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文字数 4,589文字

 その電話は、翌週の土曜、昼の十二時過ぎに鳴った。
「あんた今日の夜、空いてる?」
 ユイは今まで同様、用件だけを言い、一方的に電話を切った。約束の時間は、八時だ。
 窓を開け、部屋の空気を入れ換えた。秋の予感を孕んだ心地良い風が、六畳間を一回りして出て行った。
 久し振りに部屋を掃除して、溜まっていた洗濯物を洗った。リュックサックに入れたままにしていた骨壺を取り出し、片付いた家具調コタツの上に置く。僕は奇麗なタオルを絞って、表面を拭いた。そして僕自身もシャワーを浴び、冷気の上がるコーラを一気に飲んだ。全裸で。股間をヨシユキに見せ付けるようにして。
 最初で最後の得出しサービスを終え、パンツを穿く。黒いTシャツを被り、黒いコットンのズボンを穿いた。黒い服を選んだのは、暗闇で目立たないようにする為だ。
 リュックサックには、最初に省吾の墓に行った日に買った線香と蝋燭、チャッカマン、懐中電灯が入っている。僕は風呂場に浴槽掃除用のブラシを取りに行き、濡れた先端にビニール袋を巻いて、その中に追加した。
「じゃ、行くよ」
 最後に骨壺を入れ、背負った。
 近所の中華料理屋で野菜炒め定食を食べた後、ホームセンターで園芸用の小さなスコップを買った。鉄製で先端の尖ったスコップは、もし石が動かなかった時に、役に立つだろう。
 僕は、やれる。
 準備が整って時計を見ると、まだ午後四時だ。このまま電車に乗ったら、三時間近くも前に着いてしまう。僕はふと思い立ち、一週間前に勝手に入った墓地に向かった。
 遠藤さんの墓をブラシで磨き、蝋燭を点して線香を上げた。煙を纏った遠藤さんは隣の細川さんや島田さんよりも、ずっと立派に見えた。来年のお盆には田舎の墓もぴかぴかに磨こう。その時は、花を忘れないようにしないと。
 最後に深く長く一礼して、埼玉に向かった。

 車窓から見える田圃は、秋色に実っていて、僕は生まれた町を思い出した。軽トラック、耕運機、野焼きの煙。

 川が近くにあるせいか、府中よりも少し涼しく感じる。
 花火大会の賑わいが嘘のように、人の疎らな駅前に立ち時計を見ると、まだ約束の時間の二時間以上前だ。長くなった自分の影を追い掛けながら、僕は河川敷に向かった。
 茜色の空の奥から、紫の夜が近付いて来る。草の上に寝転んで目を閉じると、秋の虫が鳴く音が聞こえた。一日が終わって日が変わり、夏が終わって季節が変わる。気が付くと年が変わっていて、僕も一歳年をとっている。いろんな事を面倒臭がって先送りにして来た。僕もいい加減、将来の用意をしなければならない。
 立ち上がって尻の草を払った。

 駅前の格安コーヒーチェーン店で小一時間お茶を飲んだ後、交番の前に戻って彼女を待った。時刻は七時半。ユイはきっとまた、八時ぴったりに現れるだろう。
 目の前を様々な人びとが通り過ぎて行く。
 電車がホームに入って来る度に、この街に住んでいるサラリーマンや主婦や学生が、吐き出されて散って行く。僕の目は、その中の一人に釘付けになった。いかにも休日のサラリーマンと言った風情の、三十代後半に見える男。彼が大事そうに抱えている箱に、見慣れた家電量販店の包装紙が貼られている。その中身はきっとノートパソコンで、値段は十五万七千八百円だ。
 僕の作ったチラシが、彼の購買行動の原因になっている可能性は、さほどない。でも気分は悪くなかった。このまま良い会社に転職出来なくても、腐らずに頑張ろう。ポロシャツの脇を濡らして歩く男を見送りながら、僕はそう思った。心の中で、男に言った。来週には同じシリーズの新商品が発売される。それを知っても腐らずに、頑張れ。

 ピンボケになったありきたりの風景から浮き上がるように、彼女が真っすぐ僕に向かって歩いて来たのは、やはり八時丁度だった。
 土曜日なのに仕事だったのだろうか、彼女は一目でブランド物と分かる黒のパンツスーツを着ている。
「行くよ」
 彼女は無愛想に言い、僕はしっかりと頷いた。
 颯爽と歩く彼女の後ろ髪から、いつもと同じ香水の匂いがする。バッグから取り出して彼女が飲んだ水は、見た事もないデザインの外国製だ。
 ヨレヨレのTシャツを着て来た事を後悔した。同じ黒でも大違いだ。車に例えると、彼女はフェラーリで、僕は国産の軽自動車だ。彼女は多分、チラシを見て家電を選んだりしないだろう。
「ちゃんと用意して来た?」
 フェラーリが振り返って言った。僕は少し加速して、彼女との距離を少しだけ詰めた。
「うん。たぶん大丈夫」
「今日はちゃんとやんないと、あいつホントに化けてでるよ」
「そうだね……。まだあるのかな、DVD」
「どうだろ。あるかもね」
 ユイは今日初めて僕の目を見て、口元で笑った。

 墓地のまわりは相変わらず、ひっそりとして気味が悪かった。遠くから薄く、蝦蟇蛙の鳴く声が聞こえる。寺の柳が生暖かい風に揺れ、ざわざわと長い葉を揺らしている。
 ユイがちらりと後ろを振り返って、消えるように塀の切れ目を曲がった。僕も神経を張り巡らせ、彼女の後に続く。
 短い石段をそっと上って、僕達は墓地に入った。月が出ていないせいか視界は真っ暗で、自分の足元さえ良く見えない。それは逆に言うと、誰もいない事を証明している。
「ねえ、ちょっと待って」
 僕は小声でユイを呼び止め、リュックサックから懐中電灯を出した。人の気配にぎょっとして、懐中電灯を向ける。誰も居なくてほっとしたが、またユイに気の小さい所を見られ、耳が熱くなった。
 足元を照らしながら、墓の前に立つ。僕とユイは、ほとんど同時に、黒い骨壺を取り出した。
 墓の上に置いて、手を合わせる。僕は薄目を開けて彼女を見た。唇が何かを呟いていたが、聞き取れなかった。僕はもう一度目を閉じ、省吾とその父親に謝った。
 すいません……。もう一人入れさせてください……。
 懐中電灯で墓石の下の方を照らした。この前実験してみた近所の墓と構造は同じに見える。
 僕はユイの目を見て頷いた。ユイも目顔で同意する。その場にしゃがみ、指をかける場所を探す。一応用意して来たスコップは、どうやら使わなくてよさそうだ。
「あ け る よ」
 唇だけで言い、家紋の入った石を手前に引いた。石と石が擦れ合うごりごりとした音が響き、暗黒の穴が現れた。黴臭い匂い。鼓動が早くなる。
 震える手で懐中電灯を掴んだ。揺れる光を向けて、暗渠を照らす。
 現れた。
 白い骨壺が、二つ。ひっそりと並んで、眠っている。
 一つはまだ新しく、一目で省吾のものだと分かった。
「おじさん。ごめんね……」
 耳の後ろでユイが囁いた。
「すいません……、遠藤と言います」
 思わず自己紹介をしてしまった。あなたは誰ですか、と聞かれた気がしたからだ。
 僕達はどちらからともなく、また手を合わせた。左の耳に、ユイの息遣いを感じる。クラクラするような、香水の匂い。どんどん強くなって行く息遣い。鼻を啜る音が、右側から。
 右?
 目を開けて凍り付いた。もう一人、いる。
「うわぁあ」
 死ぬ程驚いた。腰が抜けたようになり、その場に倒れ込んだ。ユイもまた、小さく悲鳴を上げた。
「しーっ。クアイトプリーズ」
 暗闇の中に、充血した二つの目と白い前歯が光っている。僕は慌てて懐中電灯を掴み、その目を照らした。
「ウップ」
 黒人。
 黒人が黒いシャツを着て立っていた。眩しそうに目を覆う掌が、異様に白い。僕は勇気を振り絞って、言った。
「なんだっお前はっ」
「しーっ。ジャスミン。ジャスミンデス」
 パニックを起こして何も出来ない僕を黒人が見下ろしている。黒人も焦っているのか、香水の匂いに混じって脂っぽい体臭が漂って来た。状況が、飲み込めない。
「あんたが、ジャスミン?」
 頭の真上からユイの声がして、僕は上を向いた。
「ハイ、ソーデス。アナタハ……ユイデスカ?」
 僕は首の運動をするように、真上のユイと正面の黒人を交互に見た。
「うん。あんたの所にもそれ届いたの」
「ハイ。DVDモハイッテイマシタ。マイニチユメニモデテキマス。コノママデハ、ノロワレマス」
 正面を見ると、黒人の手には僕たちと同じ漆黒の骨壺が握られていた。
「いつからいたの?」
「アナタタチガツクススコシマエ」
「そっか。ちょうど良かったね」
 やっと目と気持ちが慣れて来て、黒人の様子が見えて来た。長身で痩せた体。指先が常にくねくねと動いている。潤んだ黒い瞳。体に貼り付くようなタイトフィットの黒いシャツには同色のフリルが付いている。そして、この強烈な香水の匂い。
 こいつは、たぶんオカマだ。
「アナタノコト ヨシユキカラ ヨク キイテイタ」
「わたしも。よろしくね、ジャスミン」
「ヨロシクオネガシマス」
 二人の間に完全に無視された僕は、小さく咳払いして言った。
「ヨシユキの彼氏?」
 沈黙。無音状態が五秒程続いた後、ユイが溜息混じりに言った。
「あんたホント間が悪い馬鹿だね。どう見たって彼氏の訳ないじゃん。ジャスミンはネコだよ」
「じゃあ、友達?」
 最早、僕の問いには誰も答えない。当たり前だという顔で、二人が僕を見下ろしている。考えて見れば、黒人の仕草はデフォルメされた女のそれで、もしヨシユキの恋人だとしたら、二人はホモのレズビアンに……混乱して来たが、理解は出来た。
「早くしないと。あんた馬鹿みたいにぼーっとしてないでちゃんと照らしてよ」
「ソウデス ハヤクヤッテシマイマショウ」
「分かった」
 僕は腰を上げ、懐中電灯を暗渠に向けた。
「すません……。すこし左にお願いします……」
 ひんやりとした感触に、体が震えた。僕はそっと二人の骨壺をずらして、右側にスペースを作った。
「さ、入れるよ」
 ユイが頷く。
 ジャスミンが頷く。
 彼女の白い手がすっと穴の中に伸び、骨壺は省吾のものであろう新しい遺骨の横に、ことりと置かれた。右側から黒い手が伸び、その隣にもう一つの骨壺が置かれる。僕はシャツの裾で骨壺の表面を拭い、最後にそれを置いた。
 懐中電灯の光を受けて、五つの骨壺が鈍く輝く。少年ジャンプの漫画だったら、その瞬間空に向かって稲妻が走り、願い事を叶える龍が現れたりするのだろうが、五つの骨壺はただじっと、石蓋が閉じられるのを待っているようだ。
 僕は、石蓋をそっと押し込んだ。墓石は普段の形に戻り、ヨシユキはひっそりと墓の中に消えた。
 リュックサックから線香を取り出した。二人にも一束ずつ渡し、順番にチャッカマンで火を点けた。三束の煙が柔らかく、墓石を包むように立ちのぼる。ジャスミンが何回か鼻を啜り、急に堰を切ったように泣き出した。
 あうおううううっ あおう あおおおうううう
 子供を殺された獣のように、ジャスミンは雄叫びを上げた。真横を向かなくても、彼の頬がぐしゃぐしゃに濡れているのが分かる。足元で、彼の涙が、幾つも爆ぜているからだ。
 気が付くと、ユイも泣いている。僕は彼女の顔を見て、堪らなくなった。覆った指の間から、雫が溢れて光っている。四角く開いた口の中に、食いしばった白い歯が見えた。
 何故涙が出るのか分からないままに、僕も頬を濡らしていた。ジャスミンが僕の肩を抱き、僕はユイの背中を引き寄せた。僕たち三人は、支え合うように一つになり、長い間泣いた。電話でしか話した事のないヨシユキが、両隣の二人が、かけがえのない友達に思えた。
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