声を上げた。
 とんでもない事に巻き込まれた。
 オカマの死神に、指名された気分だ。
「分かった? ちゃんとメモした? ちゃんとやってね。立花ってお墓、けっこうあるから間違えないでよ。言っとくけどお墓の上に置くとかそんなんじゃ駄目だからね。ちゃんとお墓の中に入れないと。ちゃんとやってくれたらあなたの守護霊になって一生守ってあげる。やらないと本気で化けて出るからね。今も窓の外から見てるからね。ほらっ、そこっ」
 ヨシユキの指が、窓を指している。僕は慌てて振り返った。誰もいない窓の向こうで、狂ったように蝉が鳴いている。
「嘘だよーん。でもやってくんなかったら本気で呪っちゃうからね。それじゃあよろしくね、仕事頑張ってね、ばいばーい」
 僕に向かって投げキッスをした後、ヨシユキは手を振りながらフレームアウトし、数秒後によいしょと声がしてビデオは終わった。
 僕は暫くの間、何も起こらないテレビ画面をただ茫然と見詰めていた。

 骨。
 その圧倒的な存在感。
 人骨。
 僕の部屋には、今、人骨がある。
 捨てるとしたら、燃えるごみだろうか。ふと思ってゴミ箱を見た。駄目だ。そんな事をしたら罰が当たる。じゃあ実家に送り返すのはどうだろう。宅急便の伝票にも挨拶状にも、住所が書かれている筈だ。そう思ってすぐにかぶりを振った。駄目だ。余りにも失礼で可哀想過ぎる。僕は葬儀で泣き崩れるヨシユキの母親を思い出した。僕の母親と同世代に見えた彼女は、あの時、悲しみの淵にいた。

申し訳ございません
本当に申し訳ございません

 そんな手紙を書いた遺族に、これを送り返す勇気は、僕にはない。
 僕は取り敢えず、夏は布団を外してテーブル代わりにしている家具調コタツの上に散乱した、飲み残して放置したまま腐ったジュースやカップラーメンの空容器や読みかけの週刊誌を片付け、天板を拭き、真ん中に骨壺を置いた。そして仕事で使っているメモ帳を一枚千切り、DVDをもう一度早送り再生し、墓の住所をメモした。やる気になった訳ではない。全く知らない人の墓に、電話でしか話した事のないオカマの骨を入れに行く。もし誰かに見付かって警察にでも通報されたら、何らかの罪に問われる事は間違いないだろう。そんな事が気弱な僕に出来る筈がないし、第一そんな事をする義理もない。僕はただ、他にどうしていいかが分からなかっただけだ。
 デッキからDVDを取り出して、骨壺の横に置いた。何となくそうしたくなって、手を合わせた。目を閉じて、心の中で呟く。
 ごめん、悪いけど無理だよ。
 エアコンが唸る音が怪物の呻き声に聞こえる。腋の下がぐっしょりと湿っているのに、寒さで体中の毛が逆立っている。
 静かな世界が怖くて、テレビを点けた。骨壺の方から、ある筈のない視線を感じて、布団に潜り込んだ。股の間に枕を抱いて、きつく目を閉じる。
 僕はやらない。
 だって関係ないじゃないか。
 普段なら幾らでも眠れる土曜日なのに、僕は深夜までまんじりとも出来ず、布団の隙間からテレビを観ていた。
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